「あたたかな手」(なしこ様)英 |
【1】 こじんまりとした店だった。店主ひとりで切り盛りするにはちょうど良い広さとも言えた。四人と一人程度が腰かけられるL字型のカウンターが中央にあり、奥まったところに二人用のテーブルが二組ある。白熱灯ランプの明かりに照らされた煉瓦の壁は柔らかな橙色で、磨きあげられたテーブルとカウンターの木板が飴色に光る。飴色よりさらに深いほんの少し焦げたキャラメル色と言う人もいる。深夜から朝までやっているカフェか、バーと言った雰囲気だが、意外なことにここは小料理屋なのだ。
【2】 数日後、菊の予感は現実のものになった。昼間、店に現れた青年は、決まりが悪いのかやや憮然とした顔を崩さぬまま、回りくどい謝罪と共に、菊に赤い薔薇の花束を渡した。菊はお礼をいって、薔薇の花を花瓶にかざる。飲食店であることを考慮してか、薔薇は香りのすくない品種であるようだった。「こちらはおつりです」 「迷惑料だ」 「それにしてもいただきすぎです」 「いらないなら捨ててくれ」 「それはちょっと……」 「いいから受けとっておけ」 「ああ、でしたら」 菊がにこやかな笑みを浮かべる。 「……なんだよ」 対する青年は軽く顎を引き、菊の笑顔から一歩引いた態度をみせる。 「ご勤務先は、この近くですか?」 「……それがどうした」 「では、ティータイムのお休み時間にでもぜひお立ち寄りください」 「……忙しくなかったらな」 ぼそりと言い捨てると、青年は店から出て行く。小路から出て行くのを見送ると、菊がたすきをかける。お茶の時間は、三時。青年の再来店を見越して用意していた材料が、無駄にならなくてすみそうだ。 小料理屋菊は、様々な状況や店主のそのときの気分に合わせて、不定期だがランチやカフェタイムに店を開けることがある。大勢の客が訪れることもあるし、たった一人しか来店しないときもある。 今日は後者であり、菊の店は、かの青年のためだけに開かれる。 青年は、三時十五分を回った頃に現れた。ドアを開けた瞬間に漂う甘いジャムの香りと香ばしい菓子の匂いに、青年の表情がはっきりと変わる。だが青年は、その表情の変化をすぐに渋面で覆い隠す。 「いらっしゃいませ」 菊がカウンター席へ座るようにと、青年を促す。青年は黙って、カウンタースツールに腰をかける。 五分ほどして、菊がカウンターから出て来た。トレイの上には、白いティーセットとジャムとクロテッドクリーム、そしてほかほかと湯気を立てる焼きたての菓子が乗っていた。青年の前に、菓子とティーポットが置かれる。 「どうぞ」 「頼んでない」 菊が微笑む。 「これは答合わせなのです。つきあっていただければと」 「……リドルを投げかけた覚えはないぞ」 「いいえ、あの夜にあなたはなぞなぞを私にかけました。ですから、私としては成否をいただきたいのです。そして私の答が、あなたのお口に合うかどうかを知りたいのです」 「…………」 青年が、目の前の菓子に視線をそそぐ。ふっくらと膨らんだ黄金色の菓子が、真ん中からぱっくりと割れている。見事なオオカミの口だった。サイズも大ぶりの、それは、青年が愛してやまない故郷の菓子――スコーンであった。 これならば……もしかして……そんな期待が、青年の顔をよぎる。だがすぐに軽く首を振る。この国の料理は、何でも美味しい。だがこの菓子だけは、どうにも駄目なのだ。どこの店で食べても、口当たりが柔らかすぎる。ケーキやマフィンのようにほわほわでしっとりとしているか、ソフトクッキーのようにやわらかい。そんな歯触りを、味を、青年はこの菓子に望んではいなかった。 ああ、でも……この香り……この見た目……。 故郷で良く通った店のそれに良く似たスコーンに、青年が手をのばす。そっと広げると、オオカミの口を境にして二つに割れた。濃厚なクロテッドクリームを塗るというよりもたっぷりと乗せて、その上に同じ量のジャムの山を乗せる。スコーンの熱でクロテッドクリームが溶けて、スコーンに染み込んでいく。青年が生唾を飲み込む。すでに青年の頭の中から、カウンターに戻った菊の存在は消えていた。この瞬間、青年の世界にはスコーンと自分しかいなかった。 恐る恐る口に運んだスコーンが、かぐわしい匂いを青年の鼻腔に注ぎ込む。香ばしい小麦の香りと濃厚なクリームとしっかりと甘いジャムの香りが入り交じった、懐かしくも美味しい香りに、たまらず一口かぶりつく。 青年の動きがとまった。だがそれは一瞬のことだった。口が動くのに合わせて、青年の顔の強張りが、ホットケーキの上のバターのように溶けていく。スコーンにかぶりつく青年の顔から、完全に仏頂面が消えていた。外はビスケットのようにかりっとして香ばしく、中は焼きたてのパンのように弾力がありつつ、日向で干したばかりの羽布団のようにふかふかしている。ケーキでもなく、マフィンでもなく、ソフトクッキーでもない。青年が渇望していたスコーンがここにはあった。 陶然とした表情で、二つのスコーンをポットの紅茶と共に綺麗に平らげた青年が、満足げに息を吐いた。完食であった。 「ありがとうございます」 菊の呼びかけに、青年が夢から覚めたように顔をあげる。カウンターの向こう側で微笑む菊と目が合った。青年がうろたえ、それから視線をそらした。 「なんで……お礼なんか……」 「はい。お口にあったようなので」 「そりゃ、まあ……」 青年がごにょごにょと口の中で何かつぶやいている。顔がうっすらと赤いのは、完全にスコーンと二人の世界に入っていたことが恥ずかしいのだろう。しばらく、視線を合わせずにいた青年が、ぼそぼそと菊にたずねる。 「どうして……わかったんだ」 「そうですね……」 菊がゆっくりと語りはじめる。 「最初は流石にわかりませんでした。ですが……」 菊が掌を広げてみせる。 「私の手を握って、“こんなあたたかい手じゃ作れない”とおっしゃいました」 青年が決まり悪げにうなずく。残念ながら泥酔してはいたが、記憶はある。 「そこで、うっすらと何かがひらめいたのです。ですが私の頭の中の知識だけでははっきりしなかったので、少し調べ物をしました。なぞかけの言葉は“あれじゃない”“あたたかい手”“作れない”。最大のヒントはあなたの言葉遣いそのものでした」 「俺の……言葉?」 「はい。酔っていても見事なクィーンズ・イングリッシュでしたので」 すぐにイギリスの方だとわかりました、と菊はつづけた。 「さきほどのなぞかけの言葉、小料理屋で“作る”という発言、加えてイギリスの方が愛してやまずしかも日本ではなかなか見つけられないもの……それらを総合して出て来た答は――今、あなたのお腹の中にありますね」 青年が自分のおなかを見下ろし、それから菊の言葉に釣られたのが面白くかったとでも言うように、仏頂面になる。このイギリス人の青年にとっては、面白くなさげな顔がデフォルトのようだ。菊にとって笑顔が通常運転のように。 「お前に作れるとは思っていなかった」 「それは、“あたたかい手”ですか?」 「……ああ」 青年が短くうなずいた。菊がふふっと笑う。 「失礼しますね」 菊の指先がそっと青年の手に触れた。 「!」 青年が思わず手をひっこめる。 「なんで……」 驚きに目を見ひらいたままの青年に、菊がゆっくりと笑む。 「あのとき、梅湯を作って温度を確かめた直後だったので、手に湯の温度が伝わっていたのですよ。普段は、あなたが驚いたとおり、とても冷たいのです」 「…………」 青年が睨むような目つきで、菊の手を凝視する。 「スコーンの材料は、小麦粉とベーキングパウダー、牛乳と卵と……そしてバター。どれも冷たくしておかなくてはいけない。特にバターは」 菊がうたうような調子で、スコーンの材料とレシピを語っていく。 「スコーンの作り方の肝は、細かくサイコロ型に切ったバターを小麦粉と混ぜながら、さらに細かくすること。サブラージュというそうですね。それを怠ると、さくさくとした食感が出せない。フードプロセッサーで小麦粉とバターを一気に切り混ぜる方法も紹介されていましたが、手で擦り混ぜるのとはまた違った手触りになりますね」 「試したのか?」 「はい。フードプロセッサーで切り混ぜるとふんわりとした感じがなく、さらさらとした粉雪のようになりました。こう…粉の周りに空気とバターが包み込むようになるには、手でやるのが一番だと感じました。そして……」 菊が青年の顔を見る。 「この一連の作業の中でバターに手の熱が移って、溶けないようにするには、何よりも冷たい手が大事なのですね。ですから、あなたはあたたかい手では作れないとおっしゃった」 「……ご明察」 よくもまあ、あれだけのヒントでそこまで辿り着くものだ。そんな感情が入り交じった皮肉げな青年の声にも、菊は一切動じず丁寧に頭をさげた。 「いたみいります」 菊の態度に、青年はふんと顔を横に向け、席を立った。 「またおいでください」 菊の呼びかけに応える声はなかった。だがこの後、仏頂面のイギリス人の青年――アーサー・カークランドが、菊の店の常連客になったのはいうまでもない。
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