※ご注意
・サディク菊。R18。
・タイトル通り、甘くて苦い話。後味よくないです。
諸々、苦手な方はお戻り下さい。
仮面を取りたい朝がある。
例えばこんな―――障子を透かして陽光が室内に入り込み、背中を見せて眠る人の産毛を白く光らせる時。
夏にむしろ瑞々しいこの人の肌の、年齢を感じさせない滑らかさ。体側のなだらかな曲線。くっきりと存在を示す肩胛骨。その上にすらりとのびる首、髪の毛のわずかに散った項。
視界を覆う全てを取り払って、ただひたすらに、このうつくしいひとを見ていたいと思う。
所有印―――などというおこがましいものではない。ただ、どうしても口を寄せずにはいられなかった肌に昂ぶった感情が遺したいくつかの内出血は、既に朝の光の中に消えようとしている。原状回復能力は国の特性。そうであってくれなくては困るのに、確かだった夜が儚く消え失せる気がして、そこに指を乗せた。
*
おとこのひとのゆび、ですね。自分も明確に男性形をしているくせに彼はそんな言い方をして、俺の指を手に取った。
長く生きてきた。広い領土を有した時期もあるから、体格はいい。手と手を合わせれば大人と子どもくらいの違いはある。
握りこめばすっぽりと包み隠せるほどの……女性のそれとは確かに異なる、しかし、細く美しい指。
…俺はそのすんなりとしたお前さんの指が好きなんだが。
長めの爪に口づけながら言えば、菊は微苦笑をしながらその指の向きを変えて、指腹で唇をなぞってくる。
草食系、なんて言いましてね。今の国民の皆様の好みは「中性的」なんです。性ホルモン過多じゃない男性が好まれる。
―――その反動なんだと思うんですけど。
菊は薄く口を開いて俺の指を前歯で噛んだ。
貴方を前にすると、貴方の匂いをかいだだけで、脳髄が痺れてしまうのです。すごく………、
菊は見上げた目線のまま目を細めて、囁いた。
したくなる。
れろ、と噛んだままの指を舐めあげて、彼は笑った。
数ヶ月ぶりの恋人との夜は、昨日、そんな風に幕を開けた。
*
昨夜の淫蕩さを闇に連れ去らせたかのように、静かに眠るこの人はただただ清浄で美しい。所有―――そんなことは願わない。ただ、見つめていたいと思う。
この華奢な体は、小さな手は、「世界がアジアを見る眼」を変えさせた。たった一人で。
そっと置いたつもりだった指は、それでもやはりわずかな触感を呼び起こしたらしい。ん…という言葉と小さな身じろぎとのあと、菊はあの真っ黒い瞳をレースのような睫の隙間からのぞかせた。
「サディクさん…」
身をよじって、先ほどやっと開いた瞳を閉じる。
求められるまま口づけを返す。触れるだけ、でもすぐに離しはしない。腕の檻に封じ込めれば脇腹に手が回ってくる。目を閉じて、角度を変えて、ことりのようなキスを繰り返した。
そうして、仮面を付ける朝を迎えた。
*
日土関係は、決して悪くはない。けれども、その関係がもつプライオリティは、互いに他のものに劣る。俺は地中海の、菊は太平洋の隣人へのアプローチがどうしても多くなる。それでも、何か公的なつながりを持ちたい。その気持ちが、エルトゥールル号事件百二十年にことよせての、「トルコにおける日本年」となった。今回の来日はその打ち合わせのためである。
計画は順調に進んでいる。公募していたロゴも決まった。2010年、二つの0を互いの国旗に模したそのデザインはなかなかいい。菊が「お天道様」と仰ぐ太陽と、イスラムの民を慈しむ三日月と星。これは、「国」としての俺たちの友好関係だけではなく、宗教の違いを超えて、それでも互いの『たいせつなもの』、『たいせつにしてきたもの』を尊重しあうという意志を表している。
利害関係を受けての友好国なら、お互いにたくさんある。逆に因縁のある国も、軋轢の絶えない国も。
けれども、日土関係は戦略や打算に依らず、ただ純粋な好意のみによって成り立つ希有な友好関係である―――とは菊の上司達の弁だ。
私たち両国民は、互いの国民のことを誇りに思える、そういう歴史を共有しているのです。
こうした説明文、キャッチコピー、各種パンフレット…。双方が頷ける表現を探して会議は続けられる。今回は菊側にモチベーションがあるので、資料や説明も任せている。日本の魅力を知ってもらうためには、今までのような伝統文化紹介だけではなく、音楽・美術・服飾などの若者文化の今をも伝えていきたい。在土日本企業や友好協会の活動も紹介します。そうしてトルコに新しい友人を作りたいと考えています…。
官僚の説明を、菊は目を閉じて聞いていた。
何か意見はと問われ、俺も菊も首を横に振り、こうして全員の了承を得た計画は段階を一つ進めた。
こうまでして望まれる友好関係なのだから、日程終了後、俺が菊と連れだって会議室を去っても誰にも文句は言われない。かつてはそうではなかった。くっきりと、それは、片思いだった。明治維新を近代化の範とし、明治天皇の写真を大統領執務室に飾り、戦後も一貫して親日を表明してきた。
その菊は、エルトゥールル号事件のことを忘れていた。
*
仮面を、外してもいい筈の、夜が来る。
俺の後に湯を使い、多少の準備を済ませてきた菊は、白い単衣に身を包み、布団の上にあぐらをかいていた俺の隣に擦り寄ってきた。
ことんと頭を寄せて、二の腕に頬をつける。
「なんでぃ」
「……なにって」
拗ねたように菊は言う。
「分かっていらっしゃるくせに」
「なにを」
つつ、と菊の指が胸腺をたどる。
「貴方のフェロモンに溶かされてることを、です」
「へぇ」
顎を掴んで唇を寄せる。布一枚ほどの距離で止めて、囁く。
「とろっとろに溶けっちまえ」
言うや、唇を舐めてそのまま舌を歯列に割り入れる。軟体動物のような菊のそれを捕まえ、引きずり出し、絡め、巻き取る。
息が苦しくなるまで貪って、解放すると、とろりと潤んだ菊の瞳がこちらを向く。
「昨日の今日で、辛くはねぇかい」
袷に手を差し込めば菊はふ、ぅ、ん、と鳴いた。
「……今日は、意地悪を仰いますね」
「どこがでぇ。お前ぇさんを気遣ってるんじゃねぇか」
左胸の突起に指が届く。既に固いその蕾を、なぞるように指を蠢かせれば、ああ、と菊は上ずった声を出した。
「痛かぁねぇか、こんなに腫れっちまって」
「痛いです」
じゃあやめるか?と顔を見れば赤く染まった顔で菊は言った。
「……やさしく、してください」
たまらず、帯を引き抜き、菊の白い胸を夜気に晒した。赤く尖った乳首が興奮を露わにしている。舌を細く尖らせて近づければ、ほとんど音にならない声で菊はあ、と声を漏らした。接する、その寸前でとめて、目を見上げる。
「どしたぃ」
「あ、ん」
焦らされて菊は小さく身をよじった。恥ずかしそうな表情にぴんと来て、手を下へすべらせる。果たして、浴衣の前はじんわりと染みを作っていた。
「まだ何にもしてねぇぜ」
「わかってます…っ」
布ごと昂ぶりを包んでやれば、過敏になっている菊はその瞬間どくりと重量を増した。薄い布をラップのようにしてみっちりとそれを包めば、淡い常夜灯の下にもそのフォルムは明らかになる。
「きれぇな形だ」
「な、にを…」
恥ずかしそうに菊は顔を背けた。通常時は子どものようなそれに多少のコンプレックスがあるらしい。そんなところも可愛らしいなんて気持ちは胸にしまっておく。
菊の形を口腔で形作るように、浴衣ごとすっぽりと口に含んだ。
「あんっ……!」
いきなりの刺激に菊は仰け反った。喉の奥を開き、吸い込むようにしてぴったりと舌をくっつければ、その圧力に負けたように、先端からじわりと蜜がにじみ出た。甘い。いつもならそれを言葉にするが今はこのまま吸い続けていたい。吸い込みをやめ、舌でちゅくちゅくと布越しの水たまりをつつけば、腰をうねらせて菊は悶えた。
「あ、も、もう、……あ、あ」
上ずった声が可愛らしく、思わずそれから口を外して菊の顎に戻る。手はしっかりと根元を握ったまま。
「まだ直接は、触ってもいねぇぜ」
目をのぞき込んでやれば、菊は真っ赤になって横を向いていたが、やがて横目でちろりと睨んだ。
「いじわる」
思わず握る手に力がこもり、更に睨まれることとなってしまった。
「もういいです」
「あん?」
「その気に、させます」
いや、十分その気なんだが。服の妨碍をかいくぐって菊の手が辿り着いた先の堅さがそれを証明している。ふふ、そんな笑みを浮かべて、菊は親指の脇でそれをなぞりあげた。矢印の先のような括れに辿り着いて、菊の指はそこを強く押した。
「…っ」
「ふふ」
数ヶ月ぶりの逢瀬で、互いには飢えている。昨日散々貪り合ったとはいえ、まだまだ足りない。体力さえ許すなら何度でも上り詰めたいところだが、流石にお互いの年齢を思えば無茶はできない。一度で目もくらむほどの絶頂を迎えるため、ぎりぎりまで抑制する。だから、意地悪も何もないのだ。簡単にはいかせてやれない。
根本は抑えたまま、もう一方の手で菊の動きをなぞる。括れをなぞり、先端に爪の先を差し入れ、先走りを亀頭にのばす。緩急をつけてしぼりあげる。
菊のしていることは、菊がされたいことだ。同じ性の形をとるから、ごまかしがきかない。欲望の形をあからさまにして、俺たちは互いを追い詰めた。
「た…まりません…」
はあ、と菊は大きな息を吐き、太ももの上に乗り上げてきた。剥き出しの感覚器官をそのままこすり合わせてくる。腕を回して身体を支えれば、腰を器用に動かして逃げる俺のそれを追い、互いの感じるところをすりあわせる。
「あ、あんっ!あ……ん、感じる…っ」
「ん……」
たまらず息をつく。快楽を追いかける人を、それを共にしようとする人を、愛しく思わない男などいない。
「菊」
呼べば、情欲に満ちた目で切なさそうにこちらを見上げる。
「好きだ」
「ええ、私も」
長い口づけを交わし、改めて菊は言った。
「愛しています」
そして両手で二本をひとまとめに握り、菊は目を閉じてもう一度口づけた。
絡まる舌の動きに気をそらさせながら、尻に回していた手をすべらせ、秘された場所に届かせる。
「あ、っ、ん」
本来はそこに性感帯などないはずの蕾は、しかし撫でられただけで菊をふるわせる。ローションなどいらないほど菊の浴衣は濡れそぼっているが、潤滑のためだけではないそれを掌にとり、ひとしずくだけはそのまま指であてて菊のぴくんという反応を楽しむ。
「…も、う……サディクさん、たら……!」
菊の切れ長の目は人を睨むとき実に美しい。「希有な友好関係」を続けてきて本気で敵対したことがないから言えることかもしれないが、目の縁が赤く滲んでとても色気がある。
人肌に暖められたそれで慎重に蕾をほぐすと、やはり昨日酷使しすぎたそこは若干熱を持っていた。あまり無理はさせられない。
「菊。壁と床、どっちがいい」
しがみつく先を聞けば。
「貴方がいいです」
甘い返事がかえる。
「この腕で支えっから」
裏切りなどしない。離れたりもしない。いつも見ている。だから、安心していい。疑わなくていい。
そんな気持ちを言葉に託して、菊をひっくり返し、四つん這いにさせた。
ああ、やっと。
剥き出しにされたすぼまりに奔流の先をあてながら、思った。
ああ、やっと。
このひとの全てを、何にも覆われず見ることができる。
俺は仮面を外し、腰を突き入れた。
*
初めて身体をつなげた夜、もうそれは数十年も前のことだが、そのあと、菊の手をとり、跪いて、あの難破船救出の礼を述べた。
……そのようなこと、ありましたでしょうか。
謙遜というのではなく、真剣な顔で記憶を探った菊。
すみません、うっすらと記憶があるようなのですが、公の歴史書にはほとんど書かれていないようです。
惚れ直さずにはいられなかった。
菊にとってそれは、「特に記憶し顕彰するまでもない」「あたりまえのこと」だったのだ。そういう人だったのだ。
あらゆる言葉を使って賛辞を述べる俺に、菊は顔を赤くして、やめて下さい、そんな風に言われるほどのものではありません、と言った。
*
あれから、何十年もの年が経った。
いつから菊は、閨の中でも仮面をとらないよう要求するようになったろう。
お天道様にも月にも見せられない獣のような睦み合いは、だから常夜灯のオレンジ色の中で繰り広げられる。そんな中で見る恋人の目はただただ美しいものだった、はずだ。
身体の相性は間違いなくよくて、お互いに快楽の極みを追求できる。誤解をしている人も多いが、「身体だけ」の関係などあり得ない。快楽とは二者の関係性に緊張があれば堪能できないものなのだから。菊は俺に、身体だけでなく心も許しているのだ。
自惚れとの誹りを覚悟して言うなら、愛されている自信がある。
それなのに、菊は、目を見せてくれるなという。
貴方の目が怖い。そして、貴方の眼を見る私の心が怖いのです。
貴方が私を愛していることを疑うのではないのです。
でも、貴方が愛しているのは、……貴方の脳裏にある私であって、実体の私ではない、のではないかと。
そして同時に。
貴方を見ているつもりなのに、貴方を愛しているつもりなのに、―――私は、貴方の瞳に写る私に、「愛している」と言っている気がしてしまうのです。
何を水晶体に写しているかの証明はできても、何を「みて」いるのかの証明はできない。何を「愛して」いるのかも。
反論のしようもなくその証明もできず、ただ違うと言うしかない。
菊の方は、そうではないと言うことが論理的には可能かもしれない。純粋な好意なのだと、そこに評価や賞揚を求める打算などない―――ナショナル・プライドの問題ではないのだと。
しかし、俺の方は、何を言っても信用に結びつかない。脳裏に恋する人の像を持たない者などいない。それを多少なりとも美化しない者も。
だからといってリアルの菊を見ていないとはならない筈なのに。
賛辞を送れば送るほど、菊は嬉しそうな、同時に悲しそうな目をする。
「ただ純粋な好意のみによって」。……そう言うエリートさんたちの本音は知らねぇが。あの事件がこの国で語られるようになったのがいつなのかとか、誰がどんな文脈で言い出したかとか。その前後に菊は国際社会で何を目指しどう批判されていたのかとか。理詰めで考えれば菊に反駁しきるのは難しいが、だけど言い切ってやる、そんなもんじゃねぇ。
お前ぇさんたちの思惑なんかより遙かに長いタイムスパンで俺はこの人を見つめている。見つめ合うことがなくなっても、見つめられなくても、俺は見る。「ただ純粋な好意のみによって」。
好きだ
ええ、私も、愛してます
こんなやりとりをお約束のようにくり返しながら、だけど俺たちは―――既に互いの目線を恐れている。
夜気への震えのような身じろぎに気づいて、髪をすいていた指をとめる。
「サディクさん……」
菊はまだ半分夢の中にいるらしい。
剥き出しの顔を仮面で覆う代わりに、常夜灯のか細い光を消して、眼を見ずに唇を合わせた。