・pixivの「デコボコ春の桜まつり100th:『Axis Powers ヘタリア』における日本からアメリカに友好親善のシンボルとして1912年に桜が贈られ、今年100周年を迎えた事を祝すタグ」企画に参加したもの。
・主張するのが憚られるくらいにうっすらとですが、Hextbookリクエスト(大岡信「言葉の力」)を承けてます。
・2012.4.1にUPしたのですが、2011年4月時点のお話。
・大事なことなので二度言いますが2011年4月時点のお話。
・苦手な方、不安を感じた方はお戻りください。
すぱんと障子が開き、菊の春眠は破られた。それを繕おうと布団の中に潜り込みかけ、三秒後、全身の意志力をかき集めて身を起こした。
「おはようございます、アルフレッドさん」
「おはよう、もうそんなに早くないけど。今から出かけられる?」
分かっている、これは質問ではない。
「やっと戴いたお休みなのです……」
言外に、だから寝させてくれとの意味をひたひたに含ませて言ったが、「そうなんだってね」と明るく返された。ため息一つ、で諦めるつもりが、かなり長々とした呼気になった。仕方が無い。アルフレッドへの恩義は、今、山より高い。人なら、一生かかっても返せないほどだ。もっとも、人ではないからこそ恩義の桁が違う訳だが。
「どちらへですか」
さりげなく掴んでいた布団を引きはがされ、しかし丁寧にたたんだそれを「勝手知ったる」で押し入れの上にあげながら、アルフレッドは振り返って笑顔を見せた。
「さくらを見に行こう」
休息を犠牲にしてまですることが遊興とはと、菊は抵抗した。抵抗はしたが、「勝手知ったる」で衣装ダンスの前まで連れてこられ、その間にとぽちの留守用フードも用意され、あげく「車回してる」とすたすた、そのまま玄関先でずっとエンジン音を聞かせているのだから仕方が無い。諦めたつもりだったけれども、シートベルトを締めながら愚痴がこぼれでた。
「……流石に、花見をする気分ではないのです」
和服で来たのか、とアルフレッドはちょっと意外そうな顔だ。別に山登りするでもあるまいに。
「ああ、うん」
桜をと連れ出しておきながら「うん」とは、何に対する肯定なのかと顔を見ると、アルフレッドは存外真面目な眼をしていた。
「花見じゃ、ない」
長い付き合いでアルフレッドの勝手には慣れた。何をしたいのか知らないが、こういう顔をするからには、何か確固とした目的があるのだろう。考えてみれば、東京の桜はもう終わりを迎えようとしている。桜の散り際を愛でる心性はあるものの、いわゆる「花見」にそれは向かない。
寝ていていいよ、と車は高速に入っていったから、遠慮無くまぶたを下ろす。満開の桜を味わおうとするなら北に向かわなければならないが――そう考えて、きゅっと胸が締まる。
眠りが浅いのは年寄りの証拠というが、それだけでもあるまい。湯たんぽを仕込んだ布団の、端の方の冷たさに寝返りで触れてはっとするような、そんな夜が続いている。私の中に、寒さも、暖かさもある。安堵も、絶望も――
――眠れない、と思っていたはずなのに、車の小さな振動のせいか、いつの間にか寝ていたらしい。目を閉じたまま何と無しに周りの気配を探る。時々スピードが変わるから下道に降りたのだろう。アルフレッドさんは鼻歌を歌っている。そして、フライトジャケットをかけてくださったらしい、少し重い、少しにおいもする。そして、暖かい。
鼻歌は、サウンドオブミュージックメドレーなんだな、と菊は気づいた。
You are sixteen, going on seventeen……
ぼんやりと考える。
あなたは19歳、私は、……
突然車は方向を変え、き、と止まった。思わず目を開けると、「ごめん、起こした?」とアルフレッドは片手をあげた。
「ちょっと待ってて」
そのままドアを閉めアルフレッドを見送り、そのまま目線が行く先に向かって、菊は思わず笑った。なるほど、おやつを調達したくなったのだろう。
アルフレッドが戻ってきてもまだその笑みが消えていなかったらしい。紙袋を渡しながら「どうしたの」と聞いてくる。
「牝鹿じゃなかったんですか」
「ん?」
イグニッションキーを軽快に回して、車をスタートさせ、ん、と手を出してくるから、菊は紙袋の中のコーヒーを渡した。
「ドはドーナツのド、だったんでしょう?」
今の連想ゲーム。そう言ってオールドファッションを渡すと、「聞いてたのかい」と肩をすくめられた。
「reがlemonなんてありえないよ全く君はRとLがって散々けちをつけてらっしゃったくせに」
「いや、そうなんだけどさ」
がし、と頭を掻いて、アルフレッドはぶすりと言った。
「君がね?作ってくれるときいつも歌うだろ」
「え?」
「だから、刷り込みが入ったんだよ」
「え?」
「刷り込みって分かる?」
「分かりますよ、そうじゃなくて。……歌って、ます?」
「うん。菜箸振ってさ、すごく楽しそうに」
顔が赤らむのを感じて横を向いた。揚げ物は、鍋を見つめながら待つ時間がどうしてもできるから、ついつい指揮棒代わりにしてしまっていたのだろう。
「陽気な食べ物だからね、あの歌似合うよね」
「ですよね!」
言い切って誤魔化し、自分用だと見切った焼きドーナツをほおばる。さくさく、ふかふか。確かに、心が楽しくなる食べ物だ。
「……我ながら、……というのも変な話ですが、あの歌の翻訳はかなりいい出来だと思うのです」
「ん?」
「日本語はどうしても音節が多くなりがちで、一単語あたりに必要となる音符が多い、よって原曲のもつ世界を表現しきれないことが多いのです。でも、原曲のように音階と一単語が対応してこそいませんが、意図は完全に再現しているでしょう。小学一年生でも絶対知っている単語の語頭で、しかも、仰ったように非常に晴れやかな単語ばかりです。みんなでドーナツ、青い空にラッパが響いて幸せ」
ふんふん、と日本語歌詞を思い返していたらしいアルフレッドは、やがてにこりと笑った。
「君にも、ドーナツは幸せのおやつなんだね」
「……」
虚を突かれ、もう一口かじる。ベリーの甘さが舌にしみいってくる。
「学童疎開に行っている時、とても食べたかったものなんだそうです」
訳した人がそう言っていました。付け加えると、しばらく黙っていたアルフレッドは顔を前に戻し、静かに聞いた。
「……君も、食べたかった?」
苦笑し、手を振る。
「私が、そんなことを思う訳には――」
「菊」
言葉を遮られた。
「近代刑法の原則は、行為主義だ。生存している人間の、行為によってしか裁くことができない」
「存じてますけれども」
「言っちゃいけないことはある。言うべきでないこともね。でも、思っちゃいけないことなんて、ないよ」
「――」
ドリンクホルダーに置いていたコーヒーを、一口含む。
心の中は裁けない――人はそうでも、私もそうだろうか。今私が「楽しむ」こと、「しあわせ」を感じることは、人のそれと同じに許されるのだろうか。今も配給の十分行き届かない避難所はある。輪番停電はやっと停止になったばかり、電力危機はまだ去ってはいない。
しなければいけないことが多すぎて、したいこともしたくないこともよく分からなくなっている。
ただ、花見については「したいけれども自粛する」のではなく、本当にそんな気分になれなかった。したい人には是非してもらいたい――経済を冷え込ませたくないというのではなく、日常に戻す装置としても、年中行事はいつものようにしてもらいたい。体の半分は概ね平年通りだからもう少し気分が落ち着いてもよさそうなものだけれども、むしろ花を見てもその明るい光景のなか沈み込むだけだった。
さくり。
揚げていないドーナツは年寄りの胃にも優しい。
「とりあえず――」
「うん?」
「最初にそちらで頂いた時の味は覚えてます。ふわっふわでしたね」
「ああー…、クリスピー・クリームができたばかりの時だったっけ。食べたねー」
まだ、ぎりぎり、険悪とまではいかなかった頃のことだ。いや、いっちゃってただろうか。新しい友達ができて浮かれていたからよく分からない。けれども、洋服の流行や珍しい食べ物なんかは色々アメリカから流れ込んできていた。ジャズ、ダンス、アニメーション――少しだけ気持ちが過去を遡る。
『ショートケーキ』を作ったのはもう少し前だったか。フォークを入れて、そのふんわりとした手応えに珍妙な顔をしたアルフレッドに、ショートっていうのはね、と説教された。いいじゃないですか美味しいんですからとぼやいたら、ちょっと間を置いて、にんまりされた。「君も生クリームの味が分かるようになったかい!」なんて、年上に向かって生意気な。いや、そんなの出会ったときからそうじゃないか――そんなことを思ったのは、もう百年近く前なのか。
「懐かしいですね」
菊がそういうと、アルフレッドは頷いて、続けた。
「今の日本人には、まだ新しい味だけどね」
菊も頷いた。かのドーナツは、アメリカでは超老舗のポピュラーブランドだが、日本上陸はつい五年前だ。
「懐かしくて新しい。そういうことを楽しめるのも、『国』ならではだと思わないかい?」
ええ、まあ、そうですけど。
千年単位の先達に生意気いいますよね、ほんとに。菊は苦笑した。
看板がちらほら見えてきて、菊にも目的地が分かってきた。花見ではないとアルフレッドは言ったが、ここは有名な桜のあるところだ。今年の観桜会は中止と聞いているが、桜自体は咲いているだろう。
首を傾げつつ、車を降りる。中央高地はやはり温度が違うと、温度差に一瞬首をすくめた。「寒い?」と聞かれたので「いいえ」と首を振る。新素材が和装の下で良い仕事をしてくれている。
「あの」
「なんだい?」
「花見じゃないと仰いませんでしたか」
「うん、花は見られないと思うよ」
「……?」
岐阜市内では桜は咲いている。それよりは標高の分遅いはずだけれども、流石にもう咲いているのではないか。首を傾げる菊に、先に立つアルフレッドは振り返って笑いかけた。
「うん、そっちも後で見よう。すごく古いんだってね」
「そうですね……樹齢1200年ほどでしょうか」
中将湯で知られる中将姫ゆかりの伝説を持つ桜で、名を中将姫誓願桜という。彼女が、婦人病から救ってくれた観音様のために植え、祈った桜だといい、1929年に天然記念物に指定されている。花弁が細かく二十、三十と重なり、近くで見るとまるでサクラソウのようで、世界的にも珍しい。葉と花が同時に出るのはヤマザクラ由来だからだろう、実に可憐な姿だ。
「しかし、その花を見ずに、何のためにわざわざ?」
アルフレッドはひょいと肩をすくめた。
「君が昔言ったんだけどな。桜色に糸を染めるとき、使うのは花じゃない、その木の皮だって」
「ああ――」
確かに、桜の幹は花の色を準備しているかのように、開花の前に色づく。三月も晦日に近づくにつれ色めいていく桜並木を見るだけで気持ちが華やぐ。それは、そうなのだけど。菊が首を捻ると、手招きをされた。
「こっち」
アルフレッドが案内したのは境内の裏手、確かにそこに花はなかった。あったのは2mほどの、
「若木……?」
「うん。二世だよ。ほら、花伝説の」
「……ああ……!」
それは三年前、ある宇宙関連企業が行ったプロジェクトだった。
宇宙を身近に感じて貰おうと、日本各地から花の種を集め、それをシャトルで打ち上げる。国際宇宙ステーションの日本実験モジュール「きぼう」で6ヶ月保管された種は、JAXAの若田飛行士とともに地球に帰還、各地に戻り蒔かれる。すみれなどは各地での返還式を行う前に発芽したもので、宇宙すみれと呼ばれ去年も花を咲かせたはずだ。
桜は、もちろん、そう一足飛びはいかない。芽を出し、幹をつくり、枝を伸ばすまでに年単位の時間がかかる。まして。
「中将姫誓願桜は……今まで全く発芽したことがなくて……」
「そうだってね。伝説なら1300年、少なくとも1000年、子供を作らなかったこの桜が、宇宙を旅して、命を芽吹かせることにしたわけだ」
「ええ……」
発芽のニュースは聞いていた。それ以外にも、宇宙桜と称されるこのプロジェクトを経た桜の種はいろいろと不思議を引き起こしている。
かがみ込むと、根元であっても、「幹」という言葉をあてるのは烏滸がましいほど、まだその木は細い。けれども、確かにそこにある。
「ただ往復の手伝いをしただけだけどさ、俺も少し関わってるだけに、一度見てみたかったんだ。――そして、君にも見て貰いたかった」
「――」
「花はまだだけど、ちゃんと生まれて、ここで生きてる、伸びてるって。君の言った、桜の木の皮の色で」
「――ええ」
ぎゅ、と額を膝にすりつけた。
せわしさの中で意識からこぼれ落ちていた命。
1000年、たくさんの人が死に、たくさんの人が生まれた。
100年、たくさんのものをうしない、たくさんのものを得た。
「わたし」の中で、けれども生まれる命は個々に唯一性をもち、それぞれの喜びと悲しみがある。悲しみに飲み込まれて喜びを押しつぶしてはいけない。思っちゃいけないことなんてない。
「わたし」が今悲しんでいるとしても、疲れているとしても、どうか、その喜びを消さないで、上を向いてください。この桜のように、空へ、空へと――
長い間黙って横に立っていたアルフレッドが、ふいと隣にかがみ込んだ。
「あのさ」
「――はい」
「県の農業試験場で接ぎ木の二世を育てているらしくて、そっちは一輪だけ咲いたらしいよ。見に行く?」
「ええ」
よし、と勢いよく立ち上がり、少ししびれていた菊には手を貸して、アルフレッドは言った。
「来年は、君が桜をくれてから100年だ」
「あ――そうですね」
よいしょ、と立ち上がって、けれども載せたままだったその手が、ぎゅっと包み込まれる。
「来年、君がそんな気持ちになれていたら、盛大にお祝いしようね」
「――ええ」
ふうわりと笑んだ菊に、少し照れたように笑って、アルフレッドは歩き出した。
「ドーナツ、たくさん食べよう」
……それは、年寄りの胃には……。苦笑しつつ、小走りにアルフレッドに追いついて、菊は心の中でだけ呟いた。
また百年、紡ぎましょう。桜色に染めた糸で。