風が身を切るようで、ロヴィーノは上着の裾を握りしめた。コートを着てくれば良かったと思う。もうじき冬が来る。
ふと視線を感じて振り返ると、男が一人、こちらを見ている。手には大きな笊を持つ。エプロンをつけて、セーターを両腕まくり上げている姿は、寒さなどまるで感じていないかのようだ。
「こんにちは」
曇り空の下、風に吹かれて男の髪が靡く。長いわけではないが、少し頬に掛かる髪が男の視界を時折遮る。
ロヴィーノは手を伸ばし、男の髪を耳にかけてやった。
「あ、すみません」
男はロヴィーノよりも少し背が低い。地味な顔立ちではあるが、整っている。何よりロヴィーノのよく知る人物に似ている。遠目に見たなら、見間違えてしまうかもしれない。
「向こうの河川敷で芋煮会をするんですよ。よかったらいかがです?」
男の頬は少し赤みを帯びている。笊の中にはたくさんの里芋が盛られている。きっと男はせっせと芋煮の準備に動き回って、寒さなど感じていないのだろう。
ロヴィーノは頷いた。人見知りで、あまり人とうまく付き合えないロヴィーノには珍しいことだ。男が知り合いと似ている所為かもしれないし、男がまるで旧知の友に語りかけるような気安さで話しかけてきたからかもしれない。
男と連れ立って歩き出す。「持とうか」と手を差し出すと、「折角の素敵な上着が汚れてしまいますよ」と男は断った。後でエプロンを貸しますから、と小首を傾げる。
「お!おかえりなさい」
川原に降りると、鍋を囲むお母さん方の中に、一人大男が居た。日焼けしたような肌に、彫りの深い顔立ちで、ロヴィーノは何となく男の後ろに隠れた。男は苦笑しながら「大丈夫ですよ」と振り返る。
「この方はサディクさんです。日本に住んでもう十年ほどになりますか。定食屋さんで、腕は確かですよ」
「料理人なのか」
サディクは白い歯を見せて笑う。
「よお坊主、芋のむき方、教えてやろうか」
ロヴィーノは少しむっとしたが、サディクは善意で言っているのだと分かるので、何も言わずに首を振った。
「いえ、サディクさん。この方も、料理人ですよ」
男はそう断言した。サディクは驚いていたが、ロヴィーノはもっと驚いた。ロヴィーノは自分が包丁を持つ人間だと一言も言っていない。
「いや、でも」
「そうだったのか! すまねぇ、早とちりだ」
どうしてわかったのか、と言う前に、サディクに遮られ、強く肩を叩かれた。
「これで料理人が三人だな!」
サディクはそう言うと、後ろから呼ばれて場を離れた。男は「どうぞ」とロヴィーノにエプロンを差し出す。
「あんたもなのか」
男は頷くと、まだ剥いていない芋の山に向かう。ロヴィーノも男の横に座った。
「どうして分かったんだ」
男は手馴れた様子で包丁を扱い、綺麗な六角形に里芋を剥いている。
「今朝、市場に居たでしょう。競りに来たわけでもなさそうなのに熱心に見ていましたね」
「観光とか」
「それにしては、深刻そうでしたけれど」
ロヴィーノはおし黙った。実際ロヴィーノは旅館の板場で働いている。小さくはないが、客を多く取る旅館ではなく、繁忙期以外は板場は一人で十分だ。そうして今まで板場を殆ど任されてはいたが、それでも板長が居た。だからどこか安心していられたのに、その板長がこの冬で引退すると宣言した。ロヴィーノは一人になる。
「俺にできるのか、自信がなくて」
遠くに女性たちのきゃらきゃらとはしゃぐ声が聞こえる。そこにサディクの声が混じる。
「すげぇ! もうこんなに剥いたのか!」
突然真上から聞こえた声に顔を上げると、サディクが感心したようにバケツの中の芋を見ていた。
「ほら、最初の分ができたから味見」
差し出された椀に、芋と長葱が入っている。もくもくと立ち昇る湯気と味噌の良い香りに、ロヴィーノは自分が腹を空かせていたことに気がついた。
「いただきます」
ふうふうと吹いて口に放り込むと、やはりまだまだ熱く、はふはふと言いながら芋を飲み込む。口からも湯気が出る。
「うまい」
「だろう!」
サディクは嬉しそうに笑う。
匂いにつられてか、徐々に人が集まり始めている。
走り回る子供、それを叱る声、挨拶する人達。すぐに騒がしくなった。
「これも煮てもらいましょう」
男はバケツを持ち上げると、ロヴィーノを促す。
芋を食べる人達をぼんやりと眺めていたロヴィーノは、慌てて立ち上がった。
「あ、うん」
しかし男は歩き出さず、ロヴィーノが見ていたように群衆を眺めている。ロヴィーノももう一度彼らを見た。
頬や鼻先を寒そうに赤く染め、あつあつの芋を食べている。
「みんな笑ってる」
「そうですね」
不意に、少年がトコトコとロヴィーノに駆け寄った。
「おいもさん」
小学校にもあがらない程の小さな子供が、ロヴィーノの持つバケツの中を見て目を輝かせている。
「すごい! きれいなかたち!」
少年が手を伸ばそうとしたところで、少年の母親らしき女性に止められる。「だめでしょう、汚い手でさわっちゃ」女性はロヴィーノに頭を下げると、少年を抱き上げる。少年は「きちゃなくないよ」と口を尖らせつつも、もう女性の指し示した鍋に夢中になった。
日本に越してきたばかりの頃の事を思い出す。両親は開店したイタリア料理の店を軌道に乗せるため、店に詰めていた。ロヴィーノと弟のフェリシアーノは、学校から帰ると、隣に住む老婆の家に世話になっていた。老婆は時折こうして芋や南瓜を煮て食べさせてくれていた。特に好きだと思ったことはなかったのに、こうして食べてみると懐かしくてまた食べたいと思う。
「もし、うちの店、イタリア料理店を継いでいたら、こんな気持ちにはならなかったんだと思う」
男はゆっくり瞬きをしてロヴィーノを見る。唐突なロヴィーノの言葉に、特に口を挟まず、かといってどうでも良いという態度でもない。ただ急かすことなく聞いている。
「あの旅館の味を背負うのが俺でいいのか、わからねぇんだ」
「でも、きみは幸せそうでしたよ」
男の言葉の意図が分からず、ロヴィーノは男を見つめ返す。強い風に、男は目を眇めて言葉を続けた。
「おいしいものを食べて笑顔になる人達を見て、きみはとても幸せそうに見えました。きみは」
おおい、とサディクが手を振っている。早く芋を持ってきてくれという声に答え、男が歩き出す。いつの間にか、ロヴィーノの持っていたバケツも、男が持っていた。
「あ」
続きは、と言うロヴィーノに、男は振り返って少し笑っただけだった。あとはもうわかっているでしょう、そう言っているかのようだった。
「はい、おにいちゃん」
先程の少年が、ロヴィーノに椀を渡す。わざわざ取ってきてくれたのだ。幼い少年の頭を撫で、「ありがとう」と受け取る。少年は照れたように母親の元へ走っていった。
炊き出しのごろごろとした芋は不揃いで、所々煮くずれている。それでもどうしようもなくおいしかった。
「ありがとう」
片づけを終える頃、ようやく男を捕まえた。男はあちらこちらへせわしなく行き来しており、またロヴィーノも地元の女性陣につかまってなかなか話す機会がなかったのだ。
「いえ、すっかり手伝っていただいて」
「アンタも、わざわざ東京から遊びに来てくれたのに手伝わせて悪かったな」
サディクが横から男に頭を下げる。
「東京から?」
ロヴィーノが首を傾げると、男は少し笑って「時々こちらに食材を買い付けにくるんです」と答える。
「じゃあ店も東京にあるのか?」
「ええ、小料理屋をしております」
この近くならば、仕事休みの日に来やすいが、東京となると少し遠い。
でも、
「東京に行く事があれば、絶対行く」
ロヴィーノがそう言うと、男ははにかんで頷く。そして店の名を問うロヴィーノに店の名刺を差し出した。
「小料理屋『菊』、と申します」