胸の底に貴方の呪い


 

※ご注意
・'10年12月29日B様発行の露日アンソロジー『RJ』寄稿分の再録です。

・以下注意書きにしてネタバレです。
(1)(国×国)+(国×人:パラレル)です
(2)歴史的事実を書き込んでいます
(3)(2)は快い話ではありません
(4)よって本作も設定に重さを持っています
(5)話の展開のために敢えてする歴史的事実の無視・改変があります
(6)ヘタリアキャラではない人物も出てきます
(7)死人もでます

苦手な方はお戻り下さい。


 

 

    

―― Amo estas ler lasta key ler prej alter,al kiu la homa ekzistenco povas alflugi.


 


夢にまで見たヤポンスコエ・モーレの波を分けて船は進む。少しずつ彼から遠ざかっていく。
彼の声が耳の奥で蘇る。その声音は柔らかく、その腕はあたたかい。にもかかわらず、その予言は呪いとなって菊を縛る。

バイカル・アムール鉄道はイルクーツク州タイシェントからソビエツカヤ・ガバニまでの約4000キロを結び、永久凍土の中をシベリア鉄道と並行して走る予定の第二鉄道である。この沿線地域では、極寒期にはマイナス50度に至り、睫をも凍らせる。鉄道が南をかすめるサハ共和国には声が凍るという民話がある。春になるとその声が溶けて数ヶ月前の言葉があちこちから聞こえるというのだ。女達はその歌声を凍らせ、その固まりをペチカで溶かして人を楽しませたと、そんな話が多少の真実味を持つほどに、全てのものが凍る。
アルマ・アタでも零下40度の日々はざらであった。
菊の隣の寝台にいた男は薪(タポール)をうっかり素手で掴み、その瞬間、掌が薪に密着し、なんとか引きはがした結果、掌全部の皮膚を奪われたという。通常作業ができなくなった彼は、いつの間にか消えた。掘ることもできない凍土に埋葬はできず、いつも死体は俘虜収容所(ラーゲリ)の裏に裸のまま積み重ねられ、春までそのまま放置されるか、時にはソ連兵によってトラックで運ばれていった。その手つきは人形を扱うようだったが、それを批判する者はいなかった。それと変わらない扱いを生者も受けていたからである。生と死の境目は糸のように細く、脆かった。俘虜の逃亡、反乱、その他監視側の責任問題になりそうな事態を避けるため、ソ連兵は躊躇なく発砲した。「枕木一本に囚人一人」と言われたほどに、人がぽろぽろと死んでいった。ぽろぽろと。その修辞を人の死に冠することに疑問を感じる余裕もまたなかった。

太平洋戦争の終戦工作は、中立条約を結んでいたソ連へ斡旋を依頼する形で行われた。既にヤルタ会談で対日参戦を約していたスターリンはそれに応えず、1945年8月9日満州へ侵攻した。8月14日、日本政府は「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且つ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」と定められたポツダム宣言の受諾を、スイスを通して連絡、長きにわたった戦争が終わった。同19日、国境近くのジャリコーワで極東ソ連軍総司令官ワシレフスキーと関東軍総参謀長秦彦三郎と停戦交渉が行われた。
「戦後最大の空白」と言われるその日、何が語られ、何が約束されたのか分からない。多くの列席者は語らずして地下に去り、残った日露双方の当事者の証言は食い違いを見せる。
資料的に確認されていないにも係わらず「シベリア密約」の噂が絶えないのは、7月に行われた和平のための対ソ交渉要綱に在外日本軍について「賠償として一部の労力を提供することには同意す」とあるからだ。
ともあれ、8月23日、スターリンは極秘指令を発した。「極東、シベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本軍捕虜を約50万人選抜すること」。
5万人以上の死者を出した、60万とも70万とも言われる日本人のシベリア抑留はこうして始まった。

 

あ、と思った瞬間、食器を取り落としていた。手の力が、入らない、のではない。無い。テーブルにあたったアルミは軽い音を立てて回り、朝食用の薄いスープがテーブルの下へ流れ落ちる、それを菊は瞬きもせずに見ていた。ああ、たぶん、こんな風に。菊は思った。こんな風に、今、私の三十数年の命は流れ去って行こうとしている。
当局により定められた給養規定は多分誰もその量を見たこともない。肉と魚計150グラム、どころか、蛋白質は、昼食時、大豆の水煮空き缶一杯分しか与えられない。この薄いスープが与える僅かなカロリーさえ失って(再分配などもちろんなされない、内務班をそのまま引き継いだ班の中で全ての食物は黒パンのひとかけらに至るまで厳密に分配されているのだ)、多分私は今日の労働に耐えられない。
そのまま崩れ落ちそうになったところで、監視兵がこちらを向いて眉をひそめた。ああ、連れて行かれる、線のむこうに。死者の側に。
そう思った瞬間、妙にのんびりとした声が横から聞こえてきた。
「あれえ」
首を回すこともできずにいると、その声の主が正面に回ってきた。何者だろう。監視兵は彼の正体を完全に把握しているようではなかったが、ともかく彼に敬意を払い、後ろに退く。
「本田君?」
金髪の髪、菫色の瞳。そして監視兵の態度。全ては彼が何がしかの権力を持っていることを示していた。大日本帝国陸軍の中の階層秩序が崩壊したこのラーゲリで、それは何より尊重すべき価値、擦り寄るべき力だった。しかしとにかく身体を統御するためのエネルギーが足りず、菊はただ頷いた。確かに自分の姓は本田であるから。
それなのに、目の前に顔を寄せていた大男は、首を傾げた。
「なんだ、違うんだね」
違わない、と、首を振ろうかと考えて、面倒なのでやめた。
「そりゃあ、そうか。こんなところにいる筈がないね」
ロシア語のその台詞に、不躾にも苦笑が漏れた。こんなところにいる筈、が、「ある」人がいるのだろうか。ここに私たちを存在させることの正当性を、誰か説明できるのだろうか。
口端をゆがめる菊をしばらく見つめ、男はそっと聞いた。
「…ねえ、君、死ぬの?」
このままならそうなるだろう、と、菊は頷いた。
「それはちょっとつまらないなあ」
そう言って男は首を傾げ、回り込んでひょいと菊の腹を抱えた。
「うわ、かるーい」
男の呟きは背で聞いた。麻袋のように肩にかけられて、菊は目を閉じ、考えるのをやめた。

 

ぱち、とタポールのはぜる音が菊を泥のような眠りから引き上げた。ゆっくりと開いた目にはひびの入らない天井が写り、清潔なシーツの香りが鼻先に届く。お湯の沸くシュンシュンという音も聞こえる。ああ、感覚の全てが、平和だと言っている。つまり―――ここは、現実ではないのだ。菊はそう思い、五感の内もっとも常ならぬ平和を享受している触感に、つまりは暖かで柔らかな布団の感触に全感覚を傾注した。
いつのことだったろう、このような暖かさを味わったのは。
敗戦から3年あまり。菊はずっと薄氷の上に命を乗せている。
目をつぶったままの菊の唇に、ふいと触れるものがあった。驚いて目を見開くと、いつの間に寄せたのかベッド脇の椅子に先の男が腰掛けて、指を口の上に差し出していた。
濡れた指は唇の上をなぞる。ひび割れていた唇に浸透してくるのは、
「ウォッカ。毒じゃないよ、ほら」
そう言って男はその指を自分で舐めてみせる。そしてもう一度グラスの中に指を浸し、また菊の唇をなぞった。強い酒の持つ糖分が菊の身体に入ってくる。少しずつ。少しずつ。
菊は目を閉じた。
弛緩した唇に指が侵入してくる。面白そうに、と、なぜ思ったのか分からない。いつもこうはしないのだろうに、とも、なぜ思ったのか分からない。ともあれ、指は菊の口を暴くようなことはせず、ただ菊の舌を迎えた。
「噛まないんだ?」
「?」
口を開けた、そのタイミングで指は口から出ていった。
なぜそんなことを言うのだろうと菊がぼんやり見ていると、男は肩をすくめた。
「本田君なら、死ぬ間際でも僕の指は食いちぎる気がして」
「―――あの、ご自身仰ったように」
男の言う「本田君」と菊とは、
「うん、違うんだよね」
「―――すみません」
男は瞬きをした。
「なぜ謝るの?」
「お好きな方なのかと」
「だーい嫌いだよ!」
今度は菊が瞬きする番だ。そして、目を伏せる。
「―――すみません」
男は同じ言葉を口にした。今度ははっきりと面白そうに。
「なぜ謝るの?」
「嫌いな方と顔だの何だのが似ている者が目の前にいれば、不快ではないですか」
「ううん、面白い。僕を嫌いじゃない本田君って、新鮮でね」
「はあ……」
その「本田君」とは、では少なくともシベリア抑留されている身ではないのだろう。「嫌う」とは対等な関係に立って初めてできることだ。生殺与奪を握られてなお嫌悪を表明できる人などそうはいまい。「本田君」がどうなのかは知らない、とにかく、今、「本田菊」は生死の境にいる。
「…分かってるねえ、君」
考えたことを読んだかのように男は微笑んだ。
「ねえ、本田菊君。選択肢をあげる、ふりをしてあげるよ」
「……はい」
「僕は多分、退屈なんだ。僕のシャハラザードにならない?」

午後から作業に復帰した。班長の中尉にはどんな形でか取りなしがいっていたらしい。次第に彼から権力を奪いつつある若いアクティーブ(民主活動家)は胡散臭そうに菊を見たが、菊を作業から引きはがした大男の正体が分からない以上論難もしかねるようで、結局は口を噤んだ。
菊にも結局あの男の正体は分からない。兵士達が来ている外套とは少しデザインが異なるが、生地の質にそれほどの差があるようにも見えない。職業軍人ではないのだろうとは感じ取れるが党上層部や官僚の持つ特有の臭気ももっていない。ソ連兵も、逆らうことは許されないが上司にするような侍従は不要とされて、扱いあぐねている雰囲気である。先ほど菊が休息を許されていた部屋にしても、将校の部屋ではあるようだったが、とりわけ華美というわけでもない。…それでもとにかく、ドラム缶ではない作り付けのペチカがあり、暖かな布団があった!
引き受けるなら夕食の後来てね。にこりと笑った男は、イヴァンと名乗った。

「僕は、イヴァン・ドゥラークだよ」

その台詞を思い出して、少し口角が緩んだ。と、ざらりとする視線に気がつく。組んで作業をしている男がじっと顔を見ていた。手が止まっていたらしい。すみません、と軽く頭を下げる。
「おい」
「はい」
「あいつ、なんだったんだ」
「…イヴァン・ドゥラークさんだそうですよ」
男は舌打ちをした。「名前を聞いたんじゃねえよ」、そう言いながら、「ドゥラークっつうのか」と呟く。
「知人に似ていたので話をしてみたかった、ということのようです」
「ふうん」
組になっている以上、断っておいた方がいいだろう、そう判断して、菊は続けた。
「もしかしたら、夜の作業は私だけ彼の指定する内勤になるかもしれません」
「…なんの仕事だ」
菊は少し口ごもった。仕事という仕事ではない。
「何というか…彼の無聊を慰める仕事、というか」
「……」
男はいやな後味の残る目線を寄越した。

 

鉄道建設と鉱山掘りといえば過酷な労働の代名詞である。日本でも北海道での鉄道敷設には暴動寸前の厳しい囚人労働が展開された。しかし、シベリアでのそれは根底的に違うものがある。
街育ちの菊でも、親戚の畑で柔らかな土に触れたことはある。養分と空気を含んだ土は軽く軟らかく暖かだった。日本の土を綿に例えるなら、シベリアの土は鉄だ。永久凍土は、爆薬で吹き飛ばさなければ鉄路の盛り土を作ることさえできないのだ。土の上で少しだけたき火をし、緩んだところにタポールで小さな穴を開け、ダイナマイトを仕掛ける。
腕を吹き飛ばされた者もいる。目をやられた者も。使えなくなった者はいつかいなくなる。班に渡される食糧と班に課されるノルマは変わらない。寄与しない者への分配は、当然のように減らされる。
ここにいる日本人は、仲間などではない。誰もがぎりぎりのところで生の崖にしがみついていて、他者に手を差し出す余裕など誰も持たない。
イヴァンは正直だ。選択肢をくれたのではない、選択肢をやる、ふりをしたのだ。選択肢などない。改めて菊は思った。
自分一人が暖かさを享受することに、躊躇する余裕など、ないのだ。

雑穀の三分がゆを腹に収め食器を片付けた後、班長のところへ行くと「分かっている」と手を振られた。犬を追い払うように。居心地の悪い沈黙の中、菊はバラックを出て彼の部屋に向かった。どんどんとノックすると閂の開く音がし、扉が開いた。二重扉の内側で菊はこのわずかの間につもった雪を払い落とす。
部屋に入ると紅茶とジャムの匂いが漂っていた。イヴァンは掌で事務机に腰掛けるよう促した。
「どうぞ。お話してもらうんだから、飲み物くらい用意しないとと思ってね」
「………ありがとうございます」
シャハラザードはアラビアン・ナイトに登場する大臣の娘の名である。女性不信の余り、女と一晩寝ては殺す王に敢えて嫁ぎ、彼女は千と一夜、物語をしては「続きはまた明日」と関心を引き続ける。「百晩でいいや。お話を聞かせてよ。作ってもいいし、知っている話でもいい。ネタが尽きたらそこでおしまい」
簡単な仕事だ。問題は、菊の側に語り部の経験も創造の能力もないことである。
温かい、むしろ熱いくらいの紅茶のカップで指先を温めて、菊は切り出した。
「うたでも、いいですか」
寝椅子に腰掛けていたイヴァンは面白そうな顔をした。
「歌ってくれるの?」
菊は慌てた。唱歌は得意じゃない。民主運動の一環として歌わされている「インターナショナル」も「嗚呼」のところでよく半音ずれてしまう。
「いえ…それはかえってお耳汚しかと。日本の、古くからある短詩です。ちょうど百首でセットのものがあります。順々に、歌の暗唱と、覚えている限りのエピソードと…どうでしょう」
「ヒャクニンイッシュ?」
息が抜けるように言葉が漏れた。
「…ご存じでしたか」
知っていることを聞かされて、退屈を紛らわすことはできない。早くもお役ご免かと、菊は肩の力が抜けるのを止めることができなかった。
「中身は知らないんだ。そういうのがあるってだけ。有名なのは知ってるかもしれないけど…いずれにしても、それはなかなかいいセレクトだよ。僕、実はあんまり本田君のこと知らないし」
「……」
文脈のつながりは見えないが、それでも分かる、この「本田君」は菊と顔の似た誰かのことだ。「だーい嫌い」な彼を、それでもイヴァンは始終気にしている。

「あのさぁ」
沈思黙考の中、突然声をかけられて、菊はびくりとした。
「冷めちゃってない?」
紅茶のことだ。いえ、と返事して、慌てて菊は口に含んだ。酸味が口の中に広がる。
「あのね、ジャムを舐めながら飲むんだよ」
紅茶のカップの横に、小皿に取り分けられた紅い艶めきがある。見たら欲しくなると目をそらしていた「甘いもの」だった。
「君の分だから、遠慮しないで」
その言葉に、菊はスプーンの先にその塊をとり口に運んだ。途端に強い甘みと果実の芳香とが脳髄を襲う。かつて大連三越で買った舶来もののジャムより野性味のある、どっしりとした力をもったジャムだった。なるほど、紅茶と交互に味わうとその重厚さが心地よい。
ふと気がつくと、イヴァンが頬杖をついてこちらを見ていた。細められた目は菊を、いや、菊に似た誰かを見ている。菊が、菊に似た誰かが喜ぶ顔を見ている。
―――よく分からないけれども。菊は考える。イヴァンは「本田君」をどうしたいのか……嫌いたいのか甘やかしたいのか、全く分からないけれども。少なくともそれは自分にとって幸いである。顔が似ているという理由で優遇されることに引け目を感じる必要はない。顔が似ているのも偶然、この場に自分がいて「本田君」がいないのも偶然。同じような年格好なら戦場に出たはず、北に行くか南に行くかもまた偶然。時代とか国とか、とにかく大きなものが人間の上に覆い被さって、一個人の裁量範囲を越えたところで全てが決まっていった。
―――分からないけれども。全てが偶然の上にあるのだから、作為をすまい。明らかに身代わりだとしても、「本田君」のふりをする必要もないし、イヴァンの機嫌を取り結ぶ必要もない。どうせ、何が彼の幸いであるのかは分からないのだから。
希望を持たなければ絶望はしなくてすむ。徴兵以来何度も思った言葉を思い返す。

「あのね、ちょっとハードルを高くしよう。その日何番のものをやってもらうかは、その場で僕が決める」
「えっ…」
それは「ちょっと」どころではない。固まる菊に、イヴァンは天使のようにかつ悪魔のように微笑んだ。
「それでも無事百夜を過ごせたら、プレゼントをあげる」

 

バラックに戻ると、ちょうど就寝前点呼の時間だった。話が通っていたらしく、どこへ行っていたのかと詮索されることもなく、菊は応答し、寝台に潜り込んだ。毛布は一人一枚ずつ支給されている。しかし敷き布団はなく、また床面積は一平方メートル程度の割り当てしかない。底冷えのする床に直接寝転がるわけにもいかず、だいたいが二人ひと組となり、一枚をしいた上に二人が背中をくっつけて寝転がり、もう一枚をかぶる。菊と寝台組を作っている男は昼間の作業でも組になっている。お互いの身体で暖をとるパートナーであるその男は、やはりざらりとした視線で菊を見て、何も言わず横になった。うまい汁を吸う者を見る眼、なのだろうと菊は思い、背中をあわせ、きつく目を瞑った。

作業現場への行き帰り、囚人達は隊列を組まされる。五列、六列、それはその時指揮をする警備兵によって恣意的に決められるのだが、教育の行き届かないロシア兵も多く、何度も数え間違いをする。その間囚人達は木綿の防寒被服程度でひたすら待つしかない。日本の軍にも尋小卒から大卒まで様々な教育レベルの人間が存在するけれども、少なくともこの程度の算術なら誰もができる。それでも相手は銃を持つ身であり、撃つことを許された身である。いっそ笑いたいが、嘲笑すれば殺される。敗戦とはこういうことなのだと思い知らされる。誰もが爆発しそうな心と壊死しそうな身体を持てあまして小さく身体を揺する。
凍死寸前になったところで、やっと行進が始まる。列からはみ出すとそれは逃亡と見なされ、射殺の対象となる。悪しき官僚主義はこんなところに降りてきていて、ただ氷に足を滑らせただけの囚人も簡単に撃たれた。
だから、五列なら内側の三列に、六列なら四列に割り込もうと囚人達は争った。端の列にいれば死ぬ確率があがるからだ。押しのけあい、弱い者を死の近くに押しやるその争いには、悲鳴が満ちている。生きたい、生きたい、死にたくない。殺されたくない。―――ふるさとを遠く離れた、こんな場所で。
菊は行進の時いつも、鏡を見たくない、と思う。今、鏡に映るのは、人間、ではない。

「見てー」
次の晩、菊を迎えたのは満面の笑顔だった。壁に貼られた大きな模造紙には、1から100までの数字が整然と書いてある。ダーツの矢を振って見せて、イヴァンは得意げだ。
「別に銃でも構わないけど、そしたらランダムにならないしね」
そう言って、部屋の中程からえいと矢を投げる。まっすぐに飛んだ矢は、最後に少し沈み、85番を指した。
「ええと…」
菊は頭の中の頁をめくる。
「俊恵法師ですね。『夜もすがらもの思ふころは』…」
言葉を切った菊に、寝椅子に戻ったイヴァンは首を傾げた。
「どうかした?」
「時々あるのですが、これもヴァリエーションがあるうたなんです。『百人一首』の編者は『開けやらぬ』としているのですが、私が習ったのは『開けやらで』で…」
―――その光景が蘇る。もう十何年前だろうか、春二月、帝大の大講義室にはどこから漂ってきたのか梅の香が流れていた。
「どっちでもいいよ、君の好きな方で説明して」
「『…開けやらで 閨のひまさへつれなかりけり』。一晩中物思いにふけるこの頃は夜が明けなくて…寝室の隙間さえつれないのだ、という、歌です」
「『ぬ』だとどうなるの」
「夜が明けないでいる寝室の隙間さえつれなく感じられる…でしょうか」
「どっちにしても、つれないのは、明るくないから、なんだ」
「そうですね、心と同じく暗いままだということです」
「ふーん」
イヴァンは顎に手を当てて考え、しばらくして「僕も最初のがいいかな」と言った。菊は小さく目を見張る。
「なんか、小さくまとまっちゃう感じ?」
菊は思わず顔を綻ばせた。
「先生も同じ事を仰っていました」
「君は日本文学が専門だったの?」
「いえ、農林です。でも国文学の授業もとれるだけとりました」
言葉にすれば思い出される、階段教室、軋む腰板、老教授の咳払い。提示される該博な知識、新しい視角。梅の香りに春の日差し。めくられる頁、傍らに積み重ねた図書、それを収蔵している大図書館。大きくとられたガラス窓、紙魚の匂い。風景を切り取ったスナップ写真が菊の頭の中で何枚もめくられる。
―――全てがここから遠い。
菊はしばらく黙ったが、話をするのが仕事であるのだから、続けた。
「詞書(ことばがき)といって、うたに説明がつくことがあるのですが、この歌には『恋の歌とて詠める』とあります。ですから、訪れを待つ女性の心境をうたったものです」
「ああ……そうなんだ」
残念そうな響きを感じ取って、菊は思わず微笑んだ。
「そうでなくても構わないのに、と、私も思いました」
「だよねえ。もっと広く人に訴えかけられる内容なのに」
ああ、どれくらいぶりだろう、こんな会話は。菊は嬉しくなって、続けた。
「人生に苦しむ夜、何度も寝返りを打つ時、時計の針さえ恨めしく思うものですよね」
「今、そうなの?」
虚を突かれた。二、三度瞬きをして、菊はゆっくりかぶりを振った。むしろ恨めしいのは十分な休息もとれないうちに明けてしまう夜の方だ。背中を人と接して寝ている以上、寝返りをうつこともできない。そして、悩み、苦しみ、そんなものの中にはいない。その中にあった時、まだ人生は菊の手の中にあった。少なくともそう感じられた。今、菊の命は菊の手の中にない。菊の命を握っているのはソ連という国だ。悩んでも苦しんでもどうにもならない。
イヴァンはしばらく黙って菊を見ていたが、やがて立ち上がりお茶を淹れ始めた。やがて昨日と同じくジャムの小皿と温かい紅茶が差し出される。菊は軽く頭を下げてそれを手に取った。しばらく菊を見ていたあと寝椅子に戻ったイヴァンは、そのまま背を倒した。天井を見たまま、イヴァンはぽつりと言った。
「君たちは見たことがないだろうと思うけどさ…。そんな冬の夜に窓の外が薄明るいままのも、また逆につれないものだよ」
話に聞く白夜のことだろう。この人は、では、北極圏に住んでいたこともあるのだろうか。そして、君たち、とは、私と「本田君」だろうか、と頭の奥で思いつつ、菊はジャムを舐めた。

 

次の晩、矢が刺さったのは「1」だった。これは分かりやすい。
「天智天皇ですね」
「いつ頃の人?」
「彼自身は、七世紀です。…なにか?」
イヴァンの面白そうな目に気づき、菊は小首を傾げた。
「ううん。そっか、生まれる前だなあ」
「……それは、そうでしょう」
「で、『彼自身』っていうのはどういう含意?」
気づいたか、と菊は内心肩をすくめた。
「明らかに天智天皇の作ではないのです。『万葉集』にある作者不明の歌を平安朝の歌風でアレンジしたものと考えられています」
「ああ、例の先生の講義」
「…でも言ってましたが、子供の頃から違うだろうと思ってました。天皇の位にある人がなぜこんな歌を詠むのかと」
「ふうん」
「『秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ』。秋の田と言えば米の収穫です。その番小屋に泊まっていると、あまりに粗末な作りなので屋根から漏る露に私の袖は濡れるのだ、という内容です」
「ああ、なるほど。天皇という位にありながら、民草の苦労を思いやった歌、と一般には説明されているわけだ。そういうの好きだよね、ほ…日本って。施政者が庶民へ共感したそぶりを見せて一体感を誘う」
少し考えて、菊はゆっくり答えた。
「それはしかし、古今東西しばしば見られる政治技法なのではないですか?」
「そうでもないと思うよ。そもそも国民としての一体感が統治の必須要素だと考えられるようになったのはごく最近だからね」
「ああ…近代の国民国家原理ということですね。ええ…我が国でも、そういう伝承は明治になって掘り起こされ国語読本などで流布したものが多いです。そうではありますが…能や歌舞伎の題材を見ても、施政者が自分たちの気持ちをくみ取ってくれている、分かってくれている…と、思いたい、そんな願いが感じられるものがよくあります。どういえばよいのでしょう、…自分が生きる国に、想う分想われたいという感情でしょうか」
イヴァンはしばらく返事を寄越さなかった。
「『想う分』、か…。そうなのかな。想う、かな」
「想いを調達するのが近代国家でしょう」
「…そうだよね。意図的に、かき集めてるんだよね…。全然集まってる気がしない時もあるんだけど」
この人は、と菊は考えた。こんな辺鄙な場所にいるけれども、やはり施政者の側に立つ人なのだろうか、この言い方は。そのイヴァンはしばらく遠くを見る眼をしていたが、やがて苦笑して俯いた。
「貧すれば鈍する、だったっけ?」
「あ、…はい。それで合ってます」
「昔、本田君が言ってたんだよね。多分生涯一度きり、『助けて』って言われたことがあってね、まあ、そういうわけにもいかなくてあっさり見限ったんだけど、その時のことを自嘲して言ってた」
どんなぎすぎすした関係だ。菊には言葉のかけようもない。
「……本田君が血迷ったのも貧しかったからだろうと思うし、今上司がイっちゃってるのも、本当に本当に貧しいから、すごく怖くて寒くて辛くて、何も信じられなくなったからだと思う……」
そうして、しばらく黙る。
「彼は、死ななきゃ止まれない。僕が殺してあげるべきなのかな、と思う日もある」
イヴァンは平坦に聞こえるほど落ち着いた声で言った。
「……」
「話を戻すとさ、人間同士でもそうだと思うけど、想う分想い返されるなんて、あり得ないよ。自分の一番好きな人が、自分を一番好きじゃないなんて、ありふれた喜劇でしょ」
喜劇と、この人は言うのか、と菊は思った。それは一般には悲劇ではないのか。
人を好きになったことがない。少なくとも自分の中に恋愛感情を意識したことがない。この年になって嫁もいない。親兄弟からは縁を切られているし、大学を出てからはずっと外地暮らしだ。だから分からないけれども、想う人が別の人を想う、それを傍で見ているのは辛いことのような気がする。
ちらりと、思う。―――「本田君」の一番好きな人はどんな人だろう、と。

たかだか一日一掬いのジャム程度で栄養失調が改善するわけはない。しかし35キロを割るかというほどだった体重の減少はとまった。

 

そうして半月ほどが過ぎ、その日の該当番号たる情熱的な恋歌を淡々と紹介した菊に笑った後、イヴァンは「それにしてもさあ」と言った。
「よく続くよね。どこかに書きつけてあるの?」
「そんな」
苦笑してしまう。紙は貴重品だ。そんなことに使えない。
「全部覚えてるんだ?作者名やその背景も?」
「はあ…。家学として幼少の頃から教え込まれまして」
「お父さんが学者さんだったってこと?」
「いえ、あの…歌詠みの一家でして」
「ふうん…」
イヴァンは要領を得ない顔をした。
「貴族なの?」
「…日本では違う呼び方をしますが…」
それが何でこんなところにいるの。そう聞かれてしまうかと思い、菊は身構えた。が、イヴァンは別のことを聞いた。
「大学の専攻は農林で、でも国文学も…って言ってたっけ」
「はい」
「じゃあ最初から自信ありだったんだね」
「いえ、それでも、ランダム指定というのにはちょっと怯みました」
「でも君、平気そうじゃない」
にこりと笑って、
「案外、やれてます」
スリリングな頭の運動は、菊にエネルギーを与えている。イヴァンが予想以上に面白い話し相手であるからかもしれない。知的なやりとりをしているとずっと麻痺していた回路に血が通い出すのが分かる。生きている。「生きる」がただの状態ではなく、営みである、そう感じる。

軽く頭を下げて部屋に戻り、点呼を受けて寝台に潜り込む。
昔よくしていた議論の回路と、昔から全く使っていなかった感情の回路がともに回転を止められず、寝付けない。小さなため息をついたら、後ろで身動きする気配が伝わってきた。寝返りを打てば毛布の配分がずれてしまう。暖を奪われまいと毛布を握りしめたら、背後の男は背中を返し、腹側を菊の背に押しつけ、手を回してきた。「えっ」
小さな声が漏れる。まるで抱きしめられているかのような姿勢だ。それは流石に…と、手を掴んで背後に戻せば、素直に動く。寝ぼけていたのだろうとため息をつき、しかし身体の向きまでは戻せなくて、多少の気持ち悪さを感じながら回路の切断に全力を注いだ。

朝食の際、男の顔を見つめた。あれは意識的な行動だったのか?と訝りつつ。男はいつものように嫌悪感を露わにし、「なんだ、裏切り者のうらなり野郎」と小声で吐き捨てた。それは入隊以来ずっと貼られてきたレッテルで、むしろ変わらないことに菊は安堵した。

 

崇徳院の名を出したとき、イヴァンは「あ」と声を上げた。
「知ってる。怨霊でしょ」
「はい、それで有名な上皇ではあるのですが…外国の方にまで知られているとは思いませんでした」
「呪術はねー、負けないんだー」
勝ち負けの問題だろうか。菊は内心首を傾げたが表情には出さず、保元の乱とそのもととなった鳥羽帝との確執について簡単に説明した。
「『瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ』。瀬をはやみ岩にせかるる、とは、川の流れが早いので岩に堰かれ流れが二つに割れる、という意味です。その川が、それでも最後には合流するように」
わかった!というように、イヴァンが指を立ててみせる。
「貴方とまた会いたい、でしょ?」
頷いてあげたくなるような笑顔だった。
「ええと…この時代の『あふ』は、ただ顔を合わせるということではなくて、男女が、その…」
「あー」
イヴァンは軽く肩をすくめてみせる。
「そうでなくて構わないのに」
それはかつて菊が語った言葉だ。思わず微笑む。
「そうであっても構わないではないですか。恋歌なのですから」
「君に言われたくないなー」
ぶう、と頬を膨らませる。また中身に似合わない仕草を…と菊は苦笑した。この人は一体何歳なのだろう?
「君はこういう激しさから遠いよね」
「失礼な」
「じゃあ、こういう相手、君の人生の中にいた?」
あきらかにからかう様子のイヴァンだったが、菊の顔からその答えを読んだようで、黙った。

―――われても末にあはむとぞ思う………祖国に。あの山河草木の美しいふるさとに。

 

凍土を見たのはシベリアが初めてではない。弥栄(いやさか)村の視察のため、『あじあ』に乗った。美しい流線型の特急列車が誘った先は、地平線が見える、どこまでもどこまでも続く平原だった。高粱しか育たない枯れた大地は、冬、全く農具を受け付けない。内原訓練所から来たばかりという開拓青少年義勇軍の少年は、皆の前では「鍬の戦士となります」と胸を張ったが、雑談の中で「屯墾病って聞いたことありますか」とそっと零した。ホームシック、だけではない。米がたらふく食えると言われたのに、三年頑張れば官吏になれると聞いたのに…と裏切られた痛みが重なるのだという。「そして、逆に狐に摘まれた気になるのが、『開拓』をしなかったことなんです」。少年は深い色の瞳を菊にひたりと向けた。「僕たちは、ここにいていいんですか」。日本にとってはいてもらう理由があるのだろう、と、菊は言えなかった。君たちは、まさに明治の屯田兵と同じく、身を以てする共匪とロシアからの盾なのだから、とは。

 

「37番は『しらつゆに風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける』です。つらぬきとめぬ玉、とは、首飾りのように糸に通していない水晶ということで……」
「あ、待って」
掌でとどめて、しばらく目を細めていたイヴァンは、やがて「もう一回」と言った。菊はゆっくり復唱する。
「ああ…」
うん、とイヴァンは頷く。
「それ、分かった気がする」
「そうですか」
菊は思わず微笑んだ。百人一首には理に落ちた歌や技巧に走りすぎた歌も多いが、平明な、聞いた瞬間時代を超えて伝わってくる歌もある。
「日本は、平安朝以降、宝飾の習慣が少なくなるのですが、それでも愛された宝石が真珠と水晶です。それらに白露をたとえる歌は数多あります。露命、というように、露は儚さの象徴でもあるので、余計に歌の題材になりやすいのですね」
「え、あれ」
目をぱちりと開いたイヴァンは「あー」と気の抜けた音を出した。
「秋って言ったっけ」
「ええ、露と言えば秋ですね」
「そっか。…ごめん、訂正。勘違いしてた。あー、そうか…」
しばらく天井を見上げていたイヴァンは、やがてそのまま呟いた。
「人が死ぬような光景じゃないんだね」
「はい?」
「君の国の自然は優しいね」
菊はしばし戸惑い、尋ねた。
「どのような光景を想像されていたんですか」
「一面に雪が積もっていて、その上に細氷が散るところ。ダイヤモンド・ダストって聞いたことないかな」
「ああ…」
「露のような命、じゃないんだ。命は簡単に消えるけど、そんなこと委細構わず、細氷はダイヤのように煌めき続ける。それは恐ろしいくらい美しい風景で……それを見ると僕はいつも少し泣きそうになる」
大男には似合わない表現なのに、澄んだ菫色の瞳で言われると胸が詰まる。
「美しすぎてですか」
「……これが僕の運命なんだな、って思って。美しく峻厳な冬の前で人は小さな存在でしかない、ここはそういう国だ。日本という国が『広さ』を求めたのと同じくらいの切実さで、ロシアという国は『暖かさ』を求めている」
数字の表の中に、菊は歌を次々と思い出す。花鳥風月、自然が人に侘びしさを与える歌はあっても、人を拒絶する歌はない。
「―――ごめん」
「はい?なんでしょう」
「『君に』言っていいことじゃない」
菊は曖昧に微笑んだ。確かにそうだ。敗戦国の捕虜だからと命を使い捨てようとしているこの国で、そのようなものだと言い張られて納得できるものではない。
だけど。
「ロシア文学の、虚無の淵をのぞき込んだかのような冷気は、自然がもたらすものなんですね」
「ああ…君は、トルストイ読んだんだね」
「私はドストエフスキーの方が好きですが」
「ああ、なんか、分かる。ムジョウカンっていうのかな、日本思想にもどこかに諦めがあるんだよね」
「そうかもしれません」
菊はもう一度微笑んだ。
その笑みにイヴァンも頬を緩めた。つつ、と近寄り、ジャムのスプーンを手に取る。小首を傾げて見つめる菊の前でジャムを掬い、口元に差し出す。
「え」
「……」
スプーンとイヴァンの顔とを交互に見る。これを食べろというのだろうか?いやしかし、流石にそれは―――
「……」
スプーンの先で唇をそっと突かれる。
子供を相手にするかのような仕草に困惑していた菊だったが、その菫色の瞳に哀願を見つけ、口を開いた。口の中に甘さが送られてくる。嚥下して、菊は顔を顰めた。
「……あの」
「うん」
「それは、なんというか、欺瞞だと思うのです」
「うん、分かってる」
イヴァンは少し顔を傾げた。白金のような細い髪がさらりと流れる。
「僕がそうしたいだけなんだ」
「…ですよね」
「うん」
そういうことではないのだ。イヴァンが現政権にどのくらいコミットしているのか分からないが、謝るような立場にあるなら、抑留者の即時解放に向けて行動してほしい。今イヴァンが菊にしているのはただの施しであって、厳しく言えばただの自己満足だ。それは、しかし、両者とも分かっている。
「それでも」
もう一掬い、差し出されて、菊はそっと唇を寄せた。
たとえ欺瞞でも自己満足でも、貴方に優しくしたい。貴方の優しさを受け止めたい。
そう思うこの時間を、菊はかけがえなくいとおしいと思った。

……こんな日に…。菊は背後の身じろぎを忌々しく感じ取った。確かに身体を寄せ合って体温を保つ間柄であるこの男との間に、友情や信頼はない。むしろ、いつ自分の命をこそげ取っていくかもしれない者として、憎悪を間において向き合っている。
毛布の端を握りしめ、自分の取り分を確保してから、菊はそっと顔を後ろに回した。声量をぎりぎりまで絞って、けれども尖りはそのままに。
「なんなんですか」
「……」
なんだよ、とは言われなかった。ただ暗い眼が見返してきた。やはり意図的にやっていたのかと、嫌悪感がこみ上げてくる。
「むこう向いてください」
返事ではなく、腕が回ってきた。危うく叫びそうになる。
「…おまえ」
「なんですかっ」
できるだけ静かに、そしてできるだけ迅速に拘束から逃れようともがく。それをどんな術でかやすやすと封じ、男は耳に直接囁きかけてきた。
「あの男とは、こんなことしてるんだろう」
「はあっ?」
「あんな大男を慰めるんじゃ、ケツが大変じゃねえか」
なんのことだ、と聞き返そうとしたら、男の骨張った指が少し浮いた顎の下をなぞった。その粘りを持った指の動きに、やっと菊は気づく。―――とんだ誤解をされている。
「やめてください」
「何もしねえよ、男相手に気持ち悪い」
男は吐き捨てて身体を返し、背を向けた。言いようのない感情が菊の中を吹き荒れる。雪原を泥の足で踏みにじられたような気分だった。この男を寝台から蹴り落としてやれたらどれだけすっとするだろう、そう思いながらも、隙間をあければ体温が奪われる。口を開き、歯茎に冷気を感じながら、ぐっと噛みしめた。

 

「95」の数字に、しばし固まる。
「もしかして覚えてない?」
面白そうな、しかし少し残念そうな声音に小首を傾げつつ、菊はかぶりを振った。
「『おほけなく憂き世の民におほふかなわが立つ杣にすみぞめの袖』、前大僧正慈円、です」
断って、紅茶で唇を湿らせる。
「八世紀初頭に天台宗を伝えた伝教大師の、延暦寺中堂建立の時の歌を下敷きにしたものですね。そちらは正確に覚えていないのですが、下の句が『わが立つ杣に冥加あらせたまへ』で、だからこういう第四句になっています。身の程知らずの言葉になるけれども、私の墨染めの――僧衣の、ということです、袖を、つまりは仏の冥加を、憂き世をくらす人々におおいかけるのだ…」
「お坊さんかあ…」
イヴァンは何かを思い出したように遠い目をした。
「大僧正にも天台座主にもなる前、まだ若い頃の気概に満ちた歌ですね。僧籍にある人ですが、九条摂関家の出で、歌才にも恵まれました」
そして『愚管抄』という歴史書をまとめ、倒幕の志をもっていた後鳥羽院に翻意を促そうとしました―――それを付け加えてもいいのか悪いのか、よく分からない。『国史大系』が編まれた明治年間ならともかく、今、幕府寄りの史観を提示する『愚管抄』は国禁の書に近い。…近かった。全てが崩れるあの日まで。
そんな菊の躊躇を感じ取ったのか、イヴァンは「あのね」と言った。
「君が僕のことを好きだなんて知らなかったよ」
「は?」
「確かに、びっくりするくらいロシア語できるし、皇室用の絶対敬語も使わないし…」
イヴァンはサイドテーブルにあった数枚の書類を手にとった。
「お節介な部下がいて、別に知らないままでいいようなことも報告してくれるんだ。……君も若い頃、その歌みたいな気持ちだったのかな?」
思わず指がすべり、落ちたカップがソーサーに当たって鋭い音をたてた。
「大学では露文研、卒業後、非合法の社会問題研究会に参加、治安維持法違反で検挙されて転向。満鉄調査部に引っ張られて、1943年の満鉄調査部事件で懲罰徴兵、か。なかなかの主義者っぷりじゃない」
「……」
前者はともかく、後者は濡れ衣、断言してしまえばフレームワーク(でっちあげ)である。満州の生産力を上げるため集団労働について検討したことはあるが、社会主義を導入しようとしたわけではない。―――できるわけがない、確かに可能性を感じさせる清新な空気を持っているとしても、帝国主義の鬼子として誕生したあの国で。
そして、事柄として先に列挙されたことは全て嘘ではないのだけど、自己認識として「(社会)主義者」ではない、せいぜい「シンパ(共感者)」である。あの頃を襲った「知識人の、もっといえば上流階級子弟の罪苦意識」から菊も自由ではいられなかった、社問研の先輩に連れられていった都市スラム、親戚の住む村で見た貧困農民。論理的なことはさておき、とにかく、自分が辛かった。
本当のことを言うなら……菊はただ、頭脳労働であれ肉体労働であれ、働く人がまっとうに評価され豊かに暮らせる理想郷(イーハトーブ)を夢見ていただけだ。
しかし菊は懲罰徴兵で入隊した、その隊の誰からも、売国奴、非国民として白眼視された。

「でも君が民主運動に熱心だという話も聞かないね」
「それに抵抗しているという話もないでしょう」
47年から48年にかけて、各ラーゲリでシベリア民主運動(社会主義化)の波が吹き荒れた。軍隊内の階級差は激しいものだったから、それまで特権的地位にあった将校等に反発する兵士達が、共産主義にこと寄せて鬱憤晴らしと環境改善を図ったのだ。今では将校と兵士の分離収容をしているラーゲリも多い。両者の対立が殺人事件に発達した例もあるからだ。
このラーゲリでも、捕虜向けに発行されている「日本新聞」の読書会を始め、さまざまな運動が展開されている。別のラーゲリでは、天皇制放棄を拒んだ「封建主義者」達へのリンチが展開されたという。この地この季節でのリンチは死さえも可能性の中にある。監視兵は、日本兵同士の潰し合いを見て見ぬふりをする。渡すべき食糧が減れば、横領着服できる分が増えるからだ。
菊はひたすら従順に、労働歌をうたい、標語を復唱してきた。目立たぬよう、それだけを目標に。まともに研究したわけでもない菊の目から見てさえ、ここで語られる「共産主義」は『資本論』で語られたものとは違っていたが、そんなことを指摘するでもなく、ただ従っている。

「じゃあ、君は本当に転向者なの?もう主義は捨てちゃった?」
捨てた―――その言葉に菊は苛だちを覚える。菊が意識的に思想を手放したわけじゃない。指の間から砂がこぼれ落ちるように、それ「が」いつか菊を裏切ったのだ。
「貴方はどうなんですか」
腹立ち紛れに、菊は言った。
「貴方は、その主義をいつも胸に抱いていますか。ここで作られる剰余価値を前に、貴方の主義は、正義を主張できますか」
イヴァンはきゅっと口を結んだ。
殺されるかもしれない―――菊はそれを覚悟した。彼は、ただ規制に背いたからと簡単に人命を奪えるこの国の、支配階級なのだ。
しばしの沈黙の後、イヴァンが呟いた声には、しかし、険はなかった。
「…彼と同じ顔してるのに、君は随分真っ直ぐなこと言うね……」
そう言って、イヴァンは寝椅子に転がった。そのまま、聞かせるでもなしに呟く。
「僕ね、時々心臓が落ちるんだよね」
「………」
何の比喩だ、と菊は眉を寄せた。
「そしたら穴が開く。言葉はそこを素通りしていく。だから、何を言われても平気。彼も僕に対しては歯に衣着せずさんざん言うけど、それでどうこう思ったことは無かった。まあ、色々お互い様だし、『そういうもの』って世界で生きてるしね」
「……はあ」
「なんだけど、君の言葉は、……苦しいなあ……」
胸の辺りを掴むようにして、イヴァンは笑うような顔をしてみせた。

「ねえ、本田菊君」
「…なんですか」
「この国が嫌い?」

世界初の社会主義革命を成し遂げたこの国を、ユートピアのように語る人もいた。学生の頃の菊は漠然とそうかもしれないと思っていた。
そんなことがあるわけがないと、調査部の先輩に諭された。生産力の覚束ないロシアでの共産主義は、独裁的強権をもってしか成立できないと。ましてナチスドイツとの消耗戦で国力は大幅に削られている。きっと酷い経済状態にあるはずだよ。
そして、菊の目の前にあるのは黒パンさえろくに配られない過酷な現実と固い氷土、そして個人崇拝としか思えない熱狂の「スターリン大元帥への感謝文運動」だ。菊を裏切り者と呼ぶ囚人達は、かつての「日本」を振り捨て、罵倒し、共産主義思想を褒め称える。

狂乱の原因は分かっている。彼らは、ただ、ただ、帰りたいのだ。当局の覚えをよくし、帰還の可能性を増やしたいのだ。

「ここには貨物列車に乗せられて来ました」
「…うん」
「立錐の余地もないほどに詰め込まれ、便所に行けるのは一日二回。堪えて堪えて、停車と同時に飛び出した男は、逃亡を疑われて射殺されました。堪えきれず漏らした男はぼろ切れのようになるまで殴られ、素手でそれを掃除させられました。飢えや体調不良で死人が出ると、その死体は開口部から線路に蹴り落とされました」
「…うん」
「そのようにして連れてこられた国で、―――私もその比喩を使うなら、心臓を外して生きてきました」

獣のように生きてきた。生き馬の目を抜くような集団生活の中で、周りの誰も信用せず、誰からも信頼されず、全てに心を鎖して、だから―――うたを思い出すことも、うたに涙することも無く、ただ生きてきた。

「今の私は、好くとか嫌うとか―――恋をするとか、そんな人間のようなことは思えないんです」
イヴァンは、ごめん、と言いかけて口を噤み、わかった、と言った。

 

飢えてもいない猫が、ただその愉しみのためにだけ、小動物をなぶることがある。それは狩猟本能とは少し違う。猫は鼠の怯えて惑う様がみたいのだ。いたぶる時間を長引かせるため、わざと手を離す。
我慢の限界の、その少し手前でいつも男は手を引く。握りしめた拳は、班長に訴えようとした言葉は、いつも中途半端にとりやめさせられる。
男は明らかに限界線をさぐっている。

 

銃なら狙った数字をうてるのだろうイヴァンは、それほどにはダーツが得意ではないらしく、時には大きく外すこともあった。数字と数字のちょうど中間に刺さり再挑戦することもあった。五十を数える頃には吹雪(マロース)の季節は去ろうとしていた。
「『春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ』、周防内侍ですね。これは…」
なかなかに色めいたうたで、説明の言葉に迷ってしまう。
「ある春の夜、邸の中で女房達が集まって語らっている時、作者が『枕が欲しい』と呟くのです。ちょっと横になろうというのですね。それを御簾…顔を見せないようにする簾のことですが、その向こうから聞いた男が『どうぞ』と腕を差し出した、それに答えた歌なんです。そんな夢幻のようなお戯れに乗ったりして、立ってしまう浮き名をなんとしましょうか、と。ちなみに『かひな』とは腕のことでもあります」
「オトナのやりとりだねえ」
イヴァンは楽しそうに笑った。
「そういう機微を妹に教えてやりたいよ」
「おや。妹さんがいらっしゃるのですか」
「うん。美人さんなんだけどね。ちょっと……正攻法しか知らない子で」
思い出したように額に手を当てる。その顔が「ほとほと困った」という様子で、思わず菊は声に出して笑う。目を開けて微笑んでいたイヴァンは、やがて「ねえ」と言った。
「ちょっと来て」
寝椅子に転がっていたイヴァンは、その身体を奥にずらし、「はい」と言った。言われるがままその傍に立った菊は「はい?」と返す。
「『どうぞ』」
ご丁寧に、腕を伸ばして。
「…なんですか?」
「あんまり寝られてないでしょ。すごいクマできてる。今日、ここで寝ていけばいいよ」
「…なに言ってるんですか」
寝られていないのは事実だった。班の中の居心地が悪い。寝台組の男はやはり時々寝返りを打ったまま密着してきては当てこすりを囁きかける。だからといってここで寝かされるいわれはない。
「私はあなたの妹ではありませんよ」
「そりゃそうだね」
「大体、一つ布団に男二人が入るなど…」
言いかけて菊は口を噤んだ。望んだことではないとはいえ、もうそんな異常を幾晩、幾年過ごしてきたか。
「はいはい、文句言わない」
手を引かれ、寝椅子の彼の胸の上に倒れ込む。椅子の背にかけてあった外套を頭からかけられて、反論も封じられた。
首の下に置かれた腕はたくましい筋肉で、菊の頭の重みなどまるで感じていないかのようだ。狭い寝椅子から落ちまいと身を寄せれば、菊の頬は彼の胸にあたった。
あたたかい。彼の心音が心地よい。人とふれあうことを、ふれあって目を閉じることを、穏やかに感じるなんて。
「眠れないなら、羊を数えてあげようか?」
「結構です」
「ちぇ…」
やりたかったのか、と笑いが漏れた。それを感づいたかのようにもう片方の腕が背中に回り、とん、とんと優しいリズムで叩かれる。
あたたかさと安心感が、急速に菊を眠りへ誘った。
いけない、だめだ、立ち上がらなければ。そう強く思うのだけれど、身体がいうことを聞かない。
一晩をここで明かせば、いらぬ噂が、立つだろう。私はこのロシア男の慰み者とされているのだと、そうして甘い汁を吸っているのだと、それはもう確定事項として語られてしまうだろう。
そのような欲など、ここにはないのに。
私はただ安息を得たいだけ、彼はただ身代わりを甘やかしたいだけ。
私たちはただ、嵐の中で、それでも生きる熱がほしいだけなのに。
周防内侍に躱された男、大納言忠家はこう返歌する。「契りありて春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき」。
―――ああ。
厚い胸に頬を寄せる。
そうであったなら―――もしここにあるのが、本当に運命の恋なら、どんなによかったか。

早朝点呼の直前に戻った菊を迎えたのは、無言の、しかしあの男のような視線の群れだった。どんな誤解があるとしても、とにかくあたたかく柔らかな寝床を一晩得られたのだ、嫉みを受けても仕方あるまい。せめて、天に恥じることをしていない以上、顔を伏せることはするまいと、菊は握った手に力を入れた。

 

狙ったわけでもあるまいに、次の晩、矢は「46」を指した。
「由良…というのは地名です。門(と)とは水の門、つまり海峡です。『由良の門を渡る舟人かぢを絶え行方も知らぬ恋のみちかな』…」
これも序詞さえ理解すれば意のくみ取りやすい歌である。ロシア語に逐語訳をした後、菊は少し黙った。
「日本語には擬態語が多いのですが、揺れる様子を表すことばに『ゆらゆら』というのがあります。それを想起させる由良という地名が頭韻で行方を導き出します。下の句は濁音もなく、最後は『かな』と開音で終わりますから、日本語としての響きが実に美しい歌だと思います」
「うん」
イヴァンは頷いた。
「…」
「…」
仕方なく、菊は作者の曽禰好忠(そねのよしただ)について覚えていることをいくつか述べる。家柄が絶対の時代、大きな後ろ盾も持たない下級役人、しかも本人の自負はともかく新しすぎる歌風の彼は評価されないまま生涯を閉じる…
ぼそぼそとした説明をイヴァンが遮った。
「ねえ」
「はい」
「もう一回諳誦して」
「…」
菊は紅茶で唇を湿した。
何も迷うようなことはないし、何も揺れるようなことはない。

「…狙ってるわけじゃないんですよね?」
「え、なに?」
「…いえ」
意識過剰だ。そもそも意識するようなことは、なにもない。「とんでもない誤解」、そう思ったではないか。
ため息を一つつき、第13番を詠み上げる。
「『筑波嶺のみねより落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる』。みなのがわは名前ですが、男女の川と書きます。その名が示すように、木の峰が落とす小さな雫も、重なって、川となり、淵となる、そのように…、ということですね」
「ああ、そういえばこれも水の歌だねえ」
「…そうですね」
天井を見上げ、陽成院のどこまでを話そうか考えていると、イヴァンが思い返すように言った。
「知り合いが『日本は水の国だ』って言ってた」
ちらりと、『本田君』だろうかと考える。
「……そうですか?」
「周りが海で、平野は川が作っていて、山には滝があって、始終雨が降っていて。すごく潤ってる気がするんだって」
「ああ……なるほど」
日本でも雨量の少ない地域はある。水不足に悩まされる地方も。けれども、大陸の乾燥はそんなレベルではない。ラーゲリで配られる水は常に不足しているが、もともとが少ないのだ。現地人がコップ一杯程度の水で身体を洗ってみせる土地で、捕虜にそれ以上の水を与える筈がない。足りないと思う、それはむしろかつて潤沢であったことの証明であろう。
とはいえ、街育ちの菊にとって雨はあまり嬉しいものではない。
「水、ですか…」
微妙な顔をする菊に、イヴァンは微笑んだ。
「多分ね、こういうのって、対象というより表現者を表す言葉なんだと思うな。君はどう思うの」
「日本がですか」
一瞬考えて、菊は思ったままをいった。
「花の国、ですね」
「桜?」
「いえ、種々の花が咲き続ける国、です。春夏秋冬、それぞれ似つかわしい花がある」
イヴァンは、ふわりと笑った。
「ああ、うん、すごく、君らしいと思う」
その笑顔をしばらく見て、菊は尋ね返した。
「貴方はどう思われるんですか」
「うん」
菊をじっと見て。
「僕は、日だまりの国だと思う。―――だから、すごく欲しかった。抱きしめればお日様の匂いがするんじゃないかなと思ってた」
比喩の大胆さにしばし面食らう。
「お日様にあたるより、炉辺談話の方がいいと思う日がくるとは思わなかった」
煙に巻かれたような気分の菊を前に、イヴァンはにこりと笑った。

伐採道具の手入れを命じられ、寝台組の男と二人、バラックの裏手に回った。ノルマが達せられないと食事が減らされかねないから、黙々とそれぞれの作業をする。早くこの場を逃れたいと、菊は水を求める魚のように思う。と、いつのまにか男が傍に来ていた。
「なあ…」
手をつかまれる。
「お前、そんなにイイのか」
「…」
答える気にもならない。
「もう三ヶ月か?毎晩で、飽きさせないってすげえよな。どんな身体してんだ」
「…やめてください。そういうことではないんです」
そういうことではない。あの時間をそんな妄想で汚して欲しくない。
菊の抗議を男は柳に風と受け流した。
「なあ……ちょっと試させろよ」
肩を掴まれ、引き寄せられる。
吐き気がした。男にそう言われたことにではない。この男に、実際に菊への肉欲があるはずはない。この男はただ、私を卑下し苛むためにこんなことを言うのだ。お前は男の便所なのだと。
淀んでいた男への憎悪が攪拌された泥水のように浮き上がる。
息が首にかかったかと思うと、耳朶を唇で挟まれる。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い……

―――消えろ。

服の下に忍び込もうとした手を振り払ったところで、

「何やってんのー」

穏やかに、聞こえるイヴァンの声がふってわいた。はっと二人振り返ると、警備兵を連れたイヴァンが微笑んでいた―――顔の形は、確かに笑顔を作っていた。
「ちょっと本田君に言いたいことがあって探してたら、なんか剣呑な雰囲気だからさ。喧嘩はだめだよー」
そこで引けばよかった。
しかし、男は、はっと鼻で笑った。日本語は通じないと分かっているのかいないのか、そのまま続ける。
「なあ、あんた、男の愛人を飼ってるって、この国では不味いんじゃねえの?粛清されちゃうんじゃないの、なあ……ドゥラークさんよう」
警備兵は顔を青く、イヴァンは笑顔をいっそう深くした。
「君は、死ぬ勇気があるんだね」
そのまま、笑顔のまま、イヴァンは銃をとりだした。
聞き慣れた乾いた音に一瞬遅れて、菊の横で脳漿が飛び散る。
「―――」
さらに一瞬遅れて脳が情報を受け止めた。
ぐ、と口を押さえる。
「なに」
表面上の穏やかさもとれた平坦な声が聞く。
「―――私は、それを、願っていました」
「それがなに」
「こんな展開にでもなったらいいのに、と、思っていました―――」

―――あいつ、なんだったんだ
―――…イヴァン・ドゥラークさんだそうですよ

言うまでもなく……菊にとっては言うまでもなく、イヴァン・ドゥラークとは「イワンの馬鹿」である。ロシア民話にしばしば登場する、間抜けな正直者。木訥な雰囲気を残しながらも冷え冷えとした論理展開をしてみせるイヴァンには似合わないことこの上ない。わざと言っているのだと分かったから、思わず笑った。笑ったことで、イヴァンは「分かるのか」という目で菊を見た。
男が「ドゥラークっつうのか」と言った時、菊は、訂正しなかった。支障もないだろうと思っていたのだが、
万が一、この男がこの勘違いをイヴァンの前で晒したら、イヴァンはこの男を許さないのじゃないだろうか―――そんな想像をしていた。
排除されることを―――男の死を、願っていた。

私は、人殺しだ。
手を下したわけじゃない。けれども、死ねばいいと思っていたし、死の方へその身体を押しやった。


―――違う。
私は、既に、人殺しだった。


内側の列に入ろうと人を押しのけた、その行き帰りに撃たれた人もいた。大豆の一粒まで厳密に等分することを要求した、その午後崩れて死んだ人もいた。


「ぐっ…」
こみ上げるものを手で押さえると、代わりに涙が転がり落ちた。
乾ききったシベリアの大地の中で、一度も流したことのなかった涙だった。
傷つけられることに、人として扱われない現実に適応するために、心を封じている、そう思っていた。それだけではなかった。人を傷つけるために、人をモノとして扱う自分でいるために、心を封じていた。
イヴァンは足を止め、嗚咽をもらす菊をしばらく見つめた。

部屋のドアを後ろ手にしめ、イヴァンは菊を寝椅子の上に放り投げた。
そしてしばらく窓辺に立って外を見ていた。
「君は思い違いをしている」
やがて言われた言葉は、菊の耳を通り過ぎて行った。
「単に僕がむかついただけだよ。君は、その意味では関係ない」
動かない菊をしばらくイヴァンは見つめていたが、やがて、ダーツの矢をとり、紙に歩み寄って、数字の上に突き立てた。
「16だよ」
菊は顔をあげた。
「16番のうたは?」
菊は頬に残る涙を拭いもせず、掠れ声で言った。
「『たち別れ……いなばの山の峰に生ふる』……」
「……」
「『まつとし……聞かば』……」
耐えられず、下を向く。はたはたと涙が落ちる。
「いま、帰り、来む………」
イヴァンはしばらく黙っていた。
「帰りたい?」
「……」
はく、はくと、空気を吸うようにあえいだ。言えば「民主化」が足りないとマークされる一言を、肺の底から絞り出すように、言った。

「………帰りたい……!」

私を人間以外のものにするこの国から。この世界から。
抑留初期、何度も聞かされた「帰還(ダモイ)」の語。それだけが救いであり、希望であった。


「でも、待ってないよ」
「……え」
「今、日本はアメリカの占領下にある。親米路線を明確にするためにも、赤化された兵士など社会として受け入れないだろうね。職はないだろうし、下手をすれば公安の監視がつくかもしれない。君はまた『転向』を迫られる」
「……」
「日本は君を待っていない。君の恋は裏切られる」
イヴァンは大股に菊に近寄りその身体を腕の中におさめた。体温が伝わってくる。そして微かな心音も。
「すごーく、すごーーくサービスしていえば、日本だって息を吹き返すために藻掻いてる。だから、僕は『そういうもの』だと思うよ。平気。でも、たかが害なす者を排除した程度で吐きそうになってる君には、すごく辛いんじゃない?」
菊は嫌々をするように首を振った。そんなことを考えたくない。考えられない。

「……それでも君は僕を捨てる?」

首がとまる。
そんな二者択一がありだろうか。全てが凍り付いた世界の中で、ただ一つあたたかくともされていた灯火。菊を「人間」に引き戻した会話。かけがえのない時間。

「僕はこの温度と君のことばを失って、」

抱きすくめられる。菊は抱き返そうとしてその手をとめた。
そもそもの前提が間違っている。ここに菊を留めおく正当性がないように、成立する筈のない―――あるべきでない、恋だった。
「………貴方と、違う形で逢えていたなら」
「……」
イヴァンがくすりと笑う。
「多分ね、君も僕も、この形でなければ互いを目にいれないと思うな」
菊も仕方なく苦笑した。
「―――残酷なことを言いますね」
「あーあ、全部終わらなかったな」
穴の開かないままの数字があと十数個ある。
「……イヴァンさん、結局、何番がどの歌か知ってたんですね?」
「まあねえ、割と簡単に手に入る情報だったしね」
悪びれずに言ってのける。
「意味は聞いてないよ。音の響きだけチェックして、もし君が誤魔化したら分かるようにしてただけ」
「信用がないですね」
「退屈だったんだよ」
イヴァンは執務机に歩み寄ると二枚の書類を取り出した。
「準備してたんだ。誤魔化そうとしたり、思い出せなくて失敗したりしたら、こっち。全部クリアできたら、こっち」
左手には戦争犯罪の法廷に出される調書を、右手には、帰還候補者リスト。
作業の達成度、「民主性」の浸透具合などで優良者と見なされた者が先に帰れるという噂はあった。そしてもう一つ、今年始まった戦犯法廷では、戦闘行為などに係わらず、日本領内での、または満州国での利敵行為もその罪科として取りあげられるという噂があった。つまり、軍の特務機関や特殊組織たる満鉄・満映で働いていたものはそれ自体が犯罪とされ、さらに抑留・使役されるというのだ。
「……」
「振った人の顔なんかみていたくないからね。とっとと帰って」
そこでイヴァンは何を思ったのか、手を腰に当てて少し胸をそらせた。
「君のためなんかじゃないんだからね!僕のためなんだからね!」
「は?」
「……知り合いの真似してみたんだけど、どう?」
「どうと言われても……」
反応に困る。
「まあ、それはどうでもいいんだけどね、そう言っておかないと、お優しい本田菊君はまた自分だけの優遇措置に悩むんじゃないかなーとおもってね」
「……」
しばし、俯く。
「ねえ、心にもないことを言ってあげようか」
「はい…?」
口先だけの優しい言葉など欲しくない。そう思っていた菊に、イヴァンは笑顔のまま言った。

「これは、君の罪だ。先の男が死んだのも、そう。君は罪の上に生きている」
「………」
手の下で心臓が大きくはねた。ぐ、と胸を掴む。

イヴァンはその様子を見て、小さく笑い、表情を引き締めた。

「だから君は、生きなきゃいけない。苦悩なんかで自分を殺す権利なんてない。生きるってどんなことなのか、君が考えたことを、苦しんだことを日本に伝えなきゃいけない」

目を見開いていると、イヴァンは「なあんて」と表情を崩した。
「全く思ってもいない上に、僕の言う台詞じゃないね、ほんっとに」
言葉に詰まる菊にイヴァンは笑い、ドアを指さした。出て行けということだ。
「嘘、なんですか」
イヴァンは肩をすくめた。
「一つだけほんと。僕の知らないところで勝手にずっと生きててよ」
バイバイ、と後ろ手に彼は手を振った。


ヤポンスコエ・モーレ……日本海の幻影は抑留者全ての瞼の裏で揺れる。その波を目のあたりにしながら、菊は船尾に座り、遠ざかる大地を見つめ続けた。
ナホトカ港を離れ、領海線上に至り、舞鶴の影が見えてきたとき、船の中には歓声が沸いた。その声を遠くに聞きながら、菊は呪いの言葉を思い出す。

「君は、生きなきゃいけない」

本田菊はラーゲリの中に生きる自分を詠む抽象歌人として戦後長く生きた。「加害と被害の流動の中、確固たる加害者を自己の中に見つめ、それでも『人間』の中に踏みとどまろうとして、初めて『人間』は生まれる」。その、身を削るような厳しい自己省察は、周囲に彼の自殺を心配させるに十分だったが、それを問われると菊はいつもゆっくり笑って首を振った。―――私には、呪いがかけられているんです。

難解で知られる菊の歌に、一首だけ平易な歌がある。詞書きに「相聞歌」と書きながら、菊は尋ねられれば「そうでなくても構わないんです」と微笑んだという。


来世あらば冬も花咲く地にならむ日だまりのなか君を迎へむ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(後書き)

扉頁の英字は、『夜と霧』にある「愛は結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものである」という一文のエスペラント語訳です。シベリア抑留を経験した詩人石原吉郎が、その所蔵した本に鉛筆で傍線を引き、余白に書き込んでいたものです。
最後の「被害と加害」についての一文は彼の言葉をつないだものです。私はその言葉に重みを感じますが、そうは思わない抑留経験者は当然いるでしょう。体験の位置づけも、「強いられた加害」に対する考えもそれぞれ違うと思います。その前に「被害」について、または戦後日本の彼らに対する無情に対して問責していくべき、という立場の方もいて、彼らに石原は批判されてもいます。
そういう意味でえらい問題作を書いてしまったなと思うのですが、……そもそも、二次創作でこういうのは読みたくない、という方もいらっしゃるだろうと思います、なんかもう、あらゆる方面にすみません。
二次創作は、辛い現実から自由になった夢の世界、という考えを私は支持します。ほんとです。
他に素敵なお話がたくさんあるアンソロなので(未読ですが断言)、苦手だった方はするっと忘れてくださると有り難いです。大丈夫だった方には、心に残り続ける話であれたなら嬉しいです。
主宰のB様には、幾重にも謝罪と感謝を。

 


<<BACK

<<LIST