※ご注意
・単体で読めると思いますが、「薬指に血の指輪・1889」に始まる連作の番外編です。
・戦前における歴史記述があります。明るくはないです。苦手な方はお戻り下さい。
インド洋航路で約二ヶ月。なるほどこれなら緑茶も紅茶に変わるという灼熱の日々を耐えて、やっと三月、大陸の東の果てに辿り着いた。
「お久しぶりです」
ただ、この微笑みに会いに。
菊が憲法調査にとベルリンを訪ねて来たのは今から三年ほど前のこと。細い体を焦りと責任感だけで駆動しているような姿が危なっかしく見えて、柄にもなく支えに回ったりしているうちに、目が離せなくなった。いつ見ても肩を強ばらせて、背筋をまっすぐに伸ばし、何も聞き漏らすまい、何も見逃すまいと緊張していた、それが痛々しくて、廊下で会う度に頬を引っ張った。いひゃいでふ、そう言って手を振り回す菊を、弟や客人が俺から引きはがして慰めることもよくあった(黒いものがぶんと唸りながらやってくる映像を最後にしばらく記憶が途絶することも、何度か)。子供のようなちょっかいを繰り返すうちに、菊は俺には苦笑を見せるようになった。
「もう、黙って立ってらっしゃれば格好いいのに」
苦笑、というより微笑、というくらいにまで顔のこわばりがほどけた頃にそんなことを言うから、動揺を隠すために顔を寄せてわざと低い声で「惚れるか?」と囁けば、菊はリトマス試験紙が低pHを示すように急速に赤くなった。お、なんだ、この反応、と目を見開いていると、菊はその視線にさえ恥じ入った様子で横を向き、小さく「い、今更です」などと言った。長く生きてはきたけれども、色事には縁がなく、こうした時に囁くべき言葉もしらない。ただ衝動の命ずるままに顔と顔との距離を詰め、黒扇子のような睫が伏せられるのをきっかけにゼロにした。
それから始まった菊との恋愛は、日記にも書けないほど手慣れないものだったが、青臭さを隠そうと閨の中では言葉少なになってしまうのがどう作用したものか、菊は完全に体を預け、言葉だけでなく爪の先にまで思いを込め、全身で感情を伝えてきた。貴方が好きです、と。
夢中だった。一つの国にこうまで入れ込むのは危険だと理性が囁きもしたが、どうにも止められなかった。心は止まらないまま、最初から期限付きだった蜜月は容赦なく終わりを告げ、菊は大洋の彼方へと帰っていった。
後はよほどの国際的事件がなければ…またはアジア情勢の変化が無ければ逢う機会もないだろう。苛々と爪を噛んでいた俺に届いたのは、かの極東の島国からの陸軍指南役派遣要請だった。何でも、普仏戦争の結果と勝因についても調査を進めていた菊は、長年陸軍の範をとっていた相手をフランスからドイツへ改めるつもりだという。俺は上司をせっつき、余りに遠い小国への赴任に渋い顔をする「軍事学の権威」を説き伏せて、インド洋を渡った。
菊やその上司、部下たちは、俺を…というよりは新しい陸軍大学校教官を迎える為に横浜港に並んでいた。航海の労をねぎらおうとメッケルに話しかける彼らをよそに、俺は菊の前へ進んだ。菊はにこりと笑う。
「お久しぶりです」
「よう、ちゃんと食ってるか」
昔よくやったように頬を引っ張りながら言うと、菊は「いひゃい」と笑い、「もう」と苦笑して俺の頬へ手を伸ばして軽くつねった。予想外の仕返しに軽く驚いているうちに、菊はすっとその手を頬にすべらせて、「船のお荷物は運ばせておきますから、どうぞ」とその手を前方に差し出した。メッケル達とはわかれ、駅へ向かう。
「別行動でいいのかよ」
「ええ、メッケルさんは今日は当地のホテルにご宿泊予定です」
菊は少し躊躇った。
「宜しければ、ギルベルトさんは我が家へご招待したいと思って」
「え」
「洋式の設備がないために多少ご不便をおかけするかとも思うのですけど」
「俺は野営だって平気だぜ」
「少なくとも露天よりは過ごしやすいと思いますよ」
ほっとした様子で菊は笑った。ベルリンでは「和式の設備がな」くて不便を感じていたのだろうかと、ちらりと考えた。菊にそれを聞けば「とんでもない」と答えるだろう。「洋式の生活」に「不便を感じる」とは、世界標準に慣れていないという意味になるから。自分たちとは違う意味で「新しい国」である菊は、価値も感覚さえも「世界」に合わせようとしている。着尺を合わせるべき「世界」を求めて、各分野の師を招聘している。陸軍は俺に、海軍はアーサーに。工業は………どうする気だろう。
横浜駅には蒸気機関車が整備を終えて待っていた。エンブレムにシャープ・スチュアートの文字が見てとれる。
「イギリス製か」
やっと今年、ドイツ製機関車も輸出する運びとなったが、地方を走ると聞いている。新橋・横浜間はいわば花形だ。思わず鼻を鳴らすと、菊は心持ちすまなさそうな顔をしてみせた。
「ええ、まあ。我が国で作る技術はまだないものですから。客車だけならなんとかなりそうなんですけれども」
国産かどうかがポイントではなかったのだが、曖昧に笑って誤魔化す。あいつじゃなくて俺様を見ろ、と言いたい、でもそれは迂闊には言えない。
それにしても。案内された一等車の客座に腰を掛けると、手が、無意識に頬に向かった。久しぶりの菊の手。そっと伸ばされた細い指、柔らかく頬肉を引いたその力。
「ああ」
横に座っていた菊は、めざとく声をあげる。
「すみません、失礼をしまして。ただ……あちらでは、貴方は『そういう方』として皆さんに受け入れられていたようなんですけど、そのあたりを知らない我が国の者には自国が軽んじられているのではと不安を持たせてしまいかねないと思ったもので。ふたり共有の、お互い様の親愛表現なんだと思わせようと、とっさに」
「あ。悪ぃ。考えてなかった」
ただもう再会が嬉しくて、その肌に触れたい、それだけだった。
「いえ………あの、そういう計算もあったのですが、…何より、懐かしくなってしまいまして」
「あ?」
「貴方、いつもそうやって、『固くなるな』って語りかけて下さったでしょう。最初はそれこそ先のように勘違いしたこともあったのですが、そのうちだんだんと分かってきて、じんわりと、こう」
菊はきゅっと握った拳を心臓にあて、一瞬閉じた目を見開いて、花開くように笑った。
「うれしくて」
「………」
とくん、と何かが動いたのが分かった。顔が赤くなりそうで、低くうめく。
「……てめ」
がっ、と菊の手を取り、第二関節で握りあう形にしつらえて、親指を離した。
「え?指相撲ですか?」
戸惑う菊に関わらず、親指を捕まえ、封じ込む。ぎゅ、と押さえ、上目に睨む。お前のこの指は俺の心臓だ、この馬鹿。
「覚悟してろ」
青ざめてもいい筈の脅しに、菊は真っ赤になった。
横浜から新橋までの一時間弱、その多くは右手に海を、左手に山を見ながらの汽車旅となった。緑と言えば森を思う俺に対して、菊は山を思うという。そういえば、陸軍での地図作成もドイツ式に改めるということで留学中に手ほどきをしたことがあったが、その時、フランス式段彩地図(等高線ごとに塗り分けて高低を示す方法)について「こちらにくるまで、なぜ山が茶色いのか分からなかったんですよね」と言っていた。なるほど、どの山も濃い緑に覆われている。そしてその近さに驚かされる。本当に、何もかもがヨーロッパ平原とは異なって見える。実際違うのだろう。自然との距離感といい、その中での暮らしといい。違わないのは海の青さくらいだ。防砂林なのだろうか、針葉樹の並ぶ海岸の先の海を見ていたら、菊が呟くように言った。
「『江戸の日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり』」
「あ?」
「昔、そう言った人がいましてね。それまで四海は我が国天然の要塞と思われていたのですが、それは科学技術の進んだ今となっては幻影に過ぎないのだと彼は説いたのです。むしろ海によってどこからでも攻めてこられるのだから海防をしなければならない、と」
「ああ……まあ、そうだろうな」
菊の危ういところだが、「こうであってほしい」という願望が強すぎるとそのように世界を見てしまうことがある。周りをよく見ろ、と言いたいが、見てはいるのだ。ただ、実体とは違うように見えてしまう。海があるから大丈夫だと思っていたというのは、外洋を渡る船について現実感に乏しかったからだろうが、それにしても認識が甘すぎる。
「その頃は私、こんな風に表向きのことにかり出されることも少なくて、政治も外交も上司に任せっきりで暮らしていたのですけど、それを読んだとき、世界の底が抜けたような…いえ、実は抜けていてお前は次の瞬間落ちるのだと言われたような恐怖感に囚われました。実際、その後の半世紀は、崩れゆく吊り橋の上を必死に走り抜けようとしていた感じでしたが」
「…………」
感じ、じゃなかった。走っていた。この小さな身体で。痛々しくて、でも、止まれとは言えなかった。
「でも、貴方の国にうかがって、…貴方と逢えて、その文章に対する気持ちが変わりました」
そう言って菊は小さく微笑んだ。
「どんなに遠くても、逢えなくても―――この海は、境無しに私達をつなげているのですよね」
「………………」
そんなことじゃ納得はしないぞ、境は無くとも三ヶ月の時間距離があるだろう、…何せ、触れられない。そんなことも思ったが、口にはしなかった。正確に言えば、できなかった。胸の中にもわもわと名前の付けようのない感情がわき上がり、一杯になり、あふれ出そうとするのをせき止めるのに精一杯で、俺は窓の外の海を見た。
海は深い蒼だった。
銀座で夕食を済ませて菊の家に入った。
お湯をどうぞと勧められ、ばかでかい盥に溜められた湯を手桶で浴びてさっぱりと潮気を洗い流した俺は、脱衣所におかれていた蒼色のガウン?を羽織って風呂場をでた。羽織ったはいいが、固いリボンがやたらと結びにくい。ぺたぺたと廊下を戻って菊を探す。
「おい、これはどうやってとめるんだ」
「もうあがられたんですか!」
ベッドなのだろうか、低いところにあるけれども柔らかそうな形状からして寝床に違いないものを用意していた菊は目を丸くして立ち上がった。
「すみません、頃合いを見計らってお伺いし、着付けしてさしあげようと思っていたのですが」
そう言ってかけ寄ってきた菊は小首を傾げる。
「ちゃんと暖まれました?まだ夜は冷えますのでしっかり芯まで・・・」
そんなことを言って胸に手を伸ばしてくるから、思わずその手首をつかむ。引き寄せるとその小さな体は抵抗もなく胸の中に飛び込んできた。体臭の少ない菊の髪に鼻を埋めると、確かに「そこにいること」を伝えてきた。やっと、手の中に取り戻した。
顎をとれば目元を薄く染めて、菊は瞼を伏せる。噛みつきそうになったところで、顔を上げ菊が手で胸を押した。
「あの・・・すみません、私にも湯を使わせてください」
「ああ?」
「きれいにしてきたいんです」
正直、ここでの「待て」は拷問に近かったが、そのいじらしさにほだされもして、寝床の上で悶々としながら菊を待った。小首を傾げながら戻ってきた菊は全身がほんのりと暖かく、俺は「和式」の湯の使い方を間違えたことに気づいたが、かまわなかった。暖は、菊からとった。
そのまま抱き合って寝れば寒くもないだろうと主張したが、菊は首を振った。三月の朝の冷え込みを甘くみてはいけません。そう言って、例のガウン状のものを着せようとする。この薄い布がそれほどの意味を持つのかと疑問には思ったが、胸に頬を付けんばかりにして背中に手を回すその行為に言葉も失った。結果論だが、こういう「ことと次第」でよかった。湯上がりに「着付け」てもらっていたらすぐに脱ぐことになっていたに違いない。
後ろにまわっていた菊はオビの結び目をぽんとたたいて、前に回った。ふにゃ、と顔がほどける。
「やっぱり」
「なんだ?」
「お似合いになるなあ、と思って」
「そうか?」
汽車の窓や人力車からみた、この国の人々が着る不思議な服。目の前の菊ともお揃いのそれが、「似合っている」のは、うれしい。
「おまえの、か?」
「私には裾が余ってしまいますよ。お仕立てしたんです。目算でしたが、そう狂わなかったようでよかったです」
「俺の、なのか?」
「ええ」
菊は何事もないように笑う。服なんて肩幅から胴回りまで採寸しなければ作れないものだと思っていた。
「………おまえって、すごいのな」
「はい?」
「こんなのさらっと作れるなんて」
菊は目をパチパチとさせた。
「こんなの………普段着にすぎません。湯浴みの後の、もうたいして活動しない時間帯に着るものだから自由度が少なくてもかまいませんし、人様に見せる格好ではないのですから多少の誤差も許されます。なんといいますか………そういう程度のものなのです」
「…………」
うに。
いきなり頬を引っ張っると菊は「ふへ」というような音を漏らして自由度の少ない口で抗議した。なんですか、いきなり。
「よく伸びる」
そう笑うと、ぷうと膨らませてくる。頬から離した手は肩に落ちた。
「そういえば『ネコ』はどうだ。久しぶりにもんでやるぜ」
「………。だいぶ楽になりました。だから結構ですよ」
「んなこと言って、やめさせようとしてるだけだろ」
「だって、………あまりお上手じゃないんですもの」
最後は笑いながら逃げるように肩をよじる。
ドイツ語でネコが乗っている、という言い方をする肩の状態、菊はその筋肉の張りによく悩まされていたが、俺はなったことがないから分からない。よくわからないままに見よう見まねで触るものだから、されるがままになっている菊もちっとも気持ちよさそうじゃなく………くすぐったくて笑い出したいのを必死でこらえているだけのようだった。その表情も好きで、遠慮するのを無理に捕まえては『カタモミ』したものだ。
むんと掴むと、固いは固いが、確かに感触が違う。干からびた肉のようにガチガチだったのが、ずいぶん弾力的になった。
重くない着慣れた服、耳に馴染んだ言葉、柔らかすぎない寝床。そんなものから遠いベルリンの日々のあの筋肉の強ばりを、帰国した今でさえ引き受けて、欧化政策を進める菊。―――なぜそう変わりたがる。
科学がそれを可能とするなら髪の色、肌の色まで変えそうな勢いを見ると何ともやるせなくなる。俺は好きだと何度言っても信じようとしなかったその髪、その肌の色。
レースに出る以上従って貰わなければならないルールもある。だけど、愛してきた服を……自分の輪郭をそんな風に貶めなくてもいいだろうに。随分変形しているから気づかなかったが、これは、菊を弟と呼ぶ王の、昔の服と同系統だ。モンスーンの吹き抜ける東アジアの服。
きっと次に会った時も、菊の肩はまだ固いままだろう。
もむと言っていた肩に額を預けた俺を、菊はどう思ったのだろうか、ただ黙って受け止めていた。
次の日、陸軍省その他への挨拶回りの後、案内されたのは執務室の奥にある菊専用の小さな科学室だった。
小規模ながら各種装置が揃っている。
菊の手書きらしい几帳面なラベルのはられた小瓶の並ぶ棚を眺めいた俺は、その一つに目を止めた。
「お」
「ああ」
菊は近づき、鍵とガラス戸をあけて小瓶を取り出す。
「紺青ですね」
「え?」
思わずラベルを見直すが、そこにはやはりアルファベットが綴られている。
「その色の、我が国での呼び名です。それと似た色の、古来の天然顔料の名なんですが。江戸後期くらいに油絵の技術や顔料が入ってきまして」
「へえ」
「特にこの色はベロ藍――ベルリン藍と呼ばれて愛され、浮世絵にも使われています」
波が大きく盛り上がっていてその奥に小さく富士が見える多色刷り版画なんですが……と菊は続け、自嘲するように「ご存じないですよね」という顔をした。かなり前、髭が「すげえって!」と興奮していた覚えはあるが、よく見てはいなかった。失敗した。
「その頃は作り方も分からなかったのです」
その頃は、との言葉に、瓶を見返す。この手書きラベルが示すのは、既に菊自身の手で生産可能になっているという技術水準だ。
「天然顔料の方は岩紺青と呼んでいますが、染まり具合や汎用性でとてもこの人工物に及ばない。何とか自国生産したかったのですが、製法はともかく立体構造がよく分からなくて試行錯誤しました」
「組成は、ほんとに確定してねえんだよ」
仮説はいくつか出ている。シアンと鉄の組み合わせであることも分かってはいる。鉄(U)イオンと鉄(V)イオンを同量含むらしいということも。しかし構造体はまだ謎のままだ。ターンブルブルーとこれは同じ色なのか。不溶性のものと可溶性のものは何が違うのか。工業に科学にと広く使われている割に謎の多い顔料なのである。
「あ、そうなんですか」
菊はさりげなく流した。国家機密にしているとでも思ったのだろうか。
「最初に読んだときはまさか、と思ったのですが、本当に牛の血から作るのですね」
「他にもいくつかあるけどな。ベルリングリーンを還元するとか」
手を伸ばす菊に瓶を渡しながら言うと、にっこりと笑った。
「ええ、書にある製法は全て試しました。化学は面白いですね。性に合っている気がします」
ぞくりとした。
世界は綿布貿易を軸にその姿を変えた。工芸作物を生産しうる地域は、生産主体ではなく資源としてねらわれる存在となった。
いち早く原料供給地を手に入れ加工貿易体制を作り上げた島国や、豊かな面積をもって対抗措置を執り得た隣国を横目に、俺は同じ土俵での勝負を避け、ひたすら重化学工業にエネルギーを傾注した。化学染料の生産は綿布生産国との競合を意味しない。むしろ補完関係になる。だから、俺たち兄弟は急成長を遂げながらも新興国のくせにと潰されることもなくて済んだ。……今までは。
アジアに市場を求めるだろう菊ともそうなるかと思っていた。お前が織った布を俺の色で染める―――
しかし菊は、その先を狙っているらしい。暗い考えが頭をよぎった。未来は不定だ。緞帳を開けた先に何が待っているかはその瞬間になるまで分からない。今は師として仰いでくれる菊が、このまま軍隊を強くし、機関車も国産でまかなえるほどに科学技術の力を伸ばし、………俺と市場を奪い合う可能性も―――もしかしたら、刃を向けあう可能性だってあるのだ。
俺を見ろ、と言いたい。全てを俺に範をとれ、と。菊の目は同じ海洋国であるアーサーにも向きがちだから、その焦燥は叫びたいほどだ。しかし、迂闊にそうは言えない、何より、俺のために。王のところの荀子とかいう思想家は弟子が師を凌駕することを示唆した。もしこの先、道が離れていったとき、俺はそれを止められるだろうか。引き寄せて、抱きしめて……そうするには、余りにもここは遠い。
きゅぽん、という音に沈思黙考から引き上げられた。開けられた小瓶から薬品臭が漂ってくる。菊はそれを目の上に掲げて小さく揺らした。
「こんなに美しい青が、濃い赤から産まれるというのが、なんとも、貴方らしくて」
その蒼の雫は瓶の口にたまってきらりと窓からの陽光を光らせた。
「狼色、とも言うそうですね。着色性が強く、何をも染めてしまうから、とか」
「ああ」
ほかの色を食ってしまうほどの強い、青。
菊の手首ごと掴んで瓶を傾けると、菊は「あ」と小さな叫び声を上げたが、皿のようにしていた片手を動かさなかった。雫を受け止めて、手が見る間に染まる。その手に手を重ね、親指ですっと菊の頬をなぞった。白い頬に、一筋の青。
そんなことが可能なら。
この蒼が菊を染めてしまえばいい。
掌でそれをぬぐうと染料は菊の頬に広がった。汚されたというのに、菊はほとんど熱いようなため息をついた。
「本当に、貴方らしい色…」
その眼は俺の目に注がれている。
「……じゃあ、お前も使え」
俺の軍服の色でもあるのだ。菊は困ったように笑った。
「あいにく、大量購入した紺羅紗がまだ余っているので…でもスタイルは変えます。来年には貴方と同じ形の軍服です」
見てください、試作品ができたんですよ。そう言って菊は覆いをかけていたトルソーを引っ張ってきた。布の下から現れた制服は、濃紺で小型の、しかし間違いなくドイツ陸軍スタイルだ。
「かっこいい、ですよね」
発言の子供っぽさを恥じるように、でも嬉しそうに菊は言う。その彼の手を引き、腕の中に封じ込める。汚した頬に唇をあてると、化学薬品の苦みが舌を刺した。
大丈夫だ。言い聞かせるように、口の中で呟く。菊は間違いなく俺を慕っている。尊敬もしている。俺の上司も弟子たる菊のことを気にかけている。道が分かれるはずはない。大丈夫だ。暗い未来など来ない。来させない。
「おい、菊」
「はい」
「できないことも、ある」
隣国を入れ替えるわけにもいかないし、大陸を折りたたむわけにもいかない。
「はい…?」
「でも、今から言うのは、絶対できることだから、約束しろ」
遠く離れていても。
「なんでしょう」
「この色、英語で呼べ」
「プルシアン・ブルー、……貴方の青、と……」
「ああ」
呼び合う心があると思えるなら―――
菊は頷いて、それから悪戯を思いついたような顔で言った。
「では、貴方も約束して下さい」
「なんだ」
「昨日の浴衣、お戻りになる際にもお持ちください。そしてその色を、日本語で呼んでください。―――藍、と」
「ああ…?」
意味は分からなかったものの、覚えられない発音でもなかったので了承した。
「アイ。」
「ええ。私達を結ぶ海の色が、きっと私達をつなぎます」
約三十年ののち山東半島で刃を合わせることとなった菊は、マンチュリアにおける迷彩色、カーキ色へと軍服の色を変えていた。