「あたたかな手」(なしこ様)英


 【1】

 

こじんまりとした店だった。店主ひとりで切り盛りするにはちょうど良い広さとも言えた。四人と一人程度が腰かけられるL字型のカウンターが中央にあり、奥まったところに二人用のテーブルが二組ある。白熱灯ランプの明かりに照らされた煉瓦の壁は柔らかな橙色で、磨きあげられたテーブルとカウンターの木板が飴色に光る。飴色よりさらに深いほんの少し焦げたキャラメル色と言う人もいる。深夜から朝までやっているカフェか、バーと言った雰囲気だが、意外なことにここは小料理屋なのだ。
  店名を、店主のファーストネームをとって菊という。店頭の壁にはアンティークのランプが備え付けられている。あたたかく柔らかい光は、広尾の奥まった小路にまでやってくる人をほっとした気持ちにさせるのだった。
  優しい気持ちになれる店だった。あたたかな色調の店内で心と体をくつろがせ、食事で空腹を満たし、寂しい気持ちやマイナスの感情を店主との会話で癒していく。森林浴よりもずっと有効な場所だと、常連客の一人が評していた。それに異論を唱えるものはいなかった。
  しかし、この世に様々な人間がいる以上、温泉や森林浴同様、この店の効能が利かない場合もある。例外というのは必ず存在するものなのだ。
  今、その数少ない例外が、カウンターにつっぷしている。
  顔は見えない。しかし彼がよろめきつつ店に入ってきたときに、菊はその姿をさりげなく目に入れていた。スーツを着た青年だった。酔っ払っていなければ、かなりの美形と言っていいだろう。
  綺麗な金髪から見える耳は真っ赤だ。平時なら十人中九人に美声だと言われるであろうその声は、今は酒でガラガラに荒れており、しかもずっと同じ言葉をくり返している。要するにくだを巻いているのだ。くり返されている言葉は単調で、それが一時間ほどつづいている。
  店には菊以外誰もいない。常連客達が、酔客に辟易して出て行ったわけではない。時刻は午前四時。この時間になると、人がふっといなくなる時間帯もあるのだった
  菊は酔っ払いの繰り言には慣れている。店主という立場と性格があいまって、実に通常運転、平素の表情のままだ。
<あれじゃない…あれじゃだめなんだ…>
  英語でつぶやきつづける客の前に、菊がグラスを置く。グラスからは優しい湯気がたちのぼり、中には潰した梅とお湯が入っている。梅湯用に漬けられた、自家製の梅干しだった。中粒の梅からは丁寧に種が取り除いてある。これなら、酔っ払いが一気に飲み干して喉に詰まらせることもない。
「どうぞ」
  落ち着いた呼びかけに、もそりと頭が動いた。腕と前髪の間に翠色の目がのぞく。普段は透き徹った宝石のようであろう虹彩が、酔って血走った白目のために鈍ってみえる。
  カウンターに置かれた青年の手が不意に動いた。酔っ払いの遠慮のなさで、菊の手を掴む。いきなりのことに、大抵のことには動じない菊の目が軽く見開かれる。菊の掌をしっかりと掴んだ青年が、強く菊を見据える。行き詰まる時が過ぎ、青年が急に手を離した。
<こんな…こんなあたたかい手じゃ作れない…>
  青年のつぶやきは、落胆という言葉では片づけきれない深い悲しみが込められていた。菊が掴まれた自分の手を、胸のあたりに持っていく。
  菊が見守る中で、カウンターにつっぷした青年は次第に寝息を立てはじめる。菊が青年を見つめる。掴まれた手に少しだけ痛みが残っていた。迷惑や困惑の感情は、菊の目の中に見つけることはできなかった。ただほんのすこし、思案げな色が宿っていた。
  眠りに落ちた青年の背中に、菊が薄いハーフケットをかける。そっと店の電気を落とすと、菊は店の奧の部屋に入る。部屋の電気はつけないまま、菊は文机に置かれた薄いノートパソコンのキーボードにそっと指を滑らせはじめた。


  店の奥にある畳の部屋で菊が目を覚ました。菊の睡眠時間はたいてい五時間前後で、今日もその例に漏れなかった。
  着替えを済ませて店内をのぞく。思ったとおり青年はいなかった。無人のカウンターに、手帖を破ったらしき紙片にみじかい謝罪文と、酒代にしては多すぎる札がおかれていた。
  菊が手に取った紙片を使って、ポチ袋を折りあげる。小さく折りたたんだ紙幣を簡易ポチ袋に仕舞うと、カウンター内にあるのレジ代わりの箱に滑り込ませた。
  おそらく、もう一度彼はやってくる。
  そして菊の予感は、予言めいてよく当たるのだ。

 

 

 【2】

  数日後、菊の予感は現実のものになった。昼間、店に現れた青年は、決まりが悪いのかやや憮然とした顔を崩さぬまま、回りくどい謝罪と共に、菊に赤い薔薇の花束を渡した。菊はお礼をいって、薔薇の花を花瓶にかざる。飲食店であることを考慮してか、薔薇は香りのすくない品種であるようだった。
「こちらはおつりです」
「迷惑料だ」
「それにしてもいただきすぎです」
「いらないなら捨ててくれ」
「それはちょっと……」
「いいから受けとっておけ」
「ああ、でしたら」
  菊がにこやかな笑みを浮かべる。
「……なんだよ」
  対する青年は軽く顎を引き、菊の笑顔から一歩引いた態度をみせる。
「ご勤務先は、この近くですか?」
「……それがどうした」
「では、ティータイムのお休み時間にでもぜひお立ち寄りください」
「……忙しくなかったらな」
  ぼそりと言い捨てると、青年は店から出て行く。小路から出て行くのを見送ると、菊がたすきをかける。お茶の時間は、三時。青年の再来店を見越して用意していた材料が、無駄にならなくてすみそうだ。


  小料理屋菊は、様々な状況や店主のそのときの気分に合わせて、不定期だがランチやカフェタイムに店を開けることがある。大勢の客が訪れることもあるし、たった一人しか来店しないときもある。
  今日は後者であり、菊の店は、かの青年のためだけに開かれる。
  青年は、三時十五分を回った頃に現れた。ドアを開けた瞬間に漂う甘いジャムの香りと香ばしい菓子の匂いに、青年の表情がはっきりと変わる。だが青年は、その表情の変化をすぐに渋面で覆い隠す。
「いらっしゃいませ」
  菊がカウンター席へ座るようにと、青年を促す。青年は黙って、カウンタースツールに腰をかける。
  五分ほどして、菊がカウンターから出て来た。トレイの上には、白いティーセットとジャムとクロテッドクリーム、そしてほかほかと湯気を立てる焼きたての菓子が乗っていた。青年の前に、菓子とティーポットが置かれる。
「どうぞ」
「頼んでない」
  菊が微笑む。
「これは答合わせなのです。つきあっていただければと」
「……リドルを投げかけた覚えはないぞ」
「いいえ、あの夜にあなたはなぞなぞを私にかけました。ですから、私としては成否をいただきたいのです。そして私の答が、あなたのお口に合うかどうかを知りたいのです」
「…………」
  青年が、目の前の菓子に視線をそそぐ。ふっくらと膨らんだ黄金色の菓子が、真ん中からぱっくりと割れている。見事なオオカミの口だった。サイズも大ぶりの、それは、青年が愛してやまない故郷の菓子――スコーンであった。
  これならば……もしかして……そんな期待が、青年の顔をよぎる。だがすぐに軽く首を振る。この国の料理は、何でも美味しい。だがこの菓子だけは、どうにも駄目なのだ。どこの店で食べても、口当たりが柔らかすぎる。ケーキやマフィンのようにほわほわでしっとりとしているか、ソフトクッキーのようにやわらかい。そんな歯触りを、味を、青年はこの菓子に望んではいなかった。
  ああ、でも……この香り……この見た目……。
  故郷で良く通った店のそれに良く似たスコーンに、青年が手をのばす。そっと広げると、オオカミの口を境にして二つに割れた。濃厚なクロテッドクリームを塗るというよりもたっぷりと乗せて、その上に同じ量のジャムの山を乗せる。スコーンの熱でクロテッドクリームが溶けて、スコーンに染み込んでいく。青年が生唾を飲み込む。すでに青年の頭の中から、カウンターに戻った菊の存在は消えていた。この瞬間、青年の世界にはスコーンと自分しかいなかった。
  恐る恐る口に運んだスコーンが、かぐわしい匂いを青年の鼻腔に注ぎ込む。香ばしい小麦の香りと濃厚なクリームとしっかりと甘いジャムの香りが入り交じった、懐かしくも美味しい香りに、たまらず一口かぶりつく。
  青年の動きがとまった。だがそれは一瞬のことだった。口が動くのに合わせて、青年の顔の強張りが、ホットケーキの上のバターのように溶けていく。スコーンにかぶりつく青年の顔から、完全に仏頂面が消えていた。外はビスケットのようにかりっとして香ばしく、中は焼きたてのパンのように弾力がありつつ、日向で干したばかりの羽布団のようにふかふかしている。ケーキでもなく、マフィンでもなく、ソフトクッキーでもない。青年が渇望していたスコーンがここにはあった。
  陶然とした表情で、二つのスコーンをポットの紅茶と共に綺麗に平らげた青年が、満足げに息を吐いた。完食であった。
「ありがとうございます」
  菊の呼びかけに、青年が夢から覚めたように顔をあげる。カウンターの向こう側で微笑む菊と目が合った。青年がうろたえ、それから視線をそらした。
「なんで……お礼なんか……」
「はい。お口にあったようなので」
「そりゃ、まあ……」
  青年がごにょごにょと口の中で何かつぶやいている。顔がうっすらと赤いのは、完全にスコーンと二人の世界に入っていたことが恥ずかしいのだろう。しばらく、視線を合わせずにいた青年が、ぼそぼそと菊にたずねる。
「どうして……わかったんだ」
「そうですね……」
  菊がゆっくりと語りはじめる。
「最初は流石にわかりませんでした。ですが……」
  菊が掌を広げてみせる。
「私の手を握って、“こんなあたたかい手じゃ作れない”とおっしゃいました」
  青年が決まり悪げにうなずく。残念ながら泥酔してはいたが、記憶はある。
「そこで、うっすらと何かがひらめいたのです。ですが私の頭の中の知識だけでははっきりしなかったので、少し調べ物をしました。なぞかけの言葉は“あれじゃない”“あたたかい手”“作れない”。最大のヒントはあなたの言葉遣いそのものでした」
「俺の……言葉?」
「はい。酔っていても見事なクィーンズ・イングリッシュでしたので」
  すぐにイギリスの方だとわかりました、と菊はつづけた。
「さきほどのなぞかけの言葉、小料理屋で“作る”という発言、加えてイギリスの方が愛してやまずしかも日本ではなかなか見つけられないもの……それらを総合して出て来た答は――今、あなたのお腹の中にありますね」
  青年が自分のおなかを見下ろし、それから菊の言葉に釣られたのが面白くかったとでも言うように、仏頂面になる。このイギリス人の青年にとっては、面白くなさげな顔がデフォルトのようだ。菊にとって笑顔が通常運転のように。
「お前に作れるとは思っていなかった」
「それは、“あたたかい手”ですか?」
「……ああ」
  青年が短くうなずいた。菊がふふっと笑う。
「失礼しますね」
  菊の指先がそっと青年の手に触れた。
「!」
  青年が思わず手をひっこめる。
「なんで……」
  驚きに目を見ひらいたままの青年に、菊がゆっくりと笑む。
「あのとき、梅湯を作って温度を確かめた直後だったので、手に湯の温度が伝わっていたのですよ。普段は、あなたが驚いたとおり、とても冷たいのです」
「…………」
  青年が睨むような目つきで、菊の手を凝視する。
「スコーンの材料は、小麦粉とベーキングパウダー、牛乳と卵と……そしてバター。どれも冷たくしておかなくてはいけない。特にバターは」
  菊がうたうような調子で、スコーンの材料とレシピを語っていく。
「スコーンの作り方の肝は、細かくサイコロ型に切ったバターを小麦粉と混ぜながら、さらに細かくすること。サブラージュというそうですね。それを怠ると、さくさくとした食感が出せない。フードプロセッサーで小麦粉とバターを一気に切り混ぜる方法も紹介されていましたが、手で擦り混ぜるのとはまた違った手触りになりますね」
「試したのか?」
「はい。フードプロセッサーで切り混ぜるとふんわりとした感じがなく、さらさらとした粉雪のようになりました。こう…粉の周りに空気とバターが包み込むようになるには、手でやるのが一番だと感じました。そして……」
  菊が青年の顔を見る。
「この一連の作業の中でバターに手の熱が移って、溶けないようにするには、何よりも冷たい手が大事なのですね。ですから、あなたはあたたかい手では作れないとおっしゃった」
「……ご明察」
  よくもまあ、あれだけのヒントでそこまで辿り着くものだ。そんな感情が入り交じった皮肉げな青年の声にも、菊は一切動じず丁寧に頭をさげた。
「いたみいります」
  菊の態度に、青年はふんと顔を横に向け、席を立った。
「またおいでください」
  菊の呼びかけに応える声はなかった。だがこの後、仏頂面のイギリス人の青年――アーサー・カークランドが、菊の店の常連客になったのはいうまでもない。

 


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