※ご注意
・フラ菊。R18(行動的にそうだということで、叙述はぬるいです)。
・サン=テグジュペリ『星の王子様』の話が出てきますが、多分、未読でも大丈夫です。
・付き合ってて両思いなんだけど求める形が食い違っている話。後味よくないです。
諸々、苦手な方はお戻り下さい。
「ああ…もう昼が近いですね」
「うん?」
フランシスは甘いまどろみを手放したくなくて、目を閉じたまま隣に手を伸ばした。指は指に迎えられ、顎は旋毛に迎えられる。うつむいて頬を頭に当てれば黒絹のような髪がフランシスをくすぐった。
あんなに汗まみれになって、そのまま倒れ込むように寝たのに、どうしてこんなに「さらりと」しているのだろう。頬でさすれば、菊は小さく笑ってつながれていない方の手をのばしてきた。
「もう朝ですって」
「んー?さっきだって朝だったじゃない?」
「あれはまだ暁です」
最上階だから、カーテンなどひかなくても誰にも見えない。そう言いはって、全面はりのガラス窓だけで世界を隔てて睦みあった。互いの不実を咎めるような、ただじゃれているようなワインまじりの会話からそのまま流れるようにベッドに入り、朝方、オレンジ色の光に目を覚ましてまた抱き合った。
丸一日ちょうだいね、と事前にお願いしているから菊のスケジュールは空いているはずだ。このまま服を着ずに一日過ごしたって誰に文句を言われるでもない。
それなのに、菊は小さな口づけを顎によこして、するりとベッドから降りた。
「シャワー、浴びてきます」
「一緒に入っていい?」
「…もう朝なんですってば」
肩越しに振り向いて苦笑をよこしてくる。
朝だというのがなぜ断る理由になるのか分からないが、スイッチが切り替わってしまっているのは見て取れる。今ビジネスの話を切りだしても何の困惑も見せず応答するに違いない。もう、昨日の夜も今朝も、彼の中には残っていない。
日仏翻訳は難しい。
最近はインターネットの無料サービスも随分性能があがっていて、日英/英日翻訳は以前ほど的外れな訳文を返すことはなくなったという。
しかし、仏文を投入し翻訳命令をかけて表示されるのは、「もはや言語ではない」レベルなのだと。逆もまたそうなのだから、言語の壁を感じず意志疎通できる存在であることをありがたく思わない日はない。
それでも、お互いにわかりあえないところはある。
昨夜のかけひきめいた会話の中で、ふと菊は言った。
「近年、古典的作品の新訳が出てブームになる、ということが相次いでいるのですけど―――」
『夜と霧』あたりが始まりでしたかねえ、と菊は独り言を言った。
「数年前、『星の王子様』……『Le Petit Prince』のことですけど、翻訳出版権が切れて新訳がどっと出ましてね。奇をてらったようなものもふくめて、十数種。その年あたりだけで百万部売れたようです」
「へえ」
菊のところと比べると紙の値段が高く、よって本の値段も高い。一気に複数の訳書が出て、そんな競合の中でも採算がとれる菊の出版業界が羨ましい。一九五三年の内藤濯訳だけでも既に六百万部、一国としては世界でも群を抜いた売り上げ部数だというのに。
そんなことを言うと、菊は、いやいや出版業界も今大変なんですよと返して、話を戻した。
「ずっとひっかかっていた単語について各書見てみたんですが…やっぱり皆さん言葉を探しあぐねている感じがしました」
「どこ?というか、なんて単語?」
「王子様が地球に降りてくるでしょう、そして狐と会う。王子様は故郷に残してきたバラが生け垣のたくさんのバラの一つにすぎないと知ってショックをうけている。それに対して狐がいう」
「『大切なものは、目には見えない』?」
「ああ…その前提となるくだりです。狐は、王子様のバラは世界に一つしかないものだといいます。王子様の星には彼女しかいないからではなく、王子様が虫を捕り風よけをたてたバラなのだから、と」
「うん。『君が君のバラのために失った時間こそが、君のバラをかけがえのないものにしているんだよ』」
「存在の唯一性というのは、ア・プリオリに与えられるものではなく、関係の中で見いだされていくものだ、という話ですね。
この話の相似形として、王子様とキツネの関係が描かれる。最後には別れを惜しむ関係になるけれども、最初は一緒に遊ぶこともできない。まだそこには関係性がないから。そこで、キツネは言います」
「『お願いだ、俺をapprivoiserしてくれよ』」
「はい。…それ、フランシスさんにとって、違和感ないですか?」
「うん?…うん、ない、けど?」
「狐は友人の、バラは恋人の…つまり人間関係のメタファでしょう。それでも?」
「うん」
王子様は自分の星の活火山のすすをはらい、バラのために風よけをつくる。椅子を引いて夕焼けを眺め続ける。
星を滅ぼす巨木の種が眠っていないかと地を掘り返す。
悪は、常に敵として現れるのではない。それは日常の中のすすに、そして地中に、違うものの顔をして潜んでいる―――飛行機乗りとして第二次大戦に散った作家は、そしてユダヤ人を親友にもったフランス人は、様々な隠喩を小説の中にちりばめている。
指摘された「アプリボワゼ」はその登場頻度の多さゆえに多くの研究書でも注目されている単語だが、特に「ひっかかり」を覚えたことはない。
「内藤氏はそれを『飼い慣らす』とか『なつく』と訳していたんです」
「うん。辞書的にもそうだね」
菊はじっと俺の目を見た。
「新訳でも『飼い慣らす』が一番多かったです。他にも、『なじみになる』。『育てる』。『なつかせる』。『手なずける』。『じぶんのものにする』…」
「うん…」
語義として、…いわば文化的感性として、そうだ。
動物というのは、もっと言ってしまえば、自然というのは、本来的に友達になれない存在なのだ。
大地が広い農場に姿を変える、それまでには多大なる時間と労力の投下が要る。
その手間をかけること、そうして、人のための豊かな緑の耕地を作り上げること、それこそが人と自然の絆なのだ。
人は一人で生まれてくる。人間という種も広いヨーロッパ平原に、爪も牙も持たずにやってきた。
ア・プリオリには人を支えない自然に、片思いのような「アプリボワゼ」、働きかけをして、人はむらを、そして国を作る。
菊の真っ黒い目が何を探ろうとしているのか見えなくて、俺は要領を得ない顔になった。
「貴方と、キツネ。貴方と、バラ。貴方と、わたし…」
呟くように言って、菊はその話を打ち切った。
遅い朝食をとるかわりに簡易キッチンでカフェオレを作り、大きめのミルクカップに入れて菊に渡した。
「美味しい?」
「そりゃあ、もう」
こういう会話には、裏の意味はないと思えるのに。
「貴方が、私に、いれてくれたんですから」
これはもう、深読みをしたくなる言葉になっている。
「…言ってくれれば毎日だって作るよ?」
「…」
カップを両手で持ったままじっと見上げる目に負けて、続ける。
「……というくらいの気持ちはあるよ」
「ありがとうございます」
お互い、立場というものがある。恋人関係だろうがなんだろうが毎日は会えない。ましてや地球の四分の一周分の距離はどうにも飛び越えられない。
そんなことは遠路はるばるやってきた菊にも自明のはずだ。だけど、この平坦な「ありがとうございます」には、そのままにしておけない響きがある。
俺はテーブルに肘をついた。
「……菊ちゃんがそれで絆されてくれるっていうんなら、プロジェクトFを発動してもいいんだけど」
「プロジェクト…フランスですか?」
「いや、『深草少将』。百日通ったら本気を認めてくれるって話じゃなかったっけ」
菊は吹き出した。笑いの揺れを避けるためだろう、カップをテーブルに置いて、菊は出てもいない涙を拭く真似をした。
「なに死亡フラグ立ててるんですか!」
「え、そういう話だったっけ」
「そうですよ。通い続けて百日目の晩、大雪に埋もれて凍死してしまう…いくつかバリエーションはありますが、成就できないという意味では伝説は共通です」
「えー?」
笑ってみせた後で、そっとテーブルに置かれた手に手を重ねる。
「それでもいいかな…というくらいの気持ちはあるよ」
百日も訪れを待った人、しかも自分との恋に殉じた人なら、忘れられまい。間違いなく「唯一」の人になれる。
「まあ、大雪くらいで俺は死なないしね」
菊はふっと笑った。
「百日の『アプリボワゼ』ですか」
「ん?……ん、そうかな」
菊は頷いて「出かけましょうか」とにっこり笑った。返事を間違えたのかもしれないという考えがちらりと頭を通り過ぎた。
男か女かということではない。男役かどうかというのも関係がない。誰とであっても、「受け身の恋」というのをしたことがない。
恋愛とは常に「働きかけ」をするもので、たとえ同じ思いが返されなくても、たとえ明日には別の人に同じ言葉を囁いているとしても、今は真剣に相手に心を伝える。
欧米文化には慣れません、と、その言葉を受け止めてくれない菊との恋愛は、だからいつも、細心の注意を払っている。
贈りたいから贈っていると言っても受け取ってもらえないプレゼント(やっと最近、お互いの服を選び合うという形でその件は落ち着いた)。料理を作ってやれば必ず「今度は私が」と招待される。それはなんだか、菊の中をゼロにし続けるための絶え間ない引算のようだ。どれだけ甘い時間を過ごしても、どれだけ濃密な夜を共にしても、朝になれば菊は「さらりと」それを流してしまう。
自然ってそういうものでしょう、とかつて菊は言った。…万物流転、地上のものはすべて儚い。
そのすべての中にこの愛さえ含めて、そんな風に言い切る人との恋愛は、まさに全てが霧の中だ。
(王子様は聞く)「『はかない』ってなんのこと?」
(学者は答える)「いつか消えてなくなるってことだよ」
センスがいい人との買い物は楽しい(これでいつもは変な色のジャージというのが分からない)。趣味の一部を共有できるから、どんな店に入ってもあれこれと会話が弾む。そして、味が分かる人との食事も文句なしに楽しい。
当然、今回の逢瀬のためには下調べをして、レストランの得意メニューも舌で確かめた。
水鳥の足さばきではないけれども、こういう努力は当人に見せるものじゃない。だから何でもないような顔をして菊をエスコートし、夜を演出する。菊は何か言いたそうな顔で、だけど何も言わず、ただ微笑みを見せる。
菊は、「デートのエスコート」では魔法にかかってくれない。いつもさらりと平静を保つ。
ホテルに戻り、用意させていたワインを開けようとオープナーを手に取っていたら、菊はするりと窓に向かって歩みを進めた。
「どうした?」
「いえ…」
窓の外を見、そしてちらりとベッドサイドの時計を見ている。
二人だけの時間はあと半日。
また、「フランシスと菊」ではなく「フランスと日本」として顔を合わせる日々に戻る。数ヶ月に一度だけ裸で抱き合い、その後は「One of them」として向き合う。そんな形でしか恋人になれなかった。
だからこそ、その戻った日常の中に痕跡を残したいのに。
注いでも注いでも流れ出してしまう体液のように、菊の体は、いつも、さらりと。
オープナーをテーブルに起き、菊のもとに歩み寄る。菊、と呼べば、細い身体が半分だけこちらを見る。
「風も月も夜もお前さんの恋人ほど優しく抱きしめてはくれないだろう?」
菊は、また「フランス人の愛の台詞」が始まった、とばかりに苦笑いして背を向けた。大きな一枚ガラスの外、天然の闇と人工の光を見下ろす、その表情は見えない。
俺は芝居めかし、後ろから手を回して菊の胸を抱いた。
「毎日の抱擁は全て、お前さんに一晩で贈るためにとってあるよ」
菊が気づいているかどうかは知らないが、これは妻コンスエロがサン=テグジュペリに出した手紙のもじりだ。
すれ違い、別れと再会を繰り返し、王子様と花の関係に大きく影響した彼の生涯の恋人。
「『はかない』ってなんのこと?」
「いつか消えてなくなるってことだよ」
そんなことには「させ」ない。緑の農地は永遠に実りをもたらす。そう「させ」続ける。
シャツの裾から右手を差し入れれば菊はぴくりと身をすくませる。わざと同じ手順で抱くことを繰り返した。「俺とのセックス」を完全に覚えてしまうように。次を予測して期待さえしてくれるように。狙い通り、菊は指が近づくだけで胸をとがらせる。それを撫で、つまみ、軽く引っぱるともう、下肢がもぞりと動く。
左手を当ててやればまだ少し柔らかいその膨らみはどくりと脈をうつ。
「服、濡れちゃうね」
菊は小さくにらんだ。既に下着が湿っているらしい。
「誰のせいですか」
「菊ちゃんでしょう。この手を誘うんだもん」
両手をともにきゅっと握り込めば菊は「あ」と声を上げた。その声の高さが恥ずかしかったらしく、手で口を塞ぎ、身をよじってこちらを見る。
「言って?」
「何をですか」
「してほしいこと」
「言葉攻めですか」
プレイなんかじゃない。ただ、求めて欲しい。流されて応えるのではなく、誘い込んでほしい。
「ねえ」
菊はしばらく口を結んでいたが、手の動きに負けたように、囁いた。
「―――『抱い、て』」
「よくできました」
そのまま横抱きにかかえて、ベッドに押し倒す。
できるだけスマートに、覚えているだろう手順通りに服を脱がし、期待に満ちている興奮に唇を寄せる。
マンネリに陥ってはつまらないから、少しずつ違うやり方も取り込んでいる。氷を含んだ口で吸い上げたり、氷の欠片を菊の胸の上で滑らせたり。菊はほとんど苦しそうな顔で強い反応を返す。
「ねえ、本当に、どこでそんなこと覚えてくるんです?」
「んー?秘密」
水鳥の足さばきは、見せるものではないのだ。
奥に指を差し込めばまるで交合のための器官であるかのように柔らかく包み込んでくる。動かしにくいほどのそれにさらに指を押し込んで、ばらばらに動かす。
「……も…う」
手の甲を噛んで声を殺し、菊は興奮を内に籠もらせる。
きて、と、言って欲しい。言ってくれるなら、いく、つもりは、ある。毎日だろうが、その先に大雪が待っていようが。
こんな形での付き合いでなくても、俺の方は構わないのだ。もっとべったべたに甘やかしてやりたい。それを受け入れてさえくれるのなら。
―――私は、貴方と線対称のように重なりたいのです。
一度菊が真剣な顔でそう言ったことがあった。ぴったりと、隙間無く。そういう意味だと理解して常より濃密な愛撫を施したが、翌朝の菊は文法の崩れた翻訳を見るような顔をしていた。
「いれるよ」
頷いて、菊は目をつむった。
「……あ……っ……」
吸い付くような胎内に少しずつ楔を打ち込んでいく。この状態、このつながった状態を菊の心に刻み込みたい。
「ねえ」
あまりの気持ちよさにもっていかれそうになるのをこらえながら、できるだけ平然とした声で、尋ねる。
「な、んですか」
「俺のカタチ、覚えた?」
「………」
「もうこれでしかイケない、ってくらい、覚えてくれた?」
「………」
菊はわずかに目をそらした。
「ええ、―――アプリボワゼされました」