幸せと矛盾(浅平夏晴様)米


 だんだんだん、とドアが何度も鳴らされて、菊はまだ眠い目を擦りながら玄関へ向かった。時計は午前七時半を示しているが、自分の中にはまだ朝はきていない。昨日は最後の客と映画談義に花が咲き、閉店したのは日付が変わってからだった。平日だからとアルフレッドにアルバイトも頼まなかったせいで、一人でのんびりと片付けをし、部屋に戻ったのは三時を回っていたのだが、どうせ翌日も朝から店を開けるわけではない。のんびりと寝ればいいか、と話していた時に気になった映画をビデオオンデマンドサービスで探し、最後まで見てから寝た。
  睡眠時間は約二時間。いくらかぼんやりとする頭を押さえて、菊はドアの外にいる人間を確認しないまま、ドアを開けた。確認しようがしまいが、人の部屋のドアをこのような叩き方をする人は一人しかおらず、誰がそこにいるかはわかっている。
「アルフレッドさん、ドアは叩きすぎると壊れるんですよ」
  ご存じでしたか。朝の挨拶よりも先に、菊はそう諭した。けれど、アルフレッドはまったく聞こえなかったかのような素振りで、満面の笑みを浮かべ、おはよう! と言う。学校へ行く前なのだろう。背中には、いつも教科書類を入れている鞄を背負っていた。
「菊! 聞いて! 体重が戻ってたんだよ今朝!」
  やった! と万歳したと思いきや、その手は菊の身体を抱き締めるために背中に回った。ぎゅーっと抱き締められるのを、避けきれないまま、菊は受け止める。はあ、と返事をして頷いたものの、寝ぼけた頭には、それがどういうことなのか、全くもって伝わっていない。
  反応の薄い菊に、ぶう、とアルフレッドは口を尖らせた。
「ねえ、君、ちゃんと起きてる? オレが何言ってるかわかる?」
  ひらひら、と手のひらが目の前で振られる。鬱陶しいその動きを、菊は自分の手で止めた。
「一応は起きてますけど、寝不足半端ないので、多分ご期待に添えるような反応は出来かねます」
  ぼんやりしたまま、菊は答えた。やれやれと、アルフレッドは溜息を吐いて、菊を抱き締めている手を離す。
「何だいもう。それなら今から、ちゃんと寝てなよ。今日は、手伝いに入るからさ」
「はあ」
  小さい子供にするように、アルフレッドは菊の頭をなでなでした。避けることも出来ず、逃げるのも億劫で、菊は撫でられるがままになる。
「そんで、ついでに約束も果たしてくれよ。じゃ、学校行ってくるー」
  おやすみ、と手を上げ、アルフレッドが去って行った。行ってらっしゃいと菊はその後ろ姿を見送り、姿が見えなくなったところでドアを閉める。騒々しいのがいなくなった。日は上がっているが、もう一寝入りして、夕方頃に起きれば。そんなことを思いながら、ベッドへと歩いて行き、何事もなかったかのように潜り込んだ。
  ふう、と息を吐いて、目を閉じる。
「……………………」
  あれ、と思ったのは、目を閉じて先ほどの会話を反芻した時だった。痩せた、と言っていたのは喜ばしい。どれくらい痩せたのかは、確認できなかった。戻った、と言うのも、どの時点なのか。いや、それより。
「…………約束?」
  何だっけ。ぱちり、と目を開き、呟く。私、何を約束してたんですっけ?
  思い出せない。そう思った瞬間、眠気が吹っ飛んでしまった。それを自覚しないまま、思い出そうと頭を働かせ始める。何か。アルフレッドのことだ、大体は食べ物関連なのだろうけれど、何を約束したのだったか。
「それって、いつのことでしたっけ?」
  起き上がって、菊は呟いた。

 

 

 菊は、小さな小料理屋を営んでいる。開店時間も閉店時間も気分次第、メニューもあってないようなものだ。そんな自由気ままな店だが、それなりに常連もいて、続いている。
  アルフレッドは、その店にたまに入ってもらうアルバイトだ。近所に住んでいるせいで、子供の頃から知っている。随分と年は下なのだが、出会った時から呼び捨てされていた。昔は膝にしがみつくような小さな子供だったのに、気がつけばその見上げる視線が近くなり、いつの間にか追い越されていた。
「他人の子供の成長は早い、とは言いますけどね」
  ふふ、と笑って、菊はノートを取り出した。仕入れや売上は、申告があるのでパソコンで管理しているが、その日に何を作ったのかは、昔ながらのアナログ管理だ。ノートにその日出したメニューや、お通しについて、メモをしている。
  ソファに腰掛けると、菊はノートを開いた。日記を付ける習慣はないが、その日のメニューでいろんなことを思い出す。たまたま開いたページは五月二十一日。桑の実、と書いてある。
「そう言えばこの日、アルフレッドさんに飲ませたんでしたっけ」
  赤いシロップを、かき氷のそれと勘違いしていた。それから二ヶ月後には、桑の実ではなくイチゴシロップでのかき氷を頬張り、キーンときたこめかみを押さえていたのを釣られて思い出す。菊は少し笑いながら、さらにページを捲った。
  今度は八月七日。立秋。
「ああ、この日に、アルフレッドさんがさらに肥りかけてるのに気付いたんでしたっけ」
  きのこの柚浸しに、鶏のささみときのこのニンニクバター炒め。後者は賄いで出した分だ。括弧がついている。この日から、括弧書きの項目が入る日が増えていた。アルフレッド用に仕入れた食材も、散見されてくる。
「残り物だけでは、まかなえなかったんですよねえ。ふふ、しばらく鶏ばかり出してます」
  カロリーを考えると、肉の中では鶏のささみが一番ローカロリーなのだ。豚や牛では、どうしても脂身が多い。アルフレッドの賄いのリクエスト自体は、若い男性であるせいか、肉料理、が一番多く、それに応えようとすると鶏肉料理になってしまう。
  笑って、菊は目を閉じた。目の前に、あの日の夜が思い出される。
『どうせお昼に、豚カツやステーキを食べてるんでしょう』
  また鶏? といくらかげっそりして言ったアルフレッドに、言った言葉を思い出す。サラダ油よりバターを多用すると、味付けも似通ってくる。それに鶏、きのこ、魚、野菜の連続だ。アルフレッドはそれに飽いたのだ。
『ファストフードも大好きですもんねえ。ハンバーガーにポテトは、カロリー高いですよ?』
  痩せられませんよ? 皮肉を込めて言った菊に、アルフレッドは言葉を詰まらせた。言葉の通りだったのだろう。ぷくっと膨らませた頬も思いだした。
『わかったよ、ちゃんと痩せるまでは我慢するよ。でも、菊、オレがちゃんと痩せられたら、』
  ぱち、と菊は目を開いた。約束は、これだ。ちゃんと、条件も自分が提示している。
「あれから、もう何ヶ月です? ひいふう……よく覚えて……いや、頑張ってたんですねえ」
  指折り数え、菊は苦笑した。そうだ、バイトをしている時に、何となく肩や背中のラインが違ってきてるのがわかっていた。エプロンを締めるリボンの長さ。シャツの、余り具合。
「……叶えてやるしかないですね」
  苦笑して、ノートを閉じる。さて、それならばまずは買い物へ行かねば。それから、また少し眠ることにしよう。睡眠不足で、アルフレッドにがっかりさせるわけにはいかないだろうから。

 

 

 アルフレッドが学校から店へ直接向かうと、入り口のドアに『本日貸し切り』の札がかかっていた。ごくまれに、この店で結婚式の三次会や小さな集まりがあっていることは知っている。が、今日は貸し切りにするなどとは、菊からまったく聞いていない。
  ドアを開け、アルフレッドは菊に聞こうとその人の姿を探した。菊はいつも通り、カウンタに立って微笑んでいる。
「菊、表に貸し切りって」
「いらっしゃいませ」
「札がかかって、………えっ?」
  ぽかんとして、アルフレッドは菊を見た。それから閉まった入り口のドアと、菊の顔を交互に見る。菊は笑顔のまま、カウンタ席を示した。
「お席にどうぞ」
「えっ、どういうこと? オレ?」
  アルフレッドが自分を指さすと、菊は微笑んだまま頷く。意味はわからないが、アルフレッドは示されるままに席についた。
  いつもは、この席に誰かが座っている。自分は座っても端の席だ。賄いを食べる時に、座る席がある。ここは、アルバイトの座る席ではない。お客の席だった。
「今日は、アルフレッドさんがお客様です」
  はいどうぞ。菊は言って、冷たい麦茶を出した。未成年者に、アルコールは飲ませられないからだ。けれど、菊はお茶にお通しを付けて出した。小鉢にベビーリーフを敷き、牛肉のたたきをその上に盛っている。
  アルフレッドはお通しの鉢を見、菊を見た。ぱああっと顔が輝く。
「にく! 菊、牛肉だよ!」
「ええ。約束しましたものね」
  菊は、笑って頷いた。ちゃんと痩せられたら、鶏ではなく、牛肉をご馳走しましょう。ただし、体重は高校生の時、部活をしていたころのそれと同じですよ、という約束だった。
  今、見直してもわかる。顎から首の線、肩のライン。第二ボタンまで開いた襟から、脂肪に埋もれるようだった鎖骨も、くっきりと露わになっている。
「結局、何キロ痩せたんです」
  ぴりっとして美味しい、とほくほくしながら食べているアルフレッドを一瞥して、菊が聞いた。温めるべく、鍋を火にかける。アルフレッドは顔を上げ、うん、と頷いた。
「十三キロ」
「そうですk……えっ」
  ぎょっとして、菊はアルフレッドを見直した。うまうま、と口を動かしているアルフレッドの表情からは、そんな過酷なダイエットを行っていたとは思えない。
「いやー、大学に進学して、随分と肥ってたんだね。自分でも気付かなかったんだけどさ」
  普通、気付くだろう、と菊は思った。ベルトが締まらないとか、ズボンがきついとか。そう突っ込めば、アルフレッドは大きいサイズのも持ってたからさ、とあっけらかんと答える。
「さすがにそんなに増えていたとは気付きませんでした……」
  呆然として、菊が言う。あはは、とアルフレッドはそれを笑い飛ばして、続けた。
「じわじわ増えるからね、体重って」
「まあ、そういうものですからね。……で、どうやって痩せたんです」
「前に菊が言った、カロリーの高いものは午前中だけにして、午後は低カロリーなものを食べながら、水泳かな。一日百メートル毎日」
「ひゃ、…………」
  菊は絶句した。アルフレッドはきょとんとして、首を傾げる。
「百メートル、って言うと、凄い距離みたいだけど、二十五を四回だよ? そんなに泳いでないって。最初は、二十五もきつかったんだけどさ、途中で筋力が戻ってきたのか高校の時くらい泳げるようになって。調子に乗って何日か、泳げるだけいっぱい泳いでたら、今度は疲れてきてね。切りもいいし、百にしよう、って決めて、毎日プールに通ったんだよ。今日は休んだけど。だんだん体重が減ってきたのを数字で見たら、俄然頑張れたね」
  こともなげに、アルフレッドが言う。ぱち、と菊は瞬きをした。それから、ほう、と溜息を吐き、しみじみとアルフレッドを眺める。
「ほんっとうに、頑張ったんですねえ……!」
「そうなんだよ。頑張ったんだよ。なのに君ったら、朝からわざわざ報告しに行ったのに、寝ぼけて、はあ、とかしか言わないしさ。酷いよね」
  アルフレッドが口を尖らせて言うのに、反論できない。苦笑しながら、菊はすみませんでしたと謝った。
「だって、眠かったんですよ。映画を朝まで見てて」
「君のことだから、どうせそんなことだろうとは思ってた」
  君がそんな人だって、知ってるからね。アルフレッドは笑うと、手に持った箸を振る。
「そして、こうやってちゃんと約束を守ってくれるってこともね!」
  言われた菊は、苦笑するしかない。その約束も、ほとんど忘れかけていたのだ。申し訳ない、と言いたくなったが、口は噤んでおくことにする。
「それで? これでお終いじゃないよね?」
  きらきらと目を輝かせて、アルフレッドはコンロにいる鍋を見る。ええ、と菊は頷くと、鍋の蓋を取り、お玉を手に持った。真っ白な皿の上に、濃い茶色が広がる。大きめの肉が、ごろん、とその真ん中に鎮座していた。
  蒸した野菜を皿の端に乗せ、生クリームで細く円を描くと、スプーンと一緒にアルフレッドの前に置いた。柔らかな湯気が、ふわりと沸き立ち、濃厚な香りが鼻先を擽る。
「ビーフシチューにしてみました。どうぞ」
「ひゃっほう!」
  アルフレッドは両手を挙げて、その料理を歓迎した。スプーンを手に取ると、早速口に運ぶ。
「うん! 菊の作るビーフシチューは美味しいね!」
「それはよかったです」
  菊は笑って答え、皿に乗せたバターロールを温めて、アルフレッドの前に出した。美味しい美味しいと繰り返しながら、アルフレッドが平らげていくのを、のんびりと見守る。
  賄いを、出さない、という方法もあった。どうしても、店が営業している時間は、夜が多い。ダイエットをするならば、夜に食べるのはよくない。消化が寝るまでに間に合わないからだ。かといって、食べて寝るまで、時間を空けるのも難しい。そうは思ったが、菊はアルフレッドに賄いを出し続けた。できる限り、アルフレッドの希望に応えるように。
  アルフレッドは、本当に美味しそうに、提供する料理を食べてくれる。菊は、それを見るのが好きだった。きっと、その増えた十三キロのうち、半分くらいは自分の責任だろう。そう思える程度には、食べさせてきたような気がする。
「菊」
  アルフレッドに呼ばれて、菊ははっとした。何ですか、と慌てて聞くと、困ったように眉を寄せ、アルフレッドが言う。
「お、……おかわり、って………」
  駄目なのかな。真剣に言うアルフレッドに、菊は苦笑した。仕方ないですね。この甘さが、駄目なことはわかっている。また、近いうちにダイエットを、と言い出す羽目になるのだろう。
「ちゃんと明日も、泳ぎに行くからさ!」
  皿を渡して、アルフレッドは笑った。それなら、大丈夫ですかね。皿にビーフシチューをたっぷりとついで、菊は出す。
  あなたが美味しそうに食べる姿が、私の幸せ。その楽しみを、邪魔されたくないがために、貸し切りにしたのだ。
「それなら、好きなだけ、食べてください」
  カウンターに肘をつき、アルフレッドの頬についたシチューを拭う。その僅かなシチューを舐め、美味しい、と菊は再び笑った。

 

 


浅平夏晴様のサイト→[sugar milk]

Back