プラネーテス |
※ご注意
アーサーは小さな建物に歩を進めた。周りに小さな木立を持つ円筒型の煉瓦の塔。周りを走れば一分もかからないだろうその小さな建物は、二人の時間が詰まったものだった―――はずだった。
「あの観測所に行きたい」。大戦の講和も成り、十何年ぶりかに実現したプライベートな会話で、アーサーは言外の意味を込めてその希望を伝えた。 喪われたその日々、菊はいつも言葉にならない思いを汲んでくれた。毬栗のような自分の言葉を、菊は金平糖の糖衣のように優しい言葉に置き換えてくれた。棘を抜かれ、そこに残るのは柔らかな砂糖の角。パステルのそれらがころころと菊の手の中で転がるイメージを何度も思い浮かべた。 どんなに言葉面とかけ離れていても正しく思いをくみ取ってくれた菊に慣れすぎていたのかもしれない。 「あの観測所に行きたい」。――――「私は行けません」。 ちらりと腕時計を見て、「すみませんが、次の予定がありますので」と菊は背を向けた。
あの夏。 菊は、入り口の扉を開けながら、「アーサーさんにお見せするのは本当に恥ずかしいのですが」と口ごもった。 日英同盟締結に関わる行き来の中で、たまたま建設工事の話を耳にした。何がなのかと問えば、菊は少々恥ずかしそうに、そしてそれでも隠せないほど誇らしそうに、「観測所なのです」と答えた。航海天文学のための赤道儀室(天文台)が、官立の商船学校にできるのだという。 「どんなもんか、できたら見せてみろ」 その約束がかなったのは一年後。東京駅から少し離れた隅田川沿いの学校の、正門のすぐ傍にそれはあった。事前に菊が恥ずかしがっていたように、確かにグリニッジに比べれば小さい。しかし半円形のドームを持ち二階にはぐるりとベランダがついている瀟洒なその外見は建設物としても美しい。排気口に彫られた花の透かし模様も洒落ている。思わず感嘆の声をもらすと、菊は嬉しそうに鍵を取り出した。 中は暗かったが、菊が手動で回転させるとドームから六月の陽光が差し込んできた。それを受けて中央に据え付けられた黄金の機器が光を放つ。 「カールバンベルヒか」 活路、とだけ菊は言った。この学校は商業船舶の上級船員を養成しているが、この新築校舎に学ぶ学生達は、既にして海軍予備生徒である。陸軍士官学校・海軍兵学校と同じく無償教育、その代わりにここの卒業生は有事の際の軍務が課せられている。海に囲まれた菊が、アーサーと同様、海軍を要と考えているのはそこからも分かった。 アジアの動きも見逃せないとはいえ、やはり世界の中心は大西洋だ。そこまで日本から到達するにはインド洋を越えなければならない。200年以上大船建造が禁じられていた中で減退してしまった大洋航海の勘を取り戻す為に、菊も必死なのだ。 「この分銅は…時計装置か?」 「私は慣れていますが、多少蒸し暑くないですか」 「じめじめしてますよね。すみません、この季節はどうしても」 星を見て、船の位置をしり。地図を見て、星を見る。
ああ、もどかしい。うまく言えない、のではない。言う、ことができない。 「間に、ユーラシアがあって」 俺たちは、互いが見えない。会わなければ存在の認知もできない。もし地球が平たい盆なら、何万キロ離れていてもきっと望遠鏡で見つけ出すのに。 「時差も9時間もあって」 同じ夜空を見上げることさえできない。 「…」 「少しだけ…うぬぼれた発言をお許し下さい。私が夜、北極星を見ますでしょう。私の上に朝が来て、貴方の上に夜が来る。そのとき、貴方の見る星は、私が見た星です。夜はリレーされ、私は貴方の見た星を見る。私は貴方との経度差を計り、貴方の時間を知る。私達の距離は永遠に埋まりませんが、私達の時間はつながっていくのではないでしょうか」
直線では繋がれない俺たちは、それでも惑星という頂点を持てば確固たる三角形を描けるのだと。
どうしてこのひとは、ほしいことばをくれるんだろう。 「毎日、見ろ」 こんなにも優しい人に、どうして俺は、まっすぐな言葉を言えないんだろう。 「曇りでも?」 菊は笑って頷いた。
雪でも嵐でもつながっているはずの時間は、ぷつんと、途切れた。
夏草の匂いだけは変わらない。タクシーを乗り付けてたどり着いたここには、第七騎兵隊司令部の看板がかかっていて、一人で勝手に来たアーサーは入れてもらうために上司を電話口に呼び出すはめになった。GHQのいかつい男達が歩き回っている。しかし、例の観測所は放置されているらしく、辺りに人もいなかった。 「……」 何も、なかった。 天体望遠鏡も、経緯儀も、回転灯も。 完全ながらんどうだった。 何もないことを確かめるようにドームの真ん中まですすみ、暗い空間に手を泳がせる。ここに、黄金の機器があった。 「―――何してるんだい?」 突然背後からかけられた言葉に驚いて振り返る。ドア枠に額をもたれかけさせて、アルフレッドが立っていた。窓もドームも閉められた暗い観測所は逆光にアルフレッドの表情を隠す。 「お、おまえこそ…どうしてここに」 「まさか、菊も一緒?」 アルフレッドは「ふうん」と小さく呟いた。「そりゃ、そうか」 「何がだ」 「―――占領の最初にね、菊は、モノなら何でも、って言ったんだ。持って行きたいものがあるなら、研究成果でも設備でも何でも持ってお行きなさいって、あの無表情な顔で」
『私は行けません』
ただの言葉では、なかった。 途切れた時間への慚愧の念。そして、動かしがたい現実への静かな諦念。
「菊…」
アルフレッドはただ横を向いた。 「なあ、カールバンベルヒの7インチなんて、今じゃ型落ち品だろう。お前には要らないじゃないか」 しばらく黙って、アルフレッドは、低い声で答えた。 「―――ここにあったのは、グラブ社の16インチだけど」 「…………」 菊。それで、星を見ていたんだろうか、ずっと。さらに鮮明になった夜空は、何を菊に語ったのだろうか。 「………頼むよ、返してやってくれよ……」 絞り出すようなアーサーの声に、しかしアルフレッドは心を動かした様子もなかった。 「君はいつもそうだ。そうやって言外に主張して、だけど何も口に出しはしないんだ。そのくせ―――モノじゃないものを独り占めする」 アルフレッドはそう低く言ってドアを後ろ手に閉めた。建物は闇に閉ざされた。
間において繋がれるものであるだとあの日二人が信じた惑星のことを、しかし、古代ギリシャ人は「さまよえるもの」と呼んだ。
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日本に残る一番古い天文ドームについての文章に |