※ご注意
・1980年前後の時代描写があります。1980年3月上旬くらい?二人は付き合ってませんが、両矢印な感じです。
苦手な方はお戻り下さい。
雨雲は空を覆い、地面は湿気を吸って柔らかみを増す。まだ春は遠い、こんな日は膝が痛む。
菊は柱時計を見上げた。もうそろそろ出た方がいい。
面倒でため息が出る、けれども僅かに心が浮きたっているのも確か、我ながら複雑な心境に振り回される。
昔は「怖い」としか思っていなかった。辛勝というよりは勝ち逃げで終わらせたあの戦争の後も、彼に対する警戒心を失ったことはない。その一方、日本近代文学の嚆矢とされるのがツルゲーネフ「あひびき」の訳であるように、ロシアの文学や芸術への憧れは脈々と受け継がれ、ロシア革命以降は政治構図も絡まって親露意識は一定層存在する。国民の意識に引きずられる菊も、彼に傾倒する心をもてあましている。そして実際、滅びの美を内包するロシア芸術は、現在の同盟国・アルフレッドの裏表ない明るさよりも菊を引きつけるところがある。
アルフレッドは交流にいい顔をしないが、国交正常化から早四半世紀、バレエ団やサーカス団の来日公演も何度も行われていて、本人同士も訪問しあう仲だ。とはいえ仮想敵国、自由に出入りしてもらうわけにもいかず、空港まで迎えに行く。先ごろ開港した新東京国際空港は、国民の大多数に漏れず菊の家からもアクセスが悪く、迎えに向かう菊の足を重くさせる。ましてこの地には、まだ激しい闘争の爪痕が残っている。
成田新幹線は建設の目処が立たない。帰りは仕方がないとしても極力公共交通機関を使いたい菊だが、鉄道からさらに乗り換えてバスというのは、この曇天の下、いかにも億劫だ。仕方ないと息をつき、菊は軽自動車のキーを取り出した。小回りがきくので日本の道路事情にふさわしい愛車は、しかし客人には小さすぎる。アルフレッドを乗せようものなら(別の思惑もあって)買い換えろと運転中に百回は言われる。更に体の大きいイヴァンもさぞやコルコルするだろうと、菊はまたため息をついた。
昨秋には過激派による滑走路燈爆破事件も起きた、そんなことも忘れたように、空港は賑わっていた。離着陸の見えるスタンドに腰掛け、菊は、灰色の空を切り裂いては去る各国の機体を眺めた。
羽田は既にオーバーフローなのだから新空港はどうしても必要、そのような大規模工事を行う以上、公共の福祉のためには住民の財産権侵害もやむを得まい―――として、最終的には行政代執行による土地収用が強行された。戦後の入植で荒れ地を与えられ、それに血と汗を吸い込ませるようにして耕地へと育て上げてきた農民達の怨嗟の声は、菊の耳に残り続ける。
まして彼らの多くは、戦前の不況と土地不足を克服するために、菊自身が送り出した満蒙開拓団の引き揚げ者である。土壌の違いと何年も格闘したあげくいきなりロシア兵に攻め込まれ、周りの中国人にも攻撃されて、軍にも守られず全てを捨てて引き上げてくるしかなかった彼らが、今度こそと土地にしがみつく様に、菊は何を言うことも許されない気持ちになる。戦争末期に、身の外にまで目が行き届かなかった、届いても手を伸ばせはしなかった、伸ばしても――その手も、もう、ぼろぼろだった。真実だ、言えば頷いてもくれよう、けれども、彼らが菊との間に作った心の壁を溶かすことはできまい。
アルフレッドは、こうした声を振り切る「強さ」を持っている。振り切られる側に立つことも多い菊にはその強さは恨めしくもあるのだが、暴力的であろうとなんであろうと、それは確かに強さだと菊は思う。菊は、上司の強権発動を目の当たりにして、どちらの側に立つこともできず、ただ息苦しく老婆が木にしがみつく姿を見守るしかできなかった。可能ならば水に流してしまいたい、けれどもそうもできず、その姿は、声は、菊の中に残り続ける。
薄いコーヒーを啜りながら、激しい音を立ててやってくる白い鳥たちを眺める。イヴァンが乗ってくるのは、鎚をシンボルマークの中に持つ、彼の体現とも言えるようなアエロフロート機。
今、アルフレッドは、この航空会社を出入り禁止としている。
「やあ、本田くん」
いきなり暢気そうな声が聞こえてきて、菊はスツールからずり落ちた。
「いっ?」
腕時計を見るが、到着予定時刻を過ぎてはない。なのになぜここにイヴァンが、一人で。
「一本早いのに変えて貰ったんだ。僕、この空港初めてだから色々見てみたいな−と思って。そしたら、入国管理官の人が困った顔で案内を申し出てくれたんだけど……断っちゃった」
案内、ではない。見張り、である。分かっているくせに、イヴァンは暢気な顔でそんなことをいう。
「断ったって…、穏便にですよね」
彼らも職務だ。簡単には引き下がるまい。
「当たり前だよ−。『付いてくると、折るよ?』って言ったら分かってくれた」
「いや、人って折るものじゃないですから」
相変わらず言うことがぶっとんでて怖い。それなのににこにこと笑って、イヴァンは、うーん、と腰を伸ばした。
「疲れちゃった。早く本田君の家でのんびりしたいな」
「…はあ。では、行きましょうか」
菊が駐車場にいざなうとイヴァンは「へえ」と小さな呟きを漏らした。
「君の車?」
「そうですよ。小さくてすみません」
「うん、君みたいだね」
むか、という気持ちをこめてイグニッションキーを回すと、あわてて巨体を助手席に詰め込んだイヴァンが笑いながら言った。
「小さくてかわいい、って言ったんだよ」
「余計嫌です」
「こんなかわいいんだから、僕になっちゃえばいいのに」
「心底嫌です。シートベルトしめてくださいね」
「しまらないよ」
「ダイエットしてください」
「フランス式、一緒にやってくれるの?」
「何言ってるんですかあんた」
思わず白目で横を向くと、あはは、とイヴァンは笑った。この人の冗談の範囲が分からない。菊は長いため息をついて、車を走らせた。まあ、助手席のシートベルトくらい、警官も見逃してくれるだろう。
山の中の高速道路をひた走る。周りには空港反対の立て看板が散見される。それを黙って眺めているイヴァンに、菊は居心地の悪い思いをする。
「彼らも、なんだよねえ…」
小さな呟きは、インターチェンジに気を取られていた菊には聞き取れなかった。「え?」と聞き返すと、「なんでもないよ」と返される。
「ところで、今回は何をしにいらしたんですか」
「うん?本田君ちでだらだらするためだよ」
はぐらかすにもほどがある。まさか、そんなことをしにくる筈がない。この時期に。この人が。
「だって、アルフレッド君はしょっちゅう君んちのこたつでだらだらしてるんだろ」
「まあ…あの人は、誰の家でも自分のしたいことをしてるんでしょう」
別に菊が特別なわけではない、そう思っている。
返事は一拍遅れた。
「……こたつ、いいなあ。あ、ねえ、今君の家、肉まんある?」
「ええと…、家、にはないですが、今の日本、なら、まだ売ってますよ。帰り、少し寄り道しましょう」
「うん」
暖房はかけてあるのだから、寒かったわけではないだろうに、イヴァンはマフラーをなおして口元を覆った。
高速の標識を確認するふりをしながら、ちら、ちらと様子をうかがうが、イヴァンは口をマフラーで隠したままだ。雨のせいで曇った窓硝子を拭いもせず、霞をかけたまま外を眺めている。
黙っていれば、本当に整った顔だとしみじみ思う。もともと、スラブ系の顔立ちを菊は好んでいる。かのナターリャとは、陣営の違いもあって話したことはないが、奇跡のような美少女だと思う。そう口にすると誰からも信じられないという顔をされる。ヨーロッパではあまり認められない美であるらしい。なにせ、イヴァンさえもが本気で心配するような顔で「目、大丈夫?」と聞いていたのだ。
たとえ貴方が認めなくても。
菊はまたハンドルを切りながら思った。
私は、貴方を美しいと思う。
商店街の近くに車を駐めるのが面倒で、菊はイヴァンを先におろした。国家要人ではあるのだが、何せ人を折る彼だ、誰に倒されるでもないだろう。逆に、こんな郊外の商店街で何の秘密を探られるでもない。
車を降りると、とうとう空が泣き出した。小さく肩を落として、後部座席に用意だけはしておいた傘を取り出す。イヴァンの方はアーケードの中だ、濡れたりはしないだろう。
そう思いながら、傘を抱えて小走りに商店街に向かうと、また思いがけない風景が目に飛び込んできた。
「イヴァンさん!」
声が小さかったのか、彼は振り返らない。
しかし、何をしているのだ、ちゃんとアーケードの入り口でおろしたのに。わざわざ出て菊の家に向かう裏道に出て…今は路傍に立ちすくんでいる。雨粒を受けながら。
「イヴァンさん!!」
駆け寄って傘をさしかけると、やっと彼は菊を見た。そして、背の高いイヴァンに傘をかけるために小さく背伸びをしていることに気づいたようで、口が小さな笑みを作った。手を一生懸命伸ばしている菊は腹をたてた。
「なんですか、もう!」
「あはは」
笑いながらイヴァンは菊の手から傘を奪い取り、そのまま菊を抱き寄せた。
「なにすんですか!」
人通りはないとはいえ、天下の公道で。
「すっぽりだー」
どうしてこの人はわざとこちらのコンプレックスを刺激するようなことを言うのか。むっとして顔をあげようとしたが、文字通りすっぽりイヴァンの腕に包まれて、動けない。
先ほどイヴァンはアルフレッドの自由な振る舞いをうらやましがったが、人のことを言えたものか。他国をまるで自分の家のように振る舞うことも、したいことはすることも……
あ。
ふと気づいて、どきりとした。返事が一拍遅れたのは、まさにそれが理由ではないか。
自分の鼓動を意識した、それをまるで察したかのようなタイミングでイヴァンが「ねえ」と言った。
「僕の鼓動、聞こえる?」
「え」
戸惑いながら、耳を胸に当てる。昔は、心臓は左胸にあるものだと思っていた。今はほぼ中央にあることを知識としては知っている。それでも、拍動はやはり左胸が聞きやすい。
「もちろん、聞こえますよ」
そう答えると、イヴァンはまた尋ねた。
「落ちかけてない?」
「はい、もちろん?」
そっか、と答えて、イヴァンは菊の頭に手を回したまま、「肉まん買いに行こう」と歩き始めた。「離してください」と訴えれば、意外にもあっさりと手を離し、菊の先を歩く。つられて歩きかけて、菊は気づいた。
半歩遅れた歩みを止めないまま、菊はそっと振り返った。
路肩のゴミ捨て場には、見覚えのある黄土色の分厚い本。平凡社のロシア・ソビエト文学全集だった。
「―――見せないようにしようと思ったのに」
「……すみません」
「謝ることじゃないよ?要らなくなったものを捨てるのは、当然のことでしょ」
イヴァンの背中はやはり大きい。言葉はやさしい。それなのに、遠い。
ロシア文学やマルクス経済の人気は、十数年前と比べるならはっきりと落ち込んでいる。かつて、国民のいくらかは彼に夢をかけた。現世の楽園と信じ、北緯50度線を越えて彼の元へ逃げた女優もいた。しかし、情報統制下でも伝わってくる彼の社会には、恐怖と沈黙が満ちている。
「君の国民に嫌われるのは、慣れてる。でもさ」
「…はい」
イヴァンはちらりと振り返った。
「『おおきなかぶ』は、ソ連の民話、じゃないよ」
「……」
おじいさんがかぶを、おばあさんがおじいさんを、まごがおばあさんを、犬がまごを、猫が犬を、ねずみが猫を…。
絵本で長く親しまれ、いくつかの国語教科書に採話されたこの話を、政権政党は「小学一年生からなぜソ連の民話を学ばせるのか」と攻撃しており、教科書会社は構成の見直しを表明している。去年から始まった教科書批判の矛先は話の中身にというよりは著者や訳者の政治的立場に向けられており、批判の中心は「左翼偏向」、つまりこれは国内での冷戦なのである。
『おおきなかぶ』は、帝政ロシアの文芸学者であったアファナーシェフが集めた『ロシア民話集』の中にあり、その誕生は当然ながらソ連より古い。
菊は目を伏せた。
王であれイヴァンであれ、今の政体とは違う形をとっていた時も、彼らは彼らだった。政体の方が、上司の方が、自分たちにとっては表面で、自分たちの上を通り過ぎて行くものに過ぎない。それは人にとって政体や首脳がそうであるのとほとんど同じことだ。とはいえ、「国」には確かに政治の色が付き、そのことによって判断される。
自分たちは、上司によって評価されることを引き受けなければならない。そういう存在なのだ。
「……昔、上司が語ってくれた夢は、こうじゃなかったんだけどな……」
「こう、とは」
分かってるくせに、今度はイヴァンがそんな顔で菊を見た。
「君が、僕のところに来ない、未来」
去年のクリスマス・イブ、彼は軍隊をアフガニスタンに進めた。イスラム原理主義者の反政府行動に耐えかねたアフガニスタン人民民主党政府の要請に応えてのことだったが、他国への軍事介入に、国際世論は態度を硬化させた。ムジャヒディーンを煽っていた節のあるアルフレッドはいち早くナショナル・フラッグ・キャリアの国内乗り入れを停止させ、またモスクワオリンピックへの不参加を決めた。同調の要求を、結局上司は飲むことになるだろう、そう思いつつ、未だ参加の道を探している選手たちを思うと菊はまた引き裂かれる思いをする。出場が内定していた選手には、もう選手生命の限界に来ている者もいる。四年に一度の大会にかけていた夢を、降ってわいたような話で奪われる彼らの心境はいかばかりかと思う。
「……私が言われた未来も、こうではありませんでした」
「……」
小作制度によって政治的自立性を奪われていた農民達全てに農地を。不況と飢餓から対外侵略に走った過去を克服し、食糧管理制度のもと、全ての国民に白米を。
そして何より、世界に平和を。
今、農地と農業人口、そして米穀消費量は減少の一途をたどっている。農業など、加工貿易国日本のしわ寄せを食うのは当然である、そんな暗黙の世論を背景に、行政代執行は行われた。
そういう国であるという評価を、引き受けなければならない。引き受ける「強さ」を持たなければ。そう思うのに、菊は苦しくて、苦しくて、蹲りそうになる。
「こころをね、落としてしまえば楽になるんだよ」
「――え?」
「こぽっと、外して、そこに置き去りにしちゃうんだ。やったことない?」
「――こころは、外すものでは、ないでしょう」
そう答えると、イヴァンは振り返ってそっと笑った。
「君は、こころを持ったまま、ずっと『国』をやってきたんだね。――やってこれたんだね。いい国じゃない」
「…」
「うらやましくて、少し、にくい」
そう言って、またイヴァンは歩き出した。
商店街の中程にある菓子屋の店先にガラスケースを見つけ、イヴァンは足を止めた。こぢんまりとした店の奥には老婆がやはりちんまりと座っている。
菊が口を開く前に、イヴァンは「コンニチハ」と声をかけた。
耳に手をあてながら、老婆は「いらっしゃいませ」とにこりとする。
「コレ、クダサイ」
肉まんとあんまんを一つずつ指さして、袋にとってもらう。
「日本語、お上手ですねえ。どちらの方ですか」
「ロシア、デス」
「まあ、そうですか。……主人は長く、シベリアにいましたねえ」
客二人は息を止めた。国として引き受けなければならない、「戦争」、そして「抑留」。一人一人に手を伸ばすことは不可能であるとはいえ、しかし「国」の行為を人生の上に受け止めた人と出会えばやはり心が揺れる。
「だから、死ぬまでちょっとあれだったみたいですけどねえ……。時代は変わったんですものね」
そう、変わった。変わってきた。
イヴァンをではなく、その上に乗せられた夢に、国民のいくらかは魅せられ、そして夢の儚さに愛想をつかした。そんな風に時代は変わった――しかし、そのもっと前、菊は彼と斬り合っていた。今、並んで菓子屋の店先で温かな肉まんを買っている。
時代は、変わったのだ。
「ワタシハ、マタココニキテモイイデスカ」
しばらく黙っていたイヴァンが、唐突に言った。
菊は思わず顔を上げた。
―――本田君ちでだらだらするためだよ
今だからこそ、彼だからこそ。
こころのかけらを置き去りにして始めた戦争。こころの揺れを無視して行うだろうオリンピックボイコット。
そんな二人だからこそ、――ねえ、それでも、僕はここに来てもいい?
「もちろんですとも!」
何を、と笑い出した老婆に見えないようにイヴァンの影に隠れて、菊はそっとイヴァンの背に額をつけた。