夏幻影


 

※ご注意
・「夏幻想」の原型(「夏幻想」第一節+α+これ、でした)。「どす黒い展開なので割愛」と思っていたもの。
・リアル政治話及び歴史的記述・実在の人物に対する記述があります。
諸々、危険を感じた方はお戻り下さい。「夏幻想」の爽やかアル菊が好き、と思ってらっしゃる方には本当にお薦めしません。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

人間牧場話が本気で怖かったわけじゃない、でもこれは通してもらっていいはずだと、菊の布団に転がりこんだ。ゴザシーツの上でべたべたしないのをいいことに隣の菊に抱きつくと、流石に嫌そうな顔をしたが、まあ、これくらいは拒否のうちに入らない。
子どもっていいなあ、としみじみ思う。こんな風に温度とか気持ちとかを皮膚で分かち合うって、大人になったらなかなかできない。ホラー映画に怯えて真剣に頼んでいても「大の大人が、しかも男同士で、変でしょう?」と受け流されてしまう。その点、今は「大の大人」ではないし、「男」というより「男の子」だ。菊の側はともかく、俺の方の「むさくるしさ」は少ないはずだ。
枕元の蚊遣りから煙が薄く流れてくる。何とも言えない陰気な煙を嗅ぎながら、菊の上下する薄い胸を見た。眠れているのだから、余計なことはしない方がいい。分かってはいたけど、自分に出せる一番小さな声で、子守歌を歌った。

超音波を操ることができるならこの蚊も追い払うんだけどなあ、そう思いながら、時々手で払う。血を吸われることだってやっぱりそれなりに腹が立つけれども、その後いつまでもいつまでも続くあの痒みがたまらない。しかも、掻けば掻くほど爪から入った雑菌で余計に痒くなる。こう、爪でばってんをつけるんですよ、そしたら痒くないような気になりますと菊は真面目な顔で言っていたが、合理性がないにもほどがある。そんな自己暗示で堪えるのではなく、初めからそんな痛みを感じないでくれた方がいい。一晩中なんて無理だけど、少なくとも起きている間くらい、守ってあげたい。
いつもできることじゃない。”現実”で最優先なのは、絶対に、自分だ。人の為に睡眠を犠牲にするなんて許されない。
だけど、今は、まぼろしの中なのだから。お遊びの中でくらい、許して欲しい。
菊と夢を共にしたいというこの気持ちも。

そして、もしかしたら聞こえているかもしれないけれども、アーサーに教わった子守歌を歌うことも。

ありがとうとは、言えないんだよ、やっぱり。
どれだけ優しくしてくれても、それは「支配」だったんだから。

だけど、君がくれたものはたくさん俺の中にある。いつもは隠しているそれを、今だけは表に出してもいいかなと思える。
俺は覚えている限りの子守歌を歌った後、自分の歌につられるようにして眠りについた。

 

 

その時、手は菊に回していたはず。そのはずなのに、起きたら俺の腕はゴザシーツの上に落ちていた。その手が、ごつい。
「…」
カーテンの隙間から漏れる朝日を受けて輝く腕の毛を見ながら、俺は一度目を閉じ、ゆっくり開けた。
部屋の端に、卓袱台とその上におかれた眼鏡が見える。
ああ。これは、菊の家だ。”現実”だ。
俺はがしがしと頭を掻いて台所に向かった。
そこにはダイニングテーブルにぼんやりと座るアーサーの姿があった。普通のTシャツジーパン姿であることにほっとしつつ、声をかける。
「ああ、起きたか。紅茶でも飲むか?」
「ん…それより、菊は?」
「あー、うん……」
口を濁すアーサーに首を傾げつつ、勝手知ったるなんとかで冷蔵庫から作り置きのアイスコーヒーを取り出し、グラスに注ぐ。”子ども”の間はちっとも欲しいと思わなかった味が喉に心地よい。

「ちょっと残るって」
ぽつりと言われたその言葉が、菊の所在に関する話だとすぐには分からなかった。
「え?」
「というか……俺とお前だけExitFunction、って感じかな」
「どういうこと?」
「元々のプログラムに付き合わせるのを、やめることにしたんだと」
「元々のプログラム?」
よく分からない。確かに、菊がプランを立てて、菊が想像して仮想世界を構築した。けれども、もともとバーチャルアドベンチャーをやりたいと言ったのは俺なのに。
だけど、そう言えば、こんなお遊びに顔をしかめるでもなく菊はあっさりと了承して、「あっさりだったね?」と聞いた時にも受け流していた。菊には裏プランがあったんだろうか。
「でも、なんで自分だけ?」
菊のしたいことがあったなら普通に言えばよかったのに。
「…と聞かれたら、『学校なんてつまんないでしょう』と答えろって言われた」
「学校?」
「夏休み中に登校日ってのがあるんだってよ。休みでだれすぎないようにとか、健康状態を確認するためとか、色々あるらしい」
「へー」
休むなら40日思いっきり休めばいいのに。途中途中で学校に行かされるんじゃバカンスにならない。
変なの。しかし、今一番変なのは、日本の教育慣習じゃない。奥歯に何か挟んだようなアーサーのものいいだ。
「で、アーサー。そう『言われた』とき、菊は他に、何を言ったのさ」
「…」
アーサーは頬杖を外して、こちらを見た。緑色の目が揺れる。

「アル、11月11日は何の日だ?」

 

 

朦朧としてきた。菊はそっとハンカチで額を押さえた。盛夏に体温の高い子供たちを集めて、窓も締め切って、暗幕。冷房設備もなく、全体が蒸し器のようになっている体育館の中で、体育座りの足が前の子に当たらないよう気をつけながら、膝の裏もハンカチでぬぐう。

―――感情とは、ままならないものですね。
早朝、アーサーと交わした会話を思い出す。
―――昨日申し上げたことを、誰より私が見失っていたようです。
―――菊……。
―――私達が「いま」「こう」である現実を、夢の世界で裏返してみても、結局現実は変わらない。

8月9日、登校日の平和授業。映画を見て、多少の講話。そして、11時2分に黙祷。

菊は「黙祷」の言葉に目を瞑り頭を垂れた。怒りの、と形容されるヒロシマに対して、ナガサキは祈りの、と形容される。浦上天主堂の鐘に象徴されるその空気の前に、暑さにうんざり顔だった周りの子供たちも静かになった。
しん、と音が消え、周りが消えていった。
沈黙の内に、ただ、祈る。
8月6日の朝を灼いた閃光も大きかったろう、しかし、このじりじりと照るような夏の空気を裂いた光もどれだけ強かったことだろうか。
子供たちがどこまで追体験をしているのか、菊にははかりようがない。
菊にとっては「二度目」だった。既になんの傷なのか知ってもいた。けれども、長崎郊外・浦上の地の人々にとって、これは「未曾有の」光であり、音であり、風であり、熱であり、そして、いつまでも身体の中に残る病だった。

私にとっての「夏」は、楽しいだけのものでは、決して、ない。

黙祷、やめ……の言葉はいつまでも聞こえなかった。だから菊はいつまでも頭を垂れていた。
毎年、祈ってきた。
主語が不明確だと言われようと、糺すべき罪を見据えていないと言われようと、「あやまちはくりかえしません」、その言葉に祈りを託してきた。しがらみから言えないこともある、けれどもせめて、曖昧な言い方に紛らわせても言いたかった。あれは「あやまち」だと。
けれども、今年、彼は改めて言ったのだ。正当だった、と。

 

原爆のことを扱った映画の第一号は、広島ではなく長崎が舞台となっている。自身被爆者である医学博士永井隆の「長崎の鐘」が原作。長くGHQの許可が下りなかったこの本の出版は、結局、GHQにより「マニラの悲劇」が付された形で出版された。マニラ大虐殺を引き起こした日本軍の暴走を止める為に、それは正当な手段だった、そういう文脈に置いた永井の言葉なら、とGHQは考えた。故に占領時代に作成された映画も、原爆を「落とした」者の罪を問うことはない。

私と貴方の関係は、あのときから変わっていないのですか。

子どもの姿に戻った菊の背に、今その二つの火傷はない。目を閉じたまま我と我が身を抱きしめる。

貴方は、私のこの滑らかな背を見て、そしてこの映画を見ても、それでもそう言いますか。この子供たちの列の中に混じっても、黙祷の空気に背を向けますか。

それを視線で問う、そのためだけに作り上げた壮大な幻想劇だった。

あまりに長い黙祷の果て、菊はゆるゆると目を開けた。

いつの間にか周りの子供たちは消えていた。目線の先にあったはずの講壇も、壁も消え、ただどこもかしこも真っ白な世界が広がっていた。

「………菊」

声がして、菊はひくりと振り返った。

「………………アルフレッドさん」

子どもの姿のアルフレッドが、菊の遙か後方(体育館の入り口があったあたりだろうか)、そこだけが黒い四角の中にいた。
先に帰って貰ったはずなのに。返して貰ったはずなのに。なぜここに。

硬い顔のまま近づいてきたアルフレッドは、菊にあと一歩と言うところまで近づき、足を止めた。
そのまま数秒が過ぎた。アルフレッドはいつもの陽気さをどこへ置いてきたのか、無表情を顔に貼り付けている。

「………菊」
「……はい」

そういうつもりだったんだね。楽しいお遊びのつもりだったのに、君は俺に復讐をしたかったんだね?
投げつけられる言葉を想像して掌に爪の跡をつけるほど手を握りこんだ菊に、アルフレッドは聞いた。

「君は、11月11日を、何と答えたんだい?」
「は?」
想定外の質問に菊は一瞬間抜け顔になる。そして、それが今朝アーサーに聞かれた質問であったことに気がついた。私だけ残ります、そう挨拶した菊にうんと頷いて、その後しばらくして唐突にそんなことを聞いてきたから、菊はつい思ったままを口にしたのだ。
「……『ポッキーの日』と……」
口にするのも恥ずかしい。菊はがしがしと二の腕で額の汗を拭いて言い訳した。
「もちろん、他にも色々な記念日であることは知っていたのですが、何より二次創作的には身近なもので……」
「別に恥ずかしいことないさ」
「でも、アーサーさんが想定してらっしゃったのは、世界平和記念日でしょう?」
そんな厳粛なことを思ってらっしゃったのにポッキーだなんて!菊はまた汗を拭くつもりで顔を隠した。
「それなのに恥ずかしい間違いをしてしまって……」
「違うよ」
アルフレッドの声に、菊は手を下ろす。
「違うよ、間違いじゃないんだ。間違いなんてない。ただ違いがあるんだ」
一歩前に進み、アルフレッドは菊の肘を掴んだ。
「君にとって第一次世界大戦が―――その終結の日が大した意味を持たないように、アーサーにとって8月というのはそう大した意味を持たない。もう、彼にとっての『WW2』はほとんど終わっていたからね」
「……」
それはそうですが。それを貴方が、今この文脈で、言うんですか?眉間の皺を寄せた菊にアルフレッドは肩をすくめた。
「……と、アーサーが言ったんだ。俺が、靴下の日って言ったからね」
「…ペアーズディ、ですか?」
首を傾げた菊にアルフレッドはわずかに笑った。
「もちろん、俺のところでその日が靴下記念日というわけじゃないよ。覚えてないかな、君がそう言って靴下を買ってくれたんだよ」
「…そんなことありましたっけ?」
連れだって買い物に行った際に、これだけ頻繁に来るのならうちに買い置きしておけばいいと、歯ブラシその他の小物も随分買った。彼の私物を自分が買うという行為に対する気恥ずかしさを抑える為に、何やかやと言い訳をつけたりもした。
多分そうしたことの一つなのだろうけど。
「11月11日は、『俺の』対独勝利の日なんだからね、そりゃあ覚えてるさ。でも11月11日と聞かれて口に出したのは別のことだった。それだけのことだ。言わないことと覚えていないことは違う。そうだろ」
「……ええ」
それは、そう、だけれども。
「菊。あの世論調査には、質問にも報道にもバイアスがかかっている。…あれが嘘だというつもりはないよ。ただ、ああいう聞かれ方をしたらそう答えるしかない、そう思った人もいるってこと」

 

―――ハリー・トルーマンの原爆投下命令は正しかったか?

正しい、なぜなら、そのように考えなければあの地獄絵図を自己の世界の中に位置づけられない。

そのような論理は、逆説的だが、被害者の側にも存在した。
禁教時代に創られたキリシタンへの冷ややかな空気などと相まって、長崎の被爆者達は複雑な差別関係の中におかれた。死の中心部が生き残ったのは天の恵み、死んだ者たちは天罰。そんな囁き声の中で、それを覆す為に「浦上燔祭論」は生まれた。

―――原爆は神の摂理であり、これにより戦争はとめられた。被爆者は尊い犠牲者、汚れ無き子羊である。

その、強く文脈に規定された永井の言葉は、占領下という別の文脈で流布を許された。
目の前の現実を乗り越えるための言葉は、目の前の現実を覆い隠させる言葉となった。

永井の言葉が撃っているのは、究極、わたしだ。菊はそう思う。
だからこそ、その言葉がただの政治のレベルで扱われるのはたまらなかった。

 

「………ねえ、菊」
思考の底に沈んでいた菊はゆっくりと顔を上げ、目を見張った。
小さなアルフレッドの頬には涙の河があった。
「6割という数字に何を思うのも君の自由だ。世代間の格差を均してしまい、変化を隠す数字だとは思うけどね。……でも菊、その平均値を押し上げた戦中世代より、………俺は、もっと前から君を知っていて、彼らとは違う言葉も持っているんだ」
掌でぐいと頬を押し上げ、アルフレッドは続けた。
「あの映画を見て、君を見て、何も思わないわけじゃないんだよ」
「………」
でも、言わないのでしょう、それを。
菊はそのことばを飲み込んだ。喉が焼けたように痛んだ。
「祈りを持たないわけじゃ、ないんだ………」
目を伏せた、その拍子に菊の頬にも涙が伝った。

あと一歩の距離にいる筈のアルフレッドに、目を閉じたまま抱きつく。

子どもには感情同調という精神の動きがある。

子どもの姿を与えられてさえ、なおも外れない私達の鎖。言えない言葉がある。採れない論理がある。そして、抜けない棘がある。
だけど、今は子どものような心の柔らかさがあるというのなら、せめて、私の痛みを、

肌から感じて。

 

 

 

 

昨日の歌を、もう一度歌って。

 

 

 

 

 

 


私は義務教育年間ずっと8/9の11:02は黙祷だったんですが…。毎年脱水症状寸前でした。

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