・米日『地の塩』(SSSsongs13)派生、米日『In the blue』クロスオーバー話です。
 	      ・↑をお読みでないと意味不明だと思われます。
 	      ・なかなかなかなかのご高齢です。
 	      ・苦手な方はお戻り下さい。
 	       
 	      
 	      
           珍しい、鼻歌なんて。斜め下を見るけれども、自分では気づいていないみたいだ。
            「それ、何の歌?」
              泡だらけの皿を受け取りながら聞くと、やっぱり無意識だったみたいで、「えっ?」と眼を見開いた。そして、ぱち、と瞬きして、「……口に出してました?」と言う。
            「うん、こんな音程の」
              ざっとお湯で泡を落とす、その音に負けないように口笛でさらうと、「うわ」と言う。「すっごく、アメリカ人ぽいです」って、いや、そういわれても。だいたい、口笛はどうでもいいのであって。
            「はい、分かります。というか、歌ってたならアレだって分かってました」
              そう言うから改めて歌ってくれるのかと思ったけど、それは恥ずかしいらしい。今ひとつ境界線が分からないけど、まあいい。案外こうやって気を抜いてる瞬間もあると分かったから、気長に待っていればまたいつか鼻歌くらい聴かせてくれる。
            「昔日本で流行ったCMなんです。食器用洗剤の。おじいちゃんとおばあちゃんが手を繋いで」
            「うん」
              続きがあるんだろうと待っていたら「いや、それだけですけど」と言い、じゃっとシンクを流した。遅めのワンプレートブランチだから洗うものもそう多くない。俺も手を洗ってタオルで拭いた。「なんで流行ったのさ」
            「おじいちゃんとおばあちゃんが手を繋いでいたからです。……どうどう」
              口を尖らせる気配を察してか、菊はなだめるように手をかざした。
            「それが放映された頃の日本では、若い男女でも人前で手を繋ぐのはちょっと恥ずかしい、くらいのことだったんです」
            「……何世紀前の話?」
              このやろう、とばかりに肘で腕をついて、菊は「ちょっと着替えてきますね」と寝室に行った。無駄とは知りつつ「そのままで十分だよー」と声をかける。流石にジャージなら止めないけど、今日はジーパンなんだし、行き先も近所のスーパーなんだし、問題ないと思う。デートの時はおしゃれっていうなら可愛いけど、その相手にジャージ姿見せるんだからよく分からない。「だって貴方の隣に立つんですよ私!」とかぽこぽこするけど、最初から二人で出かける時の話をしてるわけなのでやっぱりよく分からない。
            「お待たせしましたっ」
              そんなことを思いつつも、「ドアの外」バージョンの菊を見るとそれこそ口笛の一つも吹きたくなる。細身のコートの中に見えるマフラーは俺がクリスマスにプレゼントしたものだ。タータンチェックなんて可愛い柄にしていつもの大人スタイルから俺のいるあたりまで降りてきて貰おうと思ったら、揃えたような赤縁の伊達眼鏡までかけてきて、それこそ、そのままCMに出たっておかしくないほどだ。
            「もともと、恥ずかしいってすごく文化的な感覚でしょう」
            「そうかい? 誰だって裸を見られれば恥ずかしいじゃないか」
            「そんなこともないですよ。明治初期に違式かい違条例が出るまでは銭湯帰りに半裸なんて普通ですし、逆に明治後期には腰巻事件といって、裸体婦人画の腰から下は布で隠して展示させられたりしてます。この場合は、文化的というより社会的で、そして政治的ですけどね。南国の人は今でも肌の露出平気でしょう」
            「ああ、暖かいところだと感覚変わるだろうなあ」
              外に出るなり首をすくめる。春はまだ遠い。それでも、本格的に出かけないときの休日は、ブランチの後スーパーに行くことにしている。一週間分の食料を買わなければいけないし、適度に運動もしましょうと菊が主張するので。そして、買い物に行くに一番いいのは満腹の時です! と拳をにぎる。確かに、夕方買いに行くより、俺がカートに追加する量は減る。
              菊はミステリも好きで、スーパー側が何を狙ってどういう導線を引いているかを見抜いてはによによしたりする。そしてそれに負けないためにも最初にメインを決めるべきなんですけど、と言いつつ、日本のスーパーの癖らしく野菜コーナーに向かう。
            「やさいやさいやさいー、やさいーをーたべーよう」
              今度は轍を踏まないよう気づかないふりをする。簡単な日本語だったから全部分かったけど、なんだそれ! 日本のポップスには都道府県名を全部言うなんていうのもあったらしいけど、クレイジーすぎる。カートごと一歩引いて、肩が震えているのを見えないようにする。
              冬はやっぱり種類が減るけど、なんとか欲しいものが見つけられたらしく量り売りのシールをビニールに貼り、カートに入れる。
            「今日は鍋もどきにしましょうね」
            「うん! ミートボール入れてくれよ」
            「つくね、です」
            「ツク、ネ?」
              何か聞かれているようですけど、と笑いながら菊は頷いた。そしてさっきの話に戻る。
            「その洗剤は手荒れしにくいというのが売り文句で、だから色んなカップルに手を繋がせていたんです。その一つにご高齢のカップルもあって、それが新鮮だったんですね」
            「どうしてさ」
            「うーん。日本では、お年寄りの仲の良さとはそういう形ではなかったからですかね」
            「どういう形だったってこと?」
            「なんでしょう、比翼連理というか一蓮托生というか。来世でも巡り会いたいという感じ……?」
              抽象的すぎてよく分からない。肩をすくめたら、菊は苦笑した。
            「とにかく、中年になったら別に仲が悪くなくても寝室を分けることも多いですからね。身体的接触欲は年を取るごとに減っていくと信じられていたところがありまして」
            「えーっ!」
              つい大きめの声を出して、注目を集めてしまった。二人でカートを押して、脇の通路に逃げた。
            「そんなことないよ! そりゃ、……できることは減ると思うけどさ」
              忍者・本田を召喚しないよう言葉を選んだ。
            「それでも、ぎゅってしていたいよ、ずっと」
              通路が狭い、ふりをして、菊は体を寄せた。ぎゅ、ではないけど、きゅ、くらいにくっついている。歩くと外れそうなので、とまって、ついでに頬にキスをした。見てない、誰も見てないって。
            「……」
              ふいと背を向けて適当に前にあったものを手に取り、菊はぼそっと言った。
            「私もです」
            「うん」
            「……それで、そのCMを思い出したのは、手を繋いでるお年寄りを見かけたからです」
              商品を棚に戻して、菊は歩き出した。鶏ミンチと魚介、後は冷凍の肉を買わなきゃいけない。
            「ふうん?」
              そんなに珍しくもないんじゃないかな。その気持ちが声に現れていたのか、菊は少し振り返って微笑んだ。
            「おじいさんと、おじいさんだったんです」
            「へえ」
              それは、まあ、確かに少ない。ゼロでは無いけど。おじさんとおじさんくらいまでならよく見かける。けれども、結婚という形からはずっと遠かった分、同性カップルは長続きする割合が異性愛者より落ちる。形があっても離婚の自由が簡単に掴めるこの社会で、形が無くてもつなげて行くにはかなりのエネルギーが必要だったろうと思う。この州で同性婚が合法化された時、たくさんのカップルが結婚式を挙げたけど、高齢カップルもかなりあった。
            「後ろ姿を見ただけですけどね。二人とも髪は真っ白で、でもすごくしゃんとしてて……だから、介護とかではないですよ」
            「うん」
            「背の高い方が手を出して、もう一人がかなり抵抗されていたんですけど、でも押し切られて。そのくせ、なんかその後ステップが軽いんです、その方の」
            「うわ、か…」
              言っていいのかな、失礼かなと考えたけど、やっぱり後を続けた。
            「…わいい」
            「ですよね」
            「そういえば、俺もこの前可愛いお年寄りに会ったな。その人は日本人だったけど、すごく英語が流暢だった……」
              あ、まずい、と思って顔を見ると、案の定ふくれている。
            「いや、君もすごく上手くなったと思うんだぞ。だいたい、英語ほど自由に崩されてる言語はないんだし、オージー英語でもシングリッシュでも堂々と使えばいいんだよ」
            「そう割り切れればいいんでしょうけどね……」
              ふう、とため息をつく。客観的に言って菊の英語はもう誰にも引けを取らないし、ライティングの方は賭けてもいいけど社内の誰より綺麗だ。そもそも筆記体がさらさら書ける時点でびっくりする。けれども、最初の印象がまずかったのか、菊は今でも英語には苦手意識が強い。がんばって話を変える。
            「すごくね、寒い夜だった。ああ、そうだ、君が日本に出張に行ってて、また嫁たちに埋もれてくるのかと思ってふて寝しててさ」
            「……」
              菊、なにレトルト食品なんて見てるふりしてるのさ。
            「ピザを頼もうかとも思ったけど、君が帰ってきた時箱を見て怒るかなーなんて思ってさ。ここまで来たんだよね。ほんと寒かった。雪雲もなくて、かきーんって感じ」
            「ああ、放射冷却してたんですね」
            「あーうん。それ。凍ってたわけでもないけど、滑りやすくなっていたのかなあ、連絡通路のところ歩いていたら、その人が目の前で転びそうになってね」
            「え! 大丈夫だったんですか?」
              年齢によっては、ただ転んだだけでも大事になったりする。驚きに目を丸くする菊に、親指をたてる。
            「ニューヨークのヒーローがいたからね!」
            「ああ、はい」
              大抵のことには我関せずを貫くのがニューヨーカーなんだけど、どうにも黙っていられない。すぐ手を出したがる俺を、菊は、「そういうまっすぐなところ、大好きですよ」と微笑ってくれる。
            「無事ならよかったです」
            「うーん、流石に完全に無事とはいかなくて、体は支えられたんだけど、足はちょっと捻ったみたいだった。それで、近くのスタンドまで連れて行って、少し休んだ」
            「ああ……まあ、それでもその程度ですんでよかったです」
            「でもびっくりしたんだろうな、なんか、わーっと日本語で言われて。分からないって首を振ったら、やっと英語になって、それからちょっとおしゃべりしたんだけど」
              すごく穏やかに笑う人だった。髪は真っ白だったし、遠近両用っぽい眼鏡もかけていたし、当然しわも刻まれていたけれども、いい年の取り方をしたんだなと思わせる顔だった。買ってきたコーヒーを差し出すと、両手で持って暖を採って、それからゆっくり口に運んだ。日本人ってのはほんとにみんなブラックで飲むんだなとへんなことを考えたりもした。
            「あ、そういえば、それで貰ったお礼が、この前の塩だよ」
            「ああ、雪塩の!」
              こうしたちょっとしたお節介に、何か手持ちのものを礼としてくれることはよくある。過度なものならともかく小さいものならもらってあげてください、と菊に言われた。とりあえず日本人にとってはですが、と前置きした上で「恩を返せないのは、気持ちの上で負担なんです」。だったら女の子の――少女の、という意味ね――のキスくらい頬に受けておこう、ということにしている。
              その人がごそごそと取り出したロージンバックのような袋も、どうみても麻薬か小麦粉かという見た目だったけれども、確かに「しお」とふりがなが書いてあった。まあ塩ならほんとに「ささやかなお礼」の範疇だろうということでもらったけど、塩にしてはちょっとお値段が張ると、それを見た菊は言っていた。でも本当にパウダースノーみたいですよね、と少し摘んで、さらさらと零し、菊はうっとりした眼で言った。宮古島というところの特産品だという。ソフトクリームにちょっとだけふりかけると、すごく美味しいですよ、とそのおじいさんは言った。笑いながらだったから冗談かと思ったけどほんとに美味しかった。いつもは俺に一口貰うだけの菊が半分は食べた。その塩は見た目が綺麗だから菊が大切に保管して時々使っている。
            「……調味料を少し補充しておきましょうか」
              ついでに棚を思い出していたらしい菊が向きを変えた。そういえばマスタードが切れかけていた。和からしはまだあるけど、あんなに見た目がそっくりな癖にずいぶん違う。一度ホットドッグを作ってあれを塗りつけてしまい、痛い目に遭った。
            「それでね、誰かがドアを開けた時に、教会の鐘が聞こえたんだ」
            「ええ? だって、かなり離れてますよね?」
            「うん。俺もこの辺では聞いた覚えなくってさ。驚いてたら、おじいさんが『夜ですからね』って」
            「ああ……確かに、夜は静かですもんね」
            「俺もそう言った。そしたら、『いえ、そういうことではなくて』って」
              正確に思い出せるかな、自信が無い。
            「ええとね、音速は、331.……5?プラス、0.6tメートル……くらい、なんだって」
            「はい?」
            「〜〜ともかく、音速は温度に比例するんだよ。空気が膨張して密度が小さくなるから」
            「そうでしたっけ。……でも、あれ?」
              菊は首を傾げる。
            「それだと、温度が高い方がより伝わるのでは?」
            「うん、それがね、……ほら、理科で塩水の濃度とかやった時に浸透ってあっただろ。あれみたいな感じで、音の発信源からベクトルが出てるとすると、音速の遅い上空の方に曲げられてしまうんだって」
            「音も屈折するんですか」
            「うん。だから、放射冷却の時は逆に地表の方に曲げられる。だから、音が届きやすくなるんだって」
            「へえ……」
              菊は首を捻りながら鶏ガラスープをとった。
            「それを、その人が教えてくれたんですか」
            「うん」
            「学校の先生でもなさってたんでしょうかね」
            「ああ、そうかも。そういう雰囲気だった」
              なるほど、と菊は頷いた。他にも色々話が面白そうな人だったけれども、コーヒーを飲み終わったところで待ち合わせがあるからと立ち上がった。二、三歩歩いてみて、問題なさそうだったのでそこでお別れした。
              その前に、ちょっとだけすみません、と頬に手を当てられた。すっと親指で頬を撫でて、「若いですね」とその人は言った。
            ――これからの貴方の人生に光が満ちあふれていますように。
              そう言って、それから小首を傾げ、小さく頭を振って言い直した。
            ――闇があっても、それを貴方の光が跳ね返せますように。
              闇、というほどのものでは無いけど、その頃の俺には一つの不安があった。アーサーと菊をひき会わせる直前だったからだ。中身は言わず、けれども、「不安があります」とつい漏らした。中身を知らないはずなのに、その人は「大丈夫」と言った。
            ――昼届かなかった言葉が夜届くこともあります。
              菊が言ったことみたいだ、と思って、なんだかすとんと納得した。今駄目でも、いつか大丈夫になるかもしれない、そう思えて、肩の力が抜けた。
              実際のところ、杞の国の人の憂い以上に、それは無駄な心配だった。アーサーは礼儀正しい菊を大いに気に入ったし、マシューから根回しがいっていたのか、摩擦も無かった。菊の方も何か萌えツボに入ったらしく、アーサーと会うのをとても楽しみにしている。
            「そういえば、アーサー今度来るって言ってたなあ」
            「いつですかっ?」
              嬉しそうに振り向く菊に、残念なお知らせ。
            「手土産にお菓子作ってきそうなんだけど」
            「おう……」
              ちょっぴりアメリカナイズされた言い回しで菊は手の甲を口にあて、カートに寄りかかった。
            「なんとか、思いとどまって戴くというのは……」
            「うーん。……まあ、付け焼き刃に過ぎないけど」
            「何か策が!?」
            「そんな大したことじゃ無いけどさ。俺がお菓子でもつくってやるよとでも言えば珍しがってそっちを優先するかも」
              そんな言い方をしたのは、ストレートに言うと感激で泣くような重い愛を見せられそうで多少うんざりしたからだ。それでも、まあ、作って食べてくれたら、俺も少なからず嬉しいだろうと思う。
            「……作れるんですか?」
            「今時大抵のものは最後の一手間だけ加えればできあがる工業製品があるよ」
            「うわあ、究極の選択ですね」
              どういう意味だ。
            「まあ、そこまで酷くなくても、冷凍パイシートがあればアップルパイくらい作れるんじゃないかなあ」
            「ああ……。うちオーブンありますしね。じゃ必要なもの買っていきましょうか」
            「うん」
              菊はスマートフォンを取り出した。指をするすると動かしてレシピ検索をしている。細々したものはともかく、絶対リンゴは必要だから、果物コーナーに戻る。日本のリンゴは大きくて甘いからこっちでも売っているけど、煮るんだから普通の小さいのでいいだろう。どうせ普通に食べもするんだから一袋買ってしまおう。一緒に剥けばすぐだ。多かったらジャムにしてもいい。甘く煮ている間にもう一つ剥いて、菊がこの前作ってくれたウサギの形にして、菊の手に乗せてあげよう。菊はどっちから食べるか悩むに違いない。俺がこの前そうだったから。
              年を取ってできなくなることはある。体だって思うように動かなくなるし、社会にはめられる枠だってあるだろう。それでもこういう幸せはずっと持ち得る。いくつになっても、アップルパイは作れる。
            「ねえ、菊」
            「はい?」
              右手を出すと、菊はぱしぱしと瞬きをした。やがてほこりと笑みくずれて、左手をそっと重ねた。今でも菊は、あまり人前で恋人っぽい所作をとりたがらない。けれども、その「おじいさんとおじいさん」に憧れるように、何かの条件下では菊も許容できる、むしろ嬉しいらしい。きゅっと手を握ると、握り返される。それでも、「レトルトみたいな人のいない棚に行きましょうね」なんて言うから、吹き出して、「むしろたくさんいるよ!」と笑った。
          
                     
          何層もあなたの愛に包まれてアップルパイのリンゴになろう(俵万智)