今から品物を持って行く、飯はもう食べてるからいらねえある。そう電話が入ったのは三十分ほど前のことだった。
といいますか、どうしてうちでご飯食べるのが当たり前になってるんでしょうか。
「close」の札が掛かっている筈の店の扉が激しく叩かれる音に慌てて走り寄りながら、思って本田菊は溜め息をついた。
「ああもう、そんなに叩かなくたって」
聞こえていますよ、という言葉の先は音にならなかった。
壷が見えた。
正確には、それは男性の右腕に抱えられているのだった。ダンボールと梱包財とに包まれた陶器の壷の口が、菊から見て斜め左下の位置にぽっかりと黒い口を空けている。あれは自分の顔と同じくらいはありそうだと、そこまで考えて菊ははっと我に返った。腕の主にして先程まで扉を激しく叩いていたのであろう目の前の男はつい先ほど電話を寄越した人物と確かに同一人物で、だから今此処にいるのは何らおかしくはないのだが、こんなものを持ってくるとは一言も聞いていない。
「ちょっと、まさかこれ」
問い詰めようと顔を上げて、扉の向こうに誰かがもう一人いるのにようやく菊は気付いた。
グアバジュースのようなピンク色のTシャツに白いサブリナパンツの組合せは、亜熱帯というより熱帯と言った方が適切なここ数日の気候にぴったりである。年頃は十代半ば、Tシャツと同じ色をした髪飾りを腰まである長い髪の左右に付けた少女は引いてきたキャリーに寄りかかるようにして立っていたが、菊の視線に気付くや否や、居住まいを正しぺこりと頭を下げた。ので、慌てて菊も頭を下げる形になる。
「お邪魔いたしますヨ!」
「はい、いらっしゃいませ」
「ていうか重てえから早く入れろある。喉が渇いて仕方ねえあるよ」
「ああええはい、そうですよね……」
かくして夏の昼過ぎ、まだ開店前の「小料理屋・菊」は二人の客を招き入れることになったのだった。
店の食器の追加購入を菊が検討し始めたのは、開店から二年ほど経ってからのことだった。
今でこそ、「小料理屋・菊」は客の注文に応えて何でも作ることで有名な店だが、元々はメニューの出される普通の店だった。かつてはバーであったという店舗の内装に合わせたかったこともあり、一括購入した業務用食器は白を基調としたシンプルなものが多かった。
が、しかし。客の注文や自身の趣味で各国の料理を作るのが当たり前になり、それが周囲にも当たり前のように認知されるようになれば、菊としても料理に合わせ、もっと色々な食器が使いたいという欲求が出てくる。一人用の小さなグラタン皿や店にいる客全員に振舞えるような大皿はもう少し数を増やしたいし、蓋付のピッチャーや色つきグラス、温かい麺料理用の器だって欲しい。それに、和食器。名のある作家の作品は流石に無理とはいえ、家庭用のそれよりもう少しランクが上の品を増やしたかった。盛り付けの工夫は楽しいが、器の力はやはり大きい。思いながらも良い伝手も見付からず、時間ばかりが経っていた。
問屋街の並びにある耀の古物店を覗いてみたのは、全くの偶然だった。
明りを煌々と灯さない店内はいつも薄暗かったがその日は丁度、扉の外に出した棚で小皿の類を安く売っていたのだ。
「そりゃあ、いつも大変お世話になっていますけどね」
いますけどね? 言いながら菊はテーブルにグラスを二つ置いた。
開店前の店内は薄暗いが、電話があったこともありエアコンは効かせてある。入ってすぐのテーブル席に文字通りへたり込んだ二人連れは、薄く汗をかいたグラスにすぐさま手を伸ばした。
「いやいや、お世話になってるのはお互い様あるよ」
「しおらしげに言わないで下さい」
もうどうしましょうねあれ。壷の運び手、耀にぴしゃりと言い放ち、菊は遠い目で店の奥を振り返った。
抱えられてきた陶器の壷は、今はバーカウンターの下にひっそりと置かれている。高さは菊の膝に届くほど、暗がりの中でもつるりとした光沢を放つ壷には藍色の細かな模様とそれに絡まるような金彩が施されており、存在感からしてどっしり重たげだ。それにしても。赤いポロシャツの袖から伸びた、特に筋骨隆々という訳でもない耀の腕をしみじみと菊は見下ろした。よくあれを片手で運んで来れたものだ。
「どうしようって、飾ればいいある」
「難しいこと言わないで下さい」
さらりと返された言葉に眉を顰める。自慢ではないがインテリアは分からない。センスも無い。この店だって、前にあった店舗の内装が残されているのが決め手になったようなものなのだ。菊の言葉に耀は不思議そうに首を傾げた。
「ちょっとでかい料理の盛り付けみたいなもんあるよ?」
「全然違います」
「基本は同じあるよ」
「いえ、ですから」
「ねえ先生、もしかして本田さんに壷持ってくること言ってなかったノ……?」
二人の顔を見比べながら、茶請けの棗を所在無さげに摘んでいた少女が恐る恐る尋ねた。どうやら会話を聞きながら、何かが根本的に間違っている可能性に気付いたらしい。問い掛けに耀は事も無げに頷いた。言ってねえある。
「言ったら断られるある」
「……言わなきゃ駄目だヨー!?」
信じられないヨ、本田さん、いらなかったら私持って帰るヨ? 丸い瞳を更に大きく見開いて捲くし立てた少女に、だが耀は椅子の背にもたれたままひらひらと手を振った。問題ないね。
「問題ありありヨ!」
「あれはここに合うだろうと思ったから我も持ってきたあるよ」
「先生いっつもそれだヨ! 駄目だヨ!」
「別に駄目じゃねえある」
ついでに言うと先生じゃなくてにーにがいいある。
グラスの中、溶け出した氷の欠片を取り出し口に放り込みながら言われた台詞は、しかしあっさり黙殺された。膨れっ面のままの少女に頬杖をつきながら、耀はげんなりと溜め息を吐いた。仕事のことでお前に文句言われる筋合いはねえあるよ。
「そもそも我の仕事が上手くいかなかったことはねえある。お陰様でうちはいつでも黒字経営、にこにこ現金払いね」
「でも先生、うちはいつもカツカツだってこの前言ってたヨ」
言葉に耀の顔が勢いよく落ち、菊は素早く視線を逸らした。それは家での話ある! がばりと顔を上げた耀が噛み付くように叫ぶ。
「家だけど先生言ってたヨ、嘘じゃないネ!」
「そうだとしても客の前で言う話じゃねえある!」
「本田さんはお客さんだけど先生のせいで困ってるヨ!?」
「困ってねえある! 折角連れて来てやったのに勝手なことばかり言うなある!」
「だって、だってだってだって!」
「……ええとあの、お二人とも、そろそろ」
落ち着いてください、ね?
声と声の合間、滑り込んだ菊の声に少女ははっと顔を上げ、次の瞬間ぷしゅんと肩を落として黙り込んだ。だって。物言いたげな視線に大丈夫ですからと苦笑でもって菊が応えると、視線はそのまま正面の耀へ向かった。が、対する耀は動じる気配も無い。
「と、いうわけで」
「え」
落ち着いた、場を仕切り直す言葉に菊が彼のほうを見ると空になったグラスを片手に揺らしながら耀はに、と笑ってみせた。
「あれの処置はお前も大丈夫だってことで話も着いたし、他の品も見てもらうあるよ」
……しまった。
言うが早いか、結わえた黒髪を揺らしキャリーへ向かう耀の背に、菊はこっそり息を吐いた。余り吹っかけないで下さいねと言ってみたが、聞いているかいないのか。
「あの、本田さん」
「大丈夫ですよ」
お仕事が終わったらおやつでも出しましょうね。
心細げな声を安心させようと言った菊の言葉に、困ったのと嬉しいのと苛立ちとが混ざり合ったような複雑な視線が返った。
先生、と耀を呼んでいる連れの少女は、しかし実際には彼の親族らしい。中国語においてその語は教師という意味だけではないのだと、菊は彼らの会話で初めて知った。
時折零れる話の断片を繋ぎ合わせるとどうも耀は大勢の親族と暮らしているようで、彼女もその一人らしい。週末には時折店番も手伝っており、今日のように耀と一緒に店を訪れることも数回あった。だから平日の今日、耀と共に店に来たのはちょっと驚いた。夏休みなのだろうか。
夏休みってことは学生さん、なんでしょうね。高校生くらいでしょうか。
新聞紙や梱包財を食器類を段ボール箱に仕舞う二人の姿を厨房の奥から眺めながら、菊は内心でひとりごちた。
だろう、とからしいとかいった言葉が続くのは耀が己の内情について殆ど説明をせず、余り突っ込めないためだ。いっそ不躾に思える程親密な態度を取るくせに――初めて店に客として訪れた彼が開口一番、お前は無駄に割烹着が似合うと感嘆しつつ言い放ったことを菊は忘れていない――、本当は、彼の中では身内とそうでない者とはきっちり線が引かれているらしい。お陰で未だ、菊は彼女の名前も年齢も知らないでいる。カウンターの向こうからは恐らく先ほどの件についてだろう、何かを言い合うような潜めた声の気配がした。
本田さんが困っているのに、と憤慨されたが。実際のところ耀の行動について、菊自身は許容範囲だと思っている。こいつはお前の所に合いそうだと思ったと言う彼は、菊の趣味に合った食器類を融通してくれることも多くあるのだ。ダンボール箱に入っていた品は菊が以前買った小皿と同じシリーズのもので、入荷してすぐに連絡を入れてくれた。
ま、言いませんけどね。
戸棚から出したガラス器に水を通しシンクに置くと、厨房奥にある冷凍庫の扉を菊はそっと開いた。
箱入りのバニラアイスクリームはまだ残っていたが、記憶よりも随分少ないので溜め息を吐く。後でアルフレッド君に買って来て貰わないと、そう考えながら今度はその真下、冷蔵庫の扉を開けた。バット一杯に作ったジャスミン茶のゼリーは粗熱がまだ取れきっていないが、アイスと一緒なら問題ないだろう。ああそうだ、缶詰もある。
「ついでにサディクさんのお店で買ったものも使ってみましょうか」
乾物類の引き出しを鼻歌交じりに開ければ、もうすっかり店を開けている時と同じテンポになっている。
スプーンでクラッシュ状に崩したゼリーをグラスの底に詰め、その上に白きくらげとカットした缶詰の白桃にグレープフルーツ、最後に丸くくり抜いたバニラアイスを乗せる。ミニパフェ、というにしても小さ過ぎるかもしれないが、そこはまあ勘弁してもらおう。甘みを足すため缶詰のシロップを上から垂らし、クコの赤い実を三つほど散らす。スプーンを添えて持っていくと、既に片付けの終わっていたテーブルから歓声が上がった。
「色味がちょっと地味なんですけど」
「そんなこと全然無い、美味しそうだヨ!」
写真が撮りたいとの声に頷くと、すぐさまパンダのストラップがついたスマートフォンが取り出された。ぱふぇにゅっとー。撮影を終え、歌いながら素早くフリック入力を行う少女の姿を、傍の椅子に腰掛けた菊は首を傾げつつ見守った。
「にゅっと、て何でしょうか」
「我も知らねえある」
三口ほどで食べ終えてしまった耀はのんびりとお茶を啜っている。連れがいると待遇がてき面に良くなって得あるな。満足げな呟きに、菊は白い目を向けた。
「来る度にご飯要求してくるのは何処の誰ですか……あ、甘み、そのくらいで良かったですか?」
追加のシロップ出しましょうかという菊の声に、丁度グラスへ慎重にスプーンを差し入れようとしていた少女はとんでもないとばかりに首を振った。
「これ位がいいヨ、生クリーム一杯じゃないからぱくぱく食べれるのがいいのヨー」
「あ、それは良かったです」
「でも一気に食べたら勿体無いヨ……」
「そんな感動するほどのもんあるかー?」
まあでも、白きくらげは悪くなかったある。ついでのように言われた言葉に菊はにっこり笑った。実は使うの初めてなんですよ。
「へえ?」
「いつも買い物をしている店で見かけたので、ちょっとチャレンジしてみようかと」
店名を上げるとあああそこか、と頷かれた。海外食料品、特に酒や酒のつまみの取り揃えが良いサディクの店はこの店の客にも常連が多い。
「ちなみに、お茶請けに出した棗もそこのものです」
「乗せてる小皿は我が売ったものだったあるな」
「……よく気が付きましたね」
呆れた声に両手で茶器を抱えたまま、耀は目を細めた。当然ある。
「うちのもんはみいんな、一番いい所に嫁に出してやるあるよ?」
店頭で小皿を売っていたその店の、棚の中の食器はいずれも埃が殆ど積もっていなかった。
倉庫のデッドストックや今では廃番になった食器から始まって、古伊万里に染付、漆の重箱に果てはジノリまで。小さい札に書かれた説明を読みながら一つ一つ、取り上げては横に動くという動きを繰り返しながら、ふとあることに気付いて菊は首を傾げた。目の前のカップを取り上げ、くるりと回せば斜めに走る金の筋。その隣も、更に隣も。棚一列分だけ、ひびの走った品が固まっている。
「金継ぎあるよ」
詰まらなそうな低い声に振り向くと、店の奥に細い人影が見えた。恐らくは店主なのだろう、小机の向こうに座る男は紫煙を吐きながら更に言葉を続けた。我がやったある。
「ちょっとなら安くしてやるあるよ」
「やった、って」
さらりと言われた言葉に菊はまじまじと手の中の皿を見詰めた。
金継ぎは、陶磁器の修復技法だ。割れた破片を漆で繋ぎ、継ぎ目の上から金粉を叩いて飾る。室町時代に茶の湯と共に発達した技法だが、てっきり職人にしか出来ないものだと思っていた。だけど。
「何でまた」
率直な感想に店主は笑ったようだった。まあ、確かに? 言いながら狭い棚の間を猫のようにすり抜け近付き、菊の持っていた皿をひょいと摘み上げた。弘法市のもんあるな。言って再び、手の中に戻す。確かに、ワビやらサビやらは流石の我にも全っ然、分からねえあるが。
「でもそいつの価値は割れても消えてねえように見えるあるよ?」
結局、小皿はそのまま買ってしまった。
もっともその後、割れたものは安く仕入れられるのだと自慢げに笑われて内心でがっくりしたのだが。
「何というか、つくづく商売人なんですよねえ、貴方」
「お前に言われたくないある」
先ほどの熾烈な値段交渉を思い出したのだろう、いやそうな声が返る。と、ふいに響いた大音量に、耀は慌てて携帯電話を腰から取り出した。
「もしもし何あるかー……待て、聞こえねえある!」
立ち上がり、店の外へ出る耀の耳元には恐らくあれもストラップなのだろう、テニスボール大のパンダの縫いぐるみが揺れていた。もしかしなくても、お揃いなんでしょうか。そう思いながら視線を戻すと、こちらを見詰める少女と丁度目が合った。その傍らに置かれたスマートフォンの画面の上には耀の耳元で揺れていたのより小さめのパンダが、もう空になったグラスを見上げるようにして座っている。ああ、と菊は微笑を浮かべた。
「おやつ、気に入っていただけたみたいで良かったです」
「あ、ハイ」
「お二人に好評なら今度お店で出しても安心ですね」
覗きこんで笑った菊の言葉に、だが少女は固い表情で小さく頷くだけだった。意外な反応に菊は内心で首を傾げた。いつもならわくわくと周囲を見回している大きな目は、先程から忙しなく瞬きを続けている。もしかして、耀がいなくなったせいだろうか。
「ええと、片付けちゃいますね」
「ハイ……あの、本田さん!」
「はい」
食器を取ろうと立ち上がろうとした瞬間、横から悲鳴のような声が上がった。
座ったままうろうろと視線を彷徨わせる少女は、けれどやはり、菊と視線を合わせるのにどうにも躊躇いがあるらしい。ええと、あの。言葉に連れ、長い睫毛が素早く上下する。あの。その。はい。掠れた声を聞き取ろうと僅かに近寄ると、続かない言葉の代わりに伸びた手が割烹着の裾を引いた。
「はい、なんでしょう」
笑いを含んだ声で尋ねると、もう一度割烹着を引っ張られた。
「はい」
「あの、ネ」
視線を合わせぬままそっと身を屈めれば、耳元に向かって細い両の手が伸びる。あのね、私ネ?
ピンクの花がふわふわと揺れる。
(――って言うのヨ?)
やがて壷の中には花が活けられるようになり、真っ赤な顔で告げられた名前はちゃんと呼ばれる日が来るのだけれど。
それはまた、別のお話。
Fin