※ご注意
・米日小説アンソロジー『蜜月』様寄稿「あなたとわたしのいと」の後日談のような。
単体でもお読みいただけると思いますが、合わせて読んでいただけると嬉しいです。販促。
・1964年前後の歴史的事実に関する記述があります。
・うすーく、仏英っぽい記述があります。
苦手な方はお戻り下さい。
好きだ、と言うと、ありがとうございます、と返される。
これは普通に考えてフられてるってことだと思うんだけど、どうだろう。
間に、菊曰く「遺憾の意」な時期を挟んで100年。出会った頃よりは仲良くなれたと思うけど、「好きだな」と思うようになってから、自分でも呆れるくらい進展がない。他国に見せる笑顔に拗ねて、切れて、遺憾の意。同じ轍を踏むまいと、戦後はがっちり手を掴んで、はっきり「好きだ」と言うようにした。
これまで菊が同盟を組んだ相手は、本人達は若くても長い歴史と伝統を誇る国ばっかりで、音楽だろうが美術だろうがハイカルチャーでは太刀打ちできない。だからとにかく新しいものを持参する。アニメーションにジャズ、ナイロンに飛行機。菊は無表情だとみんな言うけど、可愛いものや興味を持ったものに遭遇したときは分かりやすく目がきらきらする。すごいですね。ありがとうございます。声の弾み具合にもそれが分かる。だからこそ、「好きだよ」に返される至極ゆっくりとした「ありがとうございます」の意味が分からない。だって、「感謝」は何かのgivenに対する言葉なわけで、その「遣りもらい」が一方的だからこそ言葉だけを返すわけで。同じ気持ちは返せない、だけど立場上無下に出来ない、だから淡々と「ありがとうございます」…?
そんな恐ろしい推測は口にしない。
代わりに前向きな提案をする。
「ねえ、もっと話したいと思わない?太平洋は広すぎて行き来するのは大変なんだぞ」
10年くらい前に羽田空港が整備され、随分行きやすくなった。でも、こちらから行くのはともかく、日本からの海外渡航はかなり制限されていて、菊も用がなければ来ない。観光なんかでふらっと来てくれれば、見せたいところはたくさんあるのに。もうすぐ東京オリンピック、この機会に海外旅行を自由化するとは言っているけど。
「……お話……ですか……」
卓袱台の向こうで膝の上のぽちをなでながら菊は小首を傾げる。敢えて読まなくても分かる。「いえ、別に、私は」の顔だ。
突然行っても家にあげてくれるし、お茶も出してくれる。「迷惑オーラ」は時々よぎるけど、「帰れ帰れオーラ」はあまり出なくなった。だけど俺の考える「仲良くおしゃべり」はなかなか成立しない。俺があれがどうしたこれはこうしたと話すのを、無表情で、またはちょっとうんざりした顔で、またはちょっとほころんだ顔で相づちをうつだけだ。興味があることは菊の方から立て板に水で話すけど、残念ながらその半分は俺の側に受け答え用の知識も情熱もない。それでも話が噛み合ったときなんかは楽しそうだと思ってるんだけど、あれは錯覚なんだろうか。くじけそうになる心を奮い立たせて言葉を続ける。
「何度も言ってるけど、俺は君のことが好きなんだよ」
「ありがとうございます」
「…」
負けない、ぞ。
「だからね、もっと会いたいし、もっと話したい」
「しょっちゅういらっしゃってるじゃないですか」
「足りないよ!飛行時間も長すぎるし……超音速航空機開発を急かしてるけど、難しくてね」
「スーパー・ソニックですか。最近どこも開発に熱心でらっしゃいますね」
「そうなんだよ!アーサーとフランシスなんて共同開発なんだぞ!」
思わず親指の爪を噛む。正直、欧州の方がSSTの研究は進んでいて単体でもやばいと思っていたのに、あの喰えない老大国二者が手を組んだら本気で太刀打ちできないかもしれない。航空産業はうちの目玉だ。簡単に抜かれるわけにはいかないのに。
苛々した表情をじっと見ていた菊は、「完成の暁には買わせていただきますよ」とお茶をすすりながら言った。ああ、うん、ありがとう。正直あてにしてはいたけど、でもそこが今の話のポイントじゃないよ?
「そ、れ、で、ね!そっちはそっちでがんばるんだけど、今言いたいのは、電話」
「はあ」
菊と俺とを順番に指さして。
「電話線、引かない?」
「え」
す、と菊は湯飲みをおろした。目がきらりと光る。
「……国際電話ですか」
「うん」
「海底ケーブルで?」
「もちろん」
短波による無線電信電話は既にある。でも割り当て周波数は限界に達している。もっと話したい。
「ご存じだと思いますが、貴方と私の間には日本海溝と富士火山脈がありまして」
「そうなんだよね!」
山があって谷があって。どんだけ邪魔をする気だ地球、と地図を見る度に舌打ちが出る。
「サンフランシスコからハワイまではもうあるからね。そこからミッドウェー、ウェーク、グアムとつないで、あとは富士火山脈を避けて北上させればなんとかなると思うんだ。ルートの調査をしなきゃいけないけどね」
菊は身を乗り出した。
「これもご存じと思いますが、うちの方では通信産業は戦争でかなり打撃を受けまして。かつ戦後10年、傾斜生産方式を採ってきましたので復旧もおぼつかなく、技術的には完全にそちらに頼ることになると思うんですが」
「うん。そのへんについてはベル研究所に任せればいいんじゃないかな」
たださっきも言ったルートのための海底調査については金額負担してくれないかな…なんて交渉しようとしていたら、菊が真剣な目でこちらを見据えた。
「……技術流出、を、心配されないんですか」
一瞬、返事に詰まった。
企業同士の共同事業とは話が違う。国の威信をかけた事業だからこそ、成功のためにはある程度の情報の独占性は犠牲にすることになる。アーサーとフランシスのように、それぞれがある程度の研究段階に進んでいての提携ならお互いがカードを見せ合えばいいが、今回のように情報量に差がある場合、情報開示した後で提携解消、各自開発とでもなったら技術流出の損失は計り知れない。
多分使うことになるケーブルは多重通信方式で、128回線が双方向伝授できる。長距離の電波でも確実に伝達するための中継器も使われるはずだ。これは画期的な技術で、世界で見ても最先端。
しかも、相手は菊だ。設計書を見なくても、製品を調べてその構造を把握し、一歩も二歩も工夫したものを市場に投入してくる、菊だ。しかも、ソーシャルダンピングかというほどの価格設定で、だ。20世紀以降、菊は紡績業に軸足を移したけど、その戦後の主要製品である化学繊維は、俺との間に貿易摩擦を引き起こした。
「申し上げておきますが、私、通信産業は手を染めたらのめり込むと思いますよ。精密機械工業と同じ空気が感じられます」
そういえば最近電子機械の技術革新が続いていると言っていた。生真面目だから、こういう細かな制御の工業分野は得意なのかもしれない。菊のところで電信電話は国営事業だからそこを市場として狙ってはいないし、菊が俺のところに乗り込んでくることも考えられない。でも、今は想像がつかないけれども、ボーダーレスの通信市場が形成され、菊とライバル関係になる未来だってありえないことじゃない。
「ええと……だからやめたら?ってことかい?」
「いえ」
菊はちょっと身を引いた。少し赤くなっていた頬を落ち着けるかのように軽く叩いている。
「それでもやっていただけるのかどうか、ということです」
あ、前向きだ。目が底光りしてる。
「やろうよ。このケーブル敷設は、俺や君へのスポットライトじゃない。大西洋しか見てないやつらに太平洋を意識させるものだ」
菊はぱちりと瞬きをして、またこちらを見つめた。
「やつら…とは、フランシスさんですか?」
「アーサーもだろ。あ、彼はEECには入れて貰えてないんだっけ?」
「…そのようですが」
俺のスパイと見なされているとぼやいていた。思わず肩をすくめる。
「変なやつだなあ、フランシスも。仲良くしたいくせにさ」
ぱちぱち。菊はまた瞬きをした。
「あの……それがお嫌なのではなかったのです…か?」
「は?」
「ですから、アーサーさんと、フランシスさんの。次世代飛行機の」
「コンコルド?え、嫌だよ?」
英仏共同開発の超音速旅客機はフランス語でも英語でも同じ綴り。”協調”だなんて昔の自分たちが聞いたら鼻で笑うだろうに。
「ですよね?」
菊は石に躓いて立て直したところをまた躓いたような複雑な顔になった。訳が分からない。
「だって、俺が抜かれるだろ?」
また菊はよろっと身体を揺らした。
「え?それ、が、お嫌なんですか?」
「それ以外に何があるのさ」
「……」
頬にあてた手をそのまま滑らせて、菊は首を押さえながら小さく俯いた。瞬きが多い。何かを考えているらしいけど、正直、さっぱり分からない。
「俺も、国だからね。自国の利益が最優先だし、君にだって、安易に『信用するよ』とは言えない。でも、手を組むなら君だなって思うよ。中途解約で情報を奪い取ることと信頼を保つことを秤に掛けて、君は後者をとるだろうと思うしね」
「……」
首に手を当てたまま、菊は目をあげた。しばらくそのまま薄赤い顔でこちらを見ていたが、やがてすっと姿勢を正し、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。……宜しくお願いします」
その噛みしめるようなゆっくりとした声に今度は俺が瞬きをした。あげられた顔はほんのりとした笑顔だった。
全長約9800kmもの工事は、しかし順調に進んだ。
もう間もなく完成するという頃、フランシスは学生運動の嵐に襲われた。からかい半分心配半分で顔を出したら、さすがに消耗した顔でベッドの中、だけどいつものにやりという笑みで迎えてくれた。ベッド脇の花瓶には薔薇がいけてあり、そして顔にはその花束でぶったたかれたんじゃないかという感じの棘の傷がある。
「…アーサーは相変わらず遠慮がないね。病人相手に」
「あ?これか?」
傷の一つを撫でつつフランシスは苦笑した。
「まあ、来てくれただけでもなあ。あいつ、今すげえ体調悪いらしいし」
「大変だね、ヨーロッパは」
肩をすくめると、フランシスは小さく鼻を鳴らした。
「イギリス病はともかく、俺の方について言えば、『明日は我が身』だろうよ。こんな時代に戦争しかけてるなんて、ほんとお前空気読めないよな」
むっとする。元はといえば、フランシスがきっちり植民地経営していてくれればしなくていい赤化防衛戦なのだ。
「敢えて読まないだけだぞ。例えば、その傷の意味だって分かってるさ」
心配なんかしてないんだからなばかぁ!なんて叫びながら涙目でばさばさやったに違いない。
「へえ?」
にやりと笑いながら傷を撫でている。まあ、アーサーの気持ちが丸わかりだったからこそ、フランシスも甘んじてうけたのだろう。
しかし、流石にフランシス、反撃に転じてきた。
「人のことなら分かるわけだ?」
「…どういうことだい」
「菊ちゃんの『ありがとうございます』は、交換の原則で出されてる言葉じゃないってことだよ。原義なんだろ」
「…」
思わず、黙る。その言葉にずっとひっかかっていたことを見抜かれているとは思わなかった。
「原義って?」
「そのままさ。『有り・難い』。ものすごく希なことだと思ってんだな」
まれ?
「……菊のことが好きな国なんてたくさんあるじゃないか」
「認識の問題だろ。今は特に、みんなから嫌われてると思い込んじゃってるしなあ。お前の言葉に救われてるんだろ」
それは、複雑だ。俺の気持ちに対して「申し訳ない」じゃなく「嬉しい」と思ってくれてるなら、俺も嬉しい。でも、救い救われる関係を望んでるわけじゃない。
口をまげた俺に、フランシスはしばらく黙っていたが、言葉を継いだ。
「ここまで言う気はなかったんだけど、いい加減もどかしいから続けるぞ。もう一つ認識の問題がある。『お前が好きな国』もいくつもある、と菊ちゃんは思ってんだな」
「そりゃあ、あるさ」
『嫌いな国』の方が少ない。『知らない国』が圧倒的に多いけど。
「んで、別格なのは、自分じゃないと思ってるわけだ」
「え。なんで」
意味が分からない。面と向かって「好きだ」と言い続けてる相手なんて菊しかいない。
「なんでじゃねえよ、武器貸与法にしてもマーシャルプランにしても、表面的にはどう見ても別格だろ、アーサーが」
「そりゃあ、別格さ。でもカテゴリが違うところでの話じゃないか」
友好国の中で彼が別格なのはある種仕方がない。俺が話してるのは恋のレベルだ。
「『じゃないか』って、そんなの他人が知る話かよ」
フランシスは吹き出した。
「菊ちゃんは、ツヴァイクを読んだんだな。海底ケーブル計画、すげえ熱心だろ」
「あ?うん、そうだけど…それが?」
どう関係するんだ?と顔に疑問符を出した俺に、フランシスはひらひら手を振った。
「後は自分でがんばんなさい。似合わないお節介して、お兄さん疲れちゃった。寝るわ」
「あ、ごめん」
半死(というより経済的には瀕死)の彼に随分話させてしまった。
にやりと笑って、フランシスは身体を横にした。
「国、としては、あんまりお前さん達に仲良くなってほしくないんだけどな」
文末の逆接に微苦笑がこぼれる。東西二極体制に反対し続け、正直国際戦略においては厄介な相手なんだけども。彼もある意味別格だ。
「俺の台詞だよ」
顎で薔薇を指して、バイ、と手を振った。
それにしても、ツヴァイクってなんの話だ?首を傾げながら『人類の星の時間』を引っ張り出した。人類史上の決定的瞬間(それを著者は「星の時間」という造語で呼んだ)を12集めた歴史小説集だ。これの中に、大西洋ケーブル敷設に人生を賭けたサイラス・W・フィールドの話も出てくる。100年前のこと、技術にも限界があり、二度の失敗(と大損失)を経てやっと連結に成功する。大洋の真ん中で電線を繋いだ米英双方の船は、電信を続けながらそれぞれの港へ引き返し、約一週間の航海の末、電線の端を米英両本国に渡した。やがてヴィクトリア女王の言葉がニューヨークに伝えられ、大統領が答礼する。
「あ」
俺はその後の経緯を勿論知っている。
この時通じた電信は、半月ともたずにその機能を閉じた。ケーブルは傷つきやすいものだったのだ。そして海底の世界は、未だ科学の光に晒されていない。今なら仕方がないと思えることであっても、歓呼、いや、驚喜の渦中にあった国民はその反動で大いに失望し、計画とフィールドを罵倒し、海底電線を忘れた。六年の後、技術の向上とさらなる資本をもとにサイラス・W・フィールドは四度目のケーブル敷設計画に乗りだし、1866年、二つの世界は音で繋がった。
比較的平静に受け取られたその年と較べて、1858年の熱狂はものすごいものだった。サイラス・W・フィールドは新しいコロンブスとして凱旋馬車に乗せられ、ケーブル敷設船「ナイアガラ」は祝砲をうけた。
そして、この音を伝える糸の繋がりは、我等が国民によってこう表現されたのだ。
―――「若いアメリカと旧世界との結婚」。
「……」
そんな時代もあったなあ。手のひらに顎を預けて、しばし回想にふける。1850年、ドーヴァー海峡に世界初の海底ケーブルがしかれた。一体化を強めるヨーロッパと、取り残されそうな自分。「アメリカはアメリカ」と言いながらもやっぱり疎外感を感じてはいたのだ。
その頃、太平洋は地図の両端の余白でしかなかった。菊も世界の端だっただろうけど、俺だってセンターポジションではなかったんだ。
「フランシスめ…」
このツヴァイクの記述と、菊のケーブル敷設への情熱。それを順接で繋ぐ式は、余りにも都合が良すぎる考えに思える。菊が、『繋がり』を―――『結婚』と比喩されるそれを意識した上で、熱意を持っている、なんて。
まるで、それは。
はぐらかされた(と思い続けた)年月が長すぎて、そんな結論には飛びつけない。だけど、フランシスの示唆はそこに向かっているような気がしてならない。期待させるだけさせて放置とか、全く喰えないやつだ。
でも、確かに。これは、本人同士の問題だ。
俺が菊に伝えるしかないし、菊から聞くしかない。
開通式は、大西洋の時と同じように、上司たちのメッセージの送り合いになっている。会話じゃない。それぞれの母語で言葉を送り出すだけの単なるセレモニーだ。意味ないだろうと膨れたら、じゃあお前達が話せばいいということになった。国同士の言葉は人間には聞こえない。セレモニーって言ってるのにいいのかと確認したけど、問題ないと流された。
直通なので、ダイアルもプッシュボタンもない電話機が鳴る。
菊、俺たちの星の時間だ。
「人類は今や、地球の一つの端から他の端までが同時的に現存し、人類自身の創造力によって神のように偏在する。」ツヴァイクの言葉は真の意味で今実現した。既にヨーロッパとアフリカ、ハワイとオーストラリア、日本と東アジアは繋がっている。今繋がるこのラインで、世界は一つの輪になる。
ジョンソン大統領のメッセージ、池田首相のメッセージ。米・日・ハワイ各電話会社の三者通話。粛々と言葉が送られる。
そして、俺に受話器が渡される。
この線の先に、菊がいる。俺たちの間は、しっかりと糸で繋がれている。
俺は息を吸い込んだ。