・「ルートさんとギルベルトさんの間で菊さんの心が揺れる」話です。苦手な方は回避して下さい。
 	      ・ルートさんもギルベルトさんも、いいひとだけどひどいひとです。苦手な方は回避して下さい。
 	      ・ルートさんの話が一段落したところでギルベルトさんが出てきますが、ルートさんの「裏返し」なので、「ひどさ」を判定してください。苦手な(略)。
 	      ・現代パラレル、ルートさんと菊さんが大学院生、ギルベルトさんは遊び人なバーテンさんです。
 	      ・モブ女子が出ます。苦手(略)
 	      ・ぶつっと終わります。続きはありません。
 	       
 	      
 	      
          
			もう一度会えて嬉しい――なんて考える余裕は無かった。
			一瞬にして血が足まで降りて、表情が消えていくのが分かった。もともと無表情だと言われがちだが、自分としては常に当たり障りのない「柔和な笑顔」らしきものを装着しているつもりである。入学式後の初顔合わせというこの場面で、まさにそれこそが必要だというのに、表情筋に命令を出すこともできず、本田菊は男の前で突っ立っていた。
			「あれ、知り合いだった?」
			奥にいたゼミマスターらしき先輩が菊と彼を見比べて言う。と、僅かに目を見張っていた彼は先輩を振り返り、「いいえ」と言った。スーツ姿のせいで中堅ビジネスマンにも見える貫禄を打ち消すかのように照れ笑いをしてみせて彼は言った。
			「こんな顔なので、よく初対面の人にひかれます」
			「ははは!確かに、ひょろひょろばっかりの研究室では、君ほど体格がいいと目立っちゃうね。まして文系、それも民俗だから金髪も珍しいしなあ。つか、ホンモノか。学会で最初見たとき俺も驚いた」
			ん?という顔で首をかしげた彼に、先輩は手をさしのべて言った。
			「昨夏の、俺も同じ会場にいたんだ。見た目じゃなくてちゃんと論文でも知ってるよ、ルートヴィッヒ・バイルシュミッット君。丁寧な調査するよね。当大学へようこそ」
			感激を頬に載せた彼はその手を力強く握り返し、その後はっと気づいたように、アリガトウゴザイマスと頭を下げた。
			「こちらは修士の方の新入生、本田君。いつもは内部進学ばっかりなのに、今年は修士博士で二人も外からだな」
			「よ、宜しくお願いします……」
			深々と頭を下げて、重力に血を戻させて、決意を以て顔を上げると、一度のばされたらしい彼の手が腰の辺りで行き場所を無くしたように浮いているのが見えた。やがてその手は何事もなかったかのようにふわりと下ろされ、それを隠すように厚みのある上体が折り曲げられた。
			「こちらこそ宜しく」
			
			
			そこがちょうど空いていたからという理由で、院生室では隣り合わせの席を与えられた。学部時代図書館に頼り切りだった自分とは違い、翌日から大量の本が彼の机には並べられた。性格を表してのことだろう、並ぶ書籍は高さがそろえられ、コピー紙さえ全ての角がそろった状態で積んである。さすがドイツ人とからかわれては、日本人のステレオタイプが覆されそうですなどと軽口を返している。研究室のカラーなのか、分野のならいなのか、他の先輩方の机はたいていすさまじい。うかつに触ると雪崩が起きそうな人もいるから、ちょっとした書き物の時は菊の机を借りに来る。
			そうしたちょいちょいとした頼まれごと――キャビネットを掃除するとか、ついでにコップも洗うとか――をへらりと笑って引き受ける菊を、ルートヴィッヒは複雑そうな顔で見ていた。
			
			修士と博士ではとるべき授業も随分違う。菊の必修には学部の教養科目のような概論もいくらかあって、そこで顔を合わせる他専攻の同級生とも立ち話をする程度には親しくなった。授業の後が昼休みならそのまま学食に行ったりもする。安さと栄養バランスだけが取り柄のような定食を摂取して院生室に戻れば、よくルートヴィッヒが食後のコーヒーを淹れている。彼は学校へ来る途中でパン屋に寄るのがルーティンらしい。そこのパン美味しいですかと聞けば「日本にはほんとうのパンがない」と智恵子のようなことを言われてしまった。
			大学から日本に来たという彼の日本語は十分になめらかだが、本人も自覚しているらしい通り、若干古風だ。声の低さも相まって二十代半ばと思えないほどの威圧感がある。同級生の先輩がルートヴィッヒには敬語で話しかけていたりする。もともと人付き合いに消極的な菊にとっては尚更話しかけづらく、そのパンの話もたまたま食べている彼と目が合ったからその場しのぎに聞いてみただけである。彼の方もそうなのだろう、一息入れた時、昼休みに戻った時など、目が合うと「会話」をしようかどうしようかという逡巡が目に浮かぶ。気を遣わせてしまっているという申し訳なさといたたまれなさで菊の口も更に重くなる。
			
			五月の声を聞く頃には、そんなぎごちなさも取れてきた。
			「郷に入っては、というのは大原則なんだがな」
			ある日、人の少ないときにそう話かけれられたこともある。さっきまで洗い場を磨いていた手を拭きながら、菊は僅かに椅子を彼側に寄せた。はばかる気持ちを察したのだろう、声をさらに潜めて彼は言った。
			「だから年功序列を全否定するつもりはないが、あまりに負担なら断るべきだ」
			雑用のことだ。予想通り投げかけられた正論に、菊は苦笑を浮かべた。
			「前の大学では、違いましたか」
			「小さな大学だったから、そもそも先輩がいなかった。ちょうどヌシが技官になれたところだったからな」
			ヌシという言いまわしに、少し笑う。留学生でも、やはり民俗学の人だ。少しほどいた眉間をまた寄せて、彼は言った。
			「君は雑用係としてここにいるのではない。一年生でも、既にして研究者だ」
			ぐっときた。二度目ましての印象通り、やっぱりいい人だ、と改めて思う。こんないい顔で、いい声で、心をわしづかみにするような肯定をくれる。
			ふうわりと笑って、菊は首を振った。
			「べん……研究の邪魔になるほどの負担ではないです」
			「そうか。それならいい。ただ、下級生が唯々諾々と従うのはパワハラ構図を継承させたという意味で次世代への加害責任があると俺は思う」
			こちらはぐさっときた。あくまで正論の人だ。いい人である、その評価は変わらないけれども、手厳しい。
			「序列というより、私自身の持つオーラじゃないかと思うんです。学部生の時も雑用がよく回ってきていました。下級生も私には頼みやすいようで」
			む、と、更に眉間がよる。あわてて菊は手を振った。
			「だから、ここでの雑用って本当にたいした量じゃなくて……むしろ、それをきっかけに会話して、輪に入れてくれているような気遣いを感じています」
			眉間はほどけなかったが、それには思い当たるところもあるようで、ルートヴィッヒは曖昧な音をのどから漏らした。菊はだめ押しににっこり笑った。
			「ここに来て良かったです」
			ようやく緩んだ目を見ながら、忘れ物を拾うように、菊はそれを思った。
			――貴方に再会できて、よかった。
			
			
			菊は卒論を、ルートヴィッヒは修論をまとめてのゼミ発表が課された。発表自体はそつなくできたつもりだったが、質疑応答の十数分はボクシングのパンチングボールになったような気分で過ごす羽目になった。気づきつつ手が回らなかった不備の指摘はともかく、考えだにしなかった視角をいくつも提示されて、菊は飲む前から酔ったようなくらくらする頭で、その後の新入生歓迎会に出席した。大学にほど近い、ファミレスを居抜きしたかのような広さの安居酒屋だったが、新歓の季節だからか、かなり埋まっている。院生室を共有する人々の顔もあちこちに見える。
			宴会におけるこの専攻のルールはたった一つ、「手酌」だという。
			「調査のときは勧められた酒を断れないからね。自分たちで飲むときは好きに飲もう、お酌もその強要も『飲め飲め』もやめとこうってこと。この店は飲み放題だから、自分で勝手に注文して」
			周りの喧噪に負けないように大声でそう言って、ヌシはぽんと菊の肩を叩き、ビール瓶とともに指導教官の隣へ座を移した。
			「……」
			渡されたメニューを手に、取り残された菊はしばらく呆然としていた。酒を注いで回ったり空いた皿を片付けたりしていれば場が持つと思っていたのに、何もタスクがないらしい。「とりあえず生」と注文してみたものの、まさにとりあえずで、この後どうしていいのか分からない。歓迎会と言い条、まさに好きなように酒を飲む会であるらしく、スピーチだのが強制されることもない。目立つのも構われるのも好きではないからありがたいものの、手持ちぶさたには違いなく、酒を飲むしかない。
			それでも、ちらりと目線をやると、ルートヴィッヒの周りには複数の先輩が集まって何かを熱心に話している。先ほどのゼミ発表の続きなのだろう。菊の時とは次元の違う議論が交わされていた。ため息をもらさないようビールジョッキを口に押しつけていると、正面に座った一つ上の先輩が「ねぇねぇ」と声をかけてきた。机についた肘の上に胸を乗せて身を乗り出してくる。むにっという音が聞こえそうなその仕草に慌てて目をそらす。
			「本田君はなんでうちに来たの?」
			「あ、ええ、まあ……」
			へらりと笑いながら酒を注いでその質問を躱そうとビール瓶を手に持ったが、「いやいや」とコップに手で蓋されてしまう。そうだった、そういうルールだった。仕方なくビール瓶は戻し、自分のジョッキを二、三口飲む。畳みかけるように彼女は首をかしげた。顔がより近くなる。飛び抜けた美人というほどではないが、婀娜っぽい色気のある女性だ。
			「本田君の方は、若干都落ちっぽくない?」
			「はは……は……」
			所在地というより、大学のレベルの話だろう。学士をとった大学は有名校だから敢えての受験に要らぬ想像を生みそうだとは覚悟していたが、面と向かって言われるとは思わなかった。そして、「の方は」というのは、ルートヴィッヒの方は逆だけど、ということだろう。返す言葉も見つけられず、もう一度ジョッキを傾けるが、どうにも苦い。
			「教授と喧嘩して飛び出してきた、とか……地元の女の子泣かせていられなくなったとかの武勇伝があったりして?」
			泣かせた、つもりはない。喧嘩もしていない。ただ居づらくなっただけだ。
			「ないですよそんなの。平和と安定をこよなく愛する草食系男子です」
			「あはは」
			この会話、なんとか抜け出せないかなあとジョッキの残りをぐっと空け、店員におかわりを頼む。すばやく渡されたビールは、味はともかく、冷たさが嬉しい。口に含んでいると目の前の赤い口がにやっと笑った。
			「いけるくちだね。酒もだけど、……肉も美味しいよ?」
			言いながらぐっと顔を寄せてこられた。思わず同じ角度でのけぞると、勢いよく誰かの背中に当たった。
			「あっ、すみませ……」
			頭を押さえながら振り返ると、いつの間にそこに移動していたのか、ルートヴィッヒだった。その隣にいて一緒に振り返った別の先輩が、「あー」と胡乱な声を出した。しかめられた顔は、菊の向こうに向けられたものらしい。
			「まーた若い子食おうとして……あんたこっち来なさい!」
			「ええー、まだ手出してないですよー」
			不満そうな声を出しつつも彼女は素直に従って立ち上がる。ほっとしていると、空いた席にルートヴィッヒがやってきて座った。冗談のつもりか、「花のないことで申し訳ないが」などと言う。
			いえ、と言おうとして、唇がゆがんだ。
			「……知ってるくせに」
			「うん?」
			ごくごく小さな呟きだったはずなのに、音の一部が耳に届いてしまったらしい。いいえ、なんでもと首を振ってまたビールを飲んだ。
			
			この春二度目ましてとなったルートヴィッヒとの「初対面」は、知っているだろうと思い起こさせたいものでは決してない。有り体に言うと、半年前、ナンパしてふられたのだ。
			ネットで検索して、意を決して飛び込んだ新宿二丁目の「そういう店」で、空気になじめなくて早々に退散。「大人向け」などの検索ワードを追加して調べた二軒目に、それでも入る勇気がなかなか出てこなくて、店の前でうろうろしていた。
			すると同じように紙片を手に目をさまよわせながら通りを歩く男の姿が目に入った。
			去年の夏は夜でも暑かった。むわりとした空気が街を覆っていて、だからだろう、彼は黒いタンクトップ一枚で、一方の肩に迷彩柄のシャツらしきものをかけていた。夜だというのにサングラスで、場所が場所なら軍人だと思うようないかつさだった。菊はその上半身に目を奪われた。
			布越しに存在を主張する大胸筋、肩にかけたシャツをしっかり支える僧帽筋、それに続く三角筋。指を滑らせれば、少し汗ばんだその肌に吸い付いて、密度の高い肉の熱さを伝えるだろう。そしてあの腕の檻に閉じ込められたら、なすすべもなく翻弄されるに違いない。
			――どくん、と血が鳴った。
			ゲイであるという自覚はなく、けれども、自分は「そう」なのかもしれないとやってきた新宿だった。結局男であれどうであれ、押しの強い人は苦手だとの感想しか得られないまま一軒目を退散したのだが、今、一瞬で血が熱くなったのが分かった。
			
			このひとに、たべられてしまいたい。
			
			二杯程度の酒が後押しした部分もあったのだろう、気づくと歩み来る男の正面に立ちふさがっていた。
			「――何か」
			上から降ってきたのは、尾てい骨を撫であげるような低い声だった。一度つばを飲み、うわずる声で、ようやく言った。
			「あの、……この店を探しているのではないかと思って」
			そう言って入り口の狭い「その手の店・二軒目」を指さした。webに出している名前と看板の表記が少し違うので分かりにくいのだ。菊も二度ほど行き過ぎた。
			言われて、気づいたようにその店の看板を眺め、手元の紙に目を落とした彼は、「ああ」と言った。
			「本当だ、ここのようだ。ありがとう」
			軽く手を上げてドアに向かおうとする男を、菊は追いかけた。
			「あの。……だったら」
			そこまでを言って、さすがに羞恥が菊の口を重くした。男は小首をかしげて静かに待っている。
			「……この店で相手を探すんだったら、私ではだめですか」
			目を見張られて、菊は焦った。ざっとの検索でも薄々気がついてはいる。自分は、この世界における「モテ筋」ではない。
			「わ、私では、だめですか」
			文字にすれば同じ言葉なのに、語尾の上がり下がりだけでこんなにも意味が変わる。奥歯を噛んでいると、黙っていた男が声を上げた。
			「ああ……」
			それは肯定のイントネーションではなく、ようやく思い至ったという口調だった。
			「すまない、俺は、違うんだ」
			「え」
			「この店は、呼び出されて来たんだが、そういう店だとは知らなかった。いや、だからといって別に困りはしないが……俺は、違うんだ」
			違う、の意味がようやく飲み込めた菊は、血の引く思いで頭を下げた。
			「す、すみません!!」
			菊と同じように店を探していたせいで、完全に思い込んでしまっていた。
			「いや、こちらこそ悪かった。言われてみれば、誤解を招く見た目だったかもしれない」
			気にしないでくれ、と手を振って、彼は店の中に消えていった。
			
			
			だから確かに「知り合い」ではない。名前も知らず、数分言葉を交わしただけだ。大学で「初めまして」扱いにしてくれていることに不満など毛頭無い。年長者として、研究のことを聞けば丁寧に指導してくれるし、隣の席としても領土侵犯などなくいつも快適に過ごせる。ただ玉砕した相手と顔を合わせ続ける気まずさが菊の側にあるだけだ。
			いつも襟つきの白いシャツにアイロンのかかったチノパンという堅苦しい格好で研究室に来るルートヴィッヒに、あの日のような――腰から崩れてすがりつきたくなるような誘惑を感じたことはない。むしろ、そうした爛れた情欲から一番遠そうな清潔感さえ感じる。それは隣の席の後輩である菊にとっては、ありがたいだけではなく好もしく感じられることだった。
			間違いなく当人ではあるけれども、「あの男」ではないルートヴィッヒが隣の席にいるのだという納得に、菊は満足している。それでも、つい先刻セクシャリティをつつかれたせいで瘡蓋が剥げた状態の心に、あの夜の記憶が塩水のように染みいってくる。
			「……」
			呷るようにぐっとジョッキを傾けると、気管に入ってむせた。げほげほやっているうちに、気持ちが悪くなってきた。
			「おい、だいじょうぶか」
			返事をする余裕もなくてトイレに駆け込み、吐いた。寝不足が続いていたせいだろうか、思った以上に苦しくて、開けた口を便器から離せないでいると、安居酒屋ゆえのアンモニア臭がまた気分を悪くさせた。きりがない。いったん水を流したところでノック音が聞こえてきた。
			「あ、すみません、もう少し……」
			「いや、俺だ。水をもらってきた。うがいに使うといい」
			ドアを細く開ければルートヴィッヒが立っていた。差し出されたコップを受け取り、手洗い場で口をすすぐと、少し落ち着いた。
			「水はもう一杯あるが、飲むか」
			「あ……ありがとうございます」
			一歩下がったルートヴィッヒに続いてトイレを出ると、比較的清潔な空気が吸えてほっとした。渡されたコップをゆっくり傾けると喉を宥めるように水が体を降りていった。ありがとうございますと今度は頭を下げる余裕をもって告げると、少しほっとしたらしい顔でルートヴィッヒが言った。
			「帰るなら送ろう」
			「え?いえ、だいじょう……」
			ぶ、と言おうとして、その足がよろけた。
			「説得力が無い。鞄とってこい」
			はい、としか返事できなかった。
			
			
			都内のような公共交通機関の恩恵にはあずかれない土地だから、ほとんどの学生は周辺のアパートに居を構えている。方向が違うため通学路は重ならないが、数十分の遠回り程度で互いのアパートには行ける。とはいえ、部屋を訪問する理由などないから、正確な場所を聞いたこともなかった。自分だけが個人情報を知るのは悪いということなのだろうか、菊へのアパートの道すがら、ルートヴィッヒは自分のアパートの所在地を説明した。大学よりは駅に近い賑やかな辺りで、並びの店を言われればあの建物かと菊にも分かった。
			「ちょっと意外でした。少し不便でも静かな部屋を選ばれるような気がしてました」
			素っ気ない白さの街灯がぽつぽつと並ぶ道を歩くと、二つの影が前にできては横に回り後ろへ去って行く。顔が見えない気安さで、菊はそんな軽口めいたことを言った。
			「ほう。本田の中で俺はそういうイメージなのか」
			「違うんですか」
			その単語に記憶を刺激されたのか一瞬詰まって、「いや」などと咳払いをしていたルートヴィッヒだったが、やがて下を向いた。
			「すまない」
			「え」
			「知らないふりをしてしまって」
			「……そんな」
			鞄を握る手に力をこめて、絞り出すように菊は言った。
			「ずっと、君のことは気になっていた」
			「え……」
			思わず横を見ると、ルートヴィッヒは指で頬をかいた。
			「あのとき、俺は『気にしないでくれ』と言った。それは失礼な言葉ではなかっただろうか。まず第一に、同性愛者だと認識されることは『気にするようなこと』だと言ったようなものだ。そして次に……」
			ゼミ発表の時と同じように滔々と続いていく言葉に、菊は思わず瞬きをした。「君のことが気になる」と言われたかとどきっとしたのだが、またしても勘違いだ。似たような言葉で、全然違う。
			そして、言わんとするところは分かるが、普通の人なら気をもむようなところでもないだろう。「ホモかと思われた」といって怒る人などそこらじゅうにいる。「ヘテロかと思われた」時に「気にするな」と声をかけないのが通例なら、やはりそこには不均衡が、つまりは差別があるのだろう、そこがルートヴィッヒの引っかかりであったらしい。厳密な人だとは思う、けれども、菊でさえ最初は何を言われたのかとぱちぱちさせてしまった。なるほど、この少しずれたような生真面目さはいかにも彼らしい。頬の緩みかけた菊に、いきなり足を止めてルートヴィッヒは正対した。
			「次に、お前は、俺とお前の話をしたのに、俺は俺の話しかしなかった」
			「……」
			意味がとれず、菊はまた目をぱちりとさせた。
			「あー……。つまり、お前は、交際を申し込んでくれたわけだろう。俺はそれへの返事をしなかった」
			「……」
			今度の沈黙は、返答に困ったからだった。あれは「交際の申し込み」という言葉に値するものだっただろうか。少なくとも菊の側には、そのような高尚な願望はなかった。ただの刹那的な欲望でしかなかった。男性同士の関係とはそういうものだという刷り込みがあったのかもしれないが、継続的で精神的な交際など最初から期待してもいなかった。だからこそ、「そうではない」は既にして返事だ。
			何を言いたいのか分からなくて、菊はわずかに首を傾けた。
			「つきあって、くれるのですか?」
			できないんですよね?という反語疑問文は、しかしルートヴィッヒに複雑な反応を呼び起こした。
			「つきあいたいのか?」
			「え、……だって、私を抱けはしないんでしょう?」
			「だっ……、抱かれたい、のか?俺に?」
			その声に、菊は困惑する。今、確実に、この人は引いた。どんびいた、と表現してもいいくらいだ。それなのにそんなことを確認しようとする。
			「うーん」
			人差し指の関節をぐりぐりとこめかみに押しつけて、菊はなんと返事すべきかを考えた。
			「あの日は、とても肉感的な格好をしてらっしゃったでしょう。それでつい体を求めてしまったんですけれども。この大学で会う貴方に欲情することはないので、安心してください。あんな風に迫って困らせたりしませんから」
			説明にもなっていないが、菊こそ「気にするな」と言いたかった。それで若干自嘲気味の、または露悪的な言い方になった。ところが、ルートヴィッヒは実に微妙な顔をした。今現在、性の対象とされていないことにほっとしたような、しかし残念なような。しばらく眉間をもみながら考えて、ルートヴィッヒは言った。
			「……交際とはどのようなものだとお前は思う?」
			菊こそ眉間を揉みたくなった。話の小舟がどこを目指しているのかよく分からない。ともあれ、問われたので、自分の経験を思い返す。
			
			学部時代、四年近く付き合ったひとがいた。入学直後のオリエンテーションで親しくなった女の子で、どちらからともなく自然に一緒にいるようになった。カトリックの子で「結婚までは清らかでいたい」などと言っていた。だから、菊の「男女交際」のイメージは今時高校生でもないような純真なものだ。旅行に行ったりデートしたりはした。一緒に図書館でテスト勉強もしたし、彼女の部屋で手料理をふるまいあったりもした。こたつで寝てしまい、ふと目が覚めた夜中、思いがけず近くに彼女の頭があって、豆電球をうけてひかる彼女の産毛を見て幸せな気持ちになったこともある。
			「………他の人よりも数多く『普通』や『特別』を一緒に体験すること、でしょうか」
			満たされていると思っていたし、彼女から要求された約束なのだと思っていたから、一線を越えないことに疑問を持たなかった。まさか彼女が「本田君は私に欲情しない」と共通の男友達に相談をして、そのままお持ち帰りされてしまうなんて想像すらできなかった。友達だと思っていたその男が慰めの方便でなのか「ずっと一緒にいて手を出さなかったのは本田がゲイだからだ」などと言いだし、あまつさえ研究室中にそれを広めてしまうなど。こうして菊は、寝取られ男ではなく、ゲイの隠れ蓑に女を三年間付き合わせた卑怯者になった。どっちもどっちだが、前者ならまだ大学にはとどまれた。
			
			だから、やっぱり、それだけじゃだめですねと言い直そうとしたところに、「そうだろう」というルートヴィッヒの声がかぶさった。
			「一緒に飯を食べるとか、旅行行くとか。そうした日常と非日常の中で関係を深めていくのが交際ではないか。それは、親しい友人や研究室の仲間といだきあう感情と本質においてなんらかわるところはない。そうは思わないか」
			「……」
			ことの顛末から言えば、違うのだろう。まして破れかぶれな気分で新宿に行って発見した自分の性的指向から言えば、元友人の主張は間違いでもない。自分は、約束だから彼女に手を出さなかったのではない。出さなくていいことに安堵していたのだ。
			けれども、今「違う」と言えば、あの四年間に墨を塗ることになる。少なくともその一瞬一瞬、菊は幸せだったのだ。
			考え込む菊に、ルートヴィッヒは言った。
			「俺は、お前と一緒に『普通』も『特別』も経験したい」
			「え」
			「昼を一緒に食べたり、面白そうな映画があったら誘ったり、したい」
			「あ……」
			何度かもの言いたげにこちらを見ていたのはそういうことだったのかと菊は内心手を打った。
			そんなのは、彼の言うとおり友人や仲間とするようなことなのだから、交際とは何かなどと哲学的に考えるまでもなく、すればいい。それなのに、微妙な初対面を通過してしまったために、普通に誘えなくなってしまったのだろう。生真面目な人なのだ、と菊は改めて思った。そして、とても深く人を気遣う人なのだとも。
			菊はにこりと笑った。
			「誘ってください」
			「……」
			「交際とか、付き合うとか、そういうことはおいといて、私ももっと貴方と親しくなれればと思っていました」
			これはこれで真実だ。変なわだかまりがなければ――あの夜の出会いさえなければ、もっと自然に親しくなれるだろうに、なりたいのにと、人柄に触れるたび思っていた。
			「よかった」
			本当にほっとしたように、彼は笑った。そんな顔をすると、年相応の若さがほの見える。菊もまた笑った。笑ったまま、到着した菊のアパートの前で頭を下げて見送った。もうアルコールの気持ち悪さは引いていた。
			
			
			それまでに作ってきた習慣もあるから、劇的に関係が変わるわけでもない。それでも週に一度、二度は一緒に学食に行くようになったし、菊がパンを持参する日も作った。菊の通学路にはいい店がないので、市販のバゲットに簡単にハムなど挟んで持っていく。それでも、中庭の芝生に出て日に当たりながら食べればそれなりに美味しかった。食事なんて、味の半分は雰囲気だ。
			研究のことも、それ以外のことも、話すようになった。菊の実家が東京だということ、ルートヴィッヒの兄も日本で暮らしているということ。
			ルートヴィッヒの言う「ほんとうのパン」は、日本のパンが偽物だという意味ではなく、ドイツでよく食べられる酸味のある黒パンがそういう名前なのだという。
			「食べてみたい気はしますが……酸っぱいんですか」
			「日本人の口には合わないんだろうな。ドイツパンを名乗っている店でもおいてあるところは少ない」
			「東京ならあるでしょうけどね」
			「ある。行くと必ず寄る」
			よっぽど好きらしい。そう言うと、彼は首をかしげた。
			「好き、と認識したことはない……。日本人の米のようなものだろう」
			「なるほど。アイラブユーじゃなくてアイニードユーですね」
			ルートヴィッヒが瞬きをした。よっぽど発音が面白かったらしい。英語ではなくカタカナを言ったつもりだったから菊はふくれた。
			くす、と笑って、彼は内緒話をするように耳元に口を寄せ、「I need you」と囁いた。
			「……!やめてください、びっくりします!」
			耳を押さえて顔を赤くした菊に、ルートヴィッヒは噴き出した。
			「なぜ?俺たちは付き合ってるんだろう?」
			あの日の会話が彼の中でどう落ち着いたのか、彼は時々そんなことを言う。真顔の時もあるから、反応に困る。人がいるときにも平気で言いそうだったから、それは厳重に封印させた。
			「ドイツ語の方が良かったか?」
			「そういう問題ではないです」
			頬を膨らませた菊を尻目に、パンの最後の一口を食べ終えたルートヴィッヒは、袋を小さくたたみながら言った。
			「本心だがな」
			「え?」
			「いや」
			そろそろ戻るか、と立ち上がったルートヴィッヒの後を追いつつ、菊は痒いような、歯痒いような気持ちをもてあました。
			
			五月も半ばを過ぎた頃、話の流れで、菊の部屋に招いた。調査に行った先で歓迎を受け、キャベツを箱ごともらったからだ。その話を言い出した時点で、「じゃあ消費を手伝おう」という言葉を期待していた。
			葉の間に豚肉を挟んでととろみをつけて煮た一玉丸ごとのキャベツをわしわしと食べ進めながら、ルートヴィッヒは美味いと何度も言った。
			「……ルートさんは、どなたかとおつきあいされたことあるんですか」
			「うん?まあ……数人、だが」
			なるほど、恋人に手料理を振る舞われた経験のある人の立ち居振る舞いだなと思った。菊も厳しくしつけられたものだ。「いただきます・ごちそうさまだけじゃだめなの。ちゃんと美味しいって言わなきゃ!」――あの口調を耳に蘇らせても、前ほど心に波が立たない。時間薬というやつだなと思っていると、ルートヴィッヒがぽそりと呟いた。
			「そういうことは全然聞かないから、俺に興味がないのかと思っていた」
			「え……」
			顔を見ると、その立ち入った質問が不快ということでもないらしい。いや、むしろうれしがっているように見える。
			「そういうわけでは。外国の方とはプライバシー領域の線引きが違うと思ってみんな聞かないんだと思います」
			「みんなの話は、今はしていない」
			逸らそうと思った話はがっしりと引き戻された。あの歯痒さがじわじわこみ上げてくる。
			「じゃあ聞きますけど、皆さん、女性ですよね」
			「ああ」
			なのに、なぜ今私との間で、恋人然とした空気を作ろうとするんです?
			そう聞いてしまいたい。親密さが本質なのだと彼は言った。であるなら、線引きは端的に「するかしないか」にある筈で、それについてははっきり拒否されている。だったら菊も「仲間」の枠に入れておけばいい。
			「……料理上手でらしたのかなあと、思って」
			ゆるいごまかしに、ルートヴィッヒは首をひねった。
			「主観的にはともかく、客観的にも、本田の方がうまいな」
			「『主観的にはともかく』?」
			「主観的には、今好きな人が作る料理が世界一美味いのは当たり前だからな」
			さすがに、うなり声が漏れた。
			「どうした」
			言葉と気持ちをもてあまして、菊はまた唸った。この人に、頭の悪い言葉を投げかけたくはない。自分より多分深く考えた上で、この人はこうふるまっているのだから。
			けれども、白黒つけてしまいたい気持ちもある。
			菊が箸を置くと、食べ終わっていたルートヴィッヒもコップを置いて正対した。
			「私が、好きですか」
			「ああ」
			「私が、貴方を好きでもいいんですか」
			「もちろん」
			彼の顔に、嘘もごまかしもない。
			「彼女たちと同じように好きでも?」
			「ああ」
			含意が分かっていない筈はないのに迷いなく頷くから、菊はかっとした。
			「……彼女たちがしたかもしれないように、貴方に迫ってもいいんですか」
			「誰に対してであろうと、どう思うかの制限はかけられない」
			これもまた誤魔化しでなく、真実そう思っているだろうことを断言して、しかしと彼は続けた。
			「期待の表明は自由だが、期待に応えられるかどうかは別だ。期待されることを気持ち悪く思ったりはしない、むしろ嬉しい。そして、応えられないことを心苦しく思う」
			菊はため息をついた。
			「寛容さとは残酷なものですね」
			「誰に対してもそう思うわけではない。本田が好きだから、本田に対してそう思うというだけだ」
			「親友ということですか」
			「友達という枠の中の人なら、こんな風に踏み込んで欲しいなどと思わない。好きだと何度も言いもしない」
			「……」
			四年間の復讐を受けているのかもしれない、と菊は思った。自分のしていたことと、彼のしていることの何が違うだろうか。いや、約束に安住し自分に向き合うことを回避していた自分の方がもっと卑怯だ。
			
			「正直に言おう。初対面の時から好感を持っていた。だから、前にも言ったように、失礼なことを言ったのではないかとずっと考えていた。ここで再会してますます近づきたいと思った。本当に長い間お前のことを考え続けて、どうであればあの誘いにのれたのだろうとシミュレーションもした」
			そう言って、ルートヴィッヒは腰を浮かし、体を菊に寄せた。そして、菊の手に手を重ねる。
			「手は、掴みたいと思う。――いや、『繋ぎたい』?ともあれ、触れたいし、触れられて嬉しい」
			大きさの違いのせいで菊の手はルートヴィッヒに包まれてしまう。嬉しいと言いながら彼の手はほんのりと優しい暖かさで、手汗が気になりそうな自分とは全然違う。そこが、違いなのだ。
			「けれども、それ以降は、『したい』ではなく『これはできる』、『それならできる』の判断になる。そして、――最後は『できない』。とても口に出せないほどの、……申し訳なくて顔向けできないほどの妄想をしても見たのだが、結論は変わらなかった」
			そんなことをまじめな顔のまま言うものだから、菊は思わず苦笑してしまった。
			「……むしろ、ちょっと聞いてみたいような」
			彼は渋い顔で首を振った。
			「ドイツのアダルト産業をなめない方がいい」
			さすがに噴き出した。笑いがうつったのか、彼の眉間も少し開いた。
			「聞かないでおきます」
			「そうしてくれ。……ともあれ、お前がその一点さえ許容してくれるなら、交際に問題は無い」
			「セクシャリティをねじ曲げてもですか」
			「俺は、できないことはできないと言っているから、何も曲げていない。――お前が、その一点は必要不可欠だから自分のセクシャリティが抑圧されていると感じるなら、交際をあきらめるしかないが……」
			ぐっと手の力が増す。
			「そうなっても俺はお前が好きだし、お前をあきらめられないと思う」
			「……」
			僅かに顔が近づけられ、菊は手の中の拳を硬くする。
			「……逆質問になるが……、俺がお前を好きでもいいか」
			頷いたつもりだったが、更に顔を寄せられた。
			「返事は」
			「はい」
			気圧されるようにそう答えると、大きな息とともに頭が肩にのしかかってきた。
			「え、え?」
			混乱だけでなく物質的な重みもあって、菊の体はのけぞった。それにしがみつくようにしてルートヴィッヒは呟いた。
			「緊張した」
			「はい?」
			「……ガイジンがみんなイタリア人のようにスマートに口説けるわけではないんだ」
			「……」
			確かに、スマートという言葉では表現しにくい時間だった。思わず緩んでしまった顔を隠すように彼の頭に手を回しながら、彼そのもののような真摯な言葉が雪のように降り積もった平原を思った。
			
			
			曰く、シミュレーションで「多分できる」と判断した領域は相当広いという。試してみてもいいとルートヴィッヒは言うが、菊は首を振った。ないならないでも平気なのは、生まれてこの方の凪いだ人生で知っている。
			それでも、借りてきたDVDでうっかり泣いてしまったときに軽く肩を抱いてくれたり、こめかみに唇を落としてくれたりすると、胸がきゅっと締め付けられる。彼にとっては泣く子をあやすような動作なのかもしれないが、菊にとっては抱擁であり口づけだ。
			それこそ口に出して言えないような夢を見て自己処理した夜には疲れのようなものを感じて、滅入る。手の温かさや胸の厚みをリアルに知ってしまった今はなおさらだ。しかし、学部時代のような健全な関係に止める方が辛くないのはわかりきっている。そして、『普通』と『特別』をともに体験する際に、ルートヴィッヒは最良の相手だった。時には友として時には先輩として、そしてたまには恋人として、充実した時間を共にすごした。
			夏休みに入ってすぐ、本格的な調査に入る前にと半日旅行もした。山の中の小さな資料館が目当てだったので、常になく歩いて、帰りの電車では二人して寝こけてしまった。
			菊の頬についたシャツの跡を笑ってなぞりながら、ルートヴィッヒは言った。
			「うちに寄っていかないか。帰りは車で送ろう」
			「ああ、……お言葉に甘えて」
			菊の家は駅から距離がある。疲れているだろうに申し訳ないが、ルートヴィッヒはこういう場面で菊を甘やかすのが嬉しいらしい。そこはかとない高揚を目に表されると、菊もくすぐったくなる。二十歳過ぎて思春期みたいなことをやっっているなあと自分でも思う。
			遅い夕飯を駅前の弁当屋で仕入れて、並んで歩いて行くと、アパートの手前でルートヴィッヒが「あ……」と言った。
			「どうかしたんですか?」
			「ああ。兄貴が来ているらしい」
			「ああ」
			会話によく登場する人物だ。そこも、もともとその人が住んでいたアパートなのだという話だった。入れ替わりのように別の町に行ったという話だったが、そんなこんなで鍵を共有しているのだろう。
			「じゃあ、私は、ここで」
			「え、なぜ」
			「折角の兄弟水入らずですし」
			「来るのは、折角というほど稀じゃない。むしろ、折角の機会だから本田を紹介したい」
			「いやいやいや」
			何を言うかと目をむくと、ルートヴィッヒは不思議そうな顔をした。
			「言っていなかったか?兄は同性愛者だ。俺たちが付き合っていることも伝えてある」
			「えっ……そう、なんですか」
			同性愛に関して色々考えが深いと指摘した際に、家族の影響だろうと返されたことはあった。それがそういう意味だとは思わなかった。
			「お前が人に会うのが嫌ならまっすぐ車に乗るが……兄は理解してくれると思うし」
			そのあとはぼそぼそと呟くようにして言った。
			「自慢したい」
			照れがうつると同時に、ハードルをあげられて、菊は言葉に詰まった。どうしようかと迷っていると、目の前で窓の明かりが消え、ドアが開いた。細身のジーパンに薄手のシャツ、それに突っかけサンダルというラフな格好の人物がドアに手をかけたまま目を丸くした。
			「あれ?」
			「あ?」
			「ああ……」
			そうして、なしくずしに紹介される羽目になった。
			
			コンビニにアルコールを買いに行くところだったという彼、ギルベルトは、「3本買ってくるぜ」とウィンクして駆けていったので、ともあれ二人で部屋に上がる。
			初めて入る彼の部屋は、予想通り、何もかもが綺麗に片付いていた。2DKとなるのだろうか、椅子を勧められた広めのダイニングの他に、本棚で壁が埋まった部屋とソファなどの家具がある部屋があった。シンプルな色使いでまとめられていて、すっきりしている。家具の方の部屋には先ほどのギルベルトが持ち込んだものなのだろう、大きめのトランクが広げられていた。
			ダイニングテーブルに戻ったところで、ちょうどギルベルトが帰ってきた。ビールを買ってきた筈なのに息が弾んでいて、顔も少し赤い。
			「嬉しくなって、ダッシュしちまった」
			そう言ってくれて、彼は取り出した一本をまず菊の前に、それからルートヴィッヒの前に置いた。それから自分の前に置き、「乾杯しようぜ!」と言った。いやでも、炭酸……と制止する間もなく音頭をとられたのでつられて缶を手に取り、ぶつけ合い、さてどうしようと思っている間にギルベルトがプルトップを引いて盛大に泡を吹きこぼした。わあわあとその処理に追われているうちにおかしくなってきて、菊は笑い出してしまった。下げられたような、いやしかし上がったようなハードルに少し緊張していたのだが、騒ぎの中でそれが溶けたらしい。表情筋が固まり気味の菊を気にしていたらしいルートヴィッヒも頬を緩めて笑った。
			「わりーな、ビールかかってないか」
			「大丈夫です」
			それでも少しべたつく手を洗わせてもらおうかどうしようかと迷っていたら、ルートヴィッヒが「ああ」と声を上げた。
			「汗もかいてるし、いっそシャワー浴びるか?」
			「えっ」
			驚きの二重唱を受けて、ルートヴィッヒは目を瞬きした。
			「どうかしたか?飯を食う前に流した方がさっぱりするかと思っただけだが……」
			そうなのだろう。そこに性的な興奮はない。だからこそ平然と勧めるし、多分、着替えも貸してくれるつもりだろう。普通に、男友達にするように。
			菊は笑みの形を作って首を振った。
			「いえ……私、寝る前に浴びるので」
			「そうか。気持ち悪くなければ、いいんだ」
			「……」
			菊はちらりとギルベルトを見た。それをどう見たのか、ギルベルトは何気ない風で言った。
			「お前は飯前派だもんな。入ってくれば?その間に、なんか作ってる」
			「ん、そうか?」
			そう言いつつも、招いていおいて申し訳ない、という目で菊を見るので、笑って首を振った。
			「ルートさんが許してくださるなら、私も冷蔵庫のもので一品作ってます」
			では、と彼は浴室に消えた。
			
			「……」
			
			残された二人は、また目を合わせた。会って早々に二人きりという状況が気まずくないわけはない。ギルベルトだって多少はそうだろうに、にかっと笑い、彼は冷蔵庫を開けた。
			「あんまねーなー……。二品は無理だ、お前は座ってろ」
			「あ、はい……」
			ありがとうございます、ともそもそ言った菊を振り返らないまま、冷蔵庫に向けるようにしてギルベルトは言った。
			「お前さ。辛くねーか」
			「え」
			「もういい大人なんだから、ルッツのやることに反対も口出しもできねーけどよ。俺の聞いた話の限りでは、ちょい残酷じゃねえかって思った。それこそ、お前がいい大人なんだしさ。なのに、平気でさっきみたいなこと言うわけだろ」
			「……全部、聞いてらっしゃるんですね」
			「いや、全部じゃねーよ。どんなことだって、言葉にし尽くせない領域ってのがあんだろ。でも、ま、結構立ち入ったとこまでって意味なら、そうだな。男と付き合いたいって言い出したのにすげえびっくりしたから、つい根掘り葉掘り聞いちまった。俺がそっちだから、ルッツも聞きたいことも色々あったらしくて」
			「ああ……」
			『付き合いたい』、ということは、かなり早い時期から相談相手になっていたのだろう。軽く口に出されたのではない、多分、大切に思ってくれるからこそ、この人が自分たちのありようを知っているのだ。そして、同性に欲情する感覚をしっているこの人には、自分は同情されるような立場にある。
			「……」
			哀れみを向けられているのは分かるのに不快ではないのは、ルートヴィッヒを思わせる不思議な公平性のせいかもしれない。表情も年上とは思えないほどくるくる変わって、全般的に落ち着きがないし、最初の印象では随分対照的な兄弟だと思ったものだけど、内面にはやはり通底するものがあるのかもしれない。
			彼はバタンと冷蔵庫を閉めた。両手には卵とジャガイモ、冷凍食品の袋なんかが握られている。シンクに向かって、手際よく芋の皮をむきながら、彼は続けた。
			「でもって、俺が聞いている限りでは、あいつは自分の中で最良と思える結論に沿って動いてるから、辛いならお前が動くしかねえ。『お前が振る』以外で関係が終わる道筋ねえぞ」
			ビール缶を握る手に力がこもった。
			「……終わらせるべきだということですか」
			向こうを向いたままのギルベルトは、レンジをまわし、卵を溶く間黙っていた。そしてフライパンに卵だの芋だのを流し込んだあと、菊を振り返った。
			「べき論は、しらねえ。自分だったらそこでお前を口説かねーなと思うけど、あいつがやったことを否定はしない。あいつは今ちょー幸せなんだし。俺はどうしたってあいつの側にしか立てねえし。けど、やっぱりお前の状態ってすげえ辛いよなーって……」
			最後は随分小さな声になった。彼は気分を変えるようにくるりと踵を返し、火を止めに行った。「おお!」と満足げにフライパンをひっくり返し、スパニッシュオムレツを片手にギルベルトがテーブルについた頃、タンクトップにタオルをかけた姿のルートヴィッヒが戻ってきた。
			「あ」
			前髪を下ろした顔を見るのは初めてだった。視線に気づいたのか、ルートヴィッヒは少し照れたように手で髪をくしゃりとかいた。
			「なんだか恥ずかしいな」
			「いえ……」
			「おっさんくさかったのが、一気にかわいー顔になんだろ!」
			にかっとギルベルトは笑った。ええ、と、素直に笑顔を返す。いつもは撫でつけられているので意識しなかったが、髪は金糸のように細く、薄い色なのだった。さらさらしてそうだな、触ってみたいなと思う。思うだけだ。
			「あれ、もしかしてお二人、かなり似てますか」
			突然そう言い出した菊に、二人は顔を見合わせた。
			「もしかしてというほど似てなく見えたか」
			「印象が随分違ったので……」
			ルートヴィッヒはしないだろうことをいくつもされたから余計にそう思う。
			「あー、俺も今おろしてっからな」
			そういってギルベルトは髪を撫で上げて流し目をよこした。一変した表情にどきりとする。確かにフォルムは髪をあげたルートヴィッヒに近づいた。表情によっては「そっくりだ」と思っただろう。けれども、そんな肉食獣めいた目を、ルートヴィッヒはしない。
			動揺をごまかすように聞いた。
			「いつもは髪をあげているんですか?」
			ルートヴィッヒが頷いた。
			「バーテンだからな」
			そうなんですか、と頷こうとしたらギルベルトが「過去形な」と言った。
			「ん?」
			「ちょっとめんどくせーことになったから辞めた」
			「またか。……もしかして、逃げてきたのか」
			「あ、ばれた。しばらく避難させてくれ」
			「かまわないが……また刃物持って押しかけてきたりしないだろうな」
			「ないない。今度の男は、ここ知らねえから」
			へら、と手を振る。仕方ないな、との顔をしているのを見ると、こうして兄が押しかけてくるのも日常茶飯事らしい。住まいも仕事も変えるほどの『めんどくせーこと』が日常とは、なかなか波乱に満ちた人生であるらしい。兄弟、同じようで違うものだ。
			「なるほど、飲食店勤務でいらっしゃったのですね。とてもお料理の手際がいいなあと思っていました」
			食え食えと勧められたオムレツも、酒のつまみだからだろう、少し塩味が強めだが、酒のあてにはいい。
			そういうと、Vサインをしてみせて、「までも」とビールを呷った。
			「小器用なのは、親譲りかもな。ルッツも結構料理うまいし」
			「そうなんですか」
			あまりイメージになかったので驚いた。思わず顔を見ると、ルートヴィッヒは照れたように笑った。
			「おう。今度作って貰え。俺様もご相伴にあずかってやるからよー」
			けせせ、と笑って、彼はまたビールをあけた。
			
			
			飲んでしまったので、「車で送る」は無しになった。当然一人で帰るものと思っていたが、ルートヴィッヒは「送る」と主張し、連れだって歩くことになった。深夜になったとはいえ、平和な地方都市で、帰路には街灯もある。か弱い女性でもないのだから送られる必要はないし、そのあと同じ距離を歩いて帰らせるのも申し訳ない。そう言って辞退しようとしたのだが、思いがけない強さで押し切られた。
			「いや、単に」
			ルートヴィッヒは小さな咳払いをした。
			「一緒にいたくなっただけだ」
			「今日ずっと一緒だったじゃないですか」
			旅行先は人気の無い山中だったから、今日一日の中で「二人きり」の時間の方が長いくらいだ。
			「そうなんだが」
			先ほどの夕餉だって、ルートヴィッヒが「三人」を望んだはずだ。口にはしないものの、その「はてな」が顔に出ていたらしい。ルートヴィッヒはしばらく眉間にしわを寄せていたが、ややあってぼそりと口に出した。
			「……本田が、兄さんの方ばかり見ていたのを、自分でもおかしなくらい、拗ねている」
			「え?」
			「いや、仲良くなってくれて本当に嬉しいんだが……」
			前髪をぐしゃぐしゃとかいて、ルートヴィッヒは「忘れてくれ」と言った。
			「……」
			確かに、体の向きからして、若干ギルベルト寄りだったかもしれない。しかし、それについての文句は菊の方にある。言っても仕方ない、そして言えない文句だが。
			自分の家だからだろう、ルートヴィッヒは表情も格好もくつろいでいた。クーラーをつけるほどではないぎりぎりの暑さ、風呂上がりにタンクトップというのは理にかなったものだ。けれども、忘れていたあの日の空気が湯のせいでむわりと立ち上っているように感じた。露わになった上腕に、布にぴったりと覆われた胸。一片の無駄もない張り詰めた筋肉。彼の体自体が放つ色気のせいで、首から下には目をやれなかった。色々考えた上で――ギルベルトの言う「辛さ」もこみで、形而上的な付き合いを受け入れたはずなのに、自分の体はなんて動物的なんだろう。
			ちらりと隣に目をやる。今は麻のようなシャツを羽織っていて、いつもの先輩然としたルートヴィッヒだ――髪は下ろしたままなので、若々しく見えはするけれども。この人と共に過ごす穏やかな時間を、自分はとても大切に思っている、それは間違いがない。
			「私、ルートさんが、好きです」
			突然の言葉に、足まで止めたルートヴィッヒだったが、やがて顔を真っ赤にして頷いた。
			「ありがとう。言葉にしてくれて、嬉しい。俺もお前が好きだ。……子供っぽい嫉妬をして、申し訳ない」
			菊は首を振った。
			フィールドに入るのはいつからですか、など、当たり障りのない会話に持って行きながら、菊は伊弉諾と伊弉冉の会話を思った。「余っているもの」「足りないもの」という発想は、完全体を前提にして出てくる。伊弉冉はなぜ自分の内蔵を「満たされるべき空虚」ととらえたのだろう。そこが満たされた記憶もないままに。
			なぜ自分は、誰とも体験したことがない行為について、それが欠けていると思ってしまうのだろう。自分の中に無い経験であるならば、それを含まない「完全」に満足すればいいものを。
			理屈ではそう思う。けれども、存在自体でそれを論破してしまう、体の中の滴がある。伊弉冉とは作られ方が違う自分は、満たされる器さえ持たないままに、ただ体の涙を捨てるしか無い。
			
			
			数日後、ルートヴィッヒはフィールドに向かった。二週間ほど泊まり込むという。
			毎朝毎晩、秒の狂いもないほど正確にメールが来た。菊も、図書館とアパートの往復でしかない生活から送る言葉を見つけ出そうと、回り道をして路傍の花を撮ったり、入ったことのない店に入ったりした。
			ある夜、店主にやる気が無いことで有名な喫茶店兼バーに足を踏み入れた。美容的には食事をしないほうがいいという時間帯で、けれどもそれまで集中して資料を読んでいたから、もう料理を作る気力も無かった。前に一度来たことがあって、カロリーでいえば軽食を摂取できるメニューがあった記憶がある。
			「おー」
			ひらひら、とカウンターの中から手を振ったのは、ギルベルトだった。清潔そうな白いシャツに黒い長エプロンで、軽く髪も整えている。驚いていると、「バイト、バイト」と言いながら水とおしぼりをカウンターに置いた。テーブルも空いているのに勝手に席まで決められてしまった。
			「今日、バイト三日目なんだけどよ、初の客ゼロを体験するとこだったぜ。来てくれて助かった。何食う?」
			「はあ……マスターは」
			「店しめる時には戻ってくると思うけど」
			なんともおおざっぱな話だ。それでは食事は無理かと肩を落としていると、「いや、そこに書いてあるくらいなら作れるだろ。材料がありさえすりゃな」とメニューを出す。基本が喫茶店だから、たいして種類はない。コンロの火も落としてありそうなくらいだから、揚げ物も手間だろう。なんとなく簡単そうに見えたので、ピザを頼み、あわせてビール瓶を一本お願いする。アルコールが欲しかったわけでもないが、臨時バイト氏のために客単価をあげておこうと思ったのだった。
			「っしゃー」と軽く請け負って、ギルベルトは足下の冷蔵庫から具材や生地を取り出して、素早くトッピングを始めた。温めておいたオーブンに投入したあと、今度は野菜を取り出して付属のミニサラダを作り、お通しのナッツと一緒に出す。そして一杯注いだグラスと、瓶。いただきますと一口飲んだ頃、涼しい音がなって、焼きたてのピザが出てきた。やっぱり手際がいい。男の人がきびきびと動く姿は、なんとも格好いいものだなと思う。
			生地もソースも出来合のものなのに、焼きたてだからか、なかなか美味しい。満足げに頬張る菊を余所にまな板を洗っていたギルベルトだったが、お互い一息ついた頃、「あのな」と言った。
			「この前の話したとき、『別れろ』って言ってるように聞こえたか?」
			「え……」
			「そういうつもりは無かったんだけど、後から考えて、そう聞こえたかもなーって。気にかかってた」
			自分の発言を後々まで反芻するのはこの兄弟の癖なのだろうか。
			「……辛いならそういう手も有りだと言われた、と思ってます」
			「あ、そう、そう。別の手ももちろんありだ。お前が辛くないようにして付き合いを続けてくれるのがルッツにとって最善だろうと思ってる。勧めはしねえけど、裏で上手に遊ぶんだって、この場合ありだろ」
			「そんなことしませんけど」
			へえ、と声に出されたので、むっとする。
			「そんな節操無しに見えますか」
			「あ、いや……。悪い。でも、一回覚えると、お預けって結構辛いもんじゃね?受ける側なら余計に」
			「覚えて、ないですから」
			「えっ」
			「そういうこと、したことないです」
			「えー!」
			声が大きくなってしまって、慌てたようにギルベルトは自分の口をふさいだ。菊は頬を膨らませて、ビールを注いだ。童貞で悪かったですね、と言いたいが、その単語で合っているかどうかよく分からない。
			「いや……なんか、お前は相当慣れてるって前提でいたわ。そういう話、しなかったのか?」
			「言って楽しい話じゃないですから」
			いや楽しい楽しくないじゃなくてよ……とギルベルトはもごもごと言いつつ尻ポケットから財布を取り出した。取り出した硬貨をレジに入れ、サーバーからビールを注ぐ。律儀な人だ。黄金比に注ぎ分けられたビールをぐびりと飲んで、ギルベルトは息をついた。
			「だったら、百年前の男女交際みたいなことやってねえで、少しずつ試してみりゃいいのに」
			少しずつ、例えば抱きついて。例えば、唇をつけて。多分、それを許してくれるだろう。喜んでさえくれるかもしれない。性欲はないのに、独占欲はある人だから。そうやって寛く寛く自分を受け入れてくれる人が、最後に体の反応で拒絶するのかと思うと、怖くてとても踏み出せない。
			残りのピザは流し込むように食べた。スツールを降りてレジに回ると、ギルベルトが頭をかきながらやってきた。
			「まじめな話、男同士ってのは、インサート無しってのも普通にある。お前が上って選択肢だって……まあ、そりゃないか」
			ルートヴィッヒの体格の話だと思ったのに、ギルベルトはちらりと菊を見る。首をかしげていると失言を誤魔化すようにちろりと舌を出した。
			「この前うちで飲んだ時、お前、ルッツ見ながらすげえエロいオーラ出してたから。あーこいつ根っからのネコだなと思った」
			「えっ」
			「つうか」
			ギルベルトは言葉を切って、さっと目線を上下に走らせた。細められた目は、あの日見た肉食獣のそれで、目に舐めあげられたような感覚に菊は身じろぎした。
			「食っちまいたい気にさせんだな。人前で酒飲む時は気をつけろ」
			「なん……」
			羞恥で真っ赤になった菊に構わず、釣り銭を渡して、ギルベルトは気のいいお兄さんの顔に戻ってひらひらと手を振った。
			
			
			ポケットに釣り銭を突っ込んで走るようにして帰ったから、気づいたのは二日後だった。何度数えても、硬貨が多い。きちんと値段を覚えてはいないが、ピザにビールに席料なら釣りはほとんど出ない筈では無いか。ビール代を取り忘れられているような気がする。
			携帯を見て、日付を確認する。やはり、まだルートヴィッヒが帰ってくるまで数日ある。会えるなら、なんとなくメールで伝えそびれたギルベルトとの再会のことにも触れて返却を託せばいい。その方がいいと思いながら、菊はまたあのバーのドアをあけた。
			「いらっしゃいませ」
			ラストオーダーだろう時間ぎりぎりを狙ったのに、店内にはまだ人がいた。人がいなければ精算だけすませて帰ろうと思っていたが、カウンターの女性客と話が弾んでいるようなので、壁際のテーブルにそっと腰を下ろした。何も頼まないのも悪いかと、一番上に書いてあったシングルモルトを指さした。はい、と営業用らしい笑顔で素早く注文に応え、ギルベルトはまた女性客の方に戻った。どうも口説かれている最中らしい。
			「いやー、俺、女性と長続きしなくて」
			「そうなの?モテるでしょ」
			その声にあれ、と、菊は頭をもたげた。聞き覚えがある声だった。ギルベルトは自嘲するように笑った。
			「モテてもそっこう振られるっていうか」
			「何それ、かえって気になる。……どんななのか、見てみたいわぁ」
			肘を突いた手に頭を乗せてそう言ったのは、やはり、研究室の先輩女子だった。
			「……」
			この場面で挨拶をするのが正しいのかどうか判断しかねて、菊はぼんやりと二人を眺めた。その視線に気づいたギルベルトを見て、彼女は振り返った。
			「あ、本田君だあー、お久しぶり!」
			「どうも」
			スツールをくるりと回転させてとんと降り、彼女は菊のテーブルに近づいた。両手をテーブルについて、その間に胸を挟んでつきだしてみせる。こういう仕草はこの人にとって自然になってしまっているのだろうか。菊にも分かる、ギルベルトにコナをかけていた筈なのに、まるで自分まで誘われているようだ。
			「さっきからずっとこのウェイターさん口説いてるのにはぐらかされっぱなしなのー。慰めて?」
			「え、と……」
			基本的に苦手な彼女に、しかも八つ当たりのようなことを言われて、菊は困惑した。
			「『よしよし』…?」
			慰めろというからにはこういうことかと手を伸ばして頭を撫でると、目を丸くした彼女が一拍おいて噴き出した。
			「なにそれ、本田くんてば、かわいいい!」
			そこに水を入れたグラスを二つ持ったギルベルトがやってきて、一つはテーブルに、一つは菊の頭の上にごんと置いた。
			「天然かよ」
			「何すんですか」
			「チェイサー忘れてた」
			「普通に渡してください」
			そのやりとりを見ていた先輩は、指で交互に二人を差し、「知り合い?」と聞いた。
			「はあ、まあ」
			「ふうーん。紹介してくれたり、しない?」
			「いや、この人は……」
			紹介とは、名前や素性を告げろという意味ではなく、引き合わせる努力をしろということだろう。明らかに自分より二人の方が恋愛偏差値が高いのだから、巻き込まずに当人同士で解決してほしい。
			彼女が知らなくて自分は知っている情報で、今ここに開示して事態を改善できるものなど、何かあるだろうか。困り果てて、菊はぼそっと言った。
			「……この人は、多分、本当に男女交際は得意じゃないと思います」
			「うっせえ」
			ヘッドロックをかけられてしまった。わあわあと言い合う二人に興が冷めたのか、先輩は「もういいですー」などとふくれた声で帰って行った。
			笑顔で見送ったギルベルトは、彼女の後ろ姿が見えなくなるや否や、ドア部分のシャッターを下ろし、札をClosedに返した。
			「……なんかすみません、うちの先輩が」
			「お前が謝るとこじゃねーだろ」
			そう言いながら、やはりポケットから小銭を出してビールを注ぐ。その表情にはちょっとした「うんざり」がにじみ出ている。そしてジョッキを持ったまま菊のテーブルに来て、前の席にどかりと腰を下ろした。
			その様子に、ここに来た目的を思い出して、菊は小銭を取り出した。
			「詫びに、おごったつもりだったんだけどな。レジはあってる」
			「貴方がわびるところでもなかったような」
			「……気を悪くしてねえんなら、いいけど」
			大きく喉を鳴らしてギルベルトは数口ビールを飲んだ。そののど仏の動きをぼんやり見ていた菊は、ジョッキがテーブルに置かれる音にはっとした。
			「二人のことに余計な口出しして悪かったな、であって、変なこと言って悪かった、じゃねえぞ。男も女も関係ねえ、食う気あるやつには分かるオーラ出してんだって、お前」
			「……」
			強く迫られるのが苦手な菊には、何とか出さないように封じたいオーラのようだ。眉間をしかめて飲んでいると、ギルベルトがぽつりと呟いた。
			「そう言ったのに、飲みに来たから、食ってくださいって言ってんのかと思った」
			「なっ」
			何を言うかと気色ばんだのに、ギルベルトの表情は変わらない。
			「多分、そう思ったのは、そういう手もあるよな、と思ってたからだ。――俺ならお前を抱いてやれる」
			「わ、わたしっ」
			そう言いつつ、顔が赤くなるのが分かった。そんなつもりはない、そう断言はできるけれども、ちらりとも考えなかったと言えば嘘になる。いや、ギルベルトの言葉は想像外だった。兄弟最優先の彼がそれを言い出す筈はないと思っていた。それでも、彼の仕草の一つ一つに酩酊を感じていることはうっすらと自覚していた。
			「暗くすりゃ、そんなに違わねえ。顔も、体も。……お前、あいつの体、好きだろ」
			そういう問題では無い。無いけれども――。
			今、付き合っているのはルートヴィッヒで、好きなのも彼だ。けれども、最初に誘いをかけたとき、ルートヴィッヒの何を知って声をかけたわけでもない。ただあの肉体に魅了されただけだ。
			そして、みないふりをしてきたけれども、ギルベルトの上半身も随分鍛えられているようなのは、なんとなく分かる。多分、脱がれれば、あの日と同じように腰が砕けるだろうとさえ思う。服を着ていてさえ時々目が奪われる。まして、ギルベルトは刃物で追いかけられるほど愛されるような恋愛経験の持ち主だ。職業柄磨かれた色気は、ルートヴィッヒの比では無い。
			何より、この人は菊の情欲を感じ取ることができる。情欲でもって応えることもできる。
			「初めてだって言うなら無理のないようにもしてやれるし、快楽の極みにつれていってやることも俺ならできる。お前がほしがってる『自分への欲情』なら、今すぐにでも見せてやれる。――ただし」
			息も継げず聞いていた菊だったが、その低い声にはっとさせられた。
			「あいつのようにお前を愛しはしない。百パー、同情だ」
			「……」
			
			体はやれるが心はやれないという兄に、心しかやれないという弟。なんてひどい人たちだろう。
			今こうして「その選択肢」を聞いているだけで――いや、一瞬想像してしまっただけで、恋人を裏切ったような罪悪感が胸をさいなむ。そうでありながら、息を吹き込まれた熾火が、腰の辺りで赤く揺らめいている。中途半端に目覚め、それなのに強引にまぶたを閉じさせられた自分のセクシャリティが、悲鳴をあげるように「それ」を求めている。
			自分を体と心に引き裂ければいいのに、そしたら二人それぞれに飛び込めるのに。
			ポケットに手を入れ、携帯電話を握りしめる。
			ルートさん。助けてください。私を動物にしないでください。
			そう思う一方で、動物であったからこその縁なのだと思いもする。しかしすぐに、けれどもこの地で作ってきたのはもっと清純な思い合いなのだと首を振る。だけど、自分のからだを誤魔化し続けることはどこまでできるのだろうか。――そして、愛を裏切るこころはどれだけ痛むのだろう。裏切られた過去を持つ自分は、そのとき、自分をも傷つけるに違いない。
			「……百、は言い過ぎかな。8割、くれえかな……」
			「え」
			菊の呟きを聞かなかったようにギルベルトはジョッキをあけ、「さ、閉店!」と立ち上がった。
          
           
          
                     
          たとへば君 ガサッと落ち葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか(河野裕子)