・アル菊別れ話的な。
苦手な方はお戻り下さい。
彼が離れていくことなど、足の小指を怪我するようなものだと思っていた。知らなかったのだ、足の小指の怪我がこういうものだと。
ふと振り返ればダイニングに点点と血がついていて、ああ、あの痛みは彼が離れた時のものだったのかと今更ながら分かった。「そう?」なんて軽く答えたのに。「うん、じゃあね」なんて。彼が俯いて、黒髪が顔を覆い隠して、見えなくなったそこから透明な水滴が落ちるのを冷めた目で見ていたのに。
面倒だな、と思った。今は綺麗な赤でも、そのうち黒ずんで固着する。掃除をしなきゃ。そう思っている間にも、足もとに血だまりができる。
―――Shit.
吐き捨てて、とりあえず靴下を脱ごうとバスルームに向かった。既に濡れた不快な感触を足裏に伝えていた靴下をはぎ取ると、黒くこごった染みが傷の形さえ分からなくさせている。広がった血をシャワーで流すとまた傷が開いたらしく、ちり、と痛みが走った。
いつまでも流れ続ける鮮血に、ため息をつく。きりがない。タオルを一枚犠牲にしてでもとにかくあがって、血を止めよう。
置いてあったタオルで足をくるみ、すぐににじみ出てくる赤にうんざりし、ポリ袋にタオルごと足を突っ込んで、血垂れ防止にする。これで無視できる。キッチンクリーナーで血痕を拭うと、時間が経ったせいかその輪郭が薄く残りむっとする。どこまで面倒なんだ。どこまで面倒をかけるんだ、菊。
足を伸ばしたり立ち上がったりとちょっとした動きで思わぬ痛みが走ることもあるが、まあ無視できる。
明日になれば元通りだ。
そう思ったのに、次の日、スリッパから靴に履きかえた瞬間激痛が走った。
「Ouch!」
それまでは無意識に傷をかばう歩き方をしていたらしい。朝起きて、髭を剃って歯を磨いて、コーヒーを飲んで、「いつも通り」を取り戻したと思っていたのに。
靴の中で、いつもの体重のかけかたには傷が悲鳴をあげる。そんなもの無視したっていいんだけど、あきらかに傷は開きかけている。靴の中が血まみれなんて冗談じゃない。
親指側に重心をよせて、足の裏を水平に保ったまま歩くと痛みはおきない。なんとか進める、だからそのまま歩くけど、と・とん、と・とん、というリズムの歩き方は、いつものスピードの半分にも届かない。
「もう!」
苛々して足を叩くけど、どうにもやりようがない。ふとした瞬間にぴっと走る痛みと、重心をかけられない足。
たいしたことないと思っていた。
足の小指の怪我なんて。
―――彼が離れていくことなんて。
「そう?」なんて返事して、次の日からはさっぱり忘れて、いつもの日常に戻れると思っていた。
歩けない。
まっすぐに歩けない。
「……返してよ」
菊。
いつもを、返して。
君を僕に返して。