・ご本家で扱われた(し私も二次で書いた)ネタの、史実側に寄せた話です。
・一般人フランス兵士視点で、ほとんど国出てきません。
・苦手な方はお戻り下さい。
遠く地球の裏側までいけばシノワズリだのといってもてはやすくせに隣の国なら鼻で笑わずにいられない、それは多分フランスという国がなんとなく身につけている「そぶり」なのだろうと思う。骨髄からしみ出すその感覚のせいで、学校時代、ドイツ語を習っていると言うと仲のいい友達にさえ「馬の仲間入りか」などとからかわれたものだ。
僕だってフランスが一番だと思っている。それは祖国を愛すべきとか優先すべきとかそういう判断によるものじゃなく、当たり前にそう認識している。もちろん、それは僕がフランス社会によって作られた感性とフランス公教育によって作られた理性で判断するからだと分かっているが、それでも、フランスさんがとびきりのいい男だってことは世界のどこに生まれた誰であっても認めないわけがない。
そのフランスさんは、自分たちの塹壕からは一キロほど後ろの仮設司令部にいるはずだ。「人間が死ぬようなことでは死なないから」と平気で前線にやってくるフランスさんに、もしかしたら同じテントで「イギリスさん」がやかましく言っているのかもしれない。そちらには会ったことがないけれども、あの国の体現であるなら、多分シニカルで、戦略的で、……時々そんなイメージを自分でひっくりかえすような、捻りのきいたひとだろうと思う。
「異常ありません!」
索敵要員が上官に告げる声が届いてきた。
「分かった、しかし、総員油断するな!」
「はい!」
唱和で答え、銃床を抱え直す。打ち合いの続いていた砲撃はしばらくやんでいる。急に攻撃されるとは考えにくいが、戦場であるのだから緊張を欠いてはならない。壕の壁にぴたりと胸をつければ、その冷たさが軍服越しにしみいるかのようだった。
ふと思う。
この鉄条網の先、百メートルもすれば敵がいる。僕たちと鏡あわせのように壕の中で前方を睨んでいる。その男の軍服も、この寒気を吸って重く冷たくなっているに違いない。その中には――僕がヴュルツブルクですれ違った男もいるのかもしれない。いや、同じ大講義室でヴィーン氏のノーベル賞記念講演を聴いた物理学の徒もいるのかもしれない。
いきがかかって銃身の鈍色が白くくもる。
隣とはいえ国境の向こうだからそう何度も行ったわけじゃない。それでも顔見知りもいて、また尊敬している学者もいる。向こうからこちらの大学にきていた友達もいた。国に戻る列車に乗り込みながら、彼は手をさしのべた。
「クリスマスにはまた会おう」
ああ、と強く握り返して小さくなっていく列車を見送った――数ヶ月前のその日が、霞むほど遠くに感じられる。あの頃は、そのうち終わるだろうと思っていた。前近代じゃないんだから、戦争なんてそうそう続けられないはずだ。
予想を簡単に裏切って、戦争熱は燃え上がり、また終わる気配を見せない。今、彼はどこでどうしているだろう。帰国以後の行方は知れない。百メートル先でこちらに銃を向けている可能性だって無いわけではない。点ほどにしか見えないその黒々とした穴から飛び出した弾がまっすぐこちらを打ち抜くことさえ。
――人間が死ぬようなことでは死なないというなら、フランスさんは直接「ドイツ」と撃ち合っても死なないのだろうか。血は噴き出さないのだろうか。それとも血が出ても、出ても、出ても、死なないのだろうか。そこに痛みはありながら。
人の存在と国の存在は同値ではない。人がいて初めて国が存在しうる。そのはずなのに、そしてそのどちらもが形を持ち体温を持つというのに(握ってもらったフランスさんの手は、暖かだった!)、死の在り方だけが決定的に違う。国は、たくさんの兵士を殺させて、自分が死ぬことはない……
大きくかぶりを振った。今考えるべきことではない。国は人の必要条件かもしれないが、その国の元でしか現代の人は生まれない。人を生かすのもまた国だ。死ぬこともできないのに戦うことの苦しさもあるだろう。もはやただの人にはうかがい知れない境地であるけれども。彼らは、その意味では、神の領域にあるのかもしれない。
砲身に額づいて心に神を思う。この冷え冷えとした戦場を天上の神はどんな心持ちで見下ろしているのだろう。
「………?」
最初は心の中でオルゴールが鳴ったのかと思った。微かに、歌が聞こえる。神に捧げる歌が。
顔を上げて見渡すと、同じように首を回した戦友と目が合った。幻聴ではない。耳を澄ます。曲はもちろん知っている、「Douce nuit, sainte nuit」だ。けれども、どこか違う。突然、気づいた。
「……ドイツ語だ」
「え?」
隣で戦友がかすれた声を返す。
「……Schlaf、……in himmlischer Ruh……Schlaf in himmlischer Ruh!……向こうの塹壕で歌っているんだ」
慰問歌手なのだろうか、朗々としたその響きは、百メートルの距離を越えて、敵と味方の境を越えて粉雪のように塹壕に降ってきた。懐かしいその響き。馬のような言葉だと揶揄された、いや、荘重で厳粛な言葉。
「そうか、今日はノエルだった……」
隣でぼそりと呟く声がした。
聖なる御子の生まれた日。同じ月同じ日なら同じくらい寒かったろう、しかし火を噴く筒などない世界で、地上にもたらされた救い。そしてその誕生を祝う暖かな炉辺は、去年の自分たちが持っていたものだ。ツリーにリース、マーケットで買ってきた小さな人形、切り分けられたブッシュドノエル。はぜる薪、駆け回る子供の甲高い声。この手にないものが次々と浮かんできて、脳の中を一杯にしていく。やめてくれ、無いんだ。そんなものは、ここには無い。幸せなノエルなど。
ぐ、と奥歯をかみしめた時、隣の男がかすれた声を出した。
「Douce nuit……」
「おい」
制止の声が飛んだ。しかし、彼は続けた。
「sainte nuit !」
やがて声は二重唱になり、三重唱になった。
「C'est l'amour infini, C'est l'amour infini!」
歌はだんだんと大きくなり、そこに英語でも、ドイツ語でも始まった合唱が重なった。
一人、二人と、手を上げた兵士が塹壕から体を現した。制止の声はまた響いたが、もう止めることはできなかった。そして、敵方の塹壕からも、抗戦の意思のないことを手で示して歌いながらやってくる兵士がいた。五十メートルずつを歩きあって、とうとう彼らは、並び立ち、手を、握り合った。
わあ、と地鳴りのような声がした。次々と兵士たちは塹壕を抜け出した。そして中間地帯で、駆け寄ってくる「敵」と、手を握った。ふと振り返ると、驚いた顔で走ってくるフランスさんが見えた。慌てる指揮官たちを手で制して、何が起こったのかと辺りを見回していたフランスさんは、やがて遙か前方に目をとめた。隣にいたひとも――あれが「イギリスさん」なのだろう――口を引き結んだ。やがて彼らは兵士たちが肩をたたき合う中間地帯へ歩き出した。首を巡らせると、その歩みの先に、じっとこちらを見たまま立ちつくす青年がいた。
歩いて行くフランスさんの背中から、空に目をあげた。
冬の空はやはり寒く、雲は厚い。塹壕の土は冷たくて、鉄条網はとがっている。
けれども、今は確かにノエルなのだ。ノエルは人を安らかにさせるものだが、そのノエルを創り出したのもやはり人だ。フランスさんが、イギリスさんが、そしてドイツさんがそうであるように。
僕たちの、小さな生が、そして死が、――悲しみが、喜びが、彼らを作り上げている。
「Frohe Weihnachten!」
せめて今日このひとときだけでも、僕らと彼らが、安らかでありますように。
人はしも神を創りき人をしも創りしといふ神を創りき(香川ヒサ)