プラネーテス

 

※ご注意
・戦前戦後の歴史記述あり。プラトニックのアサ菊←アル。1952年初夏の想定です(回想部分は1903年)。
苦手な方はお戻り下さい。


 

アーサーは小さな建物に歩を進めた。周りに小さな木立を持つ円筒型の煉瓦の塔。周りを走れば一分もかからないだろうその小さな建物は、二人の時間が詰まったものだった―――はずだった。

 

「あの観測所に行きたい」。大戦の講和も成り、十何年ぶりかに実現したプライベートな会話で、アーサーは言外の意味を込めてその希望を伝えた。

喪われたその日々、菊はいつも言葉にならない思いを汲んでくれた。毬栗のような自分の言葉を、菊は金平糖の糖衣のように優しい言葉に置き換えてくれた。棘を抜かれ、そこに残るのは柔らかな砂糖の角。パステルのそれらがころころと菊の手の中で転がるイメージを何度も思い浮かべた。
あの夜、凍星の下、駆けてきた菊が漸く息を整えほっと笑った瞬間から――要するに出会ったその日から、アーサーの眼は菊に奪われたままだ。あのときにだって、膝が抜けるほど嬉しかったくせについ虚勢をはった。「俺の為だ」。その時は眼をぱちぱちさせていた菊だったが、しばらくすると「お前の為じゃない」と言われても「ええ、でも嬉しいです」と返してくるようになった。その笑顔は掛け値無しで、アーサーは「…でもお前の為になるようなことをしてやってもいい」などと付け足してしまうのだった。

どんなに言葉面とかけ離れていても正しく思いをくみ取ってくれた菊に慣れすぎていたのかもしれない。
分かってくれるはず。
そう思って胸の奥から差し出した言葉は、ただの言葉として受け取られ、ただの言葉が返された。

「あの観測所に行きたい」。――――「私は行けません」。

ちらりと腕時計を見て、「すみませんが、次の予定がありますので」と菊は背を向けた。
確かに、しなければいけないことは多いだろう。この4月に独立を回復して戻ってきた国際社会は第三次世界大戦を可能性に含めた対立の中で、菊はそのフロントラインにいる。走狗と言われようが言うことを聞かなければ立ちゆかない相手もいるし、亡者と言われても他人の戦争で腹を満たさなければならない。そんな中、50年も前に作られた小さな建物にアーサーを連れて行く余裕などなくても仕方ない。
そうだろうけれども。
「観測所に行きた」かったわけじゃない。あの時間を取り戻したかった。そんなことは、昔の菊なら絶対に汲み取ってくれたはずだった。

 

あの夏。

菊は、入り口の扉を開けながら、「アーサーさんにお見せするのは本当に恥ずかしいのですが」と口ごもった。
「何を言っているんだ、東洋一なんだろう?」
「だって、貴方は世界一じゃないですか」

日英同盟締結に関わる行き来の中で、たまたま建設工事の話を耳にした。何がなのかと問えば、菊は少々恥ずかしそうに、そしてそれでも隠せないほど誇らしそうに、「観測所なのです」と答えた。航海天文学のための赤道儀室(天文台)が、官立の商船学校にできるのだという。
アーサーは身を乗り出した。我ながら器が小さいと思うけれども、誇れる分野のことが話題に出れば嬉しい。菊はストレートに驚嘆し、賛辞を呈してくれる。褒められるから嬉しいのではなく、認められるから嬉しい。(だから料理とか料理とか料理とかの話題では口数が少なくなってしまう)。
そのアーサーに、「航海」も「天文学」も美味しすぎる餌だった。海洋国家として名をはせたアーサーはその二つには自負がある。王室天文官だったフラムスティードの星図は全ヨーロッパ的に使われているし、グリニッジ子午線は今や(仇敵たる髭野郎以外)ほとんどの国が採用している。菊も10年ほど前に本初子午線を自国からグリニッジ子午線に切り替えた筈だ。

「どんなもんか、できたら見せてみろ」
「ええ」

その約束がかなったのは一年後。東京駅から少し離れた隅田川沿いの学校の、正門のすぐ傍にそれはあった。事前に菊が恥ずかしがっていたように、確かにグリニッジに比べれば小さい。しかし半円形のドームを持ち二階にはぐるりとベランダがついている瀟洒なその外見は建設物としても美しい。排気口に彫られた花の透かし模様も洒落ている。思わず感嘆の声をもらすと、菊は嬉しそうに鍵を取り出した。

中は暗かったが、菊が手動で回転させるとドームから六月の陽光が差し込んできた。それを受けて中央に据え付けられた黄金の機器が光を放つ。

「カールバンベルヒか」
「ええ。まだまだ国産品は追いつきません」
「いや、それこそ、世界一だろう」
悔しい思いもないではなかったが、アーサーはドイツ製のその測量機器を保証した。ここの測量機器は堅牢無比、精度の確かさは群を抜く。グラブ社に発破をかけてもっといいのを作らせよう、とアーサーは心に決めた。
「それにしても、7インチ天体望遠鏡とは、張り切ったな。これ、最新型だろ」
「ええ。我が国の活路は船にあると思っていますから」

活路、とだけ菊は言った。この学校は商業船舶の上級船員を養成しているが、この新築校舎に学ぶ学生達は、既にして海軍予備生徒である。陸軍士官学校・海軍兵学校と同じく無償教育、その代わりにここの卒業生は有事の際の軍務が課せられている。海に囲まれた菊が、アーサーと同様、海軍を要と考えているのはそこからも分かった。

アジアの動きも見逃せないとはいえ、やはり世界の中心は大西洋だ。そこまで日本から到達するにはインド洋を越えなければならない。200年以上大船建造が禁じられていた中で減退してしまった大洋航海の勘を取り戻す為に、菊も必死なのだ。

「この分銅は…時計装置か?」
「ええ。1時間15度で南北軸の周りにこの天体望遠鏡を回転させ、補足した天体を追いかけることができるようにしています。すぐそこに子午儀室を作っているのですが、そちらにはトランジット(南北方向にだけ動く望遠鏡)を置いています。印字機もあるので、天体の子午線通過時刻や天体高度から緯度経度観測ができます」
「正確に」
「ええ、精確に」
空をはかり、自分の位置をはかる。それが航海天文学のアルファにしてオメガである。星々は今どこで光り、自分はその何光年の底にいるのか。精確な観測だけが正確な認識をもたらしうる。
「よろしい」
つい教師の気分で答えたら、菊は生真面目に頷いて、二階への階段をすすめた。

「私は慣れていますが、多少蒸し暑くないですか」
「う…ん、まあ、な」
多少、どころではなかった。高温にも多湿にもインドやマレーで慣れているつもりだったが、日本の夏はどこか違う。まして締め切った空間、アーサーの服の下に汗をかかせるに1分もかからなかった。紳士らしく堪えてはいたけれども。
「この窓から、ベランダに出ることができるんです」
そういって菊は先に立った。外だって暑かったぞと思ったが、ベランダはちょうど木陰になっていて、思いがけず涼しい風が吹き寄せた。思わず息をつくと、菊はすまなさそうな顔をした。

「じめじめしてますよね。すみません、この季節はどうしても」
「いや、俺のとこなんて年中雨降ってるから」
「でも、年間降水量はうちの半分以下ですよね」
「日照時間も少ないぞ。全く、冬は星を見られたもんじゃない」
「あ…そうなんですね。うちは逆に…この辺りでは、秋冬に夜空のイメージがあります。北西季節風に変わって、空気が乾燥していくので」
「冬の星と言えば…北斗とカシオペアか」
「そうですね。やはり天体の動きを理解するには一番分かりやすい題材なので、六分儀計の実習などによく使います」

星を見て、船の位置をしり。地図を見て、星を見る。


「お前のところでも北極星は見えるだろう」
「ええ、もちろん…?」

ああ、もどかしい。うまく言えない、のではない。言う、ことができない。

「間に、ユーラシアがあって」
「はい」
「地球は丸くて」
「はい…?」

俺たちは、互いが見えない。会わなければ存在の認知もできない。もし地球が平たい盆なら、何万キロ離れていてもきっと望遠鏡で見つけ出すのに。

「時差も9時間もあって」

同じ夜空を見上げることさえできない。

「…」
しばらく黙っていた菊は、宙を見た。

「少しだけ…うぬぼれた発言をお許し下さい。私が夜、北極星を見ますでしょう。私の上に朝が来て、貴方の上に夜が来る。そのとき、貴方の見る星は、私が見た星です。夜はリレーされ、私は貴方の見た星を見る。私は貴方との経度差を計り、貴方の時間を知る。私達の距離は永遠に埋まりませんが、私達の時間はつながっていくのではないでしょうか」
「菊」
泣きたいような笑いたいような気持ちだった。


永遠に埋まらない距離と永遠につながる時間。
どうしようもない現実と、それを乗り越える想像力。
分かっていたのだ、地球が丸いことを拗ねても仕方がない。仕方がないから、アーサーは、……ただ、言葉が欲しかったのだ。

直線では繋がれない俺たちは、それでも惑星という頂点を持てば確固たる三角形を描けるのだと。


「…好き勝手申しまして」
アーサーはかぶりをふる。

どうしてこのひとは、ほしいことばをくれるんだろう。

「毎日、見ろ」

こんなにも優しい人に、どうして俺は、まっすぐな言葉を言えないんだろう。

「曇りでも?」
「雨でも」

菊は笑って頷いた。

 

 

雪でも嵐でもつながっているはずの時間は、ぷつんと、途切れた。

 

 

夏草の匂いだけは変わらない。タクシーを乗り付けてたどり着いたここには、第七騎兵隊司令部の看板がかかっていて、一人で勝手に来たアーサーは入れてもらうために上司を電話口に呼び出すはめになった。GHQのいかつい男達が歩き回っている。しかし、例の観測所は放置されているらしく、辺りに人もいなかった。
建物に近づき、アーサーは違和感に首を傾げた。あのベランダがなくなっている。戦争では鉄不足に悩まされたらしいから、それで取り壊したんだろうか。死にものぐるい、という言葉そのものだったはず。仕方がないとアーサーは首を振り、ドアの前に立った。鍵がないのだから、入れないのは仕方がない。そう思いつつノブを握れば、なんなく開いた。

「……」

何も、なかった。

天体望遠鏡も、経緯儀も、回転灯も。

完全ながらんどうだった。

何もないことを確かめるようにドームの真ん中まですすみ、暗い空間に手を泳がせる。ここに、黄金の機器があった。

「―――何してるんだい?」

突然背後からかけられた言葉に驚いて振り返る。ドア枠に額をもたれかけさせて、アルフレッドが立っていた。窓もドームも閉められた暗い観測所は逆光にアルフレッドの表情を隠す。

「お、おまえこそ…どうしてここに」
「理由を聞かれる意味が分からない。なぜいちゃいけないのさ?」
訪問に許可が要るか要らないかで言えば、いらないだろう。先の看板によれば、ここはマッカーサーの親衛隊が接収していることになる。

「まさか、菊も一緒?」
「…いや」

アルフレッドは「ふうん」と小さく呟いた。「そりゃ、そうか」

「何がだ」
問うたアーサーの眼を見ずに、アルフレッドは独り言のようにいった。

「―――占領の最初にね、菊は、モノなら何でも、って言ったんだ。持って行きたいものがあるなら、研究成果でも設備でも何でも持ってお行きなさいって、あの無表情な顔で」
「…」
「それなのにさ、この中のものを持ってったって知ったとたん、血相変えて詰め寄ってきてさ。返してくださいって、…泣いたんだよね」
「な…っ、お前が盗ったのか?」
「人聞きの悪いこと言わないでくれるかな。ここに置いたままじゃ危ないから片付けてあげたつもりだったんだよ。別に、同じ程度の測量機器ならうちにだってあるんだから、盗ろうなんて思いもしなかった。……どこに片付けたのか言うつもりは、今はないけど」
なぜ、と聞き返そうとしたアーサーを遮って、アルフレッドは聞いた。
「君のプレゼントだったの?」
「は?違うけど…、」
「違うんだ?『もうここには来られません』って、顔を覆って、君に謝ってたから、てっきりそうなのかと思ってた」

 

『私は行けません』

 

ただの言葉では、なかった。

途切れた時間への慚愧の念。そして、動かしがたい現実への静かな諦念。

 

「菊…」
拳の中で、掌に爪が食い込む。


「―――返してやれよ」

アルフレッドはただ横を向いた。

「なあ、カールバンベルヒの7インチなんて、今じゃ型落ち品だろう。お前には要らないじゃないか」

しばらく黙って、アルフレッドは、低い声で答えた。

「―――ここにあったのは、グラブ社の16インチだけど」

「…………」

菊。それで、星を見ていたんだろうか、ずっと。さらに鮮明になった夜空は、何を菊に語ったのだろうか。

「………頼むよ、返してやってくれよ……」

絞り出すようなアーサーの声に、しかしアルフレッドは心を動かした様子もなかった。
「てやってくれ、か」
「…」

「君はいつもそうだ。そうやって言外に主張して、だけど何も口に出しはしないんだ。そのくせ―――モノじゃないものを独り占めする」

アルフレッドはそう低く言ってドアを後ろ手に閉めた。建物は闇に閉ざされた。

 

 

間において繋がれるものであるだとあの日二人が信じた惑星のことを、しかし、古代ギリシャ人は「さまよえるもの」と呼んだ。

 



日本に残る一番古い天文ドームについての文章に
「1945年9月米進駐軍による接収(〜1952.11)後、内部の設備は何処かへ撤去されました」とあり、
公式なものなのに「何処か」と書くということは今でも分かっていないんだろうなあ、と考えての妄想。
1903年建設当時の天体望遠鏡がカールバンベルヒ(独)製だったかは分かりませんが(捏造です)、
この学校が1936年時点でグラブ社(英)製天体望遠鏡を持っていたという記録はあるようです。

<<BACK

<<LIST