※ご注意
・エログロナンセンスR15。エロはたいしたことないですが、グロです。
・1988年設定です。
苦手な方はお戻り下さい。
もう、なんで言っちゃうの!と散々エドァルドに怒られているのに、未だにライヴィスの口にはフィルターがない。だからその言葉もするりと出た。出てしまった。
「…帰りたい」
間髪入れずに返された「だめだよー」という言葉の、柔らかな声音に潜む温度の低さに、ライヴィスは背筋を冷たい汗が伝わるのを感じた。確かに、穏当な台詞ではない。少なくとも一糸まとわず寝台の上にいるときにふさわしい言葉ではない。
きし、と寝台が音を立て、ライヴィスの顔のすぐとなりが大きく沈んだ。イヴァンが手をついたのだ。覆い被さり、もう一方の手でゆるゆるとライヴィスの前髪を梳く。汗を吸った猫っ毛は彼の指に絡む。からみつく。それが先ほどまでの自分の姿態に重なって見えて、ライヴィスは顔を横に倒し目を伏せた、が、強い力で顎を掴まれ、目をのぞき込まれる。
目の綺麗な人に悪人はいないと言う。それなら、この人は悪人ではない。―――そうなのだろう、善悪では、ないのだ。
「何のために僕が頑張ってると思うの?」
体制維持のためだ。はげ上がった額が特徴的なかの上司は、決して反社会主義者ではない。むしろ逆に、社会主義の可能性を未来に残そうとしてペレストロイカと呼ばれる改革を進めてきた。英語に直せばrestructuring、まさしく彼はソ連を建て直しミレニアムを乗り越えさせようとしていた(それがソ連を20世紀の歴史描写の中に閉じこめたことと、restructuringが日本ではリストラという言葉に矮小化したことは共に歴史の皮肉である)。
それを「人生」と呼んでいいのかどうかライヴィスには分かりかねるが、イヴァンが生まれ辿ってきた道のりの中で、この「一家」はそう長いものでもない。彼女の「姉」も「妹」も、そしてライヴィスたちもただそれぞれに寒さの中で震えている一人だった。中世欧州の中で確固たる地位を占めてきたトーリスとは違い大国支配の歴史が長かったライヴィスは国家としての自意識が既にイヴァンを抜きには考えられなかった。イヴァンに取り込まれないことがつまり独立であり、そう思うほどにはライヴィスの身体にイヴァンの血は浸潤している。
この人の瞳、この人の言葉を美しいと思う心は、この人に取り込まれまいと叫ぶ頭への裏切りに思える。それでもこの人に手を取られ、抱き込まれ、ペーチカの炎の前で全てをむき出しにさせられると、血液がたぎっていくのが分かる。ゆさぶられてはしがみつき、抱えられては腕を回す。夢中になりながら、それでもずっと心の底で叫んでいる。
こんなのは、愛ではない。
愛とはもっと優しいものの筈だ。
例えば、春の幸運の丘のような。そこにふりそそぐ日差しのような。そこから天に届けられる少女達の歌声のような。ああ、海に面したあの丘。……かえりた
「だめだよ」
思念を読み取ったかのように、穏やかな、あくまで穏やかな声が降りてくる。
「ずっといてよ」
「…」
「だって君一人では生きていけないでしょう、これから世の中で」
「これから…」
国際世論は春近しと謳っている。冷戦の終結も間近、雪解けの次にくるのは芽吹きのはずだ。
「嵐が来るよ。……君たちが、とどまらないとね」
かっとした。
「僕たちのせいにするんですか」
東欧に民主改革を促したのは彼の方だ。グラスノスチで共産党神話が崩れた後、独立要求が出てくることなんて見えていた筈じゃないか。
「それを越えて、イデオロギーのためにとどまってくれるなら、世界は二極構造を失わない。その中に他者を含みこみながら安定するはずだ。でも秩序が壊れたら」
イヴァンはライヴィスの目を見たまま、口元はあげたまま、すっと手を横に払った。寝台の宮に置いてあった避妊具の箱が飛ばされて、中身が舞う。ぼと、ぼとと、毒々しい蛍光色のゴム製品がベッドのあちこちに散らばる。
「民族、宗教、利害対立。理屈を越えた人間のむき出しの感情によって、世界は、嵐になる」
ライヴィスは唇を噛んだ。
「イヴァンさんだって、イデオロギーに命をかける気もないでしょう」
「…そうでもないよ」
にこりと笑ったが、ライヴィスは分かっている。彼の上司たちとは違い、イヴァンはイデオロギーを信奉しているのではない。ただそれが都合がいいから守ろうとしている。この家を維持するのに。イヴァンがずっと求めていた、「みんな」の住む家。
その家を維持するために……。ライヴィスはまた顔を背けた。姉妹である彼女たちとのつながりは別だろう。しかし、言語的にも歴史的にも彼とは隔たったライヴィスのような連邦内の国家を繋ぎ止めるために、イヴァンは鞭も振るえば飴も振る舞う。
この快楽も「飴」でしかない。そう思うとライヴィスは胸をかきむしりたくなる。ソ連邦には彼を除き16の共和国が存在している。ひやりと冷たい長い指は誰の頬を触ったろう、誰の中に入ったろう。それを考えると、霜の上を裸足で歩くような痛みが走る。
「………君だけだよ」
また、見透かしたようにイヴァンが言う。耳元に唇を寄せて。その空気の揺れにさえ反応してしまう身体が恨めしい。思わず身じろいだのをめざとくとらえ、イヴァンは緩く微笑んだ。
「君が好きだよ。だから、守りたい。ねえ、どこかの言葉にあるだろう。落馬する息子を黙ってみている親はいないって」
口づけを頬に落とし、イヴァンは微笑んだ。
「君は、すぐ酔っぱらうしね」
だから、なんだ。飲んだのは自分の酒だ。走らせたのは自分の馬だ。何の文句を他国に言われる余地があろう。どうして、僕が「僕」であっていけない。
僕の言葉、僕の身体、僕の地、僕の天。冬にはオーロラを見上げ、春には花々が咲き乱れる、愛と歌の国。
そう思うそばから、その冷たい長い指に呼吸は乱されていく。
喉の下から逆流した血液が脳を浸し、思考力を奪っていく。
「君になら、百万本のバラだって、あげるよ」
笑顔で言われたその台詞に、ライヴィスはまた心臓が刺されたような痛みを覚えた。
違う。
あれは、違う。あの曲は、そんな歌ではなかった。
―――貧しい画家が女優に恋をして
―――彼女が好きな薔薇を買った
―――彼女が泊まるホテル前の広場を
―――百万本の薔薇の花で埋め尽くした
歌ったのはソ連の大物歌手、アラ・ブガチョワ。ソ連人民歌とも言われたこの歌は、他国でもカバーされヒットしたという。
かさのある薔薇の花は、百万本もそろえれば確かに広場も埋まるだろう。赤とわざわざ指定されたその花を見て、歌の中では「金持ちのきまぐれかと思った」だけの女優は、しかし、本当にそんな凡庸な感想で済んだのだろうか。
「ね」
イヴァンの微笑みと共に、ぼとりとライヴィスの胸に何かが落ちた。
「あ…っ」
この位置で落ちるものと言えば一つしかない。おそるおそる顎を引いて胸を見れば、そこにはやはり、ぬめぬめと光る臓器が血の海を作っていた。
「あ……あ……」
「あげるよ」
イヴァンは微笑んだままだ。そのまま、間違いなく彼のものであるそれをぐじゅりと手で潰した。血しぶきは花びらのようにライヴィスの白い肌に散る。
「ひ……っ……」
「綺麗な色だね」
潰されながらなお血を吹き出し続ける心臓を掴み上げ、それをライヴィスの口にあてがう。
それは、誰の。何の。
思考を止めたライヴィスの中にイヴァンの血液が注がれる。
………貴方はいつもそうやって「僕」を奪っていく。
「百万本のバラ」の作曲者はライモンド・パウルスであると言われる。しかし、それは正確ではない。ラトヴィア人である彼は、「マーラが与えた人生」の、作曲家なのだ。レオン・ブリディスの詞は、ラブストーリーなどではない。それはまさにラトヴィアの歌なのだ。
―――子供のころ泣かされると
―――母に寄り添って
―――なぐさめてもらった
―――そんなとき母は笑みを浮かべてささやいた
―――「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」
マーラが聖母を表す名である以上、レオンはラトヴィアを主人公に託している。彼女はやはりその娘に言われるのだ、「生を与えたけど幸せはあげ忘れた」と。今から10年近く前、雪解けが言われながら全く未来が見えなかった頃のラトヴィア語の歌。それなのに、そのメロディーにロシア語の恋物語が載せられて世界に伝わった。
幸せをもらい忘れたままのライヴィスは、だから、純愛など信じられない。
画家は見返りを求めなかったというが、広場を埋め尽くすバラは、その色で確かに狂気を届けただろう。むせ返るようなその芳香は窓から彼女の身体に忍び入ったに違いない。何十年たっても忘れられないほどの記憶として。愛とは、最初から純粋なものではない。それは徹頭徹尾エゴイズムであり、支配欲なのだ。
骨の中に染みこまされる存在などでなく、対等に向き合う存在に、唯一のものとして求められる……そんな恋ができるわけないではないか。
血に染まった両手で頬を包まれ、目を閉じたライヴィスの瞼から真っ赤な真っ赤なバラの残像はいつまでも去らなかった。