※ご注意
・ローデリヒ - エリザベータ - ギルベルト - 菊 - ルートヴィッヒの中でいろいろ片矢印。
・現代小中高大生パラレル。
苦手な方はお戻り下さい。
冬の星座・カシオペアのように、バイルシュミット家とヘーデルヴァーリ家の兄弟、総勢5人はW型を描いて一つずつ年齢がおりていく。
今年音大に受かったローデリヒは付設寮に入り、あいた部屋は高校受験をひかえるルートヴィッヒに与えられた。部屋が広くなると喜んでいたギルベルトは盛大に不満を漏らしたが、順送りにするには、ギルベルトが改造して自室となしていた縁側は勉強には不向きだ。大体貴方部屋の引っ越しなんて面倒なことできるんですかお馬鹿さん!と長兄に鼻で笑われ、ぱんつをあちこちに仕舞っとくお前に片付けのことを言われたくねーぜ!と笑い返し、どちらもどちらだろう…と背丈はもうローデリヒに追いつこうとしている中学生が眉間に皺を寄せる、そんないつもの光景を、隣家の菊はにこにこ笑いながら見ていた。ずっとこんな光景を見てきた。
菊がヘーデルヴァーリ家の養子となったのは十歳になるやならずやのことだった。施設育ちだった菊は、初めて得た「家族」が「普通の日本人の家」でないことに最初は戸惑ったが、もっと「普通でない」隣人達に圧倒され、やがて慣れた。出張の多いヘーデルヴァーリ氏は旧来の友人だというバイルシュミット氏に遠慮無く子供達を預けたため、五人は――いや、中学生になっていたローデリヒは除いて、四人は、人種も何もなく子犬のように育った。民族もなく――性別もなく。
髪が短く、着ているのもいつも男物のシンプルなもの、とはいえ、どうみても女子であるのに、ギルベルトもその父も彼女を男として遇した。菊はどう振る舞うべきかしばらく観察して、結果、「お姉さん」という呼称は使わないことにした。日本文化のファンだというギルベルトの父は子守の代わりに四人を道場に連れて行き、合気道を習わせた。道着に黒袴をつけたエリザベータは道場一のかっこよさで、また小学生に限って言えば、道場一の腕でもあった。
学校でも群を抜く人気を誇っていたエリザベータは、中学二年のある時期、いきなり髪を伸ばし始め、いつか、どこからみても「綺麗なお嬢さん」になった。混乱していたルートヴィッヒとは対照的に、ギルベルトは思いの外あっさりとその変化を受けいれた。そこでやっと菊は気づく。ギルベルトは、「女ではいたくない」と思っていたかつてのエリザベータも、「女であること」を引き受けたエリザベータもまるごと受け入れているのだ。
なかなか、と当時小学六年生だった菊は思った。
なかなか、大きなものですね、と。
中学生に対するには生意気な感想であろうとは思った。でも許して欲しい、これが無表情の下で菊が自覚した初めての恋と、それと同時の失恋だったのだ。
0・夏:菊
「おーいー」
「なんですか」
顎の下をハンカチでぬぐって、顔は上げないまま菊は答えた。
「ひまー」
「そうですか」
「…つめてー」
「私は暑いです」
「あちー」
「どっちですか」
「あつい」
「お帰り頂いて結構ですよ」
「つめてー…」
菊はため息をついて、手元のリモコンをぴっと押した。ほどなくして冷風が二人に届き始めた。
「ういー…極楽」
ばたん、と仰向けに倒れてギルベルトは手足を伸ばした。そのベッドの上をちらりと横目で見て、菊はすぐ目を問題集に戻す。休み明けにはテストがあり、英語と数学はそれによって習熟度別クラスに振り分けられる。塾になど行くつもりはないから何としてもAクラスに入りたい。課題の問題集をもう一度解き直しているだけなのだが、どうにも集中できない。
かしゃかしゃ、とシャーペンを振り、菊は肘をついた。暑さのせいだ。
「最初から遠慮せずにつけりゃいーんだよ。勉強してんだからよ」
「私『は』してますが」
ギルベルトは、中学校のいつだったか、合気道をやめた。「オヤジに迷惑がかかるからなー」と言ったその理由は、のち、いくつかの暴行事件によって明らかになった。売られた喧嘩は全部買ったらしいギルベルトは高校に上がる頃には町中に名前のとどろく悪童になっていた。最低に近かったはずの内申点を覆して、エリザベータの通っていた、そして今菊の通う公立高校に受かったのだから頭は悪くない。「だって教科書読みゃー答えなんて分かるじゃねーか」と嘯くギルベルトは、教科書を読む気のおこらない文系は今ひとつ出来がよくないけれども、高校でもそこそこの成績を保っている。こういう状態だと、プレイスメントテストに対する動機づけは高くならない。高くないどころか、ゼロである。だから人の部屋になど入り浸って熊のぬいぐるみを抱きかかえてだらだらしている。
「宿題の方は終わったんですよね?」
「んあー」
終わったのだろう。もっとも読書感想文はガリガリ君10日分と引き替えに菊が書いた。今年の夏は品薄だったそれを根性で毎日持ってきたギルベルトに敬意を表して、菊は渾身の感想文を書き上げた。タテ読みならぬ斜め読みをこっそりと織り交ぜて。
仲間とつるんで出歩くことも多いギルベルトだが、夏休みはほとんど菊の部屋に入り浸って、夕食をつまんで帰る。自宅では弟と夕食をとっているのだから、これは正しくつまみぐいである。菊かエリザベータ、半々で作るおかずを口に放り込んではしたり顔で品評し、しょっちゅうエリザベータの鉄拳制裁をくらっている。
ギルベルトほどではないが、菊も頭は悪くない。真面目に勉強する分成績順位で比較すれば格段に上だ。男女の機微とかそういうものは朴念仁のルートヴィッヒと同じ程度だと思っているが、それでも分かる。
好きな子の料理は食べたいものだし、好きな子には構われたいものなのである。
エリザベータが髪を伸ばした理由は知らないが、それとギルベルトが「不良」になったことに関係があるのだろうくらいは想像もつく。
この人は、と菊は思う。この人の思いは、いつも、大きい。
随分と部屋の温度も下がった。元気が戻ってきたのか、身体を起こしたギルベルトは熊のぬいぐるみ相手に組み手を取りはじめた。
競技を行うわけでもない、体格差が問題となるものでもない、だから菊も細々とながら続けられている合気道は、腕や手を使う技が多い。ギルベルトの大きくしかしすらりと長い手が手刀の構えをとるとき、その造型は息さえとまるほどの美しさで菊を圧倒する。それなのにギルベルトは、いや他のみんなも、やっぱり一番構えの姿が綺麗なのは菊だ、などと言う。今はもう髪に華やかな飾りをつけさえするエリザベータは、応援兼差し入れに演武会に来ては菊の写真をとってまわる。なんっていうか、ストイックな感じが…ね!抜群っていうかね!あんたには到底醸し出せない気品ってういうかね!ぺちん、とサンドイッチを盗もうとしたギルベルトの手を叩いて。さっすが、自慢の弟だわあ!…
菊は頭を振った。回想にひたっている場合ではない。またかしゃかしゃとシャーペンを振る。
「おい、ちょっと受けろ」
「いやですよ、部屋狭いのに……いや十分広いですけど、組み手できるスペースはないです」
「…」
いきなりギルベルトは菊の二の腕を掴んだ。
「ちょ」
「俺様がやれっていってんだ」
「…もう」
ひっぱりあげようとした、その力の道筋にそってすっと身体を浮かし、それから半身入れて手首を掴んで返した。綺麗に受け身を取り、本棚以外もののない菊の部屋の真ん中にギルベルトは横たわった。離されないままの二の腕が菊の身体をギルベルトの上に引き寄せる。
「……離してください」
「あー」
あ、というよりはあ゛というような音を出して、ギルベルトは瞬きをした。そして、くるりと体勢を入れ替える。のしかかられて、菊は眉をひそめた。
「…離してください」
「なんつーか……ぶん殴ってそれで勝ちなら人生簡単なのによ」
「そんな人生、私には超難関です」
「分からせることと納得させることは違ーし……」
「なんなんですか」
ため息をつき、菊はギルベルトの下から脱出しようと試みた。しかし、簡単に封じられる。冷房の設定は電力会社推奨の28度。こんな風に近接するにふさわしい温度ではない。息の温度がそのまま届いてしまうような気がして、菊は呼吸さえしづらく感じた。
もぞ、と、分からないように足をずらす。
しばらくその腕の檻に閉じ込められていると、耳元で声がした。
「…なあ、キス、しねえ?」
「はあ?!」
素っ頓狂な声を出してしまった。耳の近くで大声を出されたギルベルトは軽く目を細める。
「何言ってんですか。なんで、貴方と、私が、キスなんてしなきゃいけないんですか」
正面切ってなじられたギルベルトはちょっとだまり、小さく鼻の頭を掻いた。
「ええと…」
「…」
「ええと、……練習?とか?」
―――すっと頭が冷えた。ああ、そう、か。私は、彼の、彼女の。
いつのまにかあんなに綺麗になった「姉」との、いつかの日の練習に。
「いいだろ」
「……いやです」
「え」
「絶っ対、いやです!」
声に潤みが混じった。みっともない、と菊は目をけわしくし、一瞬力の抜けた相手をぽんとはね飛ばして部屋を出た。
「………ってぇ………ってえっ!」
起き上がろうとしたところをフライパンで痛打され、ギルベルトはもう一度床に沈んだ。
「ばっかじゃないの」
「……」
「あたしの大事な弟に何すんのよ」
「未遂!何もやってねえ!」
がばりと身体を起こしたギルベルトにエリザベータは小さく苦笑した。
「『未』は漢文でいうところの再読文字です。『未ダ〜ズ』。どう解釈すればいいんですか」
「……っ」
はあ、とエリザベータはため息をついた。
「なんて不器用なの」
「いや、それ、お前にだけは言われたくねーし!」
「あー…うん、そう、ねー…かくかくと、折り合わないね、私たち」
そういってエリザベータは、床に指でカシオペアを書いた。
−1・冬:ルートヴィッヒ
長兄に鍛えられたせいで鑑賞眼はある、そのせいで、自分の演奏は聞くに堪えない。そうなのだが、「毎日おさらいすること」はピアノ教師だった母の遺言でもある。武闘派として名をはせるあの次兄ですら欠かさない習慣なのだから、ルートヴィッヒは帰宅後ソナチネの数曲をさらう。苦行のように。
多分、母は。
流れず、ただ連なる音の粒を散らばらせながら、ルートヴィッヒは思う。
堅実であれ、と言いたかったのだ。
「お邪魔しまーす…あ」
玄関から菊の声がして、思わず顔をしかめる。弾く手はとめない。菊は間もなくこの部屋に入ってくるだろう。
「お邪魔、します」
想像通り、ガラス戸をあけて菊はピアノ室に入ってきた。ルートヴィッヒは音量をしぼり、声をかけた。
「外は寒いか?」
「ですねー。あ、いや、どうぞお構いなく」
続けろ、と手で示される。オイルヒーターにてをかざし、本当にまだ弾く体勢にはなっていないのだろう。それは分かるが、続けたくない。聞かせたくないのだ。
下手だから、と言ってもきょとんとされる。お上手じゃないですか。すごく丁寧で、音符を一つもおろそかにせず弾かれるから、見本みたいです。
客観的に言って、菊より弾けるとは思う。年数が違う。菊が初めてピアノを見たのはうちに来た時で、弾いたのは、瞳を好奇心で輝かせつつ、しかし黙って黒いベヒシュタインを見つめている菊を、長兄が長いすに招いた時だ。母はその前年に物故していた。「日本のお母さん」に比べればいくらか厳つい母であったが、それでもせめてもう少し生きていてほしかった。隣家の夫婦はわけあって別居している。菊は「母」を知らないままだ。
コートを脱いだのを見て取って、長いすを降りる。
「菊。ぼ…おれの練習はもう終わった」
「…」
菊は口を曲げて、無言の非難をよこした。一人称をそのままにしてほしいと思っているのだ。この一年ですらりと背が伸びた菊は、最近やたらとお兄さんぶりたがる。もっともギルベルトに届くわけもなく、いつも頭を撫でられているのだが。そのたび身長コンプレックスを刺激されているらしいなんてことは、多分ギルベルトは気づいていない。
「居間に戻られます?」
「ん…向こうは寒いからな…ここにいる」
「えー…」
菊は、ちょうどさっきのルートヴィッヒのように顔をしかめた。聞かれたくないのだ。
菊の醸し出す「察してください」オーラを無視して、ルートヴィッヒは隅のテーブルに腰掛け、通学鞄からさっさと宿題を取り出した。今週末までに歴史のワークを提出しなければならない。日本の学校に行っているのだから日本の教育課程を受けるのは当然だが、こんなにも世界のことを習わなくてよいものなのかと子供心に思う。そう兄にいうと、次の日『父が子に語る世界歴史』をどさっと積み上げられた。なぜネルーなんだと聞けば、「お前がそのうちガッコで習う世界史と違うから」だという。兄の言うことがずれているようなしかし真っ当なような気もするのはこういう時だ。
指を組み合わせて軽く体操しながら菊はテーブルの上をちらりと見た。
「あー、歴史…私まだちょっとあやふやなところありますね…」
「受験勉強、大変なのか」
「いえ、まあ、なんとかなると思ってはいますけど、やっぱりテストを受けてみると穴に気がつくというか。ルツ君、分からないところあったら聞いていいですよ。私の復習にもなりますから」
「……ありがとう」
伸びるとなったら伸びるから気にするな。そう兄から言われているが、まだ声も高い。「少年」という言葉でカテゴライズされるだろう自分の容姿が疎ましい。菊に言うと飛び上がって怒られるだろうけれども。彼は、「天国的な」という言葉でこの姿形を褒めちぎるのだ。まるで人形にするように。
賭けてもいいが。ルートヴィッヒは菊に言ったことがある。絶対、俺は兄さんより高くなる。鍛えてるから、父さん以上に筋肉もつくだろう。……菊くらい、横抱きにして運べるくらいに。
わあ、と菊は笑った。お姫様だっこですね。今のルツ君……でも私には無理ですかねー。
言わなきゃよかった、とルートヴィッヒは思った。それくらいの子供だと思われているのだ。まだ。
「菊」
ぽろん、ぽろんと指ならしをしていた菊は即座に手を止めた。
「はい、なんでしょう」
「蛍の光」
「ああ、はい」
ドファーファファ、ラーソーファソ。やはりぽろんぽろんといった調子で菊は旋律をひいた。
「あれは故事成語の蛍雪の功なんだろう。だったら、中国でも同じ歌詞なのだろうか?」
ぷつんと音を止め言われたことの意味を考えていたようだった菊はしばらくして「…ああ」と呟いた。
「違いますよ」
いろんなことを知っている菊だが、ほとんど戯れに聞いたようなことに断言したので少し驚く。
「そうなのか」
「ええ。同じ旋律にいくつかの歌詞があてられて複数の歌があるらしいんですが、国民皆兵というような愛国歌を聞いたことがあります。…同じ園にいた中国人の子から」
「……ああ、そうなのか」
「私には閉店の合図としか思えない音楽ですが、因縁のようにいろんな国で愛国心が託されてきた歌ですよね…」
「そう、なのか?」
それにしても、とルートヴィッヒは笑った。「閉店時刻まで出歩くなんて、菊らしくない」
菊も苦笑する。
「園の近所に本屋がありましてね。そこそこ大きな書店だったので、立ち読みできるんです。もっとも私一人だと補導されちゃうので、兄さん格の王さんについてきて貰って…いや、見張りに立って貰って」
読むの早いんですよー。菊は笑った。ついでに、表情筋を動かさずに読むワザも身につけました。
菊は単調に「蛍の光」を弾きつづける。菊は、これまで施設でのことを話したことがなかった。
「ああでも、あるとき、たまたま児童文学を読みましてね。床の下で暮らすこびと達の話。そのとき、たまらなくなって、思わず泣いちゃったことがあるんです。……ああ、私って、ずっと借り暮らしだなあって……」
「違う」
立ち上がったが、菊は言うのも弾くのもやめない。
「立ち読みだって、本当は盗みです。借りたものが返せない以上、私のここでの暮らしも」
「違う、菊」
背中に抱きついた。腕はやっと回る、けれども、背中を覆い尽くせないこの小さなからだが、泣きたくなるほど苦しい。どうして俺だけまだ子供なんだ。どうして、どうして。
「…ごめんなさい。たわごとです。言わないでくださいね、エリザさんや……ギルベルトさんに」
思わず目を閉じた。
菊は、もうずっと、兄さんしか見ていない。
兄さんなら、兄さんのように大人なら、分からせてあげることができるのだろうか。違う、そのシンプルな言葉を、心から。
「…ねえ、ルツ君、左手弾いてください」
「…」
背に当てた額で諾を伝える。そのまま、片膝を長いすにかけ、左手を伸ばして鍵盤にあてた。三重和音に乗せて、ぽろんぽろんと旋律が流れる。
時々菊に教えているローデリヒが困ったように言う「感情の薄さ」こそが菊の苦しさだったのだと思い、またルートヴィッヒは菊の背後で目をつむった。