・仲良し、という程度にエリゼ風味です。
・歴史的なあれこれが少しだけ出てきます。国名呼びです。
・苦手な方はお戻り下さい。
ドイツとの付き合いには逆接の接続詞がよく挟まる。「仲良くなったと思っていた『のに』」とか、「変態『だけど』強国」とか。まあセンスの感じられない後者を言ったのは一応第三者だから除外するとしても、お互い、前置き無しで相手を讃え合うなんて空々しくてできない。あいつは俺のことを「ちゃらちゃらして不真面目な奴」と思っているし、俺は俺で「くそ真面目で面白みのない奴」と思ってる。お互い思ってるし、お互いそれを分かってる。それでも、なのだ。
夏の夜に俺を迎えて、ドイツは意外そうな顔をした。忙しくないのかという。
7月14日を明日に控えて、それはまあ、色々とやるべきことはある。思いをいたすべきものもある。でもだからここに来たってことをどうして分からないのかなあこの朴念仁と、俺はため息をつく。大切な夜をすごすべき相手くらい、俺だって選んでる。
「明日渡そうと思っていたが」と奥に行きかけたドイツの襟首を掴む。
「それは明日くれよ。来てくれるんだろ」
「ああ、もちろん」
もちろん。なぜなら、現在この隣国は掛け替えのないパートナーであるのだ。様々な歴史的経緯はあるけれども――それこそ、きれい事では語れない物語がいくつもあるけれども。
「それはやっぱり、みんなの前でお前がくれることに意味があるからね」
ドイツは生真面目に頷いた。
「そうだな。きちんと形として示した方がいいな」
「ん」
納得したはずだったのに、突然眉間に皺を寄せて、ドイツは慌てたように言葉を継いだ。
「別に、本当はそうでないのに他国にそう見せたい、という訳ではないぞ。俺は」
「分かってる分かってる」
「真面目に聞け。俺はお前との関係を大切に思っていて、それをみんなに分かって貰いたいと…!」
「あー、うん。うん」
分かってる、と腕を叩いて、空いた手で頬を擦る。赤面がうつる。
そういうのは趣味ではない。言わずに察し、分かってるから先回りする、そういうのが俺の作法、なんだけど。この男の真っ直ぐさは、本当に趣味に合わないんだけど、どこかくすぐったく嬉しい。
背中を押すようにしてリビングに入ると、ガラステーブルの上には切り子のグラスがのっていた。
「飲んでたのか」
これ、どうする?と土産のワインを見せると「当然いただく」とダッシュボードからワイングラスを二つ出してくる。片付けてくる、と蒸留酒らしき透明のものは口の中にかぱりと流し込み、台所に向かい、軽い水音をさせている。本当に生真面目な奴だ。今日できることは明日に回さない。
戻ってくるのを待っている間に、テーブルの上に乗せられていたCDのケースを手に取った。聞いていたのだろう。ケースの表を飾る指揮者の顔写真には見覚えがある。けれども、その横に書いている文字は――
「日本語?」
なんでわざわざ、という疑問が口を突いて出たところでドイツが戻ってきた。
「ああ、日本がくれた。俺が興味を持ったんで送ってくれて」
「へえ…」
だから、なんでわざわざ。
「フルトヴェングラーなんて沢山持ってるでしょ、お前さん」
「今年は生誕125年で、また盤が出たしな。これもデジタルリマスターだ」
「うん?」
「ま、聞けば分かる」
そう言ってドイツはリモコンをデッキに向けた。俺は栓を開けたワインを注ぎながら音を待った。と、コツ・コツ・コツという靴音が響き、思わず振り返る。誰かが来たかと思ったのだが、当然誰もいない。ぷふ、と小さく噴き出す気配がしてドイツを見ると「これだ」とデッキを指さした。機器からは拍手の音が聞こえている。音量を落として、ドイツはケースを手に取った。
「完全収録、と書いてあるらしい。こういう足音も含めて、ということだな」
「え、だってデジタルリマスターなんでしょ。なんでノイズキャンセルしてないの」
「ノイズなんかじゃないです!って、くわっと目を剥いていたぞ」
曰く、その場の空気をそのまま味わいたいのです、巨匠のしわぶきも団員の漏らす感嘆の呟きも。私たちは彼等の一音にまで飢えているのです…!日本がするようにくくっと拳を固めて、ですます調で再現する、こんなところに生真面目さを発揮しなくてもいいのだけれども。
「空気ねえ」
靴音はやっぱりノイズだろう、と思うけれども、それは、ノイズだと思えるくらい慣れているからだ。常にはなくて、それにさえ憧れる人を想像できないくらいに。
「八つ橋を三枚くらい重ねて言っていたぞ、もっと来て欲しいって」
「日本か…。俺は行くの好きだけど、オケにとってはねえ…」
何せ遠い。そして日本人のあのきめ細かな肌と柔らかな風景を作り上げる湿気が楽器には天敵だ。
「流石に今は無理にとは言えませんけど、と更に二枚くらい重ねて言ってた」
「あー」
リヨンは五月の訪日公演をキャンセルした。上司の体面もあるので一応翻意を促しに行ったけれども、無理強いはできない。彼等はフランスの国立交響楽団であるが、その前に、あるいはそれと同時に、国家から独立した音楽人であり、また自分を守る権利を持った労働者でもある。
ちら、とドイツは俺を見る。俺も見返す。エネルギー政策について、今こいつとは真逆の選択をしている。
「…ま、ともかく事態が落ち着いてからだな」
「ああ」
ドイツは音量を戻した。
巨匠の音楽世界が部屋を満たしていく。
対立点はたくさんある。利害が折り合わないことも――若干ドイツに背負わせ気味なことを考慮しても、それでも会議で声を荒げる場面もある。そのままで折り合わないのはもはや宿命、それでもずっと歩いてきた。目を見て確かめて、言葉にして、握手して。そうして今のこのミューズに祝福された空間がある。
もともと言葉少ななドイツとは曲の合間にぽつりぽつりと近況を交わす程度だ。どうしても昂ぶってしまう明日を迎える前に、静かな気持ちになりたかったのだからちょうどいい。ワインは美味しいし、巨匠のピアノコンチェルト・「皇帝」は神がかっている。飾り気もないけれども安定感のあるソファに身を委ねて、目を瞑って――開けた。
ドイツは目を見開き、顔を固まらせていた。
それで聞き間違いじゃなかったことが分かった。やはり、高射砲の音だ。
思わず辺りを見回し――目をデッキに戻し、そしてケースに落とした。
読めない日本語で、それでも分かる、1945.1.24の文字。
「…………………ベルリンフィルだった……」
ややあって、呻くような声がした。
「………彼は演奏に揺らぎを見せなかった……楽団も聴衆も、音楽堂の外で起こっていることを全て分かっていて、それでも、いや、だからこそ音楽に身を任せていた―――」
ドイツは小さく呟いていた。
彼はそこにいたのだ。
そして俺は、この高射砲を撃った側にいた。パリは前年解放され、シャルル・ドゴール率いる臨時政府は米英ソに認められて連合側の一員となっていた。
その技術を持ってすれば消せるだろう音を、そのままに残した日本。
66年の時を越えて追いかけてきた砲撃の音がピアノの奔流の中、耳に響く。
不倶戴天、という言葉が東洋にはあるという。ともに天をいただかず――やるかやられるか。あの頃、そして終戦直後のシャルルはそれくらいの気迫をドイツに向けていた。
言葉を失い、呆然とデッキを見ていた俺は、突然手に重みを感じた。
前を向いたまま、ドイツは言った。
「それでも、だ」
「――」
「それでも、俺たちは今『ここ』にいる。そうだろう」
「――ああ」
それでも、それでも。
何度も逆接の接続詞を繰り返しながら。
重ねられた手を握り返す。
それでも、手を取ってきた。
一緒に歩いてきた。
かち、と時計の針が十二時を指し、ドイツは「お」と小さな声をあげた。
「フランス」
こちらを向いて、ドイツが微笑んだ。
「実際、ちゃらちゃらしてるわ話は聞かないわプライドだけは無駄に高いわそのくせ平気でこちらに負担金押しつけるわで実に不真面目な奴だと思っているが」
「えっ」
「それでも、お前が生まれてくれて、俺の隣にいてくれて、本当によかった。――ありがとう」
このやろう、と思った。
こんな言葉に泣かされるなんて、誕生日の趣味に合わない。
それでも、それでも。