※ご注意
・時をかけて日本の夏!なアル菊+ブリ天@日記連載。”お約束”を多用してます。
さらっと読んでいただければ有り難いです。
「唐突に変なお願いを、すみません」
「い、いやっ!?全然構わない、そういう依頼なら頼まれ無くったってやってやる……っていや、別に俺のためじゃないからな!お前達のためだからな!」
「勿論そうですよね、ありがとうございます」
きちん、と菊は礼をした。つむじどころか項まで見せる深々とした礼に、隣のアルフレッドはため息をついた。
「菊、ちゃんと聞きなよ。アーサーは要するに自分の為だっていってんだから」
「そ、そんなことないって言ってるだろ、ばかぁ!」
アーサーがぎゅむっとアルフレッドの頭を押さえつけると、アルフレッドは仕方なく首をすくめた。いかんともしがたい身長差があるのだ。
菊とアルフレッドは、あろうことか、進んでブリタニアエンジェルに身を縮めてもらったのである。
始まりは、たいていのことがそうであるように、菊のサブカルだった。
国民的人気ゲーム通称「ぼくなつ」を目を細めてプレイする菊を黙って見ていたアルフレッドは、突然「俺もやりたい」と言い出した。「どうぞ」とゲーム機を差し出した菊に、アルフレッドは首を振り、「体験する」と主張したのだ。
「それにしても、君が頷くなんて思わなかったよ」
「そうですか?」
「何馬鹿なこと言い出すんだって一蹴されると思ってた」
10歳程度の小学生の夏の正装、Tシャツと短パンに着替え、アルフレッドも元来不要である眼鏡は外した。
「本当はランニングですけどね!」
と菊は鼻息を荒くしたが、さすがにそこまでは。
「「よろしくお願いしまーす」」
いつまでも二人を見ていたそうなアーサーに、二人で頭を下げる。かつての同盟国も、かつての弟分も、警察に突き出されそうな格好のこの人をあまり視界に入れていたくないのだ。
「うう…ほあたっ!」
謎の煙とともに、二人は時を40年ほど駆け戻った。
「う…」
「さあ、アルフレッドさん!起きてください、もうすぐ6時ですよ!」
「え…」
朝の徘徊モードがまだ残っているのかさっぱりと目を覚ましたらしい菊が、アルフレッドの身体を揺さぶる。
「はやくー」
「え…うん…まだねむ…」
「らしくないですよ、高血圧のアルフレッドさんらしくすぱんと起きてください」
「なんでこんな早くから……」
「ラジオ体操です!」
「何それ…」
「準備運動的なものをひとまとめにしたものです。これを地域の人たちと一緒にやって、スタンプを貰ってからでなければ夏休みの一日は始まりません!」
そう言って菊はスタンプカードを突き出してくる。40ほどのマス目はすでにいくらか埋まっている。なかなか芸が細かいぞ、ブリタニアエンジェル。
「行ってきます」と声を掛けて、アニメのキャラクターがプリントされたサンダルをつっかけて走る。首から提げたスタンプカードが揺れて、入道雲をちらちら見せる。「行ってらっしゃい」、かすかな声とともに味噌汁の匂いが追いかけてくる。
「帰ったら朝ご飯ですね」
「ここは…菊の家?」
「いえ、別荘地ですね。うちの家の辺りには山も海もありませんから」
「海?」
「あ、ここは山の方です。でも川もありますよ。飛び込みができるくらいの」
「シュートインザボトル?」
「ナイアガラほどの規模はないです。でも魚釣りもできますし、あ、そうだ、河原でバーベキューしましょう!」
「うわあ!」
そう言っているうちに、小公園に着く。地域の子供たちが集まっていて「おう、アル」「おはよう、菊」などと声をかけてくる。にこにことそれに応対しながら、二人は顔を合わせてくすりと笑う。「芸が細かい!」
―――大きく腕を上げて、背伸びの運動から……
小さな声でアルフレッドは呟く。
「どうすんの」
「みんなと同じにすればいいんですよ」
言われるままに、見よう見まねで手を伸ばしたり、身体を回したり。基本的には同一動作を繰り返すから、一度動きが分かればそう戸惑いはしない。が、体側の運動ではまごついて、菊の側ばかりを見て動いていたら、つい、菊と動作が線対称になり、がつっとぶつかってしまった。
「なにやってんですか!」
「ごめん、でも、無茶言わないでよ!」
最期に大きく深呼吸をして、軽くマラソン。地域の小学生が一斉に走るから、ついていけばいい。思いっきり走り出して、ふと、菊が隣にいないのに気づく。
「おーい」
その場で足踏みをして後方に声を掛けると、恨めしそうな顔でやっと菊が追いついてきた。
「あの、肺は若返ってるようですけど、せいぜいこの年代の機能にしか戻らないのでしてね」
コンパスの問題だと言わないのがせめてもの矜持らしい。
「ごめん、ゆっくり走ろうね」
「そうして下さい。ほら、朝顔のカーテンが」
日よけなのだろう、西側の窓を覆うように朝顔をつたわせている家がある。青紫や赤紫、ピンクに白と、様々な色の輪があちこちに咲いている。
「朝顔か……君、好きだよね、あの花」
「ええ、まあ、一番ブームだったのは開港前ですけどね。あの頃の朝顔と金魚は本当に熱中しました…」
「ヨーロッパのチューリップみたいなもんだね」
「ええ、まさに。但し、今の私達にとっての朝顔は、投機の対象ではなくて観察日記の対象ですけどね!」
「えええ?にっきー?」
あはは、と菊は笑った。
「不得意そうですね」
「だいっきらいだよ」
笑っているうちにもとの小公園に辿り着く。スタンプの一つ増えたカードを受け取り、朝ご飯の待つ家へ。
「そして水遊びとバーベキューとスイカと花火だね!」
「ええ、でも午前中は『夏休みの友』ですよ。漢字の書き取りと計算ドリル」
「えー!?」
「ちなみに、日本の夏は蚊との闘いです。この年代なら、汗疹とも闘わないといけませんね。正座している膝の裏にじんわりと汗がたまってくるんですよ」
「えー!」
菊は天使のような悪魔のような笑顔を向けた。
「頭も朦朧となったところで、解放されて水に飛び込む快感は、さいっこーですから」
「何、そのマゾヒズム…」
「小学生らしからぬ言葉を使っちゃだめですよ。あ、ちなみに日本のバーべーキューは野菜5:海産物3:肉2ですから」
「ええええええ!」
「血液サラサラにしましょうね!」
「小学生らしからぬ言葉を使っちゃだめなんだぞ!」
向日葵の整列に迎えられて、二人の「小学生」はドアを開けながら「ただいま!」と叫ぶ。
どうしてもこの「幻想劇」に参加したかったアーサーがお玉片手に「お帰り」と返すのを、まだ二人は知らない。
クワガタとりに秘密基地。ラムネ味の氷菓に、魚釣り。
「楽しいですか?」
無駄に―――どうして子供って無駄に走りたがるのだろう?自分でやっていながら理由が分からない―――あぜ道をかけっこしていたら菊が後ろから聞いてきた。
きゅっと足を止めて体ごと振り向き、両手をのばして、勢いあまって停止できなかった菊を抱き止める。
「もちろんさ!」
「熱い!暑い!何すんですか!」
確かに、炎天下に走ったために二人とも身体自体が炉心みたいだ。
「あはは、子供って体温高いね!」
「高いですとも、あなたは元からですが。私なんか頭も蒸れてて、もう!」
菊は腕の中から抜け出すと、麦わら帽子をぬいでばふばふと顔を扇いだ。うらやましそうな顔が見えたのか、仕方なさそうにこちらも扇いでくれる。本当に日本の夏はじりじりするくらい暑い。
「お返し!」
菊の手から帽子を受け取ってがんがんふったら、苦笑した後で菊は帽子を取り返した。
「日よけと風、どっちを優先すべきか分からないですが、黒髪に直射日光は凶器でして」
蒸れる、といいながらまたそれをかぶる。女の子のハットのようなそのつばが菊の回りをくっきりと彩る。涼しそうな材質がいかにも夏らしい。俺の方は野球帽だ。さすがにこの時代、大リーグのは出回ってませんからと国内球団のどこかのをかぶらされている。それをきゅっと後ろ向きに回して、Tシャツの中に風を通す。汗で背中がはりついている。痩せられそう。
家まであと少し。並んで歩く。
「ちょっと前に、日本の日常風景を写した動画が出回ったの知ってる?」
「動画、ですか・・・。なにやら、ゲーム機を荷台に積んだ自転車をとめて買い物をしている男性という画像でやたらと皆様が驚かれたのは覚えていますけど」
「ああ、あれもね。2000年代になってさえリスクマネジメントって言葉からこんなに遠い国だとは思わなかったぞ」
他の国なら自転車ごと盗まれるし、そうされても自己責任だと言われてしまうだろう。
「すみませんね、平和ぼけで」
「うん。いいなあって」
つるっと言葉が出てしまった。大人の姿に戻ったあとで本当にいいと思うかと聞かれたら、絶対首を振る。市民の権利と自己管理責任は裏表、だからこそ市民には武装権がある。だけど、あんな風に周囲を疑いさえせずに大人になったら、見える世界は違う気がする。今でさえ、電車の中で白河夜船を決め込む日本人たちを見ると、その「信じきった」姿に呆れる反面、悔しさにも似た奇妙な苛立ちを感じる。
「・・・」
菊は何か言いたげにこちらをみたが、黙ったまま歩き続けた。と、畑の中から声がかかる。近所のおじちゃんがこちらを見ながら汗を拭いている。菊は頭を下げるから、俺もまねをしてぺこーとしてみる。会話は中断。「40年前」にも「小学生」にもふさわしくない語彙だ。
おじちゃんは手を挙げて礼を返し、それから声をはりあげた。
「菊ちゃん、野菜届けといたよ」
「ありがとうございます!」
大きく手を振って、菊はまた歩きだした。
子供の姿だからだろうか、それとも「今」が「昔」だからだろうか、菊はいつもより言動がくっきりしている気がする。手足が細いのはもともとだけど、昨日今日でちょっと焼けた肌はさらに贅肉がない感じ。走って、山に登って、川を泳いで。菊は生き生きと動いている。
そうか、このころはまだマンガとか読まないんだと独り言を言ったら、何言ってるんです、「左手にマガジン右手にジャーナル」の時代ですよサブカルは戦後日本のデフォルトですと言い切った。
子供の顔でそんなことを真面目に言うから、かわいくも、おかしい。
延々と続く緑色の田圃の向こうをセーラー服の高校生が自転車で走り抜けていく。ふくらはぎまでありそうなスカートに三つ編み。一幅の絵のようだ。
あの女子高生には昨日の夜も会った。バーベキューからの帰り途、「部活帰りなんです」とか言いながら手を振ってきた。「こんな夜道を!」と血相を変えた自称紳士の主張によって三人で彼女の家まで送り届けたが、菊は困ったように額をかき、彼女は「何を怒られたんだろう私は」という顔をしていた。
「・・・さっき言いかけた動画って言うのは、日本の高校生の昼休みなんだ。カメラがインタビューしながら教室の中を回って、食べているところを写すんだけど、みんなすごく礼儀正しくて、楽しそうで」
「まあ、高校時代って何より昼ご飯が楽しみですよね」
「それでね、視聴者の目が引きつけられたのは、みんなが食べてるお弁当なんだ。ちっちゃなボックスにたくさんの種類の食べ物が詰められてて、色とりどりで、とても美味しそうだった」
「ああ・・・」
「買ってきたパンを食べてた子もいたけど、友達がフルーツあげたりしてて、・・なんか、いいなぁって」
繰り返すけど、大人の姿に戻った後でなら「それでも」と続ける。それでも、自分の身の安全を自分で守る、そのためにある程度の警戒心を持つのは当然だし、無防備に夜道を歩いたりしちゃいけない。でも、すくなくともこの子たちは、コロンバインの高校生のようにいきなり散弾銃がうちこまれるなんて可能性をかけらも考えていないし、実際そうなる可能性は著しく低い。
日本の学校も楽しいばっかりではないのですけど・・・と菊は小さく言ったが、顔を上げてにこ、と笑った。
「体験してみたくなったんですか?」
「うん」
「じゃ、高校生にしとかないといけなかったですね」
「シチュエーション的にはそうなんだけどさ、それだと『俺』があんまり変わらなくて面白くないから」
どうせ幻想劇に飛び込むならおもいっきり変化を楽しみたい。この、何もつかめないほどの小さな指。いくら走ってもなかなか目的地に届かない短い足。だからこそ楽しめるワンダーランド。
そして、・・・・俺が会ったことのない、あどけない君。
「夏休みですから余計に『お弁当』はないんですけど・・・野菜を頂いたようですから、家についたら、夏の醍醐味、トマトの丸かじりでもしましょう」
「えー」
「トマトは体にいいんですよ」
何を思い出したのか菊はくすりと笑った。
「リコピンは髪にもいいですし」
「やさいだろ」
「ええ、でも取れたては本当においしいですから。それに、忘れてらっしゃるかもしれませんが」
「なんだい?」
「丸かじりっていうのは、つまり、何も手をかけないってことです」
「うん。それが?」
いま、手間暇かけたお弁当へのあこがれを表明したばっかりだと思うんだけど。
「本当に忘れてらっしゃるようですね・・・・ただいま戻りました」
玄関を開けると同時に奥に声をかける。
「おう、お帰り。おなかすいたろ、スコーンでも焼くか?」
いそいそと出てきたアーサーに、俺は間髪入れずに叫んだ。
「トマト丸かじりする!」
↑このアル菊をB様が絵にしてくださいました!
「アーサーがいてよかった、ってことだね」
「ええ、結果的に」
「不本意だなあ」
「こういうのも『怪我の功名』と言うんですかね」
「お、お前ら俺を挟んでひどい会話すんなばかぁ!」
そう言いながらもアーサーの顔はどこかゆるんだままである。今、彼の左手は菊に、右手はアルフレッドにつながれている。
昼寝から覚めたアルフレッドはかすかに聞こえてきた笛の音に反応した。
「なに、あれ?」
ゴザの凸凹が腕に移っているのを身をよじって見ていた菊はその声に振り返った。
「・・・ああ、お囃子ですね。鎮守様の祭りがあるんでしょう」
「イベントかい?」
目を輝かせたアルフレッドに菊は苦笑する。
「フェスティバルの類を期待されるとあてがはずれます。奉納の太鼓くらいしかパフォーマンスはなくて、…あとは、神社の境内に露店が並ぶくらいでしょう」
目をきらきらさせて身を乗り出してきたアルフレッドに菊は苦笑する。
「子どもだけでは行けませんよ」
「え?」
「この時代は学校教育が生活規範に強く影響してますからね、『夏休みのしおり』にダメって書いてあることは、したら目立つんです」
午後5時までには帰りましょう、校区外に出る時は制服で…菊は指折り数える。
「で、地域にもよるんですが、遊興施設とお祭りには保護者同伴でない、と……」
だんだん菊の声が小さくなったので、アルフレッドははっと気づいたように横を向いた。そこには、いつの間にやってきていたのか、アーサーのゆるみ顔があった。
「つ、連れて行ってやってもいいぞ?別にお前達のた」
「ほんとだよ」
うんざりと遮ったアルフレッドはため息をついた。
三人は衣装ダンスから発掘した甚平姿で神社に出向いた。途中まではアルフレッドが走るのを二人で追いかけるという構図だったのだが、参道の人波の前に三人は黙った。
この混雑にそのまま突っ込めば、はぐれることは間違いない。そして一方、この時代の大人からすれば頭一つ飛び出した、すなわち目印になりやすいアーサーがいる。
「し、仕方ないな!お前達、手をつないでやらなくもないぞ!べ、べつにおま」
「お願いします」
お約束の台詞を遮って、菊は頭を下げた。安全にはかえがたい。アルフレッドも盛大に顔を顰めていたが、最後にはアーサーに手を出した。
ヤジロベエのような構図で、三人は波の中に飛び込んだ。
アーサーはすれ違う浴衣姿の女性を見やって「へえ」などと呟いている。その呟きを聞き取ったのか、アルフレッドが鼻を鳴らす。
「…何見てんだよエロ大使」
「ばか、変なこと言うな。なんか、最近見たのと違うなと思っていただけだ」
菊はのんびりした調子で答えた。
「今となっては、浴衣はおしゃれ着ですからね。電車に乗ってイベントに行く時の服なんですから当然化粧もしますし、夜にも目立つような色鮮やかな髪飾りも付けますが、まだこの時代の浴衣は湯上がりにさっぱりと着るものですから。あとこの頃はペディキュアの文化が一般人にはないんですよね」
「なるほど」
これはアルフレッドが言った。アーサーには人の足まで見えない。アルフレッドには女性の髪まで見えない。いつまでも人の腰やら背中やらが目の前にそそり立つ。
「ねえ菊、息苦しい」
「そうでしょうそうでしょう。私が戦前今より更に低かった頃、皆様方に囲まれてどんな圧迫を感じていたか理解してくださればいいんです!」
ぎゅう、と手に力を込めた菊にアーサーが同情のまなざしを向ける。そして今度はアルフレッドに。何せ彼が育った地域は広々としている。幼い頃でさえ、こんな風に人の壁に視界が遮られる経験は乏しいに違いない。
「肩車してやろうか?」
「…いいよ、別に」
身長と人波のせいで互いの顔は見えない。何を思い出そうとも、それが伝わりもしない。子ども返りの件は別にしても、こんな機会は今しかない。三人は手を繋いだまま黙って参道を進んだ。
お面、ヨーヨー、ほおずき、ひよこ。少し道幅が広くなったせいか周りが見渡せるくらいには人まばらになったので、白人二人は興味深そうにテキ屋の数々を眺めた。
「あ、お小遣いは500円ですからね。買い物はその範囲で」
「えー!なんで?」
ホットドッグ屋に向かって駆け出そうとしていたアルフレッドはがくんと動きをとめた。
「『保護者』に言えばなんでも買ってくれるんじゃないの?」
「お、おう。買ってやるぞ?」
「いけません。時代の習いです。『バナナはおやつに入りますか』がフレーズとして通用するくらい、『お小遣いには上限あり』というのが戦後平等主義的価値観ですから」
完全に昔返りを楽しんでいる様子の菊は、ぴしっと指を立てる。何かスイッチが入っているらしい。
「でもたった500円って」
「この時代の500円ってなかなかの金額ですよ。蕎麦が1杯100円くらいの時代ですから。あ、あとこの時代のホットドッグは本場の方に納得していただける品質を保証できません」
「え、なにそれ」
「肉類が今より高価なんですよ。ですからソーセージは細いし牛肉100%というのはまずないです」
言いながら菊は目を泳がせる。せっつきにも関わらず牛肉については保護貿易を押し通していたからだ。
「ということで、私はリンゴ飴でも買いましょうかね」
逃げるように道の端に向かった菊を追いかけて、アーサーは袂から財布を出す。札入れに入った万札を見てアーサーは顔を顰めた。
「……ユキチじゃねえのか」
「ああ、旧紙幣ですね」
英国流議会主義を提唱していた福沢が万札の顔であることをアーサーは気に入っている。それを知っている菊はくすりと笑った。
「青い札ありませんか?この頃500円玉無いんです」
「あった…あ」
「どれどれ」
横からのぞき込んだアルフレッドはぽんと手を打った。
「トモミか!」
「来たなあ」
「来たねえ」
「若かったよな、菊も、周りも」
「アイスクリームを持って帰ろうと懐に入れたりしてたね」
「…あの、若干貴方方目立ってますよ」
周りの誰にとっても、その紙幣も、岩倉具視の肖像も「懐かしい」ものではないのだ。まして金髪の大人と子どもが500円札片手に昔を振り返っていたら何事かと思われる。そして何より、親戚の「おむつ変えてあげたのよ」的な恥ずかしい回想はやめてほしい。
奪うように――これは別にアーサーの手持ち金ではないのだから、いいのだ――受け取った五百円札でリンゴ飴を買う。アルフレッドは隣の店でブルーハワイのかき氷を買った。アーサーはいつの間に調達したのかビールの缶を持っている。
人の波は小高い神社まで、正確に言えば表の賽銭箱まで続いている。それを抜けて横手に回り、柵に腰掛けて眼下の明かりを見下ろしながらそれぞれの調達物を楽しんだ。
かき氷をばくばく食べていたアルフレッドは、途中できんと頭が痛くなってこめかみを押さえる。と、菊は「お約束です」と喜んだ。
「あのねえ…」
うめき声を聞いていないかのように菊ははしゃいだ様子でアルフレッドに言う。
「ね、ね、べーってしてください、べーって」
そう言って菊は舌を出す。真っ赤に染まった舌に驚きつつも言われたとおり舌を出すと、「真っ青!」と菊は嬉しそうに笑った。
「……そういえば何かのアニメでこういうシーン見た気がする」
「お約束ですからね!」
べーっ、と舌を見せ合う二人に、アーサーは口を押さえている。可愛い可愛いと言いすぎると気持ち悪がられることは学習済みなのだ。
缶を額に当てて熱を冷まし、アーサーは菊に向き直った。
「なあ、お前、その色は平気なのか?」
「え」
「あ!そうだぞ、俺のケーキは食べないくせに!」
二人に見つめられ菊は気まずそうに目をそらした。
「はあ……あの、すみません。かき氷とカクテルの色だけはその話の範囲外なんです」
「えー!ずるい!」
「そう言われましても…」
いいつのるアルフレッドを余所に、アーサーは「ふうん」と言った。
「この時代だから平気、なのかと思った」
「ああ、それは確かにありますけど。まだ『複合汚染』も出てない時期ですからね。家庭科の教科書で『野菜は台所用洗剤で洗いましょう』と教えていたくらいで」
「……それがどうした?」
「え?」
首を傾げたアーサーにおののいていると、アルフレッドが笑った。
「馬鹿だなあ、アーサー。野菜は全部工場で殺菌消毒してあるから洗わなくていいんだぞ!」
菊はかき氷を食べているでもないのにこめかみを押さえた。だめだ、やっぱりこの人達と食の世界では折り合えない。
「……『暮らしの手帖』という雑誌が、まあ今もあるんですけど、この頃絶大な人気で、熱心に食品添加物を取り上げるんですよね。この後20年くらいで食べ物への合成着色料使用が抑制されていくんです。この頃はウィンナーと言えば赤い時代、だからこそのたこさんウィンナーですからね」
「……前から思っていたけど、菊はデビルフィッシュを何か誤解しているよな」
「ね。たこさんウィンナーみたいな愛らしい生き物じゃないぞ、あれは」
「誤解してらっしゃるのは貴方がたですよ!海からとれるものは何でも食べられるんです…新鮮でさえあれば。アルフレッドさんところは国内でもフードマイルが長すぎるっていうのが、意見の噛み合わなさの一因だと思うんですよね」
アーサーとの噛み合わなさについては菊は触れない。
「採れたての野菜は美味しかったでしょう?」
「…うん。形はいびつだったけどね!」
「自家用ですから。この頃は農薬全盛期で、出荷用にはかなり散布しているんですよ。たいていの農家さんは、自分の家で食べる分は裏庭で別に育ててるんです。今の言葉で言えば無農薬で」
「え、…なんか、ずるくない?」
「ずるくないですよ、無農薬野菜の方が価値が出てくるのはもっとずっと後です。単に、自分の家で食べるものにお金をかけていられないから、化学肥料や農薬を使ってないというだけで」
「ふーん、じゃあ出荷用のトマトはもっと美味しいんだな。品種は同じなんだから」
アーサーが何気なくもらしたつぶやきに、菊はぱち、と瞬きをした。
「……アーサーさん、トマトってどうすると甘くなるか知ってます?」
「え?そりゃ…あれなんだろ、あいつみたいに『ふそそそー』って愛情込めて………引くなよ」
曰く言い難い顔をしていた菊は慌てて無表情に戻った。
「あ、すみません。実はですね、トマトの糖度っていうのは、ほぼイコール根から水分を吸い上げる力なんです。ですから、水分や養分が少ないほどその浸透圧が強まるので、条件の厳しい荒れた土地の方が甘くなるんです。ついでにいうと、ストレスにさらされるとその生き延びようという力がより働きますから、自衛隊の基地のそばなんかで作ってやると轟音のせいでかえって甘くなったりするんです」
「愛情をかけて育てればいいってわけでもないんだな」
アーサーが呟いたので、菊はまた目をぱちぱちとさせた。そして急に横を向く。容器に残った青い水をどうしようかと先の平たいストローでつついていたアルフレッドはその視線にびくりと顔をあげた。
「何?」
「アルフレッドさん、ちょっと怖い話していいですか」
「だめだよ」
「しますね、ちょっと昔考えたことがあるんですけど」
「続けるんなら、今日一緒に寝てもらうぞ」
「……それはさておき、考えたんですけどね、もしもの話、異星人が地球を侵略して」
「…うん」
なんだ、ホラーじゃなかった、と思ってアルフレッドは表情を明るくした。が、続く台詞にその顔は固まった。
「彼らが人間を食料とするとしたら、日本人とアメリカ人、どちらの方が好みなんんでしょうね」
「は?」
「地鶏とブロイラーみたいな?どちらの方が美味しいんでしょう。かみ応えと食べ応え?赤身と脂身?」
「ごめん、菊、怖がればいいのか怒ればいいのか分からないんだけど」
「そして、より美味しい食料を調達するために、彼らはどんな策を採るんだろうと思いましてね。ストレス太りってさっきのトマトと同じ話ですよね、だったらストレスをかけてくるのかもしれない、逆にストレスのない状態で飼って健康的な筋肉の歯ごたえを楽しむのかもしれない、でも食料なんだからジャンクフードで促成栽培するかもしれない……」
「………子どもの姿で淡々と言われると妙に怖いんだけど……」
こくこくとアーサーも頷く。
菊は(期待に応えて)にやあ、と笑って見せた後で、ふっと俯いた。
「…そんな風に、人間が『人間』ではないものになってしまったら、何らかの地理的まとまりがあったとしても、私達も『わたしたち』としては存在できないんでしょうね……」
「菊…」
一瞬降りた沈黙を吹き飛ばすようにアルフレッドは立ち上がった。
「そんなことにはさせないんだぞ!だって俺は」
”お約束の台詞は遮る”がこの空間のデフォルトになっていたせいで、しばし身構えるように間をとって、アルフレッドは言葉を続けた。
「ヒーローだからね!」
そのヒーローは今アーサーに負ぶわれている。その状況が実に不本意なようで、盛大に文句を言っていたが、やがて少しずつ静かになったかと思えば、いつの間にか背中に力を預けて寝息を立てていた。
「随分走り回りましたからね」
酷使に耐えかねて鼻緒の切れてしまったアルフレッドのサンダルをぽんぽんと手に打ち付けながら菊は笑った。
街灯の間隔は遠い。ほとんど見えない菊の顔に目線をやってアーサーは笑った。
「お前もだろう」
「ええ、私にしては」
「平気か?」
何せ「じいさんですから」が口癖で、超インドア生活を続けている、自他憚ることないオタクである。
「大丈夫ですよ、アルフレッドさんの10分の1も走っていませんから。それと分からないように手を抜くの、昔から得意なんです」
「そうは見えなかったな」
菊はアーサーを見上げてにっこりと笑った。
「近代は生存競争でしたから、手を抜く余裕もなかったですね。あの頃の私を食べたら、随分甘かっただろうと思います」
アーサーは一瞬足を止めた。
「あ、ああ……ああ。ストレスで、な」
そういう喩えはどうかと思うぞ…と再び歩き出したアーサーは口の中でもごもごと言った。
「でも、甘いトマトがいいと思うのも、形の揃った綺麗なトマトがいいと思うのも、時代の価値観ですよね。発色をよくしたウィンナーに文明の香りを感じた時期もありますし、今のように着色料は嫌悪しながら保存料は流通事情における必要悪と黙認することもあります。私たちは、その胸に抱く正義も含めて、変わり続けている……」
またアーサーは横に目を走らせたが、やはり菊の顔は見えなかった。
「……歌の文句に『悲しみが多いほど人に優しくできる』とありますが、度が過ぎなければそういうこともあるだろうと思います。もちろん、トマトは随分つらい思いをするんでしょうが、肥料をやらなくても、むしろやらない方が却って育つように、……生育環境と人格形成の関係も、単純じゃないんだと思いますよ」
「……菊」
アーサーは今度こそ足を止めた。
今背中に感じる確かな重み。この愛しい存在を、どうすれば失わずに済んだのか。それは永遠に答えの出ない問いである。どのように接したなら――もっと頻繁に行ってあげたなら、もっと自由を許してあげていたなら、もっと、もっと、もっと…………戻ることが出来ない季節だからこそ、「もっと」は膨らむ。だから、つい、ついてきてしまったのだ、この幻想劇に。
あの頃出来なかった「何か」ができないかと。
「私達は、今の私達であることを、自分で引き受けるしかないんだと思います」
少し遅れて立ち止まり、菊はしんと佇んでいる。
「…菊」
「はい」
腰を折り、アルフレッドを固定してから、自由になった片手で菊の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「ふ、わあ」
「ありがとな」
その結論を分かっていながら、ひとときの甘い夢を許してくれて。
「…………いえ」
乱れた髪を手櫛で整えながら、菊は少し赤い顔で俯いていた。
「……帰りましょうか」
「ああ。腹減ったしな」
「頂いたとうもろこしでも茹でましょう」
「なんだよ、おなかすいただろ?飯くらい作ってやるよ」
「いえいえ、とうもろこしはですね、刈り取って半日で甘みが抜けてしまうんです。すぐに食べないといけません!」
そうなのか、と呟きながらアルフレッドを揺すり上げたアーサーは、そのため、寝ている筈のアルフレッドが強く頷いたのに気がつくことはなかった。