幸せの味(水月樹里恵様)米/英・仏


 おなかすいた。

 そう言って泣きじゃくる天使を前に、菊はオロオロと視線をさまよわせた。
  泣いているのは、最近近所に越してきたばかりのアメリカ人の少年だ。
  彼と菊の父親は、生まれた国こそ違えど、学生時代を共に過ごした友人同士で今でも異常に仲がいい。
  仕事の都合で日本への赴任が決まった際、旧交をあたためようと真っ先に菊の家の周辺に不動産を探したというのだから、彼らの行動力には驚かされる。その国境を越えた友情には、いっそ感動すら覚えるほどだ。

 そのせいもあって、運悪くたまたま冬休みで家にいた菊は、気づけば、いつの間にか仕事で忙しい親達の代わりに幼いこの子の面倒を見ることになっていたのである。

 だが、困ったことにお菓子やジュースを与えても、お気に入りのぬいぐるみであやしても、一向に泣きやむ気配がない。
  日本語が通じるのがせめてもの救いだが、上手くコミュニケーションが取れているかと言われると実に微妙だ。

 菊はどうしよう、と顔を歪ませた。

 子供は苦手だ。自分の感情を抑えられない、小さな子供は、特に……―――。

 元来、内気で人付き合いが壊滅的に下手くそな菊は、こういった事態に慣れてはいない。子供とはいえ、家族以外で誰かを相手にするのは随分久しぶりのことだ。
  それでも菊は、半強制的に押し付けられた子守の任を、決して投げ出したりはしなかった。
  互いの両親が不在の今、この子が縋り頼れるのは、側にいる菊だけだからである。

 海を渡ってやってきた、小さな天使。
  金の髪と青い目の、お人形のような異国の少年。
  この子を守れるのは、自分だけ。

 そのガラス玉みたいな綺麗な目からポロポロこぼれる涙を見つめて、菊は唇をキュッと引き結んだ。

 大丈夫。大丈夫、泣かないで。私が今すぐおいしいもの作ってあげる。だから泣かないで。

 菊は小さな体をそっと抱きしめると、視線を合わせて微笑んだ。思い起こせば、笑うという行為自体が久方ぶりで、頬が引きつったような変な顔になった。そんな自分が情けなくて、恥ずかしかった。
  それでも、少しでもこの気持ちが伝わればいいと、菊は手を伸ばしてまっすぐ触れた。その白く柔らかい頬を両手で包み込み、指で涙を拭ってやれば、大きな瞳がパチリと瞬く。

 ほんとうに?と不安げに揺れる青い瞳に、菊も本当です、と頷き返す。
  実際は、菊に自炊の経験など数えるほどしかない。だが、こうなったらもう、何が何でもやるしかない。初心者上等。なるようになれ、だ。

 無言で見つめ合うこと数秒間。
  菊の必死な想いが届いたのだろうか。天使は漸く、ふわりと微笑った。

 きく、だいすき。

 そう言って胸に飛び込んできた小さな温もりを、菊は力いっぱい抱きしめた。
  その瞬間、常に空虚だった菊の心に、確かな感情が芽生えて灯った。
  優しくてあたたかくて、そして、少しだけ、どこか切ない。
  それは何物にも代え難い、溢れ出るような愛おしさだった。

 

 

 

 ビルの谷間を吹き抜ける冬の夜風に身を竦めながら、本田菊は小走りにその道を駆けた。

 大使館が乱立する東京都のオフィス街、その片隅に菊の経営する小料理屋はある。
  過去にまあ、いろいろあって、数年前に勢いで始めた飲食業だったが、思いのほか性に合っていたらしく、客足は常に絶えず常連客も多い。この不況の時代にありがたいことだ。
  店を始めた当初は、正直やる気のなかった菊も、今では天職だとさえ感じている。
  人生、いつだってそんなもんである。

 所要で一時間ほど店を離れていた菊は、白く灯った提灯代わりの店のランプが目に入ると、気持ちだけ前へと足を速めた。
「ただいま帰りましたあっ。遅くなってスミマセンっ」
  白い息を切らして入口の引き戸を開けた菊は、そこでおもわずピタリと歩みを止めた。
  店内に足を踏み入れた瞬間、ヒーターの暖かな風と一緒に、どこか懐かしい、食欲を誘う香ばしい香りがぶわりと漂ってきたからだ。
「おかえりー」
  そう言って、菊を出迎えてくれた声は三つ。
  カウンターのスツールに並んで腰掛けている常連客二人と、カウンター奥の厨房でフライパンを握っているアルバイトの大学生だ。
  マスターの菊が不在の間、代わりにこの店を守っていてくれた彼は、カウンター越しに菊を見て、柔らかに微笑んだ。
「寒かっただろ?すぐにあったかいお茶用意するね」
「ありがとう、アルフレッド」
  菊も微笑み頷いて、脱いだ上着をハンガーに掛けた。
  その下に着込んでいるのは、濃紺の着物に割烹着という、菊のいつもの仕事着だ。
  とりあえず一息つこうと、菊は空いているL字カウンターの角のスツールに腰掛けた。アルフレッドが手際よく煎れてくれたお茶をすすれば、優しい温かさが胃から全身に染み渡る。穏やかな安堵に、菊は小さく息をこぼした。
「どこ行ってたんだ、マスター?」
  話しかけるタイミングを計っていたのだろう。常連客の一人が、くつろぐ菊へと視線を向けた。
  近所の花屋で働いている、アーサーという名のイギリス人で、絵に描いたような金髪碧眼の立派な眉毛の青年だ。
「町内会の夜警の打ち合わせです。大晦日が近いので」
「夜警?夜警って、もしかしてあの、火のおぉぉおー用心!カンカン!てヤツ?」
  すかさず話題に食いついてきたのは、もう一人の常連客のフランシスだ。
  彼は、肩にかかる長さの緩やかな金の巻き毛と顎髭がトレードマークのフランス人の美丈夫だ。自他共に認める女好きだが、大の親日家である彼は日本の伝統文化やサブカル、民俗学にも精通しており、見かけによらずとても博識なのである。
  アーサーとは腐れ縁らしく、よくこうして連れ立っては呑みに来てくれる。
  菊は彼の質問に首肯で答えた。
「ええ、そうです。よくご存知でしたね」
「まあね。現代ではあまり見られなくなったって聞いてたけど、この辺まだやってるんだ?」
「はい。毎年、町内会の各班の班長さん達が集まって、当番制で見回ってるんです。今年は、私がウチの班の班長なので」
  これが少しでも犯罪の抑制に繋がればいいんですけどね。
  菊はため息混じりにそう呟いて、あたたかい湯のみへと口づけた。
「夜警って何だ?レンブラントでも飾るのか?」
「バカ。それは絵画でしょーが」
「うるせえクソ髭!俺はマスターに訊いてんだ!」
  二人のコントのようなやり取りに、菊はクスクスと微笑する。
「夜警というのは、そのまま危険な夜間の警備をするという意味ですよ。正しくは、歳末夜警。年末には放火や窃盗などの犯罪が起きやすいので、新年まで油断せずに気をつけてくださいね、という、いわゆる防犯対策の一環です。基本的には、先ほどフランシスさんがおっしゃったように、火の用心、と声を上げて、十数人でご町内を数回、巡回します。両手に一本づつ握った拍子木をカンカン、と打ち鳴らしながらね。まあ、こういうのは地域性もありますし、必ずこうだという断定はできませんが」
  警察や消防局もやってるはずですしね、と菊は付け足した。
「確か浅草の方では、火の用心の掛け声の後に、しゃっしゃりませ!って言うんだよね」
「ええ。しゃっしゃりませ、というのは、なさいませ、という意味だそうです」
「つまり、火の用心なさいませ、ってことだな」
  アーサーは胸の前で腕を組むと、思考するように頷いた。
「夜道は暗いし危ないから、今年の夜警は俺が行くって言ってるんだけどねえ」
  自分で行くってきかなくって、とアルフレッドがこれ見よがしにため息を吐く。
  そして彼は、ゴトリ、と音を立てて大皿を置いた。
  その瞬間、菊意外の二人は、呆然と目を丸くしてそれを見た。
  三人の前に差し出されたのは、大皿いっぱいに盛られたごく普通の焼き飯だった。
  菊の予想が正しければ、中の具はおそらく、九条葱と竹輪のみ。味付けはシンプルに塩胡椒。
「なんだコレ!?」
  最初に声を上げたのはアーサーだ。
「何って……、アルフレッドスペシャル?」
「いやいやいや!もっと違うの出来るでしょうよ!よりにもよって何でコレなの!?」
「なんとなく。気分?なんでもいいから美味しいもの作れって言ったの、君達じゃないか。腹が減ってて菊が帰るまで待ちきれないからー、って」
「だからって、いくらなんでもコレはない……」
「はい、ソース!お好みでウスターソースをかけてお召し上がりください!」
  フランシスの指摘にもまるで動じず、アルフレッドは黙々と人数分の取り皿を配り、ソースのビンをカウンターへと置いた。
  呆気に取られる二人とは裏腹に、菊の顔はふにゃりと緩む。
「お二人が召し上がられないのなら、私がいただきましょうかねぇ。意外にけっこう、美味しいんですよコレ」
  そう言って大皿へと手を伸ばす菊に、二人は「そうなの!?」と声を揃えた。本当に仲のいいことだ。
  大皿から適量を小皿に取り、それにウスターソースを少しだけかける。
  何故ソース?と思われるだろうが、実は塩胡椒だけの薄い味付けに、ソースの酸味と辛みがとても合うのだ。
  白い湯気を立てる出来たてのそれを口に含めば、焼いた青葱の香ばしさとともに、懐かしい味と記憶が鮮やかに蘇っていく。肉や卵ではなく具が青葱と竹輪なのは、遠いあの日の冷蔵庫に食材がそれしかなかったからだ。
  歳は十近く離れているが、アルフレッドと菊はいわゆる幼なじみというヤツで、彼が小さい頃から、多忙な親達の代わりに菊がずっと面倒を見てきた。
  当時は菊も学生の身だったが、一通りのことはやったように思う。
  遠足の弁当を作ったり、学校の宿題や勉強を教えたり、体操服のゼッケンをつけてあげたり。
  アルフレッドと過ごした時間は数え上げたらキリがない。
  そしてこのシンプルな焼き飯こそが、菊が彼に作ってあげた一番最初の料理なのである。

 大人になった今でもアルフレッドに強請られては時折作ってやっているが、彼が自分でも作れるなんて初めて知った。なんとも嬉しい驚きだ。

「あ。ホントだ美味い」
「おい!お焦げの部分、こっち寄越せ」
  ふと隣を見れば、いつの間にか例の二人も、それぞれに焼き飯へと手を伸ばしている。思ったより好評のようで、なんだか妙に照れくさい。
「菊」
  呼ばれた声に顔を上げると、宝石のようなアルフレッドの青と目が合った。
「味、どう?美味しい?」
  カウンター越し、菊に感想を求めてくるアルフレッドの声はひっそりと小さく、随分と緊張しているようだった。
  心配そうに揺れる青い瞳に菊は口角を持ち上げる。
「美味しいですよ。レシピなんてないのに、ちゃんと私の味です」
「ホント?よかった……」
  アルフレッドは脱力したように、安堵の息を吐き出した。
「でも、いつの間にアルフレッドスペシャルなんて名前になったんです?」
「う。引っかかるのそこ?別に、どこも間違ってはないんだぞ。これはあくまで、俺が作った模倣品なんだから」
  俺にとっての本物は、菊の作ってくれるごはんだけだよ。
  そう言って、眩しげに目を細めるアルフレッドに、不覚にも菊の心臓がドクリ、と跳ねた。
  赤くなった頬を見られたくなくて、少しだけ俯き視線を逸らす。
  最近のアルフレッドは、時々、こんなふうに大人びた顔をする。
  小さい頃はあんなに可愛かったのに、今ではスッカリ、縦横デッカイイケメンだ。
  女の子にモテるんだろうなーとか、変な女に引っかかってなきゃいいけどーなんて、ついつい小姑のように思ってしまう。
  なんとなく、それを想像すると面白くなくて、菊はその先の思考を打ち消した。
「ふーん。まあ、いいでしょう。そういうことにしといてあげます」
  ですが、と菊は続ける。
「いくら美味しくてもアレは所詮、私ら二人の賄い飯というか、ただの家ごはんですからね。申し訳なくて、とてもお代はいただけませんねえ」
「そうだねえ。でも、そこは一つ、可愛いバイトが作ったつきだしってことでっ!ねっ!許して?」
「はいはい」
  調子のいいセリフに仕方がないと苦笑を返して、菊はスツールを立った。
  さあ、余興は終わりだ。この店の厨房は、本来、菊の戦場なのだから。

「お二人とも、焼き飯だけじゃ物足りないでしょう?すぐにお料理とお酒、ご用意しますね」
  ちょうど今朝方、新鮮なベニズワイガニが島根から届いたところなんです。
  立ち上がり様にそう言って、菊は猫のように艶やかに微笑った。

 

 

 

 おなかすいた。

 そう言って、アルフレッドは感情にまかせて、わんわん泣いた。
 
  数日前、父親の仕事の都合でアルフレッドは、母国であるアメリカを離れ、両親に連れられるまま日本へとやってきた。

 ある日突然、無理やり放り出された異国の地で、幼いアルフレッドは世界の全てに恐怖した。

 ここには仲のいい友達は一人もいない。いつも優しいナニーもいない。
  両親は常に忙しく、アルフレッドのことなど気にも止めない。
  その証拠に、アルフレッドの両親は、父の親友だという日本人の家にアルフレッドを一人置き去りしたまま、さっさと仕事に出かけてしまった。

 今、アルフレッドの側にいるのは、その家の一人息子だという、十ほど歳上の日本人だけだ。

 アルフレッドという面倒ごとを押し付けられた彼は、泣きわめくアルフレッドを、ただだだ無表情に見下ろしていた。
  きっと彼も、アルフレッドのことを疎ましく感じてるに違いない。
  お荷物なアルフレッドは、いつだっていらない子なのだから。

 おせんべい食べますか?

 唐突に訊かれて、アルフレッドは首を左右に降った。
  アルフレッドが食べたいのは、故郷のナニーが作ってくれる焼きたての優しいアップルパイだ。

 ほーら、クマさんですよー。泣いたらウサギさんになりますよー。

 お気に入りのテディベアに勝手に触れてきた日本人の手に、アルフレッドは力いっぱい噛みついた。

 彼の左手についた歯形から、赤い血の玉がプクリと浮かんだ。アルフレッドは咄嗟に両目を瞑った。悪いことをしたと思った。殴られると思った。でも彼は、怒らなかった。

 私の名前はきくですよー。この花の名前と同じです。女の子みたいで変でしょうー。

 彼が広げた植物図鑑には、凛とした黄色い花がフルカラーで描かれていた。
  アルフレッドは、図鑑よりも彼の左手が気になった。巻かれたばかりの白い包帯。その痛々しさを目にすれば、余計に目尻に涙が浮かんだ。

 悲しくて。寂しくて。
  どこまでも子供で、非力な自分が情けなくて。
  このまま消えてなくなれたら、とアルフレッドはポロポロ泣いた。

 そんな時、誰かがアルフレッドの頬に両手で触れた。
  言うまでもなく、相手は例の日本人だった。

 大丈夫。大丈夫、泣かないで。私が今すぐおいしいもの作ってあげる。だから泣かないで。

 そう言って、顔を歪めて彼は微笑った。
  顔中を引きつらせたようなその笑顔は、お世辞にも上手いとは言えなかった。でもアルフレッドは、それをとても綺麗だと思った。

 本当に、と聞けば、本当ですと答えてくれた。壊れ物を扱うように、優しく両手で抱きしめてくれた。
  その不器用な彼の誠実さと温もりに、アルフレッドは初めて本物を知った。

 少しして、彼が作ってくれたのは、見たことのない食材の入った、不思議な焦げたライスだった。
  ごめんね味が薄かったかもと、彼がその上にソースを垂らす。

 これは何ていう料理なの?
  スプーンを片手にアルフレッドは尋ねた。
 
  菊スペシャルです。
  彼は答えて、無表情に箸を動かした。

 アルフレッドもスプーンを動かしライスを食べた。

 美味しかった。
  美味しくて美味しくて、涙がまた出た。
  味も見た目も違うのに、ナニーのアップルパイに似てると思った。
 

 優しくてあたたかくて、そして、少しだけ、どこか切ない。
  それは、幸せの味だった。

 

 

終。

 


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