※ご注意
・拙著『In the blue』の補完話です。←を読んでいないと意味が通じないので、読後にお読み下さい。
・「海の底11」で「熱いシャワーを浴びて」と書いていた箇所をお風呂に無理矢理変更してます。
・4巻に萌えて突発で書いたので色々変ですがご容赦ください。↑の箇所は、まともに考えると文面に表れていない真面目な話をその前後にしているはずなんですが、そういうところは完全にすっとばして、とにかく4巻!です。
・ですので、4巻未読の方もお気をつけ下さい。
もつれこむように部屋に入り、後ろ手にドアを閉めるやいなや、どろだらけのまま抱き合ってキスをした。
菊が両手を首に回してきて、その手で俺の髪をかき回した。つま先で立つようにして、腰を俺の手で支えられながら俺に手を伸ばす菊が、全身で俺を求めているように思えてたまらなく愛おしい。たまらなくて手に力をこめると、ふ、と力が抜けた。驚いて身体を引くと菊は俺の腕にすがって、苦笑顔を見せた。
「酸欠です」
「えっ」
「あと、ちょっと、お腹がすいてるのもあるかも」
いわれた瞬間、俺の腹がぐうと鳴った。付け焼き刃的に配給所のような屋台も用意されたけれども、三日間まともに食事をしていない。
「ちょっとじゃなかったことに気づいちゃったよ」
どうしよう、と思うけれども、それどころではないという気持ちもある。眉を下げた俺の顔に菊は笑った。
「今あまり買い置きがないので、ご飯食べに行きましょう。近くに美味しい中華料理屋さんがあります」
「うん!……」
お腹が返事した、というその第一声のあと、ちょっと口ごもる。どうしよう、こういうべたべたな台詞を言うメンタリティはまだ獲得できていないんだけど。
「どうかしました?」
小首を傾げて聞く、そのかわいらしさに俺の「日本人的恥じらい」は引っ込んだ。言わせて貰おう。
「………その前に」
ちょっとだけかっこつけるつもりで髪をかき上げたら、じゃり、と砂が落ちた。家主は、うわあ、と引いた表情で後ずさった。
「その前にお風呂ですね!すぐ用意します!」
そう言ってくるりと踵を返し、菊はバスルームだろう場所に向かった。ちらりと見えた耳が赤い。日本人がベタを言わないのは、思いつかないからじゃなくて、思いつくからこそ忌避するからだ。何を言おうとしたのか、菊は分かったのかもしれない。
「ちょっと!早く来て下さい。先に入って貰うんですから!」
先に、と言われたのは、俺の方が汚れが酷かったからだ。そして結局「先」にならなかったのは、アメリカのマンションでは珍しいほどバスタブが大きかったからだ。他にお金の使い道もありませんから、と特注したという。排水工事もして床周りも綺麗にしたらしい。
俺をシャワーカーテンの向こうに追いやり、いや、だの、しかし、だの言を左右にして逃げようとする菊をバスタブの中から捕まえて、キスをした。舌を差し込むと、ん、と詰まりながらもそろそろと口を開き、俺の腕に手をかける。ゆるゆるとそれが背中にまわり、身体が自然に近寄る。首の向きを三度ほど変えたところで、菊が胸を少し離し、恨むような目で言った。
「謀りましたね…」
その髪はたえず俺に注いでいたシャワーの飛沫で、背中は俺の腕についていた水滴で濡れている。
「もう…」
怒ったような笑ったような顔のまま、菊は服を脱いでバスタブに入ってきた。しばらく泥や汗を落として、それから浴槽に栓をして、二人でお湯がたまるのをまった。正面から見られるのは耐えられないと訴えられたので、抱きかかえる格好になっている。もちろん、ただの優しい安楽椅子にはなれず、首を回して、耳に、顎に、口づける。菊もくすくすと笑いながら身体をひねって応えてくれる。やっぱり菊は耳が弱いと思う。はむはむと耳朶を唇で挟むと身体をきゅっと縮める。そして、こちらを睨むように見る、その上目遣いがおかしくもかわいい。
「――食人禁止?」
「………貴方もよくそんなこと覚えてますね!」
「食って、そういう意味だったのかい?」
「〜〜〜っ」
ぽか、と胸を叩かれた。たまらなくなって抱きつくと、水位の上がっていたお湯がざばりとこぼれた。慌てて蛇口をひねりお湯を止める。
くすり、と笑い合って、もう一度身体を湯に沈めた。
「久しぶりだー」
「湯船がですか?」
「うん」
「気持ちいいでしょう」
「うん。シャワーも手軽でいいけどね。お湯につかると何かがほどける気がするなあ」
目の前で菊がこっくりと頷く。
「実際血流は良くなりますし、新陳代謝も促されますからね」
あとは気候の問題だろう。日本の高温多湿は皮脂腺までさっぱりさせたくなるほど強力だし、逆に夏仕様に誂えられた家は身体を冷やすから、身体の芯を暖めておきたくなる。乾燥したこちらの空気にもう随分なれてきたけど、全身が汗になって溶けてしまうような午後、ざばっと服を脱ぎ捨てて海に飛び込む快感は忘れられない。
「あー、海に行きたい」
菊は噴き出した。
「アメリカ人平均の何倍も行ってるんじゃないですか?」
「うん。そうだけど……日本の海に行きたくなった」
きゅ、と肩を抱くと、菊はほんの少しだけ振り返った。
「一緒に泳ぎたいな」
「そうですね、久しぶりに」
「そんで、浴衣着てスイカ食べたい」
「うわ」
郷愁かき立ててくれますね、とちょっとつねられた。
「蚊帳釣って寝て」
蚊帳は…まだあるんでしょうか…と、今度は首をひねっている。
「起きたら朝顔に水撒いて、その間に君が葱刻んで豆腐のお味噌汁作ってて」
「…アル」
菊は振り返って頬に軽くキスをし、身体を戻して俺に頭を預けた。
「煮干しだしよりコンソメスープの方が好きになってしまったのかと思ってました」
「俺が?」
「ええ」
「うーん」
「かき氷よりアップルパイ、みたいに」
「うーーーーん」
少なくとも今この瞬間は断然かき氷だ。アメリカだって八月は暑い。でも菊が言っているのはそういうことじゃない。
「どっちも好きっていうのは、ずるいと思うかい?」
「…」
「俺は、多分世界中のどこにも一般に考えられている意味での『同胞』がいないんだ。同じ集団に所属しているという理由で簡単に誰かに共感できない、けど、だから逆に、なんでも好きになれるんだ…と思うことにしてる」
「…」
菊は身体の向きを入れ替えた。といっても、完全にひっくり返ると顔が遠くなる。バスタブの床に手をついて、もう一方の手を俺の肩に手を掛けて、菊は言った。
「私」
「うん?」
「貴方のことを、ずっと、いい子だと思ってきましたけど」
「…うん?」
「今、すごく、素敵な人だなって思いました」
「菊―――っ」
ぎゅぎゅ、と何かがこみ上げるのが分かった。
肩を引き寄せると菊は手を滑らせてしまい、俺の上に倒れ込んだ。またお湯がばしゃりとこぼれる。それにとどまらずバスタブが揺れ、慌てて二人で壁を掴んだ。何とか均衡を取り戻し、お湯が半分ほどになったバスタブの中で立ち、顔を見合わせて、笑った。
「……かえって疲れるお風呂になっちゃったね」
「あはは」
菊が笑う。笑う、そのことが嬉しい。笑顔が今俺の手の中にあることが嬉しい。
腰を抱くと、菊は背中に手を回してきた。
「眠いなら子守歌歌ってあげますよ――ろっくの」
噴き出した。俺の音程のことを微妙な言い回しで語っていたけど、菊だって何を歌わせても民謡調になる。それに。
「今、それどころじゃないよ」
腰の手を少し強めて、密着させる。互いの熱が直に伝わってくる。
「出ましょうか」
「うん」
子、じゃなくて、人。この一字に込めてくれた気持ちをかみしめる。多分俺は今日また一つ大人になったのだと思った。