夜の寓話

かゆい。


 

アルフレッドが来ても大抵は漫画の新刊を読んでいるか大福を食べているかゲームに熱中しているかで、あまり恋人らしいことをするでもない。菊も大抵は公務か原稿かに追われているので、有り難いと言えば有り難い。同じ部屋でそれぞれだらだらと過ごして、夕方には一緒に買い物に出かけて、夕ご飯は菊が腕をふるう、そして昼に近い朝、帰って行く。そんな週末が当たり前になっていた。
その日も、今年は野菜が高いので困りますねだの、別に困らないぞだのとしゃべりながら川沿いの散歩道を歩いて商店街に向かった。このコースは少し遠回りではあるのだが、アルフレッドのやわらかい腹のためには少しは歩いた方がいい。そうして商店街の端の書店で週刊誌を買おうと足を止めた菊は、ポスターを見て「ああ」と言った。
「今日は、サン=ジョルディの日でしたね」
「あ?誰だって?」
「ええと……キリスト教の聖人でしたよ、確か」
「4月23日、…ああ、セント=ジョージか。なに?龍を倒すの?」
「龍は倒す相手じゃないでしょう?」
はてなマークをお互いに飛ばし合って、カルチャーギャップを解消した後、菊はその日について本を贈り合う日とされているのだと説明した。
「宜しければ、贈らせて頂きますよ。どれにします?」
「君が選ぶんじゃないのかい?プレゼントなんだろ」
「まあ、そうなんですけどね。この日はバレンタインデーほどには定着していないんです。やっぱり、本って好みがあるので、贈るのが難しいからじゃないかと思うんですよ」
「俺は君が買う本、大抵面白く読むけど」
菊は小さくはにかんだ。
「…じゃあ、何か、選びましょうか」
「うん!読んだことないのがいいな」
「じゃあ、漫画じゃなくて本ですね。ことばの易しいものがよいですよね、日本語の本なら」
「別に?君が読み聞かせてくれればいいんだし」
これには苦笑して、菊は絵本のコーナーをゆっくり通り過ぎた。
「たとえばさ、民間伝承の本とかある?俺と会う前の」
菊は微笑んで「ありますよ」と返し、そちらのコーナーに進んだ。
「どんなお話がお好みですか?」
「そうだな…、菊の忘れられない話ってのがあるなら」
菊は一瞬動きをとめた。ちらりとアルフレッドを見やり、また目線を本棚に戻してさっとなぞる。
「…それが載っている本は、ここにはないようですね」
「そうなのかい?残念だな」
「ええ、でも、…あまり楽しい話でもないので、むしろよかったような」
「どんな話?」
どうしようか、しばし躊躇って、菊は話し始めた。
「それこそあなたと出会うまえ、村社会では、同じ村の中では惚れた者同士が夫婦になるのが自然ではあったのですが、村を越えた恋愛というのは喜ばれませんでした。そんな時代に、山をいくつも越えた先の男とつきあい始めた女がいたのです。彼女は七つの峠を登り、七つの谷を降りて、何里もの道を駆けて夜ごと男のもとへ通います。夜のうちに行って戻れば村の者にばれることはあるまいと」
「…それで?」
「そのうちに、男は女を疑い出すのです。彼女はいつもつきたての餅を持ってくる。ただの人間が、あんな遠い距離を毎晩駆けて来られる筈がない。少なくとも餅を柔らかいまま持ってこられるはずはない。彼女は、あやかしの者ではないか。――そうして、男は彼女を殺してしまいます」
「なんだって!」
「そうして、その辺りには赤い躑躅の花が咲くようになりました。おしまい」
「おしまい!?おしまいなのかい?」
「ええ。……ね、あまり楽しい話じゃないでしょう?」
「あまり、じゃないよ。そんな男、ヒーローじゃないよ!」
「誰もがヒーローではいられないという話ではあるでしょうね」
そういってまたゆっくりと歩き出す。慌てて追いかけながら、アルフレッドは聞いた。
「でもさ、それ、ミステリで言うと『謎解き』がされてないぞ!」
「ああ、そういえば」
菊は振り返り、声の調子を変えて言った。この話は、終わりです、そんな空気をぴしりと示して。
「ミステリでもいいものがたくさんありますよ。あなたの国を題材にした…それこそ、あなたを初めて訪れた日あたりのことを描写したものも」
菊は内容を思い出したのかくすぐったそうに笑った。「確かに、大歓迎して頂きましたね」
「へえ」
アルフレッドの目の輝きを見て、菊はその文庫本を抜き取った。新刊コーナーにあった漫画本と週刊誌とを一緒にレジに出しつつ、「こちらは包んでください」と注文をつける。ぺこ、と笑顔と同時に本を手渡した店員に礼を言い、そのまま包みをアルフレッドに渡しながら、菊は言った。
「でも、推理小説の読み聞かせは流石に大変なので、これはどなたかに訳してもらってください」
「えー」
お約束の口とがらせをしてみせて、アルフレッドは笑った。

アルフレッドの柔らかい腹の対策もあって、菊の家の夕食は早い。炊事も風呂も済ませて、それでもまだ八時、いつもはまただらだらとゲーム対戦などして過ごす。十時も過ぎた頃に菊がコーヒーを入れて、砂糖を入れる入れないの攻防をするのが常だ。
そこまではいつも通りだったが、それを飲み干したアルフレッドはいきなり立ち上がり、まだ両手にカップを抱えている菊の後ろに回ってすとんと腰を下ろした。え、え?いきなり体全体を包み込まれた菊は戸惑いの声を上げる。
「ねえ、菊。結局、『餅』はなんだったの?」
「え」
「伏線の回収だよ。民話の中ではされているんだろう?」
小さく緊張の走った菊の体は、しかしアルフレッドの腕におさえられて抜け出すことはできない。それでも少しあらがうような空気を漂わせて、やがて菊は小さく呟いた。
「彼女は、炊いた米をひとつかみ手に持って家を出ていたのです。彼女の汗を吸い、彼女の掌に蒸されて、握りしめる拳の中で揉まれ搗かれて、米はやがて餅になる。彼女はまごうことなき人間で、人間だからこそ労せずに男の元へ来ることはできず、その労こそが餅を作っていたのですね」
三つ分の呼吸の間をあけて、アルフレッドは答えた。
「……じゃあ、やっぱり、その男はヒーローじゃないよ」
「そうですね」
男は、ヒーローではいられなかった。普通の、弱い人間だった。彼は逃げたのだ。それほどのエネルギーを自分に向けて放出する彼女から。彼女の慕情が巻き込む運命から――当時の若者宿は、村の娘を奪うよそ者を許しはしなかった。

さて、と菊はカップをおいた。そのまま立ち上がろうとするのを、アルフレッドの腕がとどめた。
「それで、その話を忘れられなかった理由は、その酷い結末のせいかい?」
菊は首を下に傾けて、言いたくないという意志を示したが、そんなことに動じるアルフレッドではない。
「…ひどい結末、ですよね。本当に。ひたすら恋い焦がれて、それなのに疑われて、殺されて。でも、民話の世界は比喩、そういって悪ければ誇張なのですから、同じ構図の出来事と考えれば、それはよくあることです」
「じゃあ、『餅』?」
核心を突かれて菊は言葉を失った。どうしよう。
ちらりとアルフレッドに流し目をおくって、逡巡の末、菊は頷いた。
「飯を餅にしてしまう、そんなことは日常の生活ではありえません。でも構図として考えれば、それほどの……相手に拒絶感を起こさせるほどの暑苦しい、重苦しい気持ちを持ってしまう、あまつさえ行動してしまうことはよくあることです。無自覚だったのかもしれませんが、彼女が食べさせていたものは、彼女の執念そのものです」
「うん」
意外なその返事に菊はまたちらりと振り返った。その眼はアルフレッドの目にぶつかり、射貫かれる。
「それで?」
「……」
「その彼女のことを、どう思うの?」
「……」
「うざいなあ、って?」
「…………ええ、そうですよね、鬱陶しいですよね、いっそ恐怖さえ覚えるほどです。まるで」
「まるで」
「自分の中の妄執を取り出して見せられた、そんな気がしたんです」
「へ」
いきなり声の調子の変わったアルフレッドに驚いて振り返ると、ふああああ、と息を吐いて、アルフレッドがのしかかってきた。菊の肩に重い額が乗せられる。
「な、なんです?」
「どの辺が君なのさ……。君が走るとこなんてもう何十年も見てないぞ」
アルフレッドの弛緩ぶりに、そもそも何の緊張だったのか把握できていない菊は戸惑いながら答えた。
「え、いやだから、比喩ですから」
「君はね、『忘れられない話』と聞いて、その話を思い出したときに、俺の方をちらっと見たんだよ。つまり、今の話はどこか構図が重なるってことだろ?」
「……だって、私はここ数十年、ずっと貴方を追いかけて、真似をして、取り入れてじゃないですか」
「うん?ありがとう」
「……いやまあ、確かに対価も出してはいますが。貴方がいいと言えばいい、貴方が好きなものは好きという流行のあり方に、見苦しいと自分の中で囁く声もあるのです」
アルフレッドはかぶりを振った。
「ありがとうって言ったのは、同じものを好きだって言ってくれたことに対してだよ?君だって気持ち分かるだろ?さっき本屋で、ちょっと嬉しそうな顔してたじゃないか」
「………気づいてたんですか」
菊の顔がほんのりと赤くなる。
「空気も顔色も、読めないわけじゃないんだぞ」
「知ってますけど」
「それで、読み過ぎちゃったんだ。娘は、俺かと思ったんだよ」
「はい?」
思わず体を捻って振り返り、体重を受け止められなくなった菊はそのまま畳に倒れた。アルフレッドもそれにつれて菊の上にのしかかる。
「すみません、可憐な娘と設定されている彼女と貴方を重ねるなんて発想なかったのですが」
自分を重ねていたくせに、菊は思ったことをそのまま口に出し、アルフレッドを失笑させた。
「自分が『構図』って言ったんじゃないか。分かってないのかな、俺は、太平洋を越えてここに来ているんだよ、毎週」
「…あ」
あまりにも自然にそこにいるものだから……何事もない、そんな顔をしているから、本当に何事もないように思っていた。
「別にお金がかかるわけじゃないし、俺には体力的にそんな辛くもない、そもそも人間じゃないけど、ついでに言うと、その辺計算して、邪魔しないようにしてるつもりだけど……もしかしてうざったいって思ってるのかなあって」
「まさか!」
目を見開いて心外だと表明した菊に、アルフレッドはにこりと笑って軽く頬に口づけた。
「それはなに、もっと構ってもいいってこと?」
「…」
頷きはせず、ただ頬を赤らめた菊に、アルフレッドはもう一度キスをした。
「ついでに、メタボがメタボがって遠回りするくせにアイス買ってくれるあのお散歩は、デートの時間を長くしてるのかなって読んでるけど、あってる?」
とうとう首を回して顔を隠してしまった菊を、アルフレッドは引き起こして胸の中に顔を埋めさせた。

「ところでさ、サン=ジョルディってのは、ラテン系の読みだよね。なんか理由があるのかい?」
「ええ、もともと日本カタルーニャ友好親善協会と書店業界が制定した記念日なんです。もともとカタルーニャには、セルバンテスの命日にかけて本と花を贈るというキャンペーンがあったらしいんですが、フランコ独裁の時期に禁止された母語・カタルーニャ語の本を贈り合う日となったようなんですね。本の中身ではなく、本そのものが、既に貴重であり非合法でもあり、だからこそ絆を示すものだったから、あちらではプレゼント行為が定着したんだろうと思います」
「なるほど」
「このグローバル経済の中で、もしかしたら将来的には日本語の本もそういうものとなるかもしれませんが…」
「まさか!」
ぷっと吹き出したアルフレッドを、軽くにらんで菊は続けた。
「冗談ではないのですよ。非合法にはなりますまいが、話者のいない、忘れられた言葉になる可能性は十分にあります。人の価値観に追随するとは、そういうことです」
「いや、まあ……うん、そういう歴史を知らないわけじゃないけどさ。君の言ってたこととそれは違うよ。セーシェルなんか見てごらんよ、あの子の公用語はフランス語クレオールだけどさ、フランス語で話しかけたら『フランス訛りですね!』って鼻で笑うらしいよ」
「自分の方は訛りじゃないんですね」
彼女の胸を張る様を思い描いて、菊も少し笑った。
「先のことは分からないけどさ。きっと大丈夫だよ。君はそういうとこ、かわんないよ。なんだかんだいいながら俺をほっぽって原稿倒しちゃうのも君だし、それでも夜ご飯作ってくれるのも君だし。まあ、これは、比喩だけどね?」
くすり、と小さくうつむいて、菊は笑みを返した。
「分かりにくいような、そうでもないような」
「君が分かりさえすればいいよ。要するに、俺は『男』ではないってこと」
「ヒーローですもんね」
「そうさ」
くすり、と二人で笑い合う。重すぎる愛を受け止める度量を、誰もがもてるわけではない。いくら「国」が普通の人間ではないからといって、そうした心の動きから無縁であるはずはない。当てこすられているのではないかという疑念をアルフレッドが抱いてしまったように。
けれども、それでも、もしこんな不遜なせりふを言っていいなら。

「そろそろ、引き上げましょうか」
「うん」
電気を消した寝室で、ことばは使わずに、伝え合おう。

 

―――もっと愛していい(です)よ。



民話は「つつじの乙女」『信濃の民話』、ミステリは戸松淳矩『剣と薔薇の夏』です

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