・普日パラレルで80年代後半?の新宿?でバーテンダー?×客。
・愛とか恋とかいう以前。ハッピーエンドの範疇には入りません。
・ネタバレ?ですが、男、は日本さんです。
・苦手な方、不安を感じた方はお戻りください。
髭の出した採用条件が「極力しゃべるな」だったので、バイト中はメニュー以外の日本語が分からないフリでいつもグラスを磨いていた。半地下の薄暗い店内では磨かれたグラスはよく光る。照明にかざしてその光彩を確認し、棚にきっちりと並べていく作業は好きで、だから裏方オンリーのバイトにも不満はない。新宿の奥まった場所にある割には客も多い。フランシスが店長代理だかになる前からずっと留学生崩れがやってるから、においをかぎつけて「ガイジン」が集まってくる。日本が好きでやってきて、好きで留まっているとはいえ、そういう排他性にちょっとうんざりする日もあって、そういうのを酒で流し込んでしまえる場所――そんなにおい。
だから日本人の客は少なかったけれども、フランシスの顔と愛想にだまされるらしく、カウンターできゃあきゃあ頬を染めるような若い女もよく来ていた。「慧眼っぷりに自分でほれぼれするね」と時々フランシスは言う。「ほんと、黙って立ってりゃいい看板になんのよ、お前は」。意味わかんねえと思うけれども、飲食店の経済効率についてはフランシスの方が詳しいわけだから好きにマネジメントすればいい。俺はバイト代が貰えればいい。
とはいえ、たまには気になる客も来る。
日付の変わる頃にふらりと来て、シュナップスを飲みに来る男がいた。続けて二晩来ることもあれば数週間顔を見ないこともある、けれどもいつも黒紺茶またはドブネズミ色のスーツを着てスツールに腰を下ろすとあー…といいながら首を回す。ジャパニーズサラリーマン・エコノミクスというやつだろう。この街に何百何千といるだろう平凡なその男が、妙に気になっていた。
理由の一つは、よく地図を見ているからだ。リキュールグラスが半分空いた頃、男は胸ポケットから地図を取り出す。接客業として許される範囲で観察していると、その地図は大抵ヨーロッパ周辺部のもので、しかし新しいものもあればえらく古いものもあった。古い、というのは紙の色や質感でそう思ったのだけど、手洗いにたった隙に見てみたらなんとドイツが分断されていなかった。生まれる前の地図を肴に酒を飲むとは渋い趣味だ。と思いきや、セントクリストファー・ネイビスが国として書かれた大西洋地図を眺めていたりもする。
店が暗いからか、時には眼鏡を掛けて、その男は地図を見る。都市名を辿るように指を滑らせることもある。最初は、出張先を確認しているのかと思ったが古い地図を見ることもあるのだから、まあ、趣味なのだろう。行きたいところなのか、小説で出てくる街なのか。いずれにしても、男の指が触れるのはドイツ近辺であることが多い。当然、気になる。
「いいか、約束忘れんなよ」
フランシスに釘を刺されたのはもうどれくらい前だったか。
「あんだよ」
「客に話しかけるな」
傍目で分かるほどうずうずしていたのだろうか。
「だってさー。もしかしたら向こうだって嬉しいかもしんねーじゃん?興味のあることについて知ってる奴がいたらさ。俺様、故郷(くに)のことなら何でも教えられるぜ!」
ぷっぷくぷーと口を尖らせると、フランシスは大きくため息をついた。
「お前がそんなんじゃなかったら、当然、話しかけてみろって言うよ。俺としては、常連客の餌を潰す訳にはいかないのよ」
「あ?」
「あの客は、間違いなくお前目当てで来てるからね」
「ああ!?」
「前から不定期に来てたけど、お前がバイト入ってからは絶対その曜日に来てるし、時々見つめてるし」
「あ!?知んねーぞ?」
「気づかれないようにするの上手いんだよ。それでも愛の天使・お兄さんの目はごまかせないけどね!」
「愛っておま…」
だってあいつ、男じゃねーか。ぎゅっと眉間に皺を寄せて言うと、フランシスはいやいやと手を振った。
「映画スターに憧れるってのなら別に同性相手にでもあるでしょ。そういう目線なの。ていうことは、余計にお前の残念な中身はご披露できないわけよ」
残念ってどういうことだと口を尖らせると、ぴしりと指をさされた。「そういう顔。アイドルはしないでしょ」。
スターはともかくアイドルはそもそも柄じゃねえだろと思いつつ、雇用主の意向に従って、黙っている。言われて意識したからだろうか、確かに視線を感じる。それも、あら探しをするような観察のそれではなく、うっとりと、またはぼんやりと眺めるような視線だ。まー、俺様かっこいいからな!と思いはするが、落ち着かない。表情には出さないし、作業も淀みなく続けるけれども、心のはしっこで、何かが積もる。ふわふわしたそれは、照れにも似て、苛立ちにも似ている。
多分、それらが積もり積もってあふれ出た日だったのだろう。俺は口を開いた。
「あのさ」
「え。……はい」
「お前、俺に会いに来てんの?」
奥のテーブルで接客していたフランシスが横目をくれたのは見えたが、無視する。
男は、ぱち、ぱちと瞬きをした。
「なぜ、その質問をしたか、聞いてもいいですか」
「仕立てられた虚像のために浪費するのむなしくねえかと思って」
男は、予想に反して、ふむ、と面白そうに腕を組んだ。
「それは、貴方がオーナーの?要求に従って、何らかのイメージ操作をしていたことを意味しますね?貴方はこれまでそれに従順だった、だってイメージは一貫してましたから」
気圧されて、頷く。こんな、詰め将棋みたいにぴしりぴしりとしゃべるところを見たことがなかった。
「偶像(アイドル)の反逆と言えば、本性が封印されることで見失われる自我同一性の回復運動というのが定番ですが……それにしては選ばれたようなマイナス価値の言葉遣いが気になります」
真っ黒に塗り込められた瞳は、しかし上目遣いで、面白そうに輝いている。
「敢えてする挑発的な言葉遣いは私を怒らせて店に来させなくするためで、それは、店としての損得勘定より私の懐への思いやりが勝ってるということですね」
「ちっ、」
ちげーし!と言う前に、男は微笑んだ。
「君は、面白い人ですね」
がりがりと頭を掻く。
「酒が美味いとか、食いもんがうめえとか、そういうんで来てんだったら、いーんだよ。確かにうめえよ、ここのは。高いけど、そりゃバブルだかのせいだ」
「すみませんね」
男は首をすくめる。謝ることじゃない。
「しかし、それこそ時節柄、もっと高い店はそこらじゅうにありますよ。いわゆるぼったくりバーは別にしても、遊興の場で、店員さんの接客も含めた雰囲気に対してペイするのは当然ではないですか?」
むう、と唸る。
「接客は、そりゃ、対価の発生するサービスだけど。対価に見合うサービスを提供できる器量がないから、俺は黙ってろって言われるんだろ」
にこり、と男は笑った。
「対価に、というより、需要に、ですね。この場の需要と、そんな風にしゃべる君は、確かに釣り合っていないかもしれません」
じゃあ、とリキュールグラスを軽くもてあそぶ。
「君の言う虚像にペイしている男がいたとして、それが苛立たしいのは結局なんでなんでしょうね?黙っていることが接客なのだと君は理解していて、接客は金銭の見返りがあっていいと思っているなら、そのまま搾取し続ければいいじゃないですか」
ゆら…んと、グラスは大きく傾く。中身は少ない。けれども、それがこぼれそうで思わず足が浮く。危ういところで透明の酒は重心を取り戻す。
「いわゆるアイドルだって、歌唱力やら演技力やら以前に夢を売る商売でしょう」
「そいつらは、そうだと分かって芸能界入ってんだろうよ」
「じゃあ、結局のところ、貴方に虚像を売る覚悟がないってことになりませんか?」
いや、そりゃちげえだろ、と反論しようとして、詰まる。
意味がわからねえ、と言いながらも、まるっきり分かっていなかった訳じゃない。もとからの常連客はともかく、日本人の若い女を店に呼ぶにあたって客寄せパンダになるってことだろうとは思っていた。とにかく、日本人には滅多にないカラーリングなのだから。言いつけのまま黙っていた俺は、つまり、着ぐるみを着てバイト代を貰うことを肯っていたわけだ。
思考が透けて見えるかのように、男はによっと笑う。
「ええ、君は、とても格好いい」
「ち……っ」
くそう、と頭をカウンターの仕切りに打ち付けると、笑うような動きで、男の指が俺の髪を摘んだ。
「ちげえんだ……。俺のかっこよさはこういうんじゃねえんだ……」
髪の一束をくるくる回していた指がとまる。
ややあって、ぽつりと声が落ちた。
「ええ、知ってます。貴方の格好のよさは、素の貴方自身にある」
お前が俺の何を知ってるっていうんだ、着ぐるみしか見てねえじゃねえか、と言おうとして、気づいた。
貴方、は、君、じゃない。
「貴方が幻想でもって私を搾取しても、私の幻想で貴方自身を搾取しても、私は構わない……それで繋がれるのなら」
男の声はとても小さく、一番近いところにいる俺にさえ、聞かせるつもりはないようだった。
俺は額を仕切り板につけたまま目を閉じた。
持っていたつもりの覚悟を押しつぶしたのは、こいつだ。ただの客になら着て踊ってみせるつもりの着ぐるみを脱ぎ捨てたい気にさせたのは、こいつだ。
こいつに、「素の俺自身」を、見て欲しくて、俺は。
クーデターは、戦術的には成功し、大局的には、舞台そのものが崩壊していた。
こいつは、最初から虚像しか見る気がなかったのだ。
干したリキュールグラスの下に札を置いて、男は立ち上がった。
「また来ますよ。五分の一くらいは、虚像でない君に会いに」