※ご注意
・拙著『In the blue』の補完話です。←を読んでいないと意味が通じないので、読後にお読み下さい。
・そして、これ↓を書くなら、『In the blue』は死にネタです。まことに申し訳ないです。
・桜と梅と菊でほとんど百合。な話です。
──しあはせは どこにある?
「全く、人を馬鹿にしてるねー!」
隣を歩く親友はまるで自分のことのように膨れながらざかざかと坂道をあがる。
「ほうじゃろう、うちはまだ子供じゃちゅうのんに」
「ちがうでしょー、子供ならともかくもう大人なのに、でしょー!」
「えー、そうなんかいのう」
はて、と首を傾げ、親友の顔の赤さと息の荒さに気づく。
「めいちゃん、本もとうか?」
「ううん、全然重くないよー。ただ、お腹がすいてるだけね」
「…すまんねえ、あんまりいいもの持ってこれんかったんよ」
「私もよー」
全ての食料は割り当て制限の中にある。あとは自家栽培の野菜か、野草。陸軍獣医学校の『食べられる野草』などは桜たち高等小学校の者はみな暗記している。もうすぐ春、雪は降らない瀬戸内だから、その訪れへの感慨は雪国ほどではないだろうけど、食べられるものたちが顔を出してくれるのは嬉しい。つくし、よもぎ、タラの芽、おおばこ、すみれ、たんぽぽ。去年の『主婦之友』にも「野草の食べ方」なんて載っていて、おばあさまが二重の意味で顔をしかめていた。一つには、そんなの昔から食うてきたじゃろ、ということで、それでも特定のものについては、こんなもん食えるかということらしい。まあ確かに、じゃがいもの芽まで食べろとか高野豆腐をビスケットがわりにそのまま食えとかはいかがなものかと思う。
梅ちゃんは、将校であるお父さんが前線に行って以来、だからもう尋常小に入る頃から、お母さんの実家がある尾道に二人で身を寄せている。来て以来、月に一度はおやつを持たせて貰って簡易ピクニックをしてきたけれども、最近は「お昼」と別に「おやつ」を貰うのは難しい。色々複雑らしい梅ちゃんちではもう絶望的だ。
その代わり、というのではないけれども、梅ちゃんちには本がたくさんあるから、それを持ってきてもらって読ませて貰う。うちはおばあさまもお父さんも本には嫌な顔をする。女学校への進学も花嫁修行くらいに思っている気がする。
子供だから、親には逆らえない。だからこそ大人になったら好きな道を歩きたい。好きな道と言ってもまだ何も思いつかないし――とりたてて美人でもないし、何か得意なことがあるわけでもないけど、きっと何かできる。何かになれる。女学校はそれを探す時間なんだと思う。
「といっても、勤労動員ばっかりみたいだけどねー」
「それも経験じゃろ。もしかしたら機械工に向いとるかもしれんし、お針子さんに向いとるかもしれん」
「桜ちゃんの絵はかわいいから、そういうの仕事にできたらいいネ」
にこり、と笑って返事をとどめる。かわいいものはあまりうけない時代だ。婦人雑誌の表紙だってみんなきりりと鉢巻きをしている。
竜宮門の屋根がとれて石の亀腹だけが残った持光寺の石門をくぐる、その時には「開運長寿」と心の中で呟く。そうやって阿弥陀如来様にお任せすれば現世安穏・後生安楽なのだそうで、延命門と言われている。延命、なんてなんの実感もないけど、開運は是非ともお願いしたい。最後にはきっと神風が吹いて日本を守ってくれるはずだけれども、できれば台風がくる秋よりはもっと前に、何かぱーっと未来が明るくなってほしい。
鐘楼の梅はまだ蕾だ。それでもほんのりと華やかさをもった白が点々と木を彩っていて、心が浮き立つ。向こうには白木蓮が清楚にして官能的な花びらを開いている。
梅ちゃんが腰を下ろした脇に椿の木があり、花が落ちていた。花びらが鮮やかなままのそれを拾い、梅ちゃんの髪に挿す。
「かわいい」
梅ちゃんは少し頬を赤くした。
梅ちゃんの方が背が伸びるのも早かったし、胸も大きい。こうしてみると本当に綺麗なお嬢さんだと思う。
「えすの道に入りそう」
「何を言うかなー」
女学校ではお姉様と妹の疑似関係をとって仲良くするのがよくあるらしいと聞いている。どうせなら梅ちゃんと仲良し扱いされたらいい。だって現実の男の子はたいがい粗暴で、女のことを馬鹿にして、自分たちだけの空気を作る。――たいてい、きっと、そう。
そんな誰とも知らない男の子と、勝手に結婚を決められてしまった。空襲で家も身寄りも失ったその子を、おばあさまが連れてくるという。
思い出して不愉快になり、貸して貰った本を開く。『日本少国民文庫』だ。前にも読んだけど読み返したくなってリクエストした。おっと、と肩をすくめる。心の中のこととはいえ、敵性語だ。
この本にはリンドバーグの「日本紀行」が収められている。「すべての日本人のなかには、芸術家が住んでいます」と飛行家の妻は書いた。水引であれ食器であれ、そういう日常使うものに美を見いだし作り出す、その部分に注目して、彼女は日本を称賛した。そして日本のメタファーとシンボリズムについて触れて、「竹は繁栄、松は長寿、梅は勇気」という言葉を聞いてなぜ梅が勇気を示すのかと問うた。「なぜかと言いますと」、と日本の友人は答える。
――まだ大地の上に雪が残っているうちから梅は花を開きますから。
梅ちゃんを見ていると、この一節をよく思い出す。
ぐう、とお腹がないて、思い出した。もってきた「おやつ」をハンカチの上にひろげる。
「ちょ、ちょこれいとびすけっと!?」
「に、見えるじゃろ」
苦笑する。実際にはぬか入りビスケットだ。バターなんて手に入らないから油で代用したし――それだって多少後ろめたく思いながらだ――お砂糖もこれ以上減らしたら美味しくないというぎりぎりまで減らした。
一つずつ摘んでみて、顔を見合わせる。
「おいし…」
「…いねえ!?」
驚いた。お砂糖はこのために貯めていた分だったから、久しぶりだったということもある。それにしても、ぬかを丁寧に炒ってすりこぎでよく擦って、おそろしく手間を掛けた甲斐があった。所詮ぬかじゃろと半信半疑だったけれどもなかなかに香ばしい。
「ええねえ、幸せやねえ」
梅ちゃんが笑う。
「そんなに簡単に幸せになっていいのかナー?」
「ええんやないの、幸せは美味しい食べ物の中にあるんよ」
そういう小さい幸せを見つけて、探していくのが人生という気もする。
──しあはせは どこにある?
山のあちらの あの青い空に そして
その下の ちひさな 見知らない村に
「不幸の塊みたいな顔してたくせに」
「だってー」
そういう小さな幸せを一緒に見つけていくのが伴侶のはずで、だったらそれは自分にしか見つけられないはずなのだ。親に結婚を決められるなんて古い!…とまでは思わないけど、もう少し大人になってからがよかった。ほんとに大人になっていたらはねつけられるかもしれないし、逆に運命の中に幸せを見つけられるかもしれない。けど、とにかく今は無理だ。だって、同じ年ごろの男の子なんて、もう、本当に…!
「同じ年じゃないって言ってなかった?」
「…揚げ足取ったらいけんよ」
その、顔も知らない許嫁とやらは少しだけ年下らしい。いとこなのだけど、会ったこともないし、そのおうちのことが話に出たこともない。だからどんな子なのか知らないけど、どうせ「男の子」だ。
「がさつなのは好かんのよ」
「言ってたネー」
「きれいなのが好き」
「うん」
「かわいいのが好き」
「うん、うん」
「どんな男の子より梅ちゃんの方が好きじゃー」
がば、と抱きつくと、梅ちゃんは少し歪んだ顔をした。珍しい。こうやってふざけるのはよくあることなのに。戸惑っていると、梅ちゃんは後ろに手を伸ばし、ぶちりと椿の花を摘んで、こちらの耳にかける。
「おそろい」
「梅ちゃん?」
「かわいいよー」
にこり。
「うん、ありがとう…」
「ほんとに、かわいい」
なんだかどきどきしてしまう、それほど梅ちゃんの眼は静かだった。
「桜ちゃんは、本当は男の子、嫌いじゃないね。ただ、好きになれる男の子に会ってないだけ。――前ここで会ったあの子みたいな」
「――覚えとったん?」
梅ちゃんとピクニックを始めて、まだ数回だった。梅ちゃんは日本語を覚えて来日していたけれども、今より固いですます語で、学校のみんなとも馴染めていなかった。春の日、持光寺は梅の花びらをたくさん散らしていたから、それを集めておままごとをした。お母さんと子供の役で、はい、ご飯ができました、召し上がれ、いただきますなんてやっていたら、突然知らないおばさんに連れられて男の子がやってきた。この辺の男の子はたいてい五分刈りにしていたら、きちんと切りそろえたその男の子の髪はそれだけで印象深かった。一緒に遊んであげてください、とおばさんに頭をさげられ、あわてて下げ返したら、その子もきちんと手のつま先をそろえてお辞儀していた。それだけで好感度は高かったのだけど、梅ちゃんに対してもこちらに対してもその丁寧な態度を崩さず、お行儀よくお父さん役をつとめてくれた。
多分それだけだったら、都会の子は違うんだな、と思っただけだった。
おままごとで「じゃあおやすみなさい」となった後、本当に静かに横たわっていることに居心地の悪さを感じたのか、その子がお話をしてくれたのだ。梅ちゃんの「お星様」という言葉がきっかけだった。実際に見えたわけではない真昼の星を三人で眺めて、そういえば、とその子は言った。
その星を指さして、「この指の先に星が見えても」、すっとそれを左に動かし「本当はこの辺にその星があったりするんです」。
「どうしてですか?」と梅ちゃんが聞いた。
「太陽の重力が時空をひずませているんです。それで、太陽の近くを通る星の光は道筋が曲がって地上に届くんです」
時空がひずむ、ということが既に理解できず、眉間に皺を寄せると、「大きな眼鏡レンズが空に生まれたようになるんですよ」と説明した。なぜそんなものが生まれるのかは分からないけれども、映像の歪みについては理解できた。おばあさまの眼鏡で見ると何もかも違ってみる、そんな感じだろう。
「普通は、そもそも太陽が出ているときの星の光だから、見えないんです。けれども、本当は、こう、曲がりながら届いている」
それを予言したのがアインシュタインという人で、証明したのがエディントンという人です、と彼は話を締めくくった。
今貸して貰ったこの本には、アインシュタインが日本に来て、帰るときに日本の子供たちに送った言葉も載っている。「諸君が今こんなに遠方からの私の挨拶を受け取る際に、異なった国々の人たちが昔はお互いに知ることもなく別々に生活し、時にはお互いに恐れ合ったり憎み合ったりしたことすらあったのに、我々の時代になって始めて親愛に且つ十分に理解し合って交通するようになったということを、どうかよく考えて下さい」。博士がこう言ったのは、わずか20年前だ。続けてこう言っている。「そして諸君の時代が私の時代をいつかはずかしめるようになることをすら望んでいます」。
「あの子なら、私でも、好きになれそうな気がするなー」
「えっ」
ちょっと驚いて顔を見ると、梅ちゃんは苦笑した。
「あの子は、きれいで、かわいくて、がさつじゃなかたでしょー」
「うーん」
確かにそうだった。けれども、梅ちゃんの言葉にどきりとしたのは、外見の話じゃなかった。
彼は、梅ちゃんの「お星様」という「台詞」に頷いて、それから話をした。おままごとというのはお約束の世界で、そういうのについていけないと感じる男の子は多いのだけど、その子はそれにそって振る舞ってくれた。その上で、その星が別の意味で本当にあることを教えてくれた。
人の眼に写る世界は真実そのものとは違っていて、けれども、じゃあ真実とは何かを考えることもできることを教えてくれた。
いいなあ、と思った。こういう人の眼に写る世界と、そして頭の中に描かれる世界を、見ていられたら、楽しいだろうなあ、とそんな風に思ったのだ。そして、そんな男の子は――多分、男の人も、
「めったにおらんよ」
肩をすくめて言うと、梅ちゃんも、「かもね」と同じ仕草で返した。
「男なんてみんな粗くて怖くてかなんよ」
「そうねー」
「そんなんと勝手に結婚なんて決められたらかなんよーう」
「そうねー」
梅ちゃんはすい、と小指を出してきた。
「私が守ってあげるね。女学校でも、その後も、桜ちゃんがどうしてもその男の人が嫌だったらいつでも来るといいね。一緒に戦ってあげる」
「共同戦線なん?」
「うん。月月火水木金金で戦うよ」
「じゃあ、うちも。梅ちゃんが幸せになれるよう全力でがんばる」
この世界の片隅の共同戦線。日本は世界を相手に戦っているという時に――いや、私の幸せな人生だって同じくらいキキソンボウノトキなのだからして。私と梅ちゃんは、小指を絡めた。
「大丈夫、いつか、変わるね。女の人がもっと色々言えるようになるし、勝手に人生決められたりせずに、したいことができるようになる。いやなことは忘れて、明日からがんばろう」
「うん」
春の空遠く、雲雀の鳴き声がした。
私たちの 心は あたたかだつた
山は 優しく 陽にてらされてゐた
希望と夢と 小鳥と花と 私たちの友だちだつた
(立原道造「草に寝て…」)