homeomorphic(蘭・日、米、中、白)

※ご注意

・ゲルマジャール×日アンソロジー『Waltz』寄稿「フラクタル」の対のような関連話のような。独立性は高いのですが合わせて読んで頂けると楽しいかもしれません(宣伝)。

・「蘭←日←米」のようなそうでないような。

・ぎりぎり踏み込んでないつもりですが、歴史認識に係わる話が出てきます。

 


 

世界会議の円卓は、主権平等原則にコントロールされている国際連合の時とは違って、自由に席をとることができる。「隣」とは微妙な関係になりがちなのは世の常、そうは言っても交流の多いのは「周辺」。そのため、おおまかに六州のまとまりで固まっていることが多い。だから特に意識しないのに隣はベネルクスの二国になりがちだ。日本は、アジアの中にいることもあれば、早く会場についた者同士隣り合ったのだろうドイツと並ぶこともあり、また後から来たアメリカに引っ張られて「ヒーローの補助」席に座らされることもあり。そんな日本を斜め向かい辺りからちらりと眺めるのがここ百年の常だった。
「それにしてもなー」
隣でベルギーが頬杖を突く。
「なんや」
「飽きもせんとようやるわ」
しゃくった顎の先ではイギリスとフランスがどつきあいをし、アメリカが茶々を入れている。
「あいつらは趣味やろ」
「趣味の時間に付き合わせんといてほしいわ。『時は金なり』言うたんはあんたらやろっちゅうの」
「まだまだやのう」
笑うとベルギーは鼻の上に小さく皺を寄せた。
「なんなん?」
こういう機会を捕まえて国際関係の機微を観察する。お馴染みの、そして幾分お約束の「大国の趣味」は脇に置き、どこの国が何を欲しそうにしているか、どことコンタクトを取りたがっているか。全てを国際流通という目で読み取り、ビジネスチャンスに変える。それが狭間に生きる国の処し方というものだ。
日本は、あのまじめくさった無表情の裏で、脳の八割方では無関係なことを考えているに違いない。今日の夕食だの、次の年中行事だの、はやりのマンガだの。真っ黒な瞳は感情を写さず、軽く閉じた口も意志を表さない。
隣で資料を睨んでいたドイツがボールペンで日本をつつき、何かを尋ねた。日本の右手が小さく動く。ぱちぱちとそこにない算盤をはじいてみせて、日本はその資料に何かの数字を書き込んだ。何の計算なのかは分からない、しかしとにかく二人の間ではそれで辻褄があったのだろう、小さく頷き合っている。そうして議長席に背を向けていたとき、それは起こった。どつきあいからとっくみあいに入った二人を見かねたのかうるさく思ったのか、アメリカが手を入れて両者の間をぐっと開いた。フランスはその勢いのまま壁にぶつかり「いてえ!」とわめき、イギリスは円卓の方へ……投げ飛ばされて、まっすぐ議長席すぐ隣、つまりは一番前の日本に激突した。
二人は玉突きの要領でドイツの方へ倒れ込んだ。とっさに踏ん張りイタリアの方へ将棋倒しにならなかったのは流石だが、イギリスの勢いがつきすぎていて、押し出される形となった日本はふらりと椅子ごと床に沈んだ。
ごん、と大きな音がした。
一瞬の静寂、次の瞬間、多くの者が立ち上がって日本の名を呼んだ。怒号の飛び交う中、自身もくらくらするのだろう頭を支えつつ、イギリスも必死な顔で日本を呼んだ。すぐに起き上がるかと思った日本は、しかし倒れたままだ。責任を感じたのか、アメリカが飛んできて、日本を助け上げた。円卓を回り込み、部屋の隅に置かれていたソファに横たえる。
隣のベルギーが眉をひそめて言う。
「大丈夫やろか」
「……まあ、死にはせんやろ。アメリカがガチぶつかってきたら圧殺されるかもしれんが、イギリスや」
しかし、頭はもっと固そうだ。もろにぶつかったらしいし、相当衝撃があったのではないか。
そのイギリスは一番前で必死に名前を呼んでいる。運んできたアメリカやドイツがその隣で顔をのぞき込んでいる。何ができるでもないのだが、各国はその周りを囲むようにたち、日本の様子を眺めた。
「ん…」
唸るような声が漏れ、ほっとした空気がさざ波のように広がる。
「日本!大丈夫か!?」
イギリスが肩を掴んだところで日本は上体を起こし、薄く目を開けた。
「んん…、一体、何が…」
「気がついたか!」
「ここは……?」
「あああ、よかった…!どうなることかと思った……って、別にお前が心配だったわけじゃな」
言葉が途切れたのは、日本がどんとイギリスを突き飛ばしたからだ。
「え」
何?何が起こったんだ?という顔のままたたらを踏んだイギリスは、後ろの香港に突き当たった。
「え、え、え、」
「どうしたんだい、日本」
「具合が悪いのか?」
顔を寄せた二人に、日本は喉の奥で「ひい」とないた。
「いてき……!」
「イテキ?」
ますます顔を近づける二人に、日本は今度は声に出して「ひいいいいい」と喚いた。
「よよよよよ」
「どうしたんだ一体」
ドイツが眉間の皺を深くする。その顔の厳めしさに更に怯えたらしい日本は、狭いソファの中で後ずさりした。胸にあてた腕はせめてもの防御か、しかし何も自分の身を守らないことに気づいたか、日本は周りを見回した。と、絶望的な顔をしたイギリスの奥に香港を見、その隣の中国、韓国を見たところで日本の顔はほわっと緩んだ。その顔に中国、韓国の二人の方が一瞬固まったのを横目で見ていると、「あ!」と叫び声がした。
「ぶるーる!」
そして、たんとソファを降り、一直線に駆け寄り、満場の注目を集めたまま、抱きついた。俺に。
くわえていた煙草がぽろりと落ちた。

 

*

 

頭痛の海というものがあるなら、その海底まで沈んで、その後波間に漂っているような気分だった。揺れる、痛い、寒い。波に浮いたり沈んだり、その途切れ途切れに名前が呼ばれる、その声が聞こえる。そんなことより、綿布団をかけてほしい、いっそ布団の中にくるまりたい。そう思って額を床にすりつけると、天鵞絨のような肌触りが額に伝わってきた。
「日本!」
ぐっと肩を掴まれ、波から引き上げられる。したたる雫のように何かを天鵞絨の中に落としながら、目を開いた。呼ばれている。分かっている、分かっています。起きます、起きています。そう耳元で喚かないでください。なんとかしなければならないことくらいちゃんと理解してますから。
それにしても、頭がわれるように痛い。
「んん…、一体、何が…」
「気がついたか!」
まばゆい光が瞼を突く。部屋の中にいると思ったのに、まるで夏の戸外のような明るさ。
「ここは……?」
やっと開いた目に飛び込んできたのは、緑色の瞳に、立派な、いささか立派すぎる、眉毛。まゆげ… この眉毛には見覚えが、ある……
「!!」
えげれすが、こんなに間近にいるなんて…!思わず突き飛ばし身を縮めたら、今度は見も知らぬ、やたらと体格のいい紅毛人が顔を近づけて来た。
「夷狄……!」
長崎奉行は何をしているのか。また御番役をきつく叱らなければ。と、一人が表情を消し、一人が眉間の皺を深くした。
「ひいいいいいいいっ」
威圧感がありすぎる。フェートン号の狼藉どころではない、江戸城さえ一気に踏みつぶしてしまいそうな大男に心の臓が縮み上がり、後ずさりながら周りを見回すと、知らなく国にぐるりを囲まれていた。今や海は世界中からの通路である―――そう言っていた男がいた。分かってはいるがそれを口にするなと処分された筈だ。分かってはいたけど、海の外にはこんなに沢山の国があったのか。そして、今や我が国に迫っているのか。絶望的な気持ちで首を巡らすと、見知った国々が目に入った。ほっとする。特に国として正式によしみを通じている「通信の国」の存在にほっとして笑いかけたら、相手は意外を絵に描いたように目を丸くした。そんな顔をされて思い知る、ここ数十年は付き合いが薄くなっているのだ。隣の中国さんも目をしばたたかせている。かの国での異民族王朝の成立以来、冊封体制への参入を拒んできたから、千年前のような関係ではないと分かってはいたけれど…覚悟の上だったけれど、この状況では少し傷つく。やっと見えた蜘蛛の糸が引き上げられてしまったような気分だ。そのまま顔を横に流し、もう一つの「通商の国」を見つけた。
「蘭にいさん!」
飛びつくと、旋毛辺りに何か軽いものがぽとんと落ちて転がっていった。
「?」
顔を上げると、彼は「あー…」と呟き、おもむろに来ていた上着を脱いでばさりと頭からかけてくれた。
……ああ……。
与えられた「遮断」にほっと息をつく。すぐ近くに「外国」がいることは分かっている、ただ布一枚で隔てられているのだとも。それでも、今自分の前にはオランダさんしかいない。
「煙草すいてぇ…」
ぼそりと呟くので、顔だけを出す。確かに、その口にも手にも煙管はない。
「火がないんですか?貸しましょうか?」
「いや…、ここは禁煙や」
「きんえん?」
知らない言葉に首を傾げると、その眼をじっと見て、小さくため息をついて、オランダさんは言った。
「お前は、頭を打ったんや」
「はあ…」
そう言われればそうなのかもしれない。額も後頭部もずきずきする。
「そのせいで、ちょっと混乱しとるらしい。ここがどこか、分かっちょらんやろ」
「ここ、どこですか」
「今はいつや」
「いつなんですか」
「俺が聞いとる」
「いつって、天保でしょう。阿片招禍についてわざわざ教えに来て下さったではないですか……っ」
そこで気がついて振り返る。中国さんは少し顰めた顔でこちらを見ていた。特に傷ついた様子はない。むしろ壮健に見える。「中国の覆轍」は我が国を揺るがす大事件だったというのに。……そして、あの誇り高い人が、西洋の服を着ている。
「…あれ?」
何かおかしい。そういえば、誇り高いことでは中国さんに引けをとらない隣も洋装している。洋装…と言っても燕尾服ではない。もっとシンプルで色味も落ち着いた服だ。
首を傾げたら、オランダさんが頷いた。
「多分、記憶が天保まで巻きもどっとる…というか、その後を忘れとるというか」
「え…」
ほれ、と言われて自分の身体に目を落とすと、自分こそ着慣れない服を、しかし誂えたかのようにぴったりの服を着ているのだった。
「い、今は…いつなんですか」
「そうやなあ、アヘン戦争いうんなら、ざっと170年あと、か?」
「ひゃくななじゅうねん…」
「とりあえず、ここに、お前をとって食おうという奴はおらんから安心せえ」
頭からかぶっていた上着を肩まで落とし、そろそろと周りを見回す。見た目と同じく、社会原理さえも、時代は違っているらしい。天井にはただ白い板が貼ってるあるだけなのに煌々と明るく、暖炉もないのに室内は暖かい。女性のスカートの裾は短くなり、男性のズボンはすとんと靴まで落ちている。自分と同じように紺色の揃いを着ているオランダさんは、胸元に手を入れ小さな箱を取り出し、中にあった細長い小さな筒をくわえた。
「電子煙草や」
「でんし…?」
すうと大きく吸い・吐きして、彼はしみじみ言った。
「……170年言うても、あの前170年間とあの後170年では進度が全然違うからのう…。何から説明しらええんか…」
と、ふと剣呑な視線に気がついた。先ほどの大柄な異人だ。心配そう…というよりは不快そうで、漂ってくる温度が低い。
怯えてオランダさんに身を寄せると、その空気はもっと強くなる。
「あー……」
オランダさんも気がついたのか、頭をくしゃりと掻いて、そっと体を引きはがした。
「まあ、色々あったんや。俺とお前は、今は『兄弟』ちゅうような間柄やない」
「え、…」
兄弟でない…のはもとよりそうだ。オランダさんは海の向こうの人だし、「兄弟」と言ってもいいような関係は、お互い別にいる。わかった上で兄弟ごっこをしてきたのだけど、関係が変わった、とは…?
「そんでの、今のお前がひっついてくると俺の分が悪うなるんや」
は、と気づき、距離をあける。まさか、と思う。けれども、もしかして、と思う。だって、「くっつくと体裁が悪くなる関係」。
「あの、まさかっ」
「んー」
「まさか、私、貴方に告白したんですか!?」
そして「人目を忍んでふれあう関係」になったのか、なれたのか、そう思って勢い込むと、オランダさんの口から「でんしたばこ」がぽろりと落ちた。


恋が全ての平安400年間と、爛熟の江戸240年を経験した身として、あれほど無様で無粋な、そして無残な「告白」もあるまいと思う。
当の相手には「はあ?」と顔をゆがめられ、思いごと完膚無きまでに叩きのめされた、…その様を全世界にさらしてしまった。周りはなぜか一斉に叫びだし、部屋は喧噪に満ちた。できたのはただ逃げ出すことだけだった。部屋の外に待機していたらしい大阪さんに「鎖国します!」と宣言すると、目を丸くして、それでも家に連れ帰ってくれた。帰路はずっと持ってきてしまった上着を被っていた。それでも周りが尋常でなく変わってしまったことは分かった。何に乗ったのだか、どう動いたのだか、ともかく薄暗い中でぎゅっと目をつぶって爆発したいほどの羞恥に耐えていた。恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!!そう心の中で呟けば、それだけが苦しさの全てだと思えた。
家の造りも変わっていたが、畳と布団は変わっていなかった。上着をかぶったまま布団に潜り込むと、微かに知らない匂いがした。なんだろうと少し考えて、それが今の自分の匂いなのだと知る。多分食べるものが変わったのだ。背も歩幅も記憶とは違う。自分の外が変わったのではない。自分も変わっている。変わらないのは自分の中の奥、こころだけだ。
く、と目をつぶり眉根を寄せたとき、ばん!と音がした。ドアの辺りで大阪さんが慌てている声がする。
「いいいいい今、日本さんはあんま見んような形になってまして…!」
「かまやしないよ」
「構うのはこちらですねんー!」
押し返そうとしていたのだろうじたばたという声が、突然ぴたりと止んだ。何によってかはともかく、黙らされたのだ。不穏な空気を察していると、すぱん!と襖が開いた。つっかい棒をしていなかった…!
「やあ、日本」
ひ、いいいいいいい!
尺取り虫のようになっていた体を更にダンゴムシのように丸めて、布団の端から目だけを出すと、そこにはあの日見た夷狄がいた。あの、地吹雪のような低温を発する大男だ。と、彼はいきなり吹き出した。
「ははは、ほんとに見ない格好だな!いつも取り澄ました君とは思えないよ!」
その笑い声に冷たさはなく、怯えていた内臓は少し緩んだけれども……笑われようが何しようが、この布団は自分の要塞だ。離すまいとぎゅっとしがみつくと、彼は開放的な笑顔のまま近づき、数メートルあけて、座った。
「…そのままいたいなら、それでいいよ。俺が誰か、分かる?」
そろそろとかぶりを振る。見覚えはない。が、髪の色と言い目の色と言い、夷狄には違いない。
「そっか、まだ『あれ』の前なんだね、君の中では。…俺はアメリカ」
その名前には聞き覚えがある。まさにそこの接近についてオランダさんが教えに来てくれていたはずだ。つまりは170年前の私にとってはまさに警戒すべき第一人者だ。しかし、時代は変わった、らしい。倒れていた私を助け起こそうとしていたのは(と考えるべきだろう、あの体勢は)、この国だった。私は、びったんびったんして嫌がっていた開国を、だけど、したのだ、多分。
了承の合図に、布団の中で小さく頷く。これでは見えないかと思い直し、腰から折って体全体で頷きを示す。それを見てとって、彼は小さく笑った。笑顔になると驚くほど幼い顔になる。若いのだろう。警戒心が解かされてしまう笑みだ。
「君の認識とは時代が違うっていうのは納得済みなんだよね?」
こくりと頷く。
「うん。今、俺と君は、特別な関係にある。だから、君の気持ちを分かっていても大阪は俺に連絡してきたし、さっきも結局俺の言うことを了承した。脅したわけじゃないよ」
頷…こうとして少し傾きがずれる。あの低温波を発したのならそれは脅しではないだろうか…。そんな微妙な間を感じ取ったのか、彼はまた笑った。
「少なくとも、大砲を撃ったりしてない。170年前とは違ってね」
撃ったのか!と思わず尺取り虫の背が伸びる。まさに「力尽く」だ。と、慌てたようにアメリカさんは手を振った。
「君に向けてじゃないよ!海にね、これぐらい力があるんだぞ!って」
いやいやいや。そんなことをされたら絶対布団から出ない。可哀想すぎる、170年前の私。どれだけびびったことか。
そして、それなのに「特別な関係になった」なんて、一体何があったんだ、170年の間に。大体、「特別な関係」ってなんだ。まさかとは思うが……いや、いやいや。もう無闇矢鱈に根拠のない想像はすまい。してもきっと現実は想像を超えている。
「……だいたい」
「ん?」
「何しにいらっしゃったんですか、わざわざ、こんなところまで」
アメリカさんは一瞬だまり、やがてゆっくり微笑んだ。
「今度こそ、友達になりに来たんだ」

 

*


現実問題として、今の日本に鎖国はできない。一国経済で支えられるほどの食糧生産がない。だから、彼の意志を半ば無視して上司は外交関係を維持している。多分いくつかの自治体が代行してつなぎを作っているのだろう。そして大阪は170年前そうだったからだろうか、日本番らしく、先ほど桜餅と日本茶を持ってきてくれた。それを時々啜りながら、まだ布団虫の形のまま、日本は社会の教科書を読んでいる。カラーの本にも、それが自分が全中学生に無償で配っていることにも驚いていたが、中に書かれている言葉にも「分かるような分からないような…」と顔をしかめていた。大阪が操作を教えたスマートフォンの辞書アプリを時々触って、黙々と読んでいる。
俺はぱくりと桜餅を食べる。どちらかというと俺は焼いた生地のの方がワッフルみたいで好きだけど、日本は道明寺の方が好きだって知ってる。大阪も知ってるのだ。
今日本が読んでいるテキストがどんなものなのか、知っている。隣国とは違って国定教科書ではないけれども、それでも彼がどんな風に「これまで」を把握しているかを考える一つの手段だから、改定の度に各社歴史教科書には目を通している。
だから、ただ黙って読み終わるのを待っていた。どれだけこちらがわに理屈や大義があったとしても、二人の間には、見開きで示される焼け野原という動かせない事実があるのだから。
歴史と地理を一冊ずつ読み終えて、日本は、桜餅を手に取った。お茶を啜った。そのまま、時が過ぎる。
さすがに、じれる。
でも何を皮切りにして良いかも分からなくて黙っていたら、日本が「ふう」と息をついた。目を合わせると、布団が筒からフードくらいに変化した日本が、小さく微笑みかけてきた。ぽん、と地理の方の教科書を叩く。
「…『今、貴方と特別な関係にある』ことは、理解しました」
「うん」
口調に変な色はついていなかったから、肩の力が抜ける。「…うん」。もう一度言うと、日本はまた小さく笑った。
「なるほど、激動ですねえ…。自分のこととは思われません」
実際覚えてない訳ですが、と日本は笑い、お茶を啜った。
俺はお茶を机に戻し、身を乗り出した。覚えていないというなら、もう一度やらせてほしい。やり直しはできないけど、だから170年前のあれを消させるつもりじゃないけど、別の言葉を言わせて欲しい。
「あの、」
「それにしても…」
言葉が重なって、一瞬怯んだ間に、独り言だったかだろう、日本は続けた。
「やっぱり、分からなくて」
「何が?」
あ、えと、ええと。日本は少し慌てて、やがて腹をくくったように言った。
「どうせばれてるんですもんね。…オランダさんがああいう風に言った理由が、読み取れなかったんです」
その名前を聞いて、すうっと血の温度が下がるのを感じた。ばれているのは、「私の気持ち」だ。「私、貴方に告白したんですか!?」――それこそ忘れてしまいたいあの台詞。
「ああ…。君は、その頃彼が好きだったんだっけ」
「はあ、…まあ」
すい、と目線を机の端に流す、その頬が少し赤い。
「この本にも、お名前が『あの頃』以降出て来ないので、その後はもう『特別な関係』でなくなった、のは想像がついたのですが…」
何にせよ顔を見られていないのは幸いだ。あまり優しい顔をできていない自覚がある。「特別な関係」という言葉が盗まれてしまった気がした。
「君がそんな風に思ってるなんて、想像もつかなかったな。あの後俺たちはみんなで顔を合わせたりしたけど、二人がそういう関係には見えなかったよ」
本当だ。もっとも、あの頃日本の思いの先にまで気を払っていたかと言われれば否となる。日本に来たのも「上司のお遣い」だったし、俺にとっては欧州との関係構築の方が断然優先課題だった。
「…片思いでいいと思っていましたから…」
「……でも、告白することを考えないでもなかったんだろ?だからあんな質問になったんだ」
日本は俯いた。そして小さく言った。
「あさましい、ですね」
俺はまたお茶を啜る。しばらく黙っていたら、向こうで気落ちする気配がした。肯定の返事とうけとったらしい。
「そんな風に思ってるわけじゃないよ」
ではどんな風に、という目線を流された。
「実のところどうだったのかなって。俺たち他国は知らなかったけど、もしかして、その後君は告白して、君達は実は特別な関係になっていたのかなって―――ああ、それはないか!」
想像を打ち消そうとして、勢いがついた。いけない、と警報がなりはした。けれどももう言葉は転がり出ていた。それは、ジャンプ台の上ではもう止められない跳躍に似ていた。
「彼は、ヨーロッパ一の反日国家だもんね!」

 

*

 

200年も生きていれば達観してもいいだろうに、外見年齢に引きずられるのか、あの若造は時々「若さゆえ」としか言いようのないことをやらかす。とはいえ、
「いいじゃねーか、事実あるね」
額の皺を伸ばしながら言うと受話口から「こんなのヒーローの台詞じゃないよ!」とわめき声が返ってきた。
「……お前が悪くないとは一言も言ってねーある」
そりゃあ、肩掛けくらいに格下げされていた布団が要塞に戻りもする。明治以降作られた和製漢語のほとんどを覚えていない今の日本が、絶対に知らない言葉、もしかしたら想像もつかない言葉、けれどもそのシンプルな漢字構成でその意味が明快に分かってしまう言葉、それが「反日」だろう。またいつの間にか皺のよってしまった眉間をごりごりと揉む。
「俺が悪いって言うのかい!?」
ため息が出る。
「……お前はなんのために日本の家に行ったあるね」
「変な形で俺のことを知って欲しくなかったからさ」
「是。誰も、自分のことについて、偏った情報を吹き込まれたくはねーある」
言えば、アメリカは黙った。全く同じ理屈なのだということを、頭の底では分かっていたのだろう。
そうは言っても、あの若造が一言口を滑らせた理由もよく分かる。何せ、「今」の日本の心中にアメリカが占める割合は著しく低い。例え客観的情報として歴史的経緯や経済依存度を教えられたとしても他人事のようにしか思えないにちがいない。多分――背中の火傷にまつわる様々なことを覚悟した上で事実を手にして向き合おうと向かった先で、日本は「それはさておき」程度に対米関係を扱ったのだろう。
自分が真剣になっているときにスルーされれば、腹も立つ。まして、関心を他の男に奪われているとなれば。
「まあ、むかつくあるわな」
滅多にないほどの共感をもって携帯電話を切って呟けば、むかつきの相手である男は、眼前でうるさそうに目を眇めた。押しかけた先なのに電話に出たのだからその態度も仕方ない、とはいえ、このタイミングで電話に出ないわけにもいかない。仕方ねーじゃねーかと心中呟いて携帯電話をしまった。誰憚ることもない自宅だからだろう、オランダは大きく白い息を吐いてはまた煙草の先を赤くする。
「すんませんねえ、けむうて」
片手で詫びてみせながら、ベルギーが窓を開ける。持参したという焼きたてのワッフルの香りまで飛ぶのがもったいない。
「とりあえず、甘いもん。お兄も落ち着きいや」
切り分けたワッフルにアイスクリームを落としてそれぞれにサーブする。アメリカから電話がかかってくる前も後も黙ったままだったオランダもさくりとフォークを入れた。ベルギーの作るものはたいがい及第点をつけられる。それだけはあの変態国側に寄ってよかったあるなと思うが、それを口に出せばシスコン男に目で刺される。もっとも、その程度に威圧される我ではない。
「でもぉ…。実際のとこ、中国さんはどうしたいんです?お兄と日本さんに上手くいってほしいと思うてはるんですか」
実際のとこ、と言われると、自分でも迷う。とにかく現行レジュームが急変するのは得策ではないから、日米関係の破綻は、少なくとも今この瞬間にはおこって欲しくない。そして、自分以外の男を兄と呼んでいたと思い知らされれば複雑な気にもなる。その時代が朝貢体制からの離脱期であることを思えばなおさらに。
「…何はともあれ、売り手としても買い手としても、日本が引きこもるのは困るある」
「あー、そりゃそうです」
ぴっとフォークで目の前に座る男を指す。
「だから、お前がきっぱり振ってやるならそれでよし。後は、傷心の日本を、170年前よりはだいぶ大人になったアメリカが罪悪感の分、誠実に慰めるあろう」
ベルギーはちらりと横目でオランダを見て、小さく首をすくめた。ぴくりとも動かない表情の中に、何か読み取ったものがあるらしい。その辺りは長年の機微というものだろう。
「『実際のとこ』、損得で言うならそれがベストあるね」
かん、とフォークを置く音が響いた。
「何でもかんでも計算か」
「是」
できるだけ腹が立つような満面の笑顔を浮かべてやった。
「あったりまえある。お前だってそうやって生きてきたある」
オランダは眉間を寄せた。
「阿片招禍について教えに来た、と日本が言ってたね?あの時もお前は立ち回った。危険性を過大に見積もって、すぐにでも日本にイギリスが襲いかかるかのように伝えたあるね?そして日本が他国に伝えろと言ったことをわざと言わなかったりもした」
「あれは…!」
「別に責めてないね。外交はそんなものある。お前には目算もその必要もあったろうし、…」
続きは腹に収めた。
プライドの高い男である。多分、言えば気分を損ねるだろう。だが、多分そうだと思う。
この男は、あの頃の――つい先日見た、あの、日本の眼差しが、少し、痛かったのだ。
井蛙の心、という言葉がある。
自分から井戸に入ったのは日本で、しかもその井戸は実のところ横穴が世界に通じていた。だから世界を知らなかったわけではない。それでも、日本が対面するのは自分だけとなれば、井戸ばたから見下ろすような気持ちにはなっただろう。そして、その蛙が、他に見えないからこそ、真上の星だけを見上げるように自分を見るのに、嬉しいような苦しいような思いになったに違いない。もし他を知ったなら自分への眼差しがかわるかもしれない。いや、かわらないかもしれない。他を知って、それでもなお自分を選んでくれたなら――いや、そんなことを期待すべきではない、なぜなら、……なぜなら、自分は、他国のように、そして以前ほどに、輝いていない。
かつては欧州一の海国だったという自負と、現実の経済的苦境、そして妹との決裂。その中で計算高く動き回る自分、……動き回らざるを得ない自分。
―――なんて、覚えのある感情。
溶けかけたアイスクリームを口に運ぶ。
日本に、兄と、呼ばれたことはない。生意気な口を叩かれたこともある。中原に覇をたてんと乗り込まれそうになったことも。それでも、
――中国さん!
会議場で我を見つけた時のあの顔。自分の中での価値を疑ったこともない、嫌われるなどと思ったこともない、あの顔。
巻き戻されたあの顔に、「今」会えば、流石に心が動かされる。
損得抜きで動いてやろうと思う程度には。
口を袖で拭き、籠からぬいぐるみを取り出した。
「あ?なんじゃい、この不細工なクマは」
「パンダある!お前の目は節穴あるか。――これは、幸せになるぬいぐるみある。プロイセンには、ちょっと言えねー金額で売ったこれを、格安で譲ってやるね」
「売るんですかい」
隣から突っ込みが入る。それに片目をつぶって応えて続ける。
「今ならなんと1個おまけでついてくる」
「2個の押し売りとちゃうんですか」
「違うあるね。おまけの1個は日本の分ある。お代は、これを届けに行く労役あるね」
「日本に?」
「あ!我からと言うてはいけないあるよ!」
「ばればれですやん!」
とうとう声を上げて笑い出したベルギーが、ばん、と隣の男の背を叩く。
「行ってきいや、お兄。色々、どうせなら知られたなかったことばらされて余計ふてくされてんやろけど、……結局、歴史のねじは、誰にも戻せんのよ」
ベルギーは、最後、少し目を細めた。
「……」
黙って残りを食べていたオランダは、やがて「ごっそさん」とフォークを置き、そのまま皿と一緒に台所に消えた。と、続いて勝手口のドアが開いて閉まる音がした。
そちらに目をやったまま、ベルギーは小さく言った。
「……ずっと兄妹でいたいと、思う気持ちも、あったんです」
「……そうあるか」
「でも、そう思ううちをほっといて、自分は地球の裏に行って、ひとに『兄』と呼ばせてるというのが、どうにも、苦しかったんです」
その呼称は、日本の自制であり、オランダの線引きでもあったろう。一方で、多分重ね合わせのきょうだいごっこでもあったに違いない。それを当時知っていたなら、我もまた苦しく思ったろう。
そっと手を伸ばして頭を撫でると、ベルギーは幼い子どものように眼を閉じて笑顔を作った。
遠くで花切りばさみの音がぱちりぱちりと響いていた。

 

*

 

鎖国、と書き付けられた半紙を襖に貼って、今日も日本さんは「見慣れない形」になっている。正直、ちゃっちゃと立ち直って貰いたいものだけれども、うけただろう打撃の大きさを考えると流石に強いことを言えない。
そして半ば責任を感じているのだろうアメリカさんはあれ以来毎日尋ねてきては襖の前から声をかけている。馬鹿正直なそのやり方に、昔の方が「押して、引いて」の駆け引き上手かったんちゃいますかと突っ込みたくなるけれども、もしかしたら、だからこそなのかもしれない。
戦争が決闘ではなくなった今の時代、フェアネスは定義すら難しい。
だけど、国家間交渉とは離れた、私人としての感情の問題だから、多分アメリカさんは、考えられる限り公平を尽くそうとしているのだろう。
考えている間に、いつもの訪問の時間になった。慰めのお茶でも準備しようと立ち上がったら、なんだかとがったアメリカさんの声が玄関から聞こえてきた。
「うっさいわ」
「…げ」
あわてて玄関をあけると、花束がふってきた。
「はよ日本出せ」
「ちょっと!なんだい君、強引に。俺が先に来てたんだぞ!」
脇から手を伸ばしたアメリカさんに「…ほう?」と返す。
うわあ、と、花束を抱えたまま震える。オランダさんが「誰の台詞や」とでも返すさまが目に浮かぶ。170年前、まさにそう思っただろうから。
と、オランダさんは、予想に反して、静かに言った。
「別に、先を争うてはおらん」
「……へえ。余裕だね?」
温度の下がったアメリカさんにも動じず、オランダさんは続けた。
「余裕はない。多分、そのうち日本もゆっくり記憶が戻る。そしたら、巻いたねじが戻るように『もとの日本』になっていくんやざ。あの頃の日本が、あの頃のまま今まで続くことは、どんな意味でもありえんけえの」
「……そうだね」
「ちゃんと『今の日本』にさよならしてやりたいだけや」
「………」
アメリカさんは小さく靴の先で床を叩いた。
「俺は、焦りすぎてたかな」
答えの出せる問いではなかったから、黙っていたら、オランダさんはぽつりと言った。
「もし時を戻れるのなら、と思うたのは、俺もや」
そして顎で合図して靴を脱ぐ。
「待ってくれよ!」
慌てて靴を脱いだアメリカさんが半歩遅れて、廊下を進む。
きっと三秒後には「ひいいい」という悲鳴とびったんびったんする音がする。

けど、一時間後には、もしかしたら三十分後には、「はよ三人分の茶と菓子出せ」と声がかかるかもしれない。

渡されたチューリップの花束から、新しい季節の匂いがした。

 


 

<<BACK

<<LIST