菊は黙った。こんな生活をしていてはいけない、そうやって次から次へと男を変えて、自分を貶めるな。アーサーの強い口調に、菊は気圧されたようではあったが、全く納得がいかないようで、「おとしめる…?」などと呟いている。
「こういう生き方以外に、東洋の新興国が生き残る手段がありましょうか」
生きる為にはパンが必要なのだ、というくらいのなんでもなさで菊はその話題を終わらせようとし、思いあまったアーサーが「ならば」と求婚した、そのときのこと。
国は…誰のものにもならないものでしょう?
そんな顔をした。
お前のことがずっと好きだった、多分会った時からだ、だから同盟も結んだ。アーサーの告白に菊は困ったような顔のままで、なんとかこの場を受け流そうとしているのが丸わかりだ。なあ菊。頼ってくれれば、守ってやる。そんな…(妬心にアーサーは眉を顰めたが、それはまるで嫌悪を示すかのようだった)…色んな男に股を開く必要なんて、ない。
「あなたが、私を守ってくださるのですか」
「ああ、約束する」
「いつまで?……あなたのお気持ちが続く間ですか」
永遠にだ、そう答えようとしてさすがに躊躇う。国に”永遠”を誓えるケースはほとんどない。
「私は、複数の人に愛を売る代わりに、貴方の愛を買い続けることになるのですね。自分を守る爪さえ失って」
「…そんな言い方をするな」
「すみません。私はもう若くないので…貴方のような純真な言い方には少々面食らってしまうのです」
菊は誤魔化すようにそこにあったメモパッドの紙を一枚やぶり、手すさびのように折り始めた。瞬く間にそれは花の形をなしていく。
できあがったそれを俺の胸ポケットに入れて、菊は微笑った。
「『この花がしおれるころに、もう一度愛しているといってくれますか』」
菊は本当にその台詞で受け流せたと思っていたのだろうか。だとしたら甘すぎる。甘すぎるから、あんな残酷なふり方をした相手の家にのこのこと着いて来る。
オリガミの花は、椿だった。あの台詞はLa traviata―――椿姫のものだ。いや、ヴィオレッタはあんなにひどくない。彼女は、生花の「しおれる頃に」再会を約し、続けて愛の言葉を強請っただけだ。造花を渡しての菊の台詞は、改変のせいで、愛の言葉を永遠に封じている。ものを考えずにしたこととは思えない、つまり、菊はかなり機嫌を損ねていたのだ。だからこそ、俺の状態が見抜けなかった。
俺はあのとき、言葉の無力を思い知り、故に。
「変態…っ」
「なんとでも」
「犯罪ですよ」
「誰が俺を罰するって?俺の国の警察か?他の国家か?」
きり、と菊は口を噛む。『国際社会』など結局強国が作り上げるなあなあの体制に過ぎないことくらい分かっているのだ。
「服を…返してください」
はは、とアーサーは横を向いて笑った。邸宅の奥、主人以外は近づくことを禁じられているバラ専用の温室は、しかしガラス張りで、中の様子をうかがい知ることはできる。並んだ鉢程度では隠せない一糸まとわぬ姿を、このままではいずれ使用人に見られることになるだろう。このまま、頷かなければ。囚われの菊は施錠されたガラス扉を中からがんがんと叩き続ける。
「なあ、首を差し出せ。この首輪さえはめたら、お前は”自由”だ。服を着て、家に帰ればいい。今までのとは違って首飾り状にしたから、他の奴らには首輪だって分かりはしない。お前は独立国として生きればいい」
「いい加減にしてください。…ガラスの一枚くらい、簡単に割れます。貴方の大切にしている鉢をぶつけるだけで」
「そして抜け出したお前はその姿でロンドンの街に出るわけか。…それを、晒して?」
喉の奥から笑いがこみ上げる。開国直後に散々に言われたせいで、菊は自分の裸体に……それに対する欧米人の視線にひどく卑屈だ。絶対に、菊には出られない。温室の錠のせいではなく、羞恥という鍵のせいで。
言葉で縛れない心なら。権力で縛る。お前のそのプライドの高さで縛る。
「バラを体に巻きつけるか?――それもいいな」
無数の棘は白い菊の肌に刺さり、血を流させるだろう。隠したいはずの場所、傷つきやすい場所にこそ、俺の花の棘が食い込む。
「なあ菊―――何度でも言ってやる」
あいしてる。
鍵をちゃら、と鳴らして笑えば、菊の唾がガラス扉にかかった。 |