この世界の片隅が・1978(アル菊)

※ご注意

・拙著『In the blue』の補完話です。←を読んでいないと意味が通じないので、読後にお読み下さい。

・『In the blue』に係わる注意書きがこちらにも及びます。

・このときいくつなんだっけとか考えない方がいいです多分。

 


 

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。

沖に出たらば暗いでせう、
櫂から滴垂る水の音は
昵懇しいものに聞こえませう、
――あなたの言葉の杜切れ間を。

 

 

「うーん」
菊が残念そうに空を見たので、空気入れを踏む足をとめた。
「どうかした?」
「いえ」
顔を戻して、菊は微笑む。「月は見られないかなあ、と思いまして」
言われて空を仰ぐ。月齢で言えば下弦の月、けれども空は厚く雲に覆われている。海に出るのは推奨されない天気だ。
「せめて、泣かずにいてくれるといいですね、天が」
「うん」
屋根などない、簡単な船外機をつけるだけのほぼ人力ゴムボートだから、雨に降り込まれると実に宜しくない事態に陥る。残念だ。水平線しか見えないくらい沖まで行きたかった。もっとも、それならちゃんと手続きをして船を出せばよかったのだ。俺は船舶免許も持っているのだし、借りられる伝手もある。でも、そこまでの余裕を二人ともがとれなかった。二泊三日の小旅行、それでもやっと来ることができた。

ホテルの手配は俺がやった。菊は一つだけ注文をつけた。一日目と二日目で泊まるホテルを変えろと言う。なんで?と電話で聞くと、しどろもどろになって答えない。連泊の方が圧倒的に楽なんだから、理由があるならともかく、としぶるとやっと白状した。
「あの、ですね。室内清掃していただくでしょう」
「そりゃそうだね」
「その方と顔を合わせたくないというか」
「………ああ!」
意味が分かって、思わず噴き出す。
「シーツぐっちゃぐちゃにする予定なんだ?」
「……っ」
声にならない文句を言っているらしい気配に笑う。
「貴方が自制して下さるならっ」
「やーなこった」
でも、自制は菊の方がすべきだと思う。変なタイミングで色気を振りまくってのもあるけど、電気を消した後は菊の方から手を伸ばしてくることが多い。俺に不満は全くない、いや大歓迎なんだけど、こういう積極性は菊の他の性質からすると不思議な気もする。
くったくたになって、思考能力なんていつもの三分の一くらいになってぽろんとその不思議をもらした時、同じく羞恥心が半分以下になっていたらしい菊がふにゃあと笑った。
「我慢はし尽くしたので、もう気持ちに素直になることにしたんです」
素直な気持ちが「俺に手を伸ばしたい」というものなのならこれ以上の幸せはない。頬に口づけると、菊はそっと俺の頬に手を伸ばした。
「嫌なこと言うと思わないでくださいね―いつ死ぬか分からないと思うと、一時でも無駄にしたくないんです」
「……」
この言葉が、レトリックでないのを今は知っている。「後生にまで続く毒」とは、この怯えと諦念だ。誰にも何にも奪われたくない存在を、腕の中にぎゅっと閉じこめたものだ。

「別に、ホテルの人何も言わないと思うよ?」
電話の向こうで小さくふくれる気配がした。
「そりゃ、お仕事なんですから直接は仰らないでしょうけど…」
菊の逡巡の理由は分かっている。男同士だからだ。
世界は今変わりつつある。サンフランシスコのハーヴィー・ミルクはゲイであることをカミングアウトした上で市会議員選挙に当選した。十年前にできたメトロポリタン・コミュニティ教会は既に定着し、同性愛者に福音を授けている。日本でもフェミニズム運動の影響が出ているのか、以前のように「変態性欲」と切り捨てる人は減ってきた。とはいえ、やっぱり後ろ指はさされる。
「『世間』の中にいると思うから目が気になるんだよ。日本語わかりませーん、俺たち『外人』でーすって顔しとけば、そんなもんかって思うんじゃない?」
「うーん…」
「俺、得意だよ、片言日本語。コニチハー、ヨロシクォネガィシムァースって」
ぷ、と菊が噴き出す音がした。
「菊は、シングリッシュでも話してれば華僑に見えるんじゃない?」
「どうでしょう…いずれにしても、私、言葉をかえられないたちでして」
「あー」
これだけアメリカ生活が長いのに、菊が話すのは「最初にそれで習ったから」とお手本のようなクイーンズ・イングリッシュだ。learntとか言われるたびにアーサーの勝ち誇った顔が目に浮かんで、軽くむかつく。
「日本語も変わらないしね」
「最初に丁寧語で習得しましたから」
別に牧師先生の言葉は俺みたいじゃなかったけどなあと思い返す。
―よくよく読み返してみたんだけどね。やっぱり聖書は、自然に誰かを愛したときそれが向いた先が同性であったとしてもその愛を禁じてないと思う。本田さんは僕たちの神様を認められないかもしれないけど、僕たちの神様は、君たちを受け入れるはずだ。
この前一度教会に帰った時に、そう言ってくれた。今度帰る時は菊も一緒にと約束をしている。

「ボート出してるの見つかったら怒られそうな天気ですね」
空気入れを再開した俺の横にちょこんとしゃがんで、菊は心配そうに言った。一応、そういう心配をしなくていいように、目の前にビーチの広がるホテルにしたんだけど。
心配そうに雲を見ていた菊は、突然噴き出した。思い出し笑いしたのだろう。
「しつこいよ」
「だって、カミナリ族って…!」
フロントで似非日本語を披露して手続きしていた時だ。菊は、提案通り中国人のふりをしていた。その時たまたま道路の方から爆音が聞こえてきて、「a motorcycle gang」の日本語が上手く思い出せなかった俺は、やっと思い出したその言葉を言って、フロントの女性をぽかんとさせ、日本語が分からない設定のはずの菊を噴き出させた。死語だったらしい。
「山川捨松さんでしたかねえ、岩倉使節団に同行した留学生の話を思い出しました。彼女は比較的日本語を覚えてたらしいのですが、帰国後ランプを見せられた時に、『行灯』っていったらしいのですね、彼女が日本にいた頃にはランプが普及してませんでしたから」
「……ほんっとに、無駄に記憶力いいよね」
「学者の世界に無駄はありません」
そうかもしれないけど、ランプはともかくバイクも水中考古学には係わってこないと思う。俺もバイクに乗りはするけど、あれは陸上の乗り物だと思う。
空気を入れ終わり、船外機をとりつける。菊を先に乗せて、俺はゆっくりゴムボートを押す。
雲の切れ間から三日月が顔を出す。小さな明かりでも嬉しい。そっとオールを水に浸し、沖に向かう。

今この島では、陸上の乗り物は通行禁止を命じられている。

二泊目にあたる今日の予約をした時、英語のできた受付の女性は、日程を聞いて少し躊躇した。混んでいるという。「その日、夜十時から朝六時まで、一般車両は全面通行禁止なんです」。了解を伝え、理由を聞いた。
「その間に道路標識なんかを全部取り替えて、次の日から左側通行にするんです」
多分観光業界では、そして県内では有名な話だったのだろう。けれどもその交通変更のことを全く知らずにその日を予約した俺は、むしろ復帰五年になるというのにまだ右側通行だったのかと驚いた。菊も知らなかったらしく、因縁めいていますねえ、なんて呟いていた。
「よく八時間程度で切り替えられるもんですね」
ゆっくりと櫂を操りながら、答える。
「カバーとるだけなんだろ」
これまで使われていた右側通行用の信号はそのままに、左側通行用の信号機が設置されて、覆いが掛けられていた。多分今はその覆いを右側通行用の信号にかけ直す作業だけをやっているのだろう。
「ものはそうでしょうけど…意識が」
「それはすぐには切り替わらないだろうなあ。しばらく混乱するんじゃない?」
「私も渡米後しばらくはうっかりすることありましたし」
「俺も」
習慣はなかなか変わらない。けれども一方、習慣も結局は作られるものなんだなと思いもする。右側・左側。身体にしみついたと思われる感覚は、法や制度に従って決められたもので、それらが変わればいつかは変わるのだ。
海上交通にも決まりはある。むしろ陸上より細かいくらいだ。けれども、はっきりとした違いがある。海の上には線はない。座標でしか示されない国境線は、それさえ人為のものだということを明快に示している。
参議院議員の定数が増えて、都道府県が四十七になって、それでも変わらなかった「沖縄の中のアメリカ」。これだけじゃない。俺が、今の言葉で言う暴走族と聞き間違えたものは、軍用機のたてた爆音だった。
変わらないもの、変わっていくもの―
空は、海は、俺たちの目に映る範囲では変わらない。
もう何百年も前から、ここの人々はこんな海を見てきただろう。

喜屋武岬の先に出たところで、菊は持っていた袋をあけて、その中に入れておいた蘭の花を海に撒いた。
細く月光が船を照らす。菊は花びらを投げあげるように海に撒いていった。俺はゆっくり、できるだけゆっくりオールを回す。小さな水音と、舞い上がる色。波はほとんどなく、撒いた花びらはボートの周りに漂っていた。菊は微笑んでいた。―本当に、骨も何もないから、花でも撒きます。そう言った菊が、哀しそうでないのに救われる。手持ちの花を全部海に撒いて、しばらく海面を見ていた菊は、やがて顔をこちらに戻した。
「明日、出立前に岬に寄りましょうね」
「うん、いいよ」
「空と海が一つになるところを陸の上からみたいです」
「うん」
ぽちょん、と櫂からたれた水滴が小さな音をたてた。
「菊。―今ここにいてくれてありがとう」
菊が生きていることに。菊を生かしてくれた全てのものに。時折そのありがたさを思ってほとんど苦しいような気持ちになる。菊が言うように、彼が生きていることがそのお母さんの死と引き替えであったのなら、彼女への感謝を安易には言えない。それでも―それでも。
手が止まり、音が絶える。
星の見えない空を見る。波がゆりかごのように船を揺する。
「…ちょっと前、調査で船中泊したときにね」
「はい?」
「船底に身体を横たえて、波に揺られながら星を見ていたら、なんか既視感を感じた」
「……へえ……」
「気のせいかもしれないけど、俺は船の上で暮らしたことがあるのかもしれない」
「ああ……」
かもしれない、といえば、時期は決まる。
「あの辺りには、伝統的に、船を家として暮らす人々がいましたから、彼等に紛れていたのかもしれないですね」
頷いた。何もかもが推測だし、根拠はただの既視感でしかない。けれども、この、海を背に空を抱くようにして眠った記憶は確かにある。
俺を海に突き落とした女―としか、その人のことを思えないでいた。けれども、日本における無理心中というのは殺人とは違う意味で了解されている。少なくともその文脈において考える必要はあるだろう、くらいには思えるようになった。
俺を抱えて生きるのは、あの時代どれだけの困難を意味したか。少なくとも四歳時点の俺に養育放棄のあとはなかった。理由も何も分からないけど、あの瞬間の前までは、俺は確かに生かされようとしていたのだ。
菊はにこりと笑った。
「生きなきゃ、って、思いますね」
「―うん」
そっと、船を揺らさないように菊は身体を浮かし、慎重に、ゆっくりと身体を近づけてきた。
長い、長い時間をかけて、触れるだけのキスをした。

 


月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇する時に
月は頭上にあるでせう。

あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言や、
洩らさず私は聴くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで。

 

敢えて手漕ぎのまま動かしてきた船をビーチの方向に戻す。このままずっと漂っていたい気がした。まだ体力はもつだろう。シングルスカルだから菊は手持ちぶさたかもしれないが、ゆっくりと上体を動かす俺を黙ってみている。青と言うよりはほとんど黒という空と海の間で、朧な月光に照らされて、菊の輪郭は柔らかく風景にとけ込んでいる。髪には白いものが混じり始めたというし、笑った後には薄く皺が残るようになった。これだけの長い時間、ずっと思い思われてきたと思うと、その皺の一つ一つに口づけたくなるほどいとおしい。
痕が残るようにもなったんですからね、とこぼしていた。肌の復元力が落ちたということなのだろう。今は服に慎ましく隠されているあちらこちらに昨日の熱の痕がある。心の底まで許していなければさらせないような箇所につけた痕のことを思いだし、残り火にふうっと空気が送り込まれる感じがした。
「……」
流石に今その欲望を口に出すのは憚られた。が、漕ぐ姿をじっと見ていた菊が、気恥ずかしげに目をそらした。少し、顔が赤い気がする。
「……どうかした?」
「いえ」
なんだろう、と自分を見下ろす。まさか見て分かるほどたってはいなかったと思うけど…と漕ぐ手をとめずに目を落としていると、菊がもう一度「いえ」と言った。
「大胸筋がですね」
「うん?」
「発達してるなあ、と」
「ああ、うん。―?」
薄いTシャツだから、この辺の筋肉の動きはすぐにそれと知れるだろう。そして、泳ぐし潜るし必要に応じては船を操りもする仕事だから、年齢平均よりは筋肉が衰えていないだろうとは思う。で?と目を見て問うと、菊は手で口を隠すようにして言った。
「……私、多分、筋肉についてすごく意識がいきやすいんですよね」
「ああ―うん?」
菊の不思議な力については、ウッドストックの次の日、シーツを新しいものに取り替えて、またベッドに戻った頃に教えて貰った。スーパーマンみたいなものかと誤解したけどそうではないのだという。力が出るようになるのではなくて―ああそう、瞬きをずっとせずにいられる、みたいなことです。そうすると目が乾いてきて、脳に辛いって信号を送るでしょう、それも受け取らないでおく、という……。一つの意識で制御できるのが多分筋肉のユニットなんですね。曖昧に「あの辺」では目指した動作ができないので、筋構造については勉強しました。
へえ、と頷いて、「あ!」と叫んだ。
「どうしました?」
「じゃあ、あれ意識的にやってるのかい?もしそうならほんと勘弁して」
「え?なんのことです?」
「ナカをさ、すごい締めつけるじゃないか。―ほんっとに、恥ずかしかったんだから」
前半で「何を言い出すんです!」とばかりに顔を爆発させた菊だったが、後半で勢いが削がれた。口に出したくないくらい「かっこうわるいこと」になった瞬間を思い出したのだろう。
「〜〜〜っ」
しばらく言葉を探していた菊だったが、オブラートが探せなかったらしく、不承不承口を開いた。
「私も知らなかったんですけど、唯一、制御のきかない部位があるらしくて」
「……へえ。……?」
「はしたないというか、何というか―とにかく、あの辺りについては理性を期待しないで下さい」
ようやく何を言いたいか分かった。まさに「生理的反応」だったってことだ。少し、黙る。
「あのさ……。そこを触られるの、嫌じゃない?」
「え?」
「他について全部コントロールできるなら余計に、コントロールできない部分を触られるの嫌じゃないかなって」
「ああ……」
菊はふわあ、と笑った。
「そう考えてくれる貴方で、嬉しいです」
何を褒められたのか分からなくて黙っていると、菊は腕を回してきた。額と額をつけて、言う。
「だから、五年前のあの時、本当に嫌だったんです。何もかもが怖くて仕方なかった」
びく、と身体が硬直する。それを分かっていたように、菊はくっつけた額をゆっくり左右に動かした。
「今はそうじゃない。自分の手綱を貴方に渡してしまえることが、―嬉しい」
そうして、微笑んでいる顔を見せて、口づけてくれた。

許されることはもうないとしても、いつか謝りに行こうとは思っていた。けれども、「大人になれたら、その時」という自分への枷はどうしようもなく強固で、いつがそれなのか何が大人なのかさえ分からなくなっていた。あの時アーサーがチャンスをくれたことに―菊がチャンスを認めてくれていることを教えてくれたことに、どれだけ感謝してもしたりない。

芋づる式に色々なことを思い出してしまった。なんだっけ、そう、筋肉だ。菊は身体について、「腕」じゃなくて「上腕二頭筋」とか「三角筋」とかいうとらえ方をする。自分の身体をそうやって管理しているからだ。
「で、俺の大胸筋がどうしたんだっけ」
「や、……その、動物的で非常に遺憾なのですが」
「うん?」
「すごく、こう……」
もぞ、と動かれて、流石に分かる。
「―ああ」
「口には!しなくていいですから!」
「ああ、うん。……でも敢えて空気を読まずに言うと」
「読んで下さい!」
「同じタイミングでむらっとするって、すごくない?」
「え」
「交代」
船外機は船尾についているから座る位置をとりかえて、俺が操作バーを握る。
「お互い、一時間我慢しようね」
囁くと、菊は顔を赤くして黙り、けれども頷いた。

ちらりと岬の方を見ると、人影が見えた。こんな時間に、と思う。普通岬に来たら誰もが海の方を見るだろうに、その二人は海に背を向けていた。ただふらりと散歩に来たとは言い難い場所に、そして車でしか来られない場所に、一般車両は全面通行止めの時間帯に来て、彼等はじっと陸側を見ていた。
「あの人…貴方に似てますね」
「え」
言われて、ああ、と思う。金髪の方だろう。
「そうかな。分からないけど、俺は和服の人が君に似てるかな、と思ってた」
「そうですか?」
「顔は見えないけど、なんとなく感じが。―君、和服、似合うんじゃない?」
「はあ…ほとんど着たことないですねえ…」
心動かされなくもない、という感じでもう一度目線を岬に戻し、菊は「あ」と小さな声を漏らした。つられて見ると、さっきより人影が近づいていた。
手をつないでいる。
「……」
思わず顔を見合わせた。岬は遠ざかっていく。
「どこの誰だか知らないけれど―」
「君だって相当古いよ」
菊は「貴方に合わせたんですよ」とぺろりと言って、続けた。
「あの人達がずっと仲良しでいるといいな、と思いました」
同じことを思ってた。ちょいちょい、と招くと素直に上体を寄せてくる。軽く啄むようにキスをした。
雲が薄くなり、少しだけ、空が明るくなった。

―神様。心の中だけで祈る。
太陽でもいい、月でもいい、星でもいい。俺たちの生きるこの世界の片隅が、そして、誰かの生きるどこかの世界の片隅が、いつも何かの光に照らされてありますように。

 



ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。 

(中原中也「湖上」)

 


 

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