夏の夜(ケイ様)米


 夕闇の中、ほわりと淡い光をともした玄関の灯りを見上げて、アルフレッドは伸びをした。開店間際の店の外の灯りをともすのは、いつもアルフレッドの仕事である。
  時刻はそろそろ夕食時と呼ばれる時間帯だ。引き戸の隙間から漏れ出る出汁や醤油の匂いに気が付いたのか、道行く通行人たちが幾人も「おや」と言う顔で振り返る。
  それにどこか得意な心持を覚えつつ、アルフレッドは引き戸を開けて、店の中へ戻った。
「アルフレッドさん。そろそろ、おしぼりの準備をしてもらえますか」
「分かった」
  カウンターの向こう側、厨房の中で包丁のリズミカルな音を立てながらそう言ったのは、この店の店主である菊だ。
  アルフレッドは時計を見て、もうそろそろ常連の客たちが訪れる時間であることを知った。
  東京、広尾の小道にある、小料理屋「菊」。店主のファースト・ネームと同じ名前を持つこの店で、大学生のアルフレッドがアルバイトを始めて、もう随分になる。
  日本の大学は、アルフレッドの生国であるアメリカのそれと比べて、それほどカリキュラムが詰まっているわけではない。
  朝どころか昼過ぎから授業を受けて、それでも一コマ、二コマで終わってしまうのが大体だ。そうすると、夕方頃には大分、時間を持て余すことになる。
  特に夏休みを控えた昨今は、期末のテストも終わったせいで自由な時間はますます増えていて、そのため、ここ最近では殆ど毎日のように、アルフレッドはこの小料理屋でアルバイトをするようになっていた。おかげで、店を訪れる常連客の殆どに顔を覚えられるまでになっている。
「よお、アルフレッド」
  店が開店してすぐに、待ち構えていたように入り口の扉をくぐって来た相手も、アルフレッドの顔を見るなり、気安く挨拶を口にした。
  長めに伸ばした金色の髪に、海の色の瞳。同じアングロサクソンではあるものの、アルフレッドとは違い、彼の母国は美食の国と名高いフランスだ。
「いらっしゃいませ。フランシスさん」
  アルフレッドに片手を挙げて挨拶をした客人は、厨房の中から覗いた店主の顔に、だらしなく相好を崩した。
「やあ、菊ちゃん。今日も良い匂いがしたから来ちゃった」
「相変わらず、確かな鼻をお持ちですね。取って置きが入っていますよ」
「そりゃ楽しみだ」
  いそいそとカウンターに腰掛けたフランシスにおしぼりを渡して、アルフレッドは箸と皿を手に取った。一番目の客が来た後は、立て続けに客が入ってくることが常だ。
  ――――そろそろ、店も忙しくなるに違いない。
  アルフレッドの想像を裏付けるように、フランシスが訪れて程なくして、店の入り口が騒がしくなった。入り口を振り向けば、聞き慣れた声と共に、どやどやと常連客たちが姿を現す。
  同じ職場で働く者同士ではないから、どうやら店の外で顔を合わせたらしい。既に酒が入っているのでは、と言うくらい騒がしい彼らに、菊はにこやかに「いらっしゃいませ」と告げた。
  「菊」を訪れる客は、常連の顔ぶれが殆どだ。時折、常連客の誰かが知り合いを連れて来るくらいで、大抵の日はいつもの面子が顔を合わせることになる。
  既に何年も通い続けている常連もいるが、それでもまだその客足が遠のかないのは、料理と酒の美味さだけではなく、店主の人柄もあるだろう。
「秋茄子には少しばかり早いですが、美味しい茄子が入りましてね。挽肉と山椒を加えた八丁味噌を塗って、焼いてみました」
  アルフレッドが厨房から運んだ皿を客たちの前に置くと、彼らから歓声が上がった。
「おいしい!」
  早速箸を付けて、そう言ったのはフェリシアーノだった。彼が美味しいものを食べたときに浮かべる満面の笑みに、厨房の中の菊もつられたように口元に笑みを刷く。
「山椒をもう少し控えめにしたら、パスタソースにも出来そうだね」
  料理に舌鼓を打ちつつも、ちゃっかり味付けの技を盗むことを忘れないフェリシアーノに、菊がますます笑みを深くした。
「何にでも合いそうだな、この味噌。椎茸とかに塗っても美味そうだ」
  フランシスが味噌を肴に酒を飲みながらそう言った。飲んでいる酒は日本酒だ。ワインが滅法好きだと言う彼は、けれど、この店では日本酒以外を口にしない。ここの料理には日本酒が一番合う、と言うのが理由らしい。
  二人の料理談義を聞きながら、菊は厨房の奥でにこやかに笑っていた。この店の店主は、決して無口なわけではないが、不必要に客同士の会話に口を挟むことはない。
  そうこうする間にも、着物と割烹着に包まれた腕は、鮮やかな手付きで料理の数々を作り出していく。客たちは皆、店主の料理を楽しみつつ、酒を嗜み、笑いさざめく。
  一見てんでんばらばらに見えるが、どこかほっとする温かさを含んだこの店の空気が、店主によって作られていると知ったのは、アルフレッドがアルバイトを始めて間もなくだ。客たちは店主が作り出した穏やかな店の空気に馴染み、それを楽しんで、めいめいに帰って行く。
  二種目の料理をカウンターに並べると、酒飲みたちから歓声が上がった。客のグラスが空いた頃を見計らって、ビールや冷やを提供しながら、アルフレッドは厨房の中の店主を見遣った。
  次々に話し掛ける客たちに、にこやかに応対しながらも、菊の調理の手は止まらない。黒い髪に縁取られた顔は大分幼く見えるが、その料理の腕前は到底子供レベルではない。
  さらりと揺れた黒髪から、同じ黒の瞳が覗く。菊の顔が振り返り、その目に正面から見つめられて、アルフレッドはどきりとした。
「アルフレッドさん」
  ぼんやりとしていたアルフレッドは、菊に名を呼ばれてはっとした。厨房には、綺麗に盛り付けられた料理の皿が並んでいる。
  アルフレッドは小さく口の中で謝罪の言葉を呟いた。仮にも給金をもらって働いている最中に、気を抜きすぎた。
  内心で自分に活を入れて、アルフレッドは今か今かと待ちわびている客たちのために、料理の皿を手に取った。
 
  ***
 
「今日は忙しかったですね」
「そうだね。いつもより、大分お客さんが多かった」
  最後の客が扉をくぐったのを見送って、菊がそう言った。背中に受けたその声に頷いて、アルフレッドは店の入り口の明かりを消した。それが「菊」の閉店の合図だ。
「菊」
  入り口の扉を閉めてから、アルフレッドは厨房を振り向いた。洗った徳利を干しながら、菊が心得たように笑みを浮かべた。
「ごはんはどのくらいにしますか」
「大盛りで!」
  声高らかにそう宣言すると、菊は笑って頷いた。
  最後の客を送り出したところで、アルフレッドは大抵、菊にまかないを出してもらう。
  店が空いていれば、客と並んでカウンターに座ることもままあるが、ここ最近は閉店後にまかないに有り付くことが多い。暑くなってビールや冷酒を楽しみたい客が増えたためだろう。店はなかなかに繁盛している。
  いそいそとカウンターのど真ん中、調理をする菊の正面を陣取って、アルフレッドは厨房の中を覗き込んだ。
「それ、なんだい?」
「ミョウガです」
  香りの強い野菜を刻みながら、菊が答えた。次いで、きゅうりを薄くスライスし始める。
  調理を進める傍ら、菊は戸棚から丼の器を出した。この店の常連たちは皆、酒を嗜むため、供される料理は酒の肴になるようなものを好む。だからその丼物の器は、アルフレッドのまかないのために使われることが殆どだった。
「いい匂いがするんだぞ」
  鰹出汁の匂いに、アルフレッドはすん、と鼻を鳴らした。菊は目元を緩めて、「もう少しですよ」と微笑んだ。
「どうぞ、召し上がれ」
  程なくして出て来た料理に、アルフレッドは目を瞬いた。器の中になみなみと注がれた薄茶色の汁の中に、きゅうりとミョウガ、それと薄く輪切りにされたカボスが浮かんでいる。その汁の下に、どうやら白飯が沈んでいるらしい。
「……これ、なんだい?」
  初めて見る、何やら異様な料理に、アルフレッドは躊躇った。菊が出すものだから、不味いわけはないと分かっている。けれど、見た目からその美味しさが伝わって来ない料理に、あまり食指は動かなかった。
「食べてみて下さい」
  菊に促されて、アルフレッドは恐る恐る匙を手に取った。茶色い汁にそれを突っ込み、白飯と汁を合わせて口に運ぶ。
  口に含んだ瞬間、魚の香ばしい匂いと、ごまの香りが広がった。キンと冷えた茶色の汁は、すりごまがたっぷり含まれているらしい。アルフレッドは思わず唸った。
「美味しい……!」
「それは良かった」
  菊は嬉しそうに微笑んで、その料理が「冷や汁」と言う名前であることを教えてくれた。
「夏季限定で、お酒の締めに出そうと思っているんです。丼ではなく、小鉢で少し供すくらいですけれど。ほら、外は暑いでしょう?」
「きっとみんな気に入るんだぞ」
  アルフレッドが言うと、菊はますます目元を綻ばせた。大学生のアルフレッドから見ても、ともすれば年下にすら見える菊だが、そうやって目元だけで静かに笑う姿からは、少しだけ大人の男の雰囲気が伝わって来る。
  いったい、目の前の相手はいくつなんだろうと考えて、アルフレッドは思考を放棄した。
  店に通いつめる常連客がいくら問い詰めてもはぐらかされるばかりで、店主は年齢を明かさないのだ。一時期は、議論好きな客たちの間で、店主の年齢を当てようと推理合戦が繰り広げられたこともある。
「菊って、何歳なんだい?」
  けれど、聞いても無駄だと分かりつつ、アルフレッドの口からはぽつりとその言葉がこぼれ出た。厨房で皿を洗っていた菊は、少しだけ驚いた顔をして見せてから、悪戯っぽく目を細めた。
「いくつに見えます?」
「十代じゃないことは確かだな」
「そうでしょうねえ」
  時には客に勧められて、厨房の中で一口二口、相伴をすることもある菊は頷いた。
「あなたよりは歳上ですよ」
「それは分かってる」
  大学生でこの落ち着きは得られない。アルフレッドは頷いて、匙を口に含んだ。魚の旨みが舌の上に広がる。
「じゃあせめて、二十代、三十代、四十代。このどれなのか教えてよ」
「おや、五十代以降は入れないでいてくれるんですか? 嬉しいですねえ」
「はぐらかさないでくれってば!」
  アルフレッドがむっと口を尖らせると、菊は声を上げて笑った。
「年齢を聞いて、どうするんです?」
「別にどうもしないよ。ただ俺が知りたいだけなんだぞ」
  アルフレッドがそう言うと、菊はふっと息を吐いた。洗い物が終わったのか、割烹着を外して厨房から出てくる。割烹着の下の着物は涼やかな濃紺で、この季節にも、菊本人にも良く似合っていた。
  菊はアルフレッドの隣のカウンターに腰を下ろすと、いつの間に用意したのか、切子のグラスを卓上に置いた。グラスの中で揺れる透明な液体は、水ではなく酒だろう。
「このお店には、色んな方がいらっしゃるでしょう」
「そうだね」
  菊はグラスに口を付けた。酒を口に含んで、満足げにほう、と息を吐くのが様になっている。
「例えば、私が十代だったとしましょう。そうしたら、五十歳にもなる方は、きっと私に悩み事を打ち明けたり、しこたま酔っ払って管を巻いたりしないでしょうね」
「……だから?」
  アルフレッドは菊の言わんとすることが分からず、首を捻った。そうこうする間にも、匙を動かす手は止まらない。
「私が何歳なのか、趣味は、経歴は。そう言うのが何も分からない方が、いいと思うんです。分からないままでいれば、色々なしがらみなく、ただ店主とお客のお付き合いが出来るじゃあないですか」
  アルフレッドは口の中の白飯を飲み込んだ。丼の中身は、あと数匙分ほどになっている。
「でも、俺はお客じゃないぞ。店側かお客側かで言ったら、間違いなく前者だろう?」
「それもそうですね」
  菊はやんわりと笑って、またグラスに口を付けた。その様子は、優しく何でも受け入れてはくれるけれど、自分の方へは最後の一歩を踏み込ませない、拒絶のようなものを孕んでいるように思えた。
  ちくりと苛立ちを覚えて、アルフレッドは丼の中に残った冷や汁をかき込んだ。すっかり完食して「ご馳走様」と告げると、菊は微笑んで「お粗末様でした」と応じた。
  その穏やかな顔を真正面から見つめて、アルフレッドは口を開いた。
「菊は秘密、秘密、でいいかも知れないけどさ。俺はもう少し、菊のことが知りたいんだ」
  言った後で、何だか恥ずかしいことを言ったような気がして、アルフレッドは「あれ?」と首を捻った。目を丸くした菊に見つめられるのが恥ずかしく、アルフレッドは口を尖らせた。
「それに、年齢とか経歴とか、そんなもので菊への態度が変わるような繊細な相手はこの店にいやしないよ。俺も含めて」
  アルフレッドは丼を手に立ち上がって、厨房に入った。流しで器をゆすぎながら、ちらりと横目で菊を窺う。店主の黒い瞳は、何やら思案げに揺らいでいたが、アルフレッドと目が合うと、いつもの柔らかい笑みを浮かべた。
「……仕方ありませんねえ」
  静かな声にはっとして顔を上げると、菊は手でアルフレッドを招いた。
  洗い物の泡を手に付けたまま、アルフレッドは厨房側からカウンターへ身を乗り出した。菊はカウンターから立ち上がり、アルフレッドの耳へ口を寄せた。
「他の方には、内緒ですよ」
  吐息が耳に触れてくすぐったい。アルフレッドがこくこくと頷くと、菊が声を立てずに笑う気配が伝わってきた。
  菊はすっと息を吸い込んで――また、吐き出した。
  そうして、ほんの小さな声で、囁いた。
「二六七二歳です」
  静かな声をしっかりと耳に焼き付けたアルフレッドは、そこで囁かれた声の内容を把握出来ずに、しばらく固まったままでいた。そうして、自分の横で口元を緩めている菊を目にして、頬を膨らませた。
「君ってやつは……! また、はぐらかすつもりかい!」
「ふふ」
  菊は否定も肯定もせず、ただ笑っただけだった。食えない相手だ。アルフレッドは深々と溜息を吐いて、途中だった洗い物を終わらせた。
  布巾で手を拭ったあと、アルフレッドは店の片隅の戸棚を開けた。そうして、中から薄い教科書が数冊入っただけのデイパックを取り出す。
  アルフレッドが帰ることを察した菊が、グラスを空けて立ち上がった。見送りに出るつもりらしい。ちらりと店の時計に向けられた黒い瞳が、「おや」と瞬かれる。
「今日はいつもより遅くなってしまいましたね」
「忙しかったからね。しょうがないさ」
  菊は少し恐縮したように頷いて、アルフレッドを見上げた。アルフレッドは気にするな、と首を横に振って見せた。
「終電はありますか?」
「ええと……」
  デイパックに突っ込んでいる時刻表に目を落として見せて、アルフレッドは菊に真顔を向けた。
「ないんだぞ」
「えっ」
「終わっちゃったみたいだ。どうしよう」
  菊は目を瞬いた。
「いつもは、もう少し遅くなかったですか」
  戸惑いを大いに含んだ菊の声に、アルフレッドは苦笑した。そうして、時刻表を見ながら、そこに書いてある時間を読み上げた。
「嘘だよ。まだ、終電の一本前に乗れる」
「それは良かった」
  アルフレッドの言葉に、菊はほっとしたように息を吐いた。そうして、訝しげな顔をアルフレッドに向ける。
「でも、なぜそんな嘘を?」
  アルフレッドは笑って、デイパックを抱え上げた。
「さあね。得意の推察でもしてみたらどうだい?」
「……家に帰りたくないことでもあるんですか」
「残念。違うよ」
  店の外へ出ると、この国の夏特有の湿気を孕んだ空気が身体を包み込んだ。昼間の灼熱の日差しがない分、いくらかましとは言え、まとわり付くようなこの空気には慣れそうもない。
「それじゃあ、また明日」
「ええ。――本当に、終電はあるんですよね?」
  心配そうに訊ねる菊に、アルフレッドは頷いた。
「あるよ」
  はっきりとした声に、菊がほっとしたような表情を浮かべる。アルフレッドは相手のその態度を、少しだけ残念に思った。
  ――『残念ながら』、終電はまだあるんだ。
  見送りに出た菊にそう告げてみたいのを堪えて、アルフレッドは店に背を向けた。
  そうして、せめて本当の年齢くらいは知ってみたいと思う相手の「お疲れ様でした」と言う声を背中で受け止めて、小さく息を吐き出した。

 

 


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