※ご注意
・2周年記念ナツ様リクエスト「普日、できればカシオペアのような一般人バージョンで」。
・留学生ギルと大学生菊。昭和の終わり(バブル初期)くらいのイメージ。
・竹林ネタ。
・多分「ハッピーエンド」の範疇には入らないです。
苦手な方はお戻り下さい。
定期的な用事を入れるのに不都合のある曜日・時間帯というのがある。例えば火曜木曜の実験補助バイト、既にルーティンと化したこれは生活のどこにもたいした影響を与えない。大学ゼミとその打ち上げは基本的に水曜日、月に一度入る留学生センターでの報告会とその後の飲みは金曜日。それがオールになることも時々はあるから、例えば土曜の朝には流動性を持たせたい。来日以来さっぱり縁がないが、いつかデートなんて日もあるかもしれない、そう考えれば土日にはどちらも固定的な用事を入れたくない。
まーそうだろうねという薄い同意くらいは悪友の誰からも貰えそうなこの願望にも係わらず、もうずっと日曜の夕方は家にいることにしている。
五時五十五分、こん、とドアがなる。ドアチャイムの音は大きすぎて申し訳ないのだという。聞こえない方がもっと申し訳ないんじゃないのかと思うのだが、その辺の日本人の感覚はよく分からない。
ドアを開ければ、本田菊が立っている。たいていの場合、片手鍋を持って。
一度土鍋を持ってきたことがあった。アパートの廊下に置くわけにもいかなくて、手に持ったまま鳴らした「こん」は空耳かと思う程度で、本田が毎日来るこの時間帯でなければ聞き逃したに違いない。訝りながらドアまでくれば、指がつりそうです、といいながらおでんの匂いを漂わせて本田は笑った。
今日はいつもの片手鍋だ。匂いにつられて蓋を開ければ、半透明になったキャベツが肉団子を透かして見せながらコンソメソースの中に並んでいるのが見える。
「混ぜものです」
すみません、と本田は頭を下げる。すみませんも何もない、「お礼代わりに」と持参する手料理を「いやいい」「そんなどうか」「そんな大層なことじゃねーだろ」「そんな大層なものではありませんから」と押し問答した挙げ句、なし崩しにイタダイテイル立場だ、何だろうが文句は言わない。そもそも肉団子が合い挽きで何が悪い。
「いえ、鶏ミンチと豆腐の」
「へえ」
それは流石に意表を突かれた。
「外国の方には物足りないかもしれないと思ったんですが」
「いや、こんだけありゃ満腹になるだろ」
それは間違いない、という量だ。
「パンも買ってあるし」
日曜の夕方が固定されたちょっと後、日曜の昼さがりにルーティンができた。散歩がてら、少し遠くのドイツパンの店に行くのだ。毎日行ける距離でも値段でもないが、一週一度の贅沢くらい自分に許したい。「だったらお前も食え」「いえそんな」「なら受け取らねー」のやりとりの末、本田も一緒に飯を食うようになった、その本田もびっくりしたような顔で「美味しい…!」と呟いていた。その顔を思い出してによによしつつパンを買うのが習慣になった。
ご馳走になります、と本田は頭を下げた。
いや、そもそも俺がだし。と返答に迷っている間に、本田はさっさと部屋に上がり込み、食器棚から深皿を取り出してよそい始めた。火から下ろしてすぐ来たのだろう、まだ湯気がたっている。コンロ、すぐそこだしな、と思っていると、手に提げていた買い物袋から小さなタッパーを取り出して、小ネギを散らした。
このネギは、本田の部屋の窓際にあるというプランターから摘まれたものだろう。ネギとパセリは育てやすい上に使い勝手がよくて、と本田は力説した。さすがに野菜の栽培は日本人大学生一人暮らし男子の標準的な行動には見えなかったので「はあ?」と胡乱な声を出した時のことだ。――そして、料理が豪華に見えるんです!
違いない、と皿を見ながら思う。鶏肉を焼いたその横に添えられるパセリ、煮た大根の上に散らされるあさつき。色のコントラストが綺麗で、見た目の豪華さははっきりと向上する。けれども、言われなければ気にしないような差でもある、何せこちらは食い盛りなのだ。見た目より中身、質より量。不得要領という顔をしていたからだろう、――本田は小さく付け加えた。ちゃんと作ったご飯、という気になります。
部屋の隅の、パッキンが古くなった冷蔵庫を苦労してあけ、本田は前に置いていったザワークラウトもどきを取り出した。俺が食べたいと言ったので、勘で作ってみたという。本屋にもそんなものの料理本は無かったらしく、要するに酢じゃねーのとの俺の言葉をもとに作られたそれは―――後で弟と電話をして怒られた、ザワークラウトは塩漬けだ、そんなことも知らないのか!――国際電話は高いからと気遣うくせに、叱る時間の長さは考慮しない鬼の弟である――明らかに目指したものとは別物で、ザワークラウトを食べたことがないという本田でさえ曖昧な顔をしていたから、正直に経緯を話して謝った。本田は珍しく声を上げて笑った。別物だけど、これはこれでうまいぜと言うと、よかったですと本田は微笑み、もう一度よかったですと言った。
最近は滅多にないのだけど、以前は「落ちる」ことがたまにあった。日本の工業製品然とした食品のいくつかは、食べ続けて限界点を越した瞬間ずどんとローテンションに落とし込むような、地味なボディーブローをくらわしてくれる。例えば、水っぽい味のないトマトを囓った時。例えば、バウムクーヘンという名前の、確かにその形をしているスポンジケーキを食べた時。例えば、スーパーの売り場に山と積まれた6枚切り食パンの袋を見て、この工業製品の生産ラインが人々の口へ胃袋へオートメーションで押し流される様を幻視した時。多分、そういう谷だったのだろう、ザワークラウトを食べたいと言った日は。だから本田は、弟との電話のことを機嫌良く話した俺に「よかったです」と言ったのだ。
和風ロールキャベツに黒パン、そして「キャベツの酢漬け」はそれなりに合った。淡泊ではあったが食べ応えはあったし、もう半年になるだろうか、毎週本田の料理を食べ続けて、舌が薄味に慣れてきたというのもある。同じタイプの、派手さのない――本田曰く「茶色の」――おかずがほとんどだとはいえ、同じ料理は一度として出ていない。気を遣ってるんならいらねーぞと言うと本田は首を振った。その日の特売で献立を決めているので、そんな気遣いはしたくてもできません。
真に受けたわけではないが、確かに本田の料理は旬の野菜や魚を使ったものが多く、それは特売になる可能性が高く、――とにかく無理をしていないのならそれでよかった。
本田はいつも清潔な格好をしている。一見皺のないシャツやズボンは、しかし、手アイロンや寝押しで真っ直ぐにしているという。しょっちゅう本を入れた紙袋を持っているがそれには全部図書館のシールが貼ってあるし、たまにもっている漫画雑誌はもらい物だという。毎日バイトに行って生活費と学費を稼ぎ、日曜日にはうちにテレビを見に来る。
まことに恐れ入りますが、と控えめなノックと饅頭とともに本田が訪ねてきたのは夏季休業が終わる前だった。同じ大学の一年生で、がくりと首が落ちる怖い挨拶をする奴、としか思っていなかった隣人が、はじめて一単語以上の言葉をかけてきたわけで、そういえばこいつは帰省しなかったんだなと思いながら、で?と返した。テレビをお持ちだと思うのですが、という。音がうるさかったのかと思い、わり、と詫びかけると、悟ったようにいえいえと両手を振った。そういうことではありません、確かに壁が薄いせいで音が漏れ聞こえて、だから参上したのですが、文句を言うなどめっそうもない……続く「ふるふる」にそっこーで飽きた俺はまた聞いた。で?
本田は、意を決したように顔を上げた。さざえさんを!は?と答えた俺は、その日本語が分からなかったわけじゃない。ただなぜこの流れでそのテレビ漫画の名前が出てくるのか分からなかっただけだ。サザエさんを、見せて頂けないでしょうか!
三秒ほど口をあけたままだった俺の表情に前言を翻しそうになった、その兆候を認めて慌てて口を閉じた。何時からだ?聞けば気圧されたように六時半です、と答える。おう、入れ。
数週間後、殆ど面識もないのに何で入れてくれたんですか?と聞かれたので、饅頭が食いたかったからだ、と答えた。嘘じゃない。あれなら十個だろうが二十個だろうが食える。でもそれだけが理由だというなら嘘だ。あの顔に見覚えがあった。弟がクマのぬいぐるみを強請った時だ。本当は我慢すべきなんだわかってる、でも…!という切羽詰まった顔。ただそれだけの願いになぜそんな顔をするのかとこちらの胸が苦しくなるような、あの顔。
そうして本田は六時半の少し前に饅頭と共に現れるようになり、じきに料理片手に訪ねてくるようになった。そのうち俺はパン屋で黒パンを買うようになり、本田は二人分の料理を持参するようになった。以来ずっと日曜日の夕方を二人で過ごしている。
「オゴチソウサマデシタ」
日本語での挨拶はそういうのだと先輩から聞いていたので、最初の時からこれを毎回言っている。そのたび本田はふわりと笑う。
「お粗末でした」
なぜそこでケンソンするのかよく分からない。分からないから、「美味かったぜ?」と念押しに言う。すると「いえいえ」と頭を下げられる。毎度のことながら意味が分からない。意味が分からないけれど、顔を上げたときの本田の顔はいつもより緩んでいる気がして、ちょっと可愛い。
もらい物のおんぼろテレビから、既に口笛が吹けるようになったオープニング音楽がなり出す。俺は食器と鍋とを共用スペースに運び、丁寧に洗う。そしてお湯を静かに沸かし、コーヒーをドリップで淹れて(これは留学生にとってささやかな贅沢だ)、部屋に戻る。テーブルに頬杖をついている本田の横にそっとカップを置いて、間ひとつあけてソファベッドに座り、本を読む。テレビからは陽気な女の、息子を――と思っていたら違うらしい、弟をしかりつける声が響いている。それでも、もともと音響や画像効果が派手でない番組だから、読書の邪魔にはならない。どうしても集中したい時には、これももらい物のヘッドホンをつければいい。
学部の助手の紹介で始めたバイトは、実験データの打ち込みと時には計測という単純なものだけど、思わぬ副産物がついた。同じバイトの、やはり留学生の先輩から家具その他の譲り受けができたのだ。最近の急激な円高でたいていの留学生は生活苦を味わっている。買い換えるから、とくれる電気製品は一昔どころか二昔前のものも多く、このテレビもリモコンが行方不明で本体操作のみだし、冷蔵庫も1ドアだ。口数が少なく言いしれぬ威圧感のある先輩はすまねぇと謝ったが、特に不便でもない。テレビは日本語学習中だった去年は相当見たが、今年は余り見ていなかった。新入の留学生に譲ってもいいけどなあと思いつつ何となしにつけた、その時流れたのがエンディング曲で、何となく気分が上向きになり音量つまみをぎゅっと回した。そしたら、翌週本田が来た。
なぜこれを見たいのか、その理由は知らない。言うつもりはなさそうだから、知らないままだろうと思う。本田の目の色は深く、どんな気持ちで向き合っているのか、どんな感情を引き起こされているのか、まったくうかがい知れない。とにかく見たいと言うから見たいんだろうと部屋にあげている。
時々、とても不思議な気持ちになる。
かつての「落ちる」とは違う、「落ち着く」という感覚。本田はただテレビ漫画を見るために来ているだけだし、俺は一食振る舞われる礼に部屋にあげているだけだ。食事の時にはそれなりに話すが、その後はお互いそれぞれの世界に入り、でもこの狭いアパートの部屋に一緒にいる。二人だけのこの時間を固定枠として、一週間が動いていく。
この感覚は、例えるなら弟といる空間に漂うものだろうかと考え、やはり少し違うと首を振る。どう言えばいいか分からない、しかし間違いなく言えるのは、万が一弟が日本に遊びに来ていたとしてもこの時間はアパートに戻るだろうし、もし悪友どもが押しかけてこようとするなら全力で排除するだろうということだ。
静かにしているから、そしてそれぞれ集中しているからだろうが、その三十分は、お互いに目を向けることもほとんどしないし、されても意識しない、そんな風になった頃、本田が声もなく涙を落としたことがある。本から目を上げて何気なく横を見たら泣いていた。ぎょっとして画面を見たが、特に感動っぽい演出があるでもなく、悲劇的な絵柄でもなかった。さりげなく目線を本に戻しながら、考えた。
多分、「それ」は、二十歳になりなんとする青年が、他人の家にあがりこんででもこのホームドラマを見たいと思う理由と繋がっているのだろう。もしかしたら本田はこのテレビ漫画を見ているのでさえないかもしれない。
日曜日夕方のテレビ、そして、ちゃんと作ったご飯。その前にいる自分――
それ以上を考えるのは失礼だと、自制する。
とにもかくにも、本田はその場としてこの部屋を選び続けている。それは自分と同じくらい成り行きまかせの結果であろうけど、やはり消極的であれ本田の選択なのだと思うと、胸の底が痒いようなくすぐったいような妙な気持ちになる。
「成り行き」の「最初」を思い返し、今日もらったものを鞄から取り出す。昔かけていた伊達眼鏡だという。かけていたら本当に目が悪くなってしまった、やる。そう言われ、んな縁起の悪いもの寄越すなと思ったのだが、どんなものかなと好奇心もわいた。この、威圧感がありすぎるので遠巻きにしているけれども感謝も尊敬もしている先輩に近づけるような気もした。眼鏡をかけ、うん、やっぱり知的に見えるかもしんねーと悦に入り、そしてまたそっこーで飽きて、そのまま読書に戻った。
「…………さん」
呟きで顔を上げた。まるで亡霊に出会ったような顔で、本田は口を開けていた。
「あ?」
眉をしかめると、はっと目が覚めたように頭を振り、目線を一度画面に戻し、それからまたおずおずと顔を向けた。
その顔が、少し、赤い。
「ギルベルトさん、ですよね」
「たりめーだ」
さらに眉間の皺が寄る。他に誰がいる。お前が、俺以外の誰にこの空間を許した。
「すみません。ちょっと……びっくりして」
その声音に、よほど怖い顔をしていたのだと知る。普通に考えれば、他人と間違えるなんて…と怒っている構図、だろう。
似ているのだ。眼鏡をかけなければ、そして例えば笑ったり騒いだりしていればまったく違う雰囲気だが、眼鏡をかけて横を向けば、その先輩と、ものすごく似ている。それはバイト先でも話題になってにこやかな輪ができた。にこやかに、俺だって面白がって笑った。その時は。
「え、えと……いつもと違って見えますね」
本田はふわ、と笑った。頬は染めたまま。
「もしかして」
いいかけた本田の口を強引に手でふさぐ。そのままソファの背もたれに倒し、その胸に額をつけた。
誰の名前もいって欲しくなかった。
誰かをこの奥に見ている本田の顔を見たくなかった。
お互いの領域に踏み込まないこの暖かでやわらかな空間は、そして砂漠のような毎日を一歩一歩進んでいくマイルストーンのようなルーティンは、今日を境に消えるのだ、自分が消したのだ、いつのまにか友情とは違うみにくい気持ちで消していたのだと気づき、その絶望に、本田の薄い胸を額でぎゅうぎゅうと押した。