※ご注意
・2010年5月3日発行の個人誌『花は鉄路の盛り土の上にも咲く』の部分的再録です。連作。
The long and winding road 1:西日
The long and winding road 2:普日
The long and winding road 3:仏日
共通設定として本田さんは高校生、同級生アーサーさんと友達です。
―――またか。
樺と思われる林の中に立っていることに気づいた菊は、がっくりと項垂れた。魔法を使うなら使うで、もう少し精度を上げてくれないものか。ただ夜露が肌寒く思わせるだけじゃない、この植生は確実に東京より高緯度だ。せめて、また外国だったり――また戦争中だったりしませんように。
あ、これフラグ?と思いながら下草を踏み分けて進んでいくと、丸くあいた空間に出た。月光がステージのように照らすそこに、蹲るようにして男性が膝を抱いていた。額をその膝につけているので表情までは分からない。しかしそれでも分かる彫りの深さは、ただ座っているだけの彼を塑像のように見せていた。
圧倒的な芸術を目にしたように菊は息をも殺してじっとその姿を見ていた。と、ぐうう、と彼の腹が鳴った。
「あ」
「…あ?」
思わず漏らした声に、男は顔を上げた。細身の体によく似合ったスーツを着ている。クラシカルなデザインだけど、それが小粋でもある。
「誰だ、お前」
ああ、この質問に対する答えを用意しておけばよかった。
「本田菊といいます。怪しいものではありません。ええと……風来の日本人です」
「なんだそりゃ」
不審そうに眉を寄せたが、どこがなのだろう、その答えが気に入ったらしく、彼は警戒を解いたように小さく笑った。場所を許されたようなので、菊は彼の前に座る。
「…どうぞ」
ジャージのポケットからチョコレートを取り出して差し出す。青年は軽く手を挙げて礼を示し、チョコレートを口に放り込んだ。そして「おお」と小さな声を上げる。
「本物のカカオだな」
菊は思わず笑った。本物って。
「偽物かと思ったんですか」
「今ここいらで出回ってるのはほとんどそうだろ。イナゴ豆だのグルテンだの。コーヒーも香りのねえやつばっかり。全く、戦争なんてすんじゃねーよ」
冗談ではなかったらしい。
「……戦時代用食、ですか……」
やはりフラグだったか。あの怪しい魔法の支配下にあるときに滅多なことは考えないようにしなければ。
「つかぬことを伺いますが、『今』とはいつで、『ここ』はどこでしょう…あ、その前に貴方はどなたですか」
彼はまた面白いものを見たようににやりと笑い、ついと腕を伸ばして菊の頭をくしゃりとなでた。
「な、なんでしょう」
くしゃくしゃと、なでるというよりはもはやかき乱すというレベルまで菊の頭をいじり倒して、青年は笑った。
「俺は、ギルベルト・バイルシュミット」
ギルベルト。ギルバートでもジルベールでもなく、ギルベルト。どれがどの言語の呼び方という知識は無いが、雰囲気から言えば、
「ドイツ……ですか」
彼はまたにやりと笑った。
「おう。間違っても、第三帝国なんかじゃねえぞ。ただのドイツ、だ」
「ああ……」
その時代か。
「日本人って言ったか」
「はい」
「じゃあ、お前のところでもジャズは禁止か」
「は?」
一瞬遅れて気づき、菊はぽんと手を打った。『敵性音楽』、だ。第二次世界大戦中、日本でもドイツでもイタリアでも、アングロサクソン的な文化が規制されたという。それの意味するところを悟って菊はしばし言葉を失った。既に四〇年代に入っているということだ。『今』、アントーニョは生きているだろうか。チョコレートあげたかったな、とちらりと思う。
「あの……私はちょっと特殊といいますか…その規制はおよんでおりませんで」
どうしよう、二百年未来の人間ですから、と言って通じるものだろうか。
「じゃ、踊れるか?」
「は?」
目を丸くした菊の手をとって、いきなりギルベルトは立ち上がった。菊の両手を掴んだまま、口笛を吹き、それにあわせて軽いステップを踏む。前に出られれば菊も後ろに下がるしかない。ステップというよりは蹈鞴を踏みながら、菊もなんとかギルベルトの動きに合わせて体を動かした。聞いたことのあるメロディだった。この歌が、映像の添え物ではない時代があったのだなあと思いながら、菊はギルベルトの目を見ながら踊った。佳境に入り、ギルベルトはにやりと笑って、逆手を握ったまま菊を強く突き放し、すぐに強くひいた。うわ、まじか。あれか。そう思いながらも、空気を読んで、菊は引力に任せてくるくるとその腕に抱き取られた。ギルベルトはそこで口笛をやめ、また菊の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。
「かわいいな、お前」
「……貴方はむちゃくちゃです」
腕の中から脱出して、髪を指で梳きながら菊はぶすりと言った。現代のダンスだってしない・できない人間に、こんな激しい運動をさせるとは。
「十四くらいか?」
失礼な。
「十七です」
「ああ、まあ、そうか。言い回しが年寄りくせえもんな」
それはそれで、失礼な。
「ギルベルトさんは、随分踊りこんでらっしゃるようでしたね」
婉曲語法で質問してみる。「も」ということは、この国でもこうした音楽は禁止されているのではないのか?
「かっこよかったか」
「自分の動きで精一杯で、見てないです」
「ホールじゃ一番上手かったんだけどな」
そう言って、両手で髪をなで上げる。そうするとまた雰囲気が違って、いかにも大人らしく見える。こんなむちゃくちゃな扱いを受けていなければ、かっこいいと思うだろうくらいに。
ただ、やはり、意外でもある。
「察するに、こういう言われ方はお嫌いかと思うのですが……ドイツの方がジャズを好むとは思いませんでした」
菊のステレオタイプ・ドイツイメージとは色々とかけ離れている。
「スウィングやってた奴には、本気でアメリカがかっこいいとか思ってたのもいるけどな。俺は、ユーゲント的な団体行動が苦手で、別の道でかっこよさを追求しただけだな」
「あー」
納得、という声を出した菊を軽くこづいて、ギルベルトは腰を下ろした。菊も隣に座る。
「ジャズがかっこいい、から入れば、それを生み出したのは黒人で、育てたのはアメリカ白人だろ。ユダヤ人だって聞くわけだ。アーリア民族がどうこう言われても、なあ」
弟なんかは生真面目だから、きちっとユーゲント活動やってるけどな。ギルベルトはそう言って手を後ろについた。中空に泳がせた目は、わずかに眇められている。
「ラジオの総統演説なんかは『はい、はい』で流して、ひたすら踊りまくってたんだけど」
「…過去形、なんですね」
その過去形は、つまり、一つの対抗文化の終わりを意味するのだろう。
「ホール、潰されちまったからなあ…」
彼は目を閉じた。そしてそのまま、小さく呟く。
「召集されちまったし」
ぎょっとして振り返ったが、彼は目を閉じたままだった。そうしていると、温度のない陶器の置物のようだ。
「さみーのと腹へるのは苦手なんだよな」
菊はぎゅ、とジャージを掴んだ。東部戦線、それがどんなに冬将軍に痛めつけられたか。
「お前は、集団行動得意だろ」
にやり、とその目が細く開く。
「…どうしてですか」
「周りに合わせそう、つうか、流されそう」
振り回した貴方が言いますか。ちょっとむっとして、しかし真面目に考えて菊は答えた。
「……得意、で、苦手、です」
ふうん、そんな顔でギルベルトは菊を見た。
「できるけど、ストレスってことか。…そういうものなのかもな」
分かってもらえるとは思っていなかったので、少々驚いた。顔に表れていたらしいその驚きにギルベルトは苦笑して続けた。
「俺も、多分、同じだ。上手くやれると思う、けど、続けていける気がしねえ。『俺』が埋没することも、……人を殺すことも」
ジャージを掴んだ手の下で、心臓がとくりと鳴った。戦争とは「死にに行くもの」、教育によって菊はそう思い込んでいるが、「殺しに行くもの」でもある。
だけど。それでも。
「…生きて、帰ってきてください」
思わず袖を掴んで、そう言っていた。
人間の想像力には限界があって、「知覚できる範囲」外の人の不幸は、散文的にしか受け止められない。それは克服すべきことではあろうけれども、見知った人の去就こそ気になるという心の動きは止めようがない。見知って、しまった。政治的無関心で、「不良青年」で、それでも多分優秀なドイツ軍兵士となるだろう彼が、戦に身を投じる前に、月光の下、自分を抱きしめる姿を。
軍隊という集団の中で、そして膨大な人の死の中で、失われる彼の固有名。
それを最初に尋ねたから、多分彼は、少し心を許してくれたのだ。
ギルベルトは答えず、にっと笑った。
「あ、そうだ」
彼は胸ポケットに手を入れ、何かをつまみ上げた。そして菊の服をまじまじと見て、呆れたようでため息をつく。
「ボタン……がねえのな、その服」
「はあ、まあ」
「しょーがねーな。手、出せ」
素直に掌を差し出すと、ギルベルトはその上に白い花をかたどったピンバッジを落とした。ボタン穴にとめるものらしい。
「知り合いに貰ったんだけどな。お前にやる」
「え」
それは、どうだろう。自分の世界に持って帰られるものなのか。それに。
「……全くの、第一印象ですが」
「あ?」
「これ、貴方にお似合いです」
虚を突かれたようにギルベルトはそのバッジを見つめた。
「ええと、花の感じが」
「…ふうん」
その「印象」をギルベルトは気に入ったらしい。目で期待されたので、菊は、そのピンバッジを襟の折り返しにつけてやった。
「ふうん…」
くすぐったそうに笑い、ギルベルトは菊の髪をくしゃっと撫でた。
*
「あの」
「なんだ」
「こういう花、知りませんか」
幼なじみには、他に知られざる趣味がある。園芸だ。傲岸不遜、踏みつけられる存在など気にもしないという空気を醸し出しながら、彼は生け垣の薔薇に名前をつけていたりする。
ノートにさらさらと白い花の絵を描くと、立派な眉がひそめられた。
「えらくデフォルメされてんな。でも、多分エーデルワイスだろ」
「ああ!」
名前だけはよく知っている、高山植物だ。
「なるほど…」
アルプスの山中に咲く、孤高の、高貴な、白。
「…なるほど」
深く頷いた菊に、「だからお前はどこに行ってんだばかあ!」と怒鳴り声が響いた。