仲良し指数80くらいのアル→菊。
「そんな時は引き算です」
「へ?」
間抜けな声を出してしまったが、だれだって許してくれると思う。
好きだ好きだとくり返しチャンスさえあればアプローチしている男にのしかかられている時に「引き算」なんて単語を出す人なんていない。人じゃないけど。
「菊はあれで〜だ」なんて言葉を他国の口から聞くと、続きを聞きたいような聞きたくないようないっそ口にハンバーガー突っ込んでやりたいような気持ちにさせられる。菊について俺が事実誤認をしている可能性があるわけだから、情報は漏らしたくない。一方で、世界で一番近くにいるはずの俺が知らないことをなんで知ってるんだよ!とわめきたくなる。
アーサーは、絶対、それを分かってやってる。そんな台詞のあとは必ずこちらをちらっと見て笑いをこらえてるんだから。一度だけ、本気で頭に来て、胸ぐらつかんで最低音域で「…牽制じゃないよね?」とだけ聞いたら、すっごい間抜けな顔で「は?なんの?」と言った。てことは、あれは純粋に俺をからかっているだけだ。
まあ、アーサーと菊を取り合うようなことにならなくてよかった。重要同盟国相手に本気バトルなんてすべきじゃない。しかしこれに関してだけはそんな理屈で感情が抑えられず、期待通りの反応をしてしまう。
「……………で、菊が、何だって?」
「聞きたいかぁ?」
随分平気になったと言って、アーサーも最近は、インディペンデンスデイのパーティに顔を出してくれるようになった。だから、昔は「捨てられてもいいや」で郵送していた招待状も会ったついでに渡すことが増えた。「…ん」と頷いて受け取って、何気なく話を変えて、……そのタイミングで言いやがったことだから、多少は嫌がらせの気分もあったのかもしれない。
「菊は、いつもかっちり着込んでいる人の普段着、とか、その逆とかに弱いよな」
「なんだい、それくらい知ってるよ。ぎゃっぷもえ、って言うんだろ」
「専門用語を使うな」
「いや、俺の用語じゃないって」
「…ついでにいうと、菊んちでスーツと言えば断然俺んちだ」
「それも知ってるって」
腹立たしいことに。これがまた実際かっこいいから余計に腹が立つ。その腹立ちを増そうとでもいうのか、アーサーがこれ見よがしなため息をついた。
「あーあ。お前も少しは頭を使えよ。なんで『それ』と『これ』を結びつけないんだ」
「は?」
「プレゼント代わりに仕立ててやろうと思ったんだけどなー、パーティーの主役にふさわしい三揃い」
「え!」
目を丸くした俺に、によ、と笑みを寄越した。
「『いつもはTシャツのあのひとがまあすてききゅんっ』ってやつだ」
………感謝の気持ちがふっとぶ台詞だ。
「気持ち悪いよ」
「要らないのか?」
「ありがとう!」
「渡す前に言うな、ばかぁ!」
そんな風な頭の悪いやりとりをして、無事送られてきた三揃えに袖を通し(少しだけ腹回りがきつく感じたがこれは俺の問題じゃない、アーサーの嫌がらせの一環だ、そう信じる)、クロス・タイなんてつけた。
花火と共に始まったパーティにその格好で乗り込むと、別に萌えを感じているでもないんだろうけど、口笛や指笛が飛んでくる。ありがとう、進軍ラッパのように聞こえるよ。
で、目的の菊のところで「やあ、来てくれてありがとう!」って手を出した。
……菊の表情が変わらなかったくらいで凹みはしない。付き合いは長い、菊の無表情には慣れてる。
でも、この平静さはちょっと怪しい。驚いたり怒ったりで感情が激しそうになったとき、菊は不自然な沈黙をすることがある。そっちに似てる。
「どう?」
「……お似合いです、とても」
「びっくりした?」
「ええ」
全然驚いても居ないような平然とした顔で頷く。
「実はね、アーサーがくれたんだ」
「なんと」
菊はふわっと笑った。
「素敵ですね」
「…うん、ありがとう」
相変わらず、一つの言葉にたくさんの意味を詰め込む人だ。
ああ、しかし、失敗した。今菊の思考は俺とアーサーの間の今日をめぐるあれこれに流れた。こういうことを「考え」出したら、ますます菊の「感情」は落ち着いてしまう。もしかしたら、そのギャップ萌えってやつを感じてくれていたかもしれないのに。
「ちょっと、窮屈なんだよね。着慣れないから」
「それはまあ、着慣れたものが一番でしょうけど…」
かくいう菊は、白地に格子模様の入ったオヂヤチヂミとかいうキモノで、正装感があってしかも涼しそうだ。確かに、俺のスーツとは違って肌に馴染んでいるという気がする。
「でも、……懐かしいですね、初めてお会いした頃を思い出します」
「ああ…うん」
そういえば、あの頃はまだ俺も「ちゃんとした席では三揃え」というのが当たり前だった。今頃になって恫喝外交なんてちくちく嫌みを言われる開国要求も、きちんとした格好で行った気がする。
「そしてこのタイ。こっくりさんを教えて下さった時もしてらっしゃいましたよね」
「コックリ?」
「テーブル・ターニングです」
「ああ!…よく憶えてるね!」
菊はちょっと黙って、ふふ、と笑った。あ、大脳皮質(知性領域)から大脳辺縁系(情動領域)に血流中心部分が動いた感じだ。もちろん何かを思い出し、考えてもいるんだろうけど、それよりにじみ出る感情の方が菊の中心を占めている。
ていうか俺の方はもうさっきからこの薄く染まった頬にキスしたくて仕方ないんだけど。
でも俺が主役のパーティで、いつもの告白大会(=はぐらかされ大会)をやるわけにもいかない。精一杯真面目な顔を作って「…パーティの後も残っててね」と言えば、菊はこくんと頷いた。
そして、冒頭に戻る。
今日は来てくれてありがとう片付けはいいから!(帰って!)と招待客たちを送り出したあと、素直にソファーで待っていてくれた菊の隣に腰を下ろして、「菊」と囁き(「菊はあれで、低音に弱い」とはフランシスの弁だ)、そっと右肩と左手首とを手で押さえて顔を寄せたら、―――「そんな時は引き算です」と菊は宣うたのだ。
「100引く7は?」
「…93?」
「引く7は」
「えっと、86」
「引く7は」
ほとんど顔の上に乗り上げていた体が自然に戻ってしまう。脱力した手の下からするりと菊の手首は抜け出していく。
「あの………何の刑罰?」
「……頭冷えたでしょう?…と言いたかったんですけど……なんでそんなに膨れてらっしゃるんです」
膨れてるというか。専門用語でいうところの”萎え”だ。
「引き算は苦手なんだよ…」
「ええ?」
「君が下がった下がったって言ってそれでも10位の数学リテラシーなんて、35位だよ…」
「PISAは15歳だけの抜き出し調査するので『あなた』の数学リテラシーは示さないと思いますが…そういえば、初めてこちらにお伺いした時に、例えば1ドル77セントのものを買って、2ドル札と1セントコインを2枚置いたらコインは突き返されてびっくりしました」
「実際、要らないじゃないか」
今はレジスターが計算するから多いなと思ってもそのまま受け取るだろうけど、伝統的にうちでは足し算でお釣りを返す。商品の代金1ドル77セントに、受け取った2ドルになるまでお釣り分を足していくのだ。
「でも、2ドル2セント出したらお釣りが25セントコイン1個で済むじゃないですか。そのままだと10セントコイン2枚と1セントコイン3枚ですよ」
「…だから?」
菊は「ええええええ」と、顔で示した。
「…この喜びを分かっていただけないですか」
財布は重くならずに済むんだろうと思うけど、それだけだ。貯まったコインはときどきレジ脇の募金箱にざらっと入れてしまうから問題ない。
「それで、何の話なんだっけ」
すっかり「迫る」どころではなくなってしまった。どこまでが計算なんだこのひと。
「そのままですよ、引き算をすると、頭が冷静になるというお話です。例えば、貴方が”若気の至り”なことをなさったとしても、自分の年から貴方の年を引けば『あーまーねー』でお茶でもすすっていられるってことです」
「俺、今日、なんか無茶したかい?」
「いえ?」
にこり、菊は笑って「そういえば」と言った。
「この服、先に申しましたように伝統工芸品なんですけどね、作り手が若い方で、独創的な試みをされてるんです。この柄、エーレンシュタイン図形なんですよ。格子と格子の隙間、円に見えるでしょう」
何がそういえばなんだ、と思いつつ、話にのって、肩の辺りをよく見る。縦の破線と横の破線が交わって格子をつくっている。よく見れば線が交差するのは一つおきで、空間同士が合わさったところは実際はそうじゃないのに円に―――
「見えないよ」
「え」
たもとをとって目に近づけている。そこに、指をつきつけて。
「ほら、ここに円があるように、」
「見えない」
へえ。菊は声に出さずに呟いた。
「いえ、時々いらっしゃるんですよね、錯視がきかない方って。え、もしかしてミュラー・リヤー錯視……両向き矢印とその『<』が逆向きになった形の線分の長さが違って見えるっていうあれも、ですか」
「あれは流石に違って見えるかなあ。でも有名どころでも言われたように感じないの多いよ」
「そうなんですか…」
菊はちょっと当てが外れたような顔をしている。
まさかとは思うけど、「貴方の惚れたはれたは錯覚です、前頭葉に血を送って頭を冷やしなさい」とかそういう話だったんだろうか。頬を膨らませかけた俺に、菊はにこりと笑った。
「…そういう風に、世界をまっすぐみてらっしゃるんですね」
一度こくんと頷いて、「でも」と悪戯っぽい顔で続けた。
「もしかして、視覚野で起きない錯覚ならお感じになるかもしれません」
大脳辺縁系のこと?この気持ちは錯覚じゃないって。
「感じないよ。ちゃんと分かってる、考えてる」
「論理的思考をお持ちであっても、起こる錯覚はあるでしょう」
「でも違うって」
「それならちょっとした実験でもしてみましょう。賭けますか?」
「…いいよ!賭けに勝ったら言うこと聞くんだぞ!」
大丈夫、同心円だって平行線だってその通り見えるんだから。拳を握りしめて、気づく。…なんか、当初の目的からものすごく隔たっている気がする。あれ、菊、もしかしてまたやってくれた?なんか、君と話してると、ソンゴクウとかいう王んとこのキャラクターの気持ちになっちゃうんだけど。
告白大会がはぐらかされ大会になる。
この辺が、それこそ「菊の年齢引くことの俺の年齢」ってやつだ。誕生日の直後だろうがなんだろうが、テンションだだ下がりだからやんないけど、その引き算は。
菊は、一体どこから出してきたのか、ケーブルだのスイッチだのをドライバーでいじっている。そしてこれもどこから出してきたのか、三脚の足をすこんと伸ばして、ホールの端まで持って行った。カメラのようなものをセットして、ケーブルを引きずりながら戻ってくる。そして、また元通り俺の隣に腰掛けて、はい、とイヤホンを渡した。
「このイヤホンとあのカメラは、両方とも私の手元のスイッチと繋がっています。私がスイッチを入れると、あのカメラが光って、シャッター音が聞こえます」
「はあ」
「はいそれでは、イヤホンをつけて、カメラの方注目して下さいね、私のほう見ちゃだめですよ―――はい、チーズ」
ぴか、かしゃ。
「…俺はチーズって言わなくてよかったの?」
「そこがポイントではないのですよ。さて、アルフレッドさん。フラッシュとシャッター音、どちらが先でした?」
そんなの、決まってる。
「そりゃ、ぴかって、…………え。あれ?」
決まってる、光の方が音より速い。
そう思ったけど…出所は菊の手元だ。光と音の両方がホールの向こうから来るわけではない。
「え、うそ、ほんとに今フラッシュの方が先に感じたんだけど」
「ふふふー。そうなんですって。イヤホンをつけて音の出所は耳元だと分かっていても、みかけ距離が長ければ光の方を先に感じる人が多いんだそうですよ。こちらはだから、逆に、科学的知識を持っているかたこそ陥ってしまう錯覚なんですね」
「はあー…」
ちょっと、ずるい。だって、かなり身構えていたから、科学的であれと自分に言い聞かせていた。曖昧な脳なんかに負けない、世界を律する法則をのみ信じればいいと思っていた。菊の方も、若干そういう誘導をした。
ほんっと、あの引き算を考えちゃうんだけど。
完全に、菊の掌の上だ。
「ふふ、賭は私の勝ちですから、何か言うこと聞いて下さるんですよね。何にしようか、楽しみです」
受け取ったイヤホンをくるくる巻き取りながらしてやったりの顔で菊は言った。それを仕舞おうとバックをあけて、携帯が光っているのに気づいたようで、「おや」とつぶやいて操作し始めた。口が笑みを作っている。早速返信しているのだろう、すばやく親指を動かしながら―――菊の唇は打つ文字にあわせてだろう、ありがとうございました、と動いた。
ん?
「菊、それ、誰から?」
「え?アーサーさんですよ。無事ホテルに着いたって」
待て待て待て。なぜ、アーサーに、ありがとう、なんだ?
「………菊。もしかして、アーサーからこの服の話聞いてたりした?」
「…いえ?」
ん、なんかごまかしが入った。ここは目力にものを言わせて聞き出さなければ。
「菊。正直に」
「ほ、ほんとですよ!…カメラ持って行くと面白いものが撮れるぞってメールを頂いただけで」
待て。考えろ、アルフレッド。
確かに菊は、眼鏡とカメラにカリカチュアライズされた国で、フランシス曰く「あれで『萌え〜!』とか叫びながらばっしゃばしゃ撮るんだぜ…」な人だけど。
カメラ?
勢いよくソファから立ち上がったら、菊が「あ」と言った。ほんのわずかだけど、声に焦りがある。
―――例えば、貴方が”若気の至り”なことをなさったとしても、自分の年と貴方の年を引けば『あーまーねー』でお茶でもすすっていられるってことです。
例えば、俺が、若さに任せて告白大会をしたとしても?
引き算をすれば、平静でいられる、とか?
つまり、下げようと思うくらいには、テンションあがっちゃう、とか?
どうしても追いつけない年の差が、君にとってもテンション下がるくらいには残念な隔たりに思えている、とか?
大股でカメラに近づく俺に、裾をはだけさせる勢いで菊が着いてくる。
「ちょ、アルフレッドさん、ストップ!」
「なんで」
「いや、なんでとかでなくて。あれ私のですから。どうぞ、お戻り、くだ、さいって!」
最後は多少攻防戦になった。それでも身長の差にものを言わせて、菊の手の届かない頭上でそのデジタルカメラを操作する。
「………さすが、日本製………」
あの遠距離で、このズーム。
正装をした俺と、伝統工芸品の、つまり気合いの入ったキモノの菊が、ソファに並んでいる。一発撮りだったのに、まるで写真館でとったようなツーショットだ。
「あーあーあー」
へたへた、と座り込んだ菊の耳は赤い。
「実験、とか言ってさ」
「あーあーあー。聞こえません」
その耳を押さえて、変な声を出し続けている。
「引き算、とか言って」
「あーあーあー。最近耄碌してどうも耳が」
「これデリートする?」
「だめです!」
菊はばっと顔を上げた。
その顔が瞬時に染まる。今の菊は計算ができないらしい。
ごめん、流石に顔がにやけるのがとまらないよ。
「ねえ、菊」
「…」
ふい、と横を向かれる。
「ねえ、菊!」
「………なんですか」
「さっきの賭の『言うことを聞く』ってやつ」
「……言うことを聞いてくださるんですか」
でしたらこの拷問から解放して下さい、と顔に書いてある。そのしかめた眉さえ愛おしい。
「君が受け取れる言葉にしてあげる」
「内容は決定ですか!」
「うん。ずっと言ってきたことで、言い続けることだからね。でも、君が信じられる―――”若気の至り”なんだ、なんて思わないでいいような表現にするよ」
「〜〜〜〜〜〜〜っ」
「俺は、いつだってまっすぐ君を見てるんだからね」
そして俺は、この年になって初めてのキスを人に贈った。