※ご注意
・付き合ってない、自覚も無いくらいにふんわりと両片思い。
苦手な方はお戻り下さい。
「菊ちゃん」
「はい」
「体育の日ってオリンピック開会式の日がもとじゃなかったっけ」
「はい……今は移動祝日ですが……」
「日本の夏は苛酷だからって秋にやったんだったよね」
「はい……」
「ちょー暑いんですけど」
「は……恐れ入ります……」
宜しければどうぞと差し出されたハンカチにメルシと手を挙げて、フランシスは汗を拭った。流石に十月、日本丸ごとミストサウナかと突っ込みたくなるような夏の高温多湿には及ばない。とはいえ、この国で真夏日と規定する最高気温三十度を上回る暑さに思わずまくった腕で額をぐいと拭いたくなる。
ふらりと訪ねた雷門は改修中で、有名な提灯は垂れ幕の写真。気分が下降線の所にたまたま出会った菊にも太平洋高気圧はどうともできなかろうに、つい口を尖らせてしまった。
返したハンカチを菊はそのまま懐にしまわず、すっとこめかみに当てた。涼しい顔に見えるけれども、汗ばんではいるらしい。大人げなかったなと肩をすくめる。
「そりゃ桜もうっかり咲いちゃうよね」
「一度ぐっと冷え込んだ後でしたからね」
苦笑いに苦笑いで応えて、菊は顔の前でぱたぱたとハンカチを振った。
「アルフレッドならアイスアイス!って喚くところだよな」
「ああ、確かに冷たいものを食べたくなるくらいの陽気ですね……あ」
菊はぽんと手を打った。
「宜しかったら、おそば食べ……あ、あ…」
しゅうんと手が降りていく。
「どしたの」
「麺物は、アレですよね」
「んー?」
欧米の方には、とあきらめ顔をするのに、フランシスはばちこーんと片目をつぶった。
「美食の国フランスは美食追求の国でもあるんだよ?麺を啜る嗜みくらい持ってるって」
とはいえ、「すする」という行為は、礼儀作法の問題以前に、できるできないの問題でもある。そのように喉を使う習慣が無いために上手く奥に流し込めない欧米人が大半だ。それができるフランシスは、つまり、密かに練習もしたのだ。
「ツユは、先だけつけるんでしょ」
菊が案内したのは、すぐ近くの、いかにも古くからこの地で営業をしているといった感じの店だった。昼ご飯には少し遅い時間帯だからか、観光地にしてはさっと席に着けた。こうした下町らしい慌ただしい雰囲気もまた味わいのうちだ。渡された手ぬぐいを使いながらそう言うと菊は小さく目をはった。
「よくご存じですねえ」
胸元で音をたてず拍手する菊に、フランシスは思わず鼻が高くなる。
知っていますとも。パスタとソースのようによく絡んでるのがベストと考えてはいけないのだ。それには蕎麦つゆは醤油が強すぎる。じゃぽんと浸すのではなく、ちょっとつける、それが粋。
『この長い奴へツユを三分の一つけて、一口に飲んでしまうんだね。噛んじゃいけない。噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつると喉を滑り込むところが値打ちだよ』
ソーセキがこんな風に書いていた。どうよこの情報収集っぷり。
「とはいえ、ですね。長いのをもってその先だけをつゆにつけて食べると、最初口の中につゆの味が全く入ってこないことになりまして。なので、最近は全部浸しちゃう人多いですね」
かく。梯子を外されて蹈鞴を踏む。菊はすみませんというように頭を下げた。
「でも、折角ですから最初の一口だけでも迷亭君に倣ってみませんか……あ、きましたきました」
そばが運ばれてきた。菊のは普通のもりそばだが、フランシスにはエビ天がついてくる。名物ですから是非食べて戴きたくてと、菊は髪を揺らしてにっこり笑う。サバでものりそうな長い皿の端から端まで存在感を示す天ぷらからはごまの香りが立ち上る。
「フクイクタルってやつだねー」
「ほんとに、よくご存じで」
日本語のオノマトペの見事さは逆に漫画翻訳のハードルになるほどだけど、普通の副詞でも時々感覚と音の響きがぴったりしていて感動するものがある。馥郁というのもこのふわっと鼻に届いて肌に馴染んでいく感じをよく表している。
その天ぷらに箸をのばそうとして、いやいやと思い直す。「折角ですから」と菊は言った。何がどう「折角」なのか。そんな話題を出したからか。いや――
一番粉なのだろうか、ほとんど真っ白な細い麺がうねる中に箸を差し入れ、そっと摘む。どれだけ練習してもカトラリーのようには扱えない、少しだけ力んだ指を割り箸は柔らかく受け止めて、一口には少ないほどの束を摘み上げた。それをネギもわさびもまだ入れないつゆの中に一瞬つけて……一気に口の中へ。
「うっわあ……」
まさに馥郁たる、だ。口の中に蕎麦の香りがすっと広がって抜けていく。後から追いかけてきた本鰹のつゆが塩味を求める舌を宥め、そのまま喉に押しやっていく。
「『秋新』の香りを分かって下さるとは、さすがフランシスさん」
嬉しそうに手を合わせて、菊も蕎麦を啜った。
思わず心の中でガッツポーズ。「折角、秋にもりを食べるのですから」。
蕎麦の収穫期は夏から秋にかけて。なかでも秋は香りが高いので有名だ。わさびだって楽しめるくらいにツウだけど、それこそ最初の一口くらいは何の薬味もなしに蕎麦そのものを味わいたい。そして――
何気ない風を装いながら、さり気なく手を拭き直したりして、最初の一口を遅らせ、フランシスが食べるのを見守っていた菊。この味が分かって貰えるかどうか、そんな期待を抱かせたのは相手が自分だからだと自負していいだろう。その期待を表に出さないようつとめて、「欧米の方には」この僅かな香味が分からなくてもがっかりしないようセーブしていたのも、やはり相手が「フランス」だから。
折角、フランシスさんなのだから――期待したい、でも、だからこそ、がっかりしたくない。
小皿の中身を蕎麦猪口にあけて、次の一口を啜る。わさびがぴりりと鼻に抜ける。西洋わさびとはまるで違う、強い刺激と高い香味。
「……」
色んなものがこの国は違う。出汁のとり方も、穀物の調理法も、人との距離のとり方も。
繊細すぎる、と言えなくも無い。面倒だと思う奴もいるだろう。
けれども、
「流石に、うまいね」
そう言った時に菊が見せる満面の笑み、
「はい!」
という言葉の弾み。
それはフランシスの心をふんわり持ち上げる。
料理は国境を越えるというけれども、実際には慣れ親しんだ味覚の枠を壊すのは大変なことだ。けれども、それを越えたところに、今まで知らなかった味があり、笑顔があり、幸せがある。
それを知るためのわずかの努力――箸の練習や未知の食材への挑戦――が必要経費なら、コストパフォーマンス絶大ってとこだ。
何と言っても「折角」と言って貰えるのが、期待して貰えるのが嬉しい。
そして、可能なら同じ喜びを与えたい。
「菊ちゃんは、蕎麦粉は基本これにするんだよね」
「え?そば切りということですか?ええ、そうですね。麺にした上での調理法はたくさんありますが、粉の処理としては。そばがきを出す店もそれなりにありはしますが……」
「お兄さんとこではこれでクレープつくって卵とかチーズとかのせて食べるんだけど」
「は!写真で見て知ってます、ガレットとかコンプレットとかいう……」
「台所貸してくれたら簡単に作ってあげられるけど、どう?」
「ぜひ!」
日頃は真っ黒に見える目が輝いている。
同じ喜び、とは言えないかも知れない――なぜなら不安の色が全くない。期待百パーセントの視線、けれども、それはプレッシャーではない。ヤッテヤロウジャナイノの気合いを入れて、フランシスは次の一口を勢いよく啜った。