その手に吉あらんことを

 

※ご注意
・ちょっとした特殊設定ありです。
・付き合ってないです。
曖昧な書き方で恐縮ですが、危険を感じた方はお戻り下さい。


 

「いらっしゃいま……」
せ、の音を出す前に胡乱なものをみる目つきになってしまった。不歓迎を顔全面に書き表したが「客」はそれに頓着せず「Hi!」と手を振った。
受付カウンターから少し身を乗り出し、ついとジャケットの襟を掴んで引き寄せ、囁く。
「どうしてここに――というか、どうしてここが分かったんですか」
空気を読んだわけでもないだろうが引き寄せられるままに顔を近づけ、同じくらいの音量で「客」は答えた。
「だって君だもん、分かるさ」
「でも『私』じゃないのに……大阪君ですか?それとも上司?黙秘するよう何度もお願いしていたのに……!」
「それより、俺、『お客様』なんだけど。『君』じゃない人に襟首掴ませたままでいいのかい?」
慌てて手を離し、けれども体勢はそのままに小声でぴしゃりと言った。
「まだ受け付けてませんから、お客様じゃありません。お引きと」
「あ、いらっしゃいませー!」
く!空気を読むのがわが国民の基本スキルじゃなかったですか!ぐぎぎと音が出そうな勢いで後ろを振り返ると店長がにっこり笑った顔でもう一度「いらっしゃいませ!」と言った。読んで貰いたかったのに読んでしまった、これは「客を逃がすんじゃねえ」の空気だ。
「………いらっしゃいませ」
「うん」
得意満面にパイでもぶつけてやりたくなる。
「お名前をお書きください」
受付カードを差し出すと、アルフレッド・F・ジョーンズとさらさらと署名し、希望コースに丸をつけるところで首を傾げた。
「どれが一番長い?」
「お急ぎでしたら簡単ケアコースで」
「一番長いのを聞いたんだぞ」
また小声になってしまう。
「そんな暇はないでしょう、超大国様に」
ちちち、と指を振られる。
「俺のとこではね、休暇をきっちりとれないのは無能の証なんだぞ」
こんのやろう。『今の私』の前でそれを言いますか。返されたペンでハンドマッサージ込みのプレミアムコースにがっと丸をつけ、店長に見えないよう気をつけつつ死んだ目の笑顔を向けた。
「……施術を担当いたします、サトウヒサシです」

 

ブースに案内し、椅子にかけたアルフレッドは、最初に聞いた。
「ここなら『菊』って呼びかけてもいいだろ?」
「……ええ、まあ、他には聞こえませんね」
ロビー階のブースが埋まっていたため二階に案内した。そのうちこの階にも他の客が通されて来るだろうが、今のところ貸し切り状態だ。
「よかった。この前言い間違えたとき思いっきり足踏まれたもんな!」
「そもそも、サトウさんの職場に貴方が来る必要がないんです」
「いいじゃないか、俺が休日にどこの店に行こうと」
言われるまま手をハンドピローに載せたアルフレッドの手を簡単にアルコール消毒する。慣れた様子で、ネイルケアは初めてではないのだと分かる。ビジネスマンが手先を整えるようになったのはかの国ではもう大分前だから当然か。
「長さを整えていきますね」
やすりをかけ始めると、小さく口笛を吹かれた。
「慣れてるね。プロみたいだ」
「プロです。サトウさんの技術はこの店で一番です」
「いや、君がさ」
ちょっと手を止め長さを確認して、OKをもらえたので次の指に移る。
「前にもご説明させられました通り、流石にこういうお仕事の時は『私』の『手』は出していません」
アルフレッドはちょっと首を傾げた。何かと思えば「……それ、敬語としてあってる?」などという。知るもんですか。

 

田んぼ仕事ならずっとやってきた。
東京千代田区どまんなかにも小さな水田があるし、菊の庭にもまねごとレベルの菜園はある。五十年ほど前に機械化が進んだとはいえ、基本的なサイクルは変わらない。だから、農業は分かる。
林業水産業も昔からの伝手があるから、時々出かけていって誠に非力ながら手伝うこともある。こちらも確かに変化はあるが、仕事そのものは分かっている気がする。伝統工芸の類いもそうだ。手先は器用だから簪の細工なんてしれっと江戸の店に並べられるくらいだった。
けれども近代以降、産業構造は大きく変化し、かつ多層化した。一方菊は、国家としての仕事が激増し、そうしたことに時間を割けなくなった。
戦後、軍事という国家専権事項をしないことになって、以前より少し暇になり、ついでに国家主導の経済復興も目処がついてあとは民間に任せればいい、となった後、菊はその「民間」のことをしみじみ考えてみた。当時の基幹産業といえば製炭に紡績、しかし掘る方も紡ぐ方も、今のやり方はよく知らないなあと思ったのだ。ただの糸紡ぎならやり方は分かる。けれども『モダン・タイムス』に描かれた、人間が機械の一部となるような労働現場を自分は知らない。
そこで、ほんの短期間だけ見習いとしてあちこちに潜り込むことを始めた。減ったとは言え国の仕事が無くなったわけではない。とれるのは数ヶ月に一度、せいぜい一週間だから、少しは仕事ができるようになったと思ったらもうタイムアウトだ。その上、折角だから色んな職種を試したいと欲が出たところに、国家資格の壁が立ちはだかった。

 

ファイリングが終わった手をお湯に浸し、ふうと息をついてアルフレッドは言った。
「初めて『とりついてる』君を見たときはびっくりしたよ。布団の中でぴくりともしないし、ていうか息してなかったし、死んでるかと思った」
「……まず、人が布団に入っていて案内がなかったのなら勝手に家に入らないでください」
「だって、独居老人の孤独死とかこの前ニュースでやってたし」
「私は死にません」
「うん、まあ、死なせないけどね、俺が」
アルフレッドの目を見返す。そこに「金蔓」の文字が現れていないかと思ったのに、にっと笑う青年の目はどこまでも澄んだ空色で、腹の底が見えない。

死んでいる「私」を見つけたと驚愕した彼は、揺さぶろうとしたらしい。間一髪で間に合った大阪君の抑止により事なきを得た。憑依している時に本体が大きく動かされると戻れなくなることもある。
後でアルフレッドは「大阪君はニンジャの末裔かい?」と真面目な顔で聞いていたが、何があったのだろう。ともあれ、そんな脱線に誤魔化されず、アルフレッドはことの次第を聞き出すまで諦めなかった。
つまり、職業体験の一環で、職業人の誰かに憑依したまま一週間ほどをすごすことがあることを。

「アルバイトのような未熟練労働は『本田菊』でやってますけどね。一週間でやめざるを得ないので流石にお店に渡りをつけた上でですが」
そう聞いたアルフレッドがによによ顔でコンビニに現れて以来、しばしばその職場にやってくるようになった。医者や介護士に取り憑いた時には流石に来なかったけれども。遠回しに、いや割とあからさまにやめろと言っているつもりだが馬耳東風だ。
「でもさ、これなら君自身でできるんじゃないの」
これ、はネイリストということだろう。確かに国家資格保持者以外は就けないというタイプのものではない。
「技術職な上に接客業ですから。最前線の人でないと体験の意味が無いし、一方、最前線に出るだけのレベルに至るのも大変です。だから、こういうタイプのお仕事では大抵肉体感覚を分けて貰うだけで、基本的には『私』がしゃべることもありません」
感覚を貰ってしまっている分、その期間本人の技術力のラインは上げ止まりしているのではないかと思う。その分疲労感を引き受けているから相殺としてほしいと勝手に思っている。
「ある程度は取り憑き安い人――つまり私自身に体格その他が近い人に入ってますけど、ともあれ顔かたちが違うのに、本当によく、まあ、…」
今回のサトウさんだって、顔も雰囲気も違う。客観的に言ってイケメンのリア充さんである。それなのに最初から「これが本田菊だ」と分かっていた様子だった。
呆れているのだ、と表情にはっきり現したのに、アルフレッドはにっと笑った。
「だから、俺が君を分からないわけないって」
「そうですか」
つまり私の極秘スケジュールなど筒抜けだと言うことだろう。同盟相手の超大国様の要求に逆らえというのも大阪君には無理なお願いというものだ。
「緊急事態には中断しないといけないから、そのためだけに、どこに行ってるか伝えているんですけどね……」
だから貴方がからかうために聞き出すような情報ではないのだと言ったのに、アルフレッドはきょとんとした。
「緊急事態?ミサイルが飛んできたとか?」
「……洒落になりません」
「そだね」
ちょっとだけ『本田菊』に戻って深いため息をついたら、ぽんぽんと頭を撫でられた。一瞬目を閉じて掌を感じ、すぐサトウさんに戻る。
「甘皮処理しますね」
ネイルマシンをあて、余分な角質を取り除く。削って出た粉を時々ブラシで払っていく。痛くないかと尋ねるとお義理では無い様子でかぶりを振った。
「丁寧だね」
「ありがとうございます」
「国でやってもらう時は大抵女性だけど、それと変わらない。そういえばこのサロンは従業員全員男性なんだね」
「ネイルの習慣も随分定着したとは言え、やはりサロンは女性の城という意識が強くて、二の足を踏む男性が多かったので男性専用の店舗ができたんです」
言いつつ、はてと思う。「女性と、変わらない」。
「……今やってる作業に男性女性は関わってこないような……?」
「うーん、そういえばそうかな。サトウさん、指が細いなとは思うけど」
仕事中に悪いとは思ったが、ちょっと作業を中断してマシンを持たない方の手を広げる。
「……『私』と同じくらいだと思いますが」
「俺もそう思う」
広げた手を掴まれ引き寄せられて、しげしげと眺められる。主客転倒もはなはだしい。するりと抜け出して逆に手をとらえ、ハンドピローに押しつける。
言われてみれば、サトウさんとこの人は、つまり私と彼は、確かに指の太さが随分違う。節も強い。ケアを受け慣れているからか、あまり処理する部分も無いスマートな指ではあるけれども――この人の手は、銃を握る手だな、と思う。強い手。
両手ともにキューティクルクリーンはスムーズに終わり、後はバッフィングだ。目の細かなやすりで表面を磨いていく。つややかに光る爪にオイルをすり込み、ネイルの処理は終わる。
「うわあ、すごく綺麗になったな!」
いつもやってるのではなかったかと突っ込みながらも内心得意な気持ちになる。別にジェンダーでもなし、国民性でもなく、単にその仕事の特性だろうけれども、「丁寧な仕事」を褒められるのは誇らしい。
検分を兼ねて全ての指を軽く拭く。
強く峻厳な手、そして綺麗な指だ。
これが同じ手だということが、アルフレッドの抱える複雑さだと思う。

「さっきの話だけどさ、結局『君』はこれできるようになったの?」
「え。まあ――そうですね、JNA検定3級くらいは受かるんじゃないでしょうか」
ハンドマッサージをします、と彼の手を仰向けにおき、親指と小指の股に両手小指を差し込む。両手親指でツボを押すとほわ!と小さな悲鳴をもらして、アルフレッドは言った。
「じゃあさ、今度やってよ。『本田菊』の専用練習台になってあげる」
「……」
いや、要りませんて。職業体験をしているのであって、本当に技能の習得を目指しているわけではない。無言で押し続けるとアルフレッドはよっぽど気持ちいいのか、顔をわずか赤らめて、はふ、と小さな息をついた。
「――この仕事は、やっぱり女性が過半を占めますしねえ……」
婉曲にプロになるわけじゃないと言ったつもりだったが、遠回りすぎて伝わらなかったようで、アルフレッドはきょとんとしている。
「じゃあなんで女性に憑依しないんだい?」
「え、だって、気まずいじゃないですか。一週間ずっとその人の中にいるわけですし」
「気まずい?」
「こう――お風呂とか、トイレとか」
「目塞いでれば?」
「塞ぐための神経を動かすってことは私が前面に出てるってことじゃないですか」
「ああ、後ろにいるだけの方がまだましってことか」
「とは言っても、セクシャリティが関わるお仕事もありますから、精進潔斎した上で入ることもありますけどね」
「AV女優とか?」
「ええ」
例示が指示内容と合っていたからうなずいただけなのに、アルフレッドは目を丸くした。
「出たのかい!?」
「いえ!」
つられて声が大きくなってしまう。
「それはさすがに、と思ったので、男優の方で」
「!!」
叫びそうな気配を察して、すばやく口を塞ぐ。
「ちょっと、接客トークしてるサトウさんの査定下げないでくださいよ!」
「〜〜〜」
落ち着いたとみて手を外し、マッサージに戻ると、アルフレッドは世にも複雑な顔でこちらを見た。
「……君もそういうことに興味があるんだな」
「――あのですね」
本当にこの若造は。施術の手を変えて、やや強めに押しながら説教モードに入る。
「お遊びでやってるのじゃないんです。雇用環境と国民の精神状態の関係を知りたいと思って始めたことなんです。今のこの国では、労働が遠因根因で自殺する人が山ほどいるんです。――二つ選択肢があるなら過酷な方を選びます」
声量こそ抑えているものの、常に無い語気の強さに、アルフレッドはしゅんとした表情を浮かべた。
「……ごめん」
「私自身が参加したんじゃお役に立てるか心許ないのでプロの中に入りましたけど、セクシャリティを切り売りする仕事は、実際にやらなければ分からない世界があります」
「ああ――うん」
「そのハードさも、苦しさも、プライドの持ち方も、傍から軽々に推測できるようなものではないです」
うん。頷いて、アルフレッドは「もちろん、どんな仕事についても言えることだろうけど」と言った。
「ええ……」
「俺は、君の手法をとる気はないし、実際とれもしないんだけど、いろいろな仕事をやっている君を見ることで、色々考えたり気づかされたりする」
「……」
「未だに日本の商習慣には躓くことも多くて、紙の上・報告の上でだけそれに接していると悪態をつきたくなるけどさ――その中に君がいると考えたら、君の側の気持ちを想像しようって気にもなる。だから、折角だからできるだけたくさんの『君じゃない君』に会いたいと思ってる」
いや、私が入ってようがいまいが忖度はしてくださいよと思いながら指の付け根をぎゅうと押す。けれども、言っていることは分かる。名前さえ分からない誰かの仕事ではなく知り合いのだれそれの仕事には親近感がわくものだ。自分の知っている誰かの目を通して考えるというだけであっても世界は少し豊かになる。
「時間、大丈夫かい?」と言われ、時計を見た。ここまでがスムーズだったので特にオーバーもしていないが、そろそろ終わってもいい時間ではある。
「クリームを塗ってもいいですか?」
「うん」
さらりとした塗り心地のクリームを掬い、指の一本一本を握り混むようにして塗っていく。これまでのステップより指の質感を感じる作業だ。人差し指、中指、薬指。
「……」
「ミスタ大阪に『どの従業員がそうか』まで聞いてないよ。でも分かる。何だろうな、やっぱり国同士ってことかな」
「……そうですか」
目線を一瞬絡め、また指に落とす。小指、手の甲、掌。
嘘つき。――と責めるのはお門違いというものだろう。その頃彼はこの「職業体験」のことを知らなかったのだから。
けれども、菊は気づかれなかったことがある。


まだ間接統治下だった。人いきれに満ちた小屋の中に彼を見つけた時、動揺の余りあやうく前面に出てしまうところだった。つまらなさを隠しもせず、連れてきたのだろう隣のアメリカ人への対応をもおざなりに、明後日の方ばかり見ていた。
菊の入った踊り子はその時「裸のマハ」の格好で横たわっていた。いわゆる額縁ショーである。
戦後の混乱の中で性産業は人々の活気がつくるうねりのようなものの正面にあった。GHQの規制により静止姿勢を崩さない、定義上ストリップの名に値しないそれでも熱い視線が寄せられた。この「仕事場」ではどんな力学が働いているのか、やる側見る側双方を知りたかった。
踊り子は比較的豊かな肉体の持ち主だった。
しかし、最初無機物を見るような目で一瞥しただけで、アルフレッドはこちらを見ようともしなかった。
見せる仕事の場でのあからさまな無視に、踊り子の中の菊は小さく傷ついた。
それは彼が日本に対してくだしている価値判断の象徴のように思えた。
私を見てください。そりゃあ貴方のところの女性と比べればスタイルは悪いかもしれない、肉付きは悪いかもしれない。そして貴方の潔癖さはこうした「場」を受け入れないかもしれない。けれども、この卑小さ、猥雑さが私です。私を、私を見てください―――
目を射るような金髪を見つけた瞬間、焔のように菊の中を駆け巡った「見ないでほしい」という気持ちと、その後の「視界に入らない」ことへの絶望は、今思い出すと並び立たないようでいて、しかしやはり複雑に絡まって菊の中に今もある。


掌を軽く摩りつつクリームを塗り込めた後、指と指を絡めてきゅっと握った。マニュアルにはない動きで、サトウさんにはごめんなさい、だ。
けれども、ちょっとくらい意趣返しをしてやりたくなった。目を丸くする様子に溜飲が下がる。やや上目遣いににらみつけて、手を握ったまま聞いた。
「つまりお店までは聞いてらっしゃるってことですね」
「う」
引かれそうになった手を引きとどめる。今更逃げるなんて。
「大阪君を困らせないでください」
「だってっ…」
予想以上に驚かせてしまったらしい。からかうのはやめよう。最後に甲から手首まで血を送るように摩って、施術を終えた。
お疲れ様でした、と道具を片付けながら言ってやる。
「だってじゃありません。――聞くなら私にしてください」
「……え?」
手を宙に浮かせたままだったアルフレッドは身を乗り出した。
「行っていいのかい」
「次は、小料理屋さんでもやろうかと」
「え、うん。うん!……で?」
「それで終わりです。来たければ自分で探してください」
「えー!」
抗議の声を受け流して、精算に入る。
「都内ですよ」
「いくつあると思ってんだい!」
「飲食サービス業全部でも十万いかないですよ」
ジーザス、と言ったのだろうか、なにやら呟いて目を手で覆う。その爪がてかりと光る。確かにサトウさんは良い仕事をする。私の仕事が彼の一部となっているのは、思ったより気持ちのいいものだった。
唸るアルフレッドににっこり微笑んでやる。
「がんばって、推理してください」
見つけてください、いいえ、簡単には。二つの相半ばする気持ちは、道具箱とともに、ぱちんと蓋をした。



 

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