※ご注意
・アサ菊アル。ハッピーエンドとは言えませんがバッドエンドというのも違う気がします。
・東野圭吾氏の小説に核心が酷似しているところがあります。言い訳は最後。
・少しだけ、戦前及び戦後における歴史記述があります。
諸々、苦手な方はお戻り下さい。
なあ、菊。今こそ、とっておきの魔法をみせてやる。
「とっておきの魔法……ですか」
「ああ」
かつては魔法や妖精のことを口に出すと、言葉には表さなくともはっきりと顔がヒいていたものだったが、先日泊まりに行った際、先客に貰った薬とやらを見せて以来、菊はそうした話を目をゆるめて聞いてくれるようになった。懐かしい、失ってしまったものを見る目だ。失ったということは、かつてあったということ。それが彼の上にもあったことが嬉しく、それが過去であることが寂しい。だから目に見えない世界のことを語りたいと思う日も、だから語るのを避けようと思う日もある。
今日その話題を持ち出したのは、少しの酔いと少しの高揚があったからだ。同盟の更新でまた公的に菊との関係を固めた。「アーサー」個人の感情としてでなく、権利義務の関係として堂々と菊に手をさしのべることができる。
公的なイベントを終わらせたあと、菊に割り当てたゲストルームを訪ねてショットグラスで乾杯をした。表では白い軍服に乱れも隙も見せない菊は、今、キモノガウンに身を包み、ごく限られた人にしか見せないやわらかな表情を浮かべている。
「変身、じゃないんですよね。子どもにしたり、逆に年をとらせたり」
「あれは普通の魔法だ。女にしたり動物にしたりもできる」
「西欧の神話にはよくありますね、そういうの」
菊はうーんと首をひねった。
「日本に昔から伝わる呪術には、相手の不幸を祈るものがありますが」
「それこそよくある魔法だ。これはこれで代償があるけどな。戦争の時は普通にやってるぞ」
「やるんですか」
「当たり前だ、事に当たっては全力を尽くすべきだろう。やれることはすべてやって、最善の結果を導くもんだ」
「…なるほど…?」
言葉には頷きながらも最終的に内容を肯えなかったのか、菊は首を半端に傾げた。
「では、ものを動かしたり、呼び出したり?」
「ああ、そういうのもできるな。落ち着いて時間を掛ければそれはそんなに難しいことじゃない」
「うーん…千里眼、先見(さきみ)ですか」
今度は俺が苦笑する。
「いや。…未来を見ることができたなら、あんな過去はなかった」
「あ…」
菊は口に手をあてて黙った。顔に「失敗した」と書いてある。誤解させてしまった。
「違う、アルのことじゃない」
確かに、あの雨の日は今でも記憶鮮明で、100年以上たったというのに傷はまだ乾いていない。
「……あれは、どうにもならなかった気がするんだ。俺はあの頃精一杯弟に尽くしたし、上司からかばいもした。その先に別れが見えていたら当然それを回避しようと方策を講じただろう。じゃあ、何を?―――全てを俯瞰できる今から考えてさえ、あのときあれ以上に何ができたのか分からない」
目線を琥珀色の液体に落とす。
今から見れば歴史は一本の道に見えるけれども、実際の「その日」に目の前にあるのは360度の平原だった。歩いた跡が道になった。違う道筋もあったはずなのだ。
それを想像できるものもあれば、全くできないものもある。
「何度シミュレーションしても、あの雨の日に行き着いてしまう」
菊は切なげな目をして、小さく頷いた。
多分菊にも覚えがある感情なのだろう。
どうして「あの日」が避けられなかったのだろう、どうして私は「それ」を選んでしまったのだろうと。
菊はそっと手を俺の膝の上にのせた。暖かい。微笑んで見せて、手を重ねる。他国に対してはただの同盟関係を装っているが、もっと深くお互いを許し合った仲だ。恋を、している。
「そうじゃなくて、なんで俺が最初じゃなかったんだろう、ってことだ」
「え?」
「こっちは、あと少し決断力があればできたはずなんだ」
「なにがですか」
指を突きつけてやる。
「お前の和親条約」
菊は瞬きをした。
「…アルフレッドさんに続いて、すぐ結んだじゃないですか」
「だから、あいつが先だろう。開国の歴史に残るのはあいつの名前で、国民が習うのもあいつとの条約だ」
ぽかんと口をあけた菊は、やがて笑み崩れた。
「もしかして……拗ねてます?」
「そ、そんなわけはない。ただ何でも一番が好きなだけだっ」
ふふふ、菊は笑って額を肩につけた。
「アルフレッドさんには色々とお世話になりましたし、ご本人もとても気持ちの良い方ですけれども」
少し、額を押しつける圧を高めて。
「順番でなく位置として、貴方は私の一番ですよ、もうずっと前から、そしてこれからずっと」
酔っていなければ聞けない台詞に絶句する。
顔をのぞき込むと恥ずかしそうにしながらも微笑みをよこす。そして、照れを紛らわすように言葉をついだ。
「では、なんでしょう。とっておきの魔法、とは」
「う、うん。…あのな、まず言っておくと、『とっておき』というのは、いいものだからとっておく、という意味じゃない。代償が大きいからよっぽどのことがなければとっておくべきだ、ということなんだ」
「ほう」
「精神作用に関する魔法だな。もののかたちを変えるのは普通の魔法だ。けれども、こころを変えるのは飛躍的にむずかしく、やるとこちらも反作用をうける。こころに干渉すれば同じ干渉を自分も受ける。『死にたい気持ちになれ』と命じたら自分も死にたくなる。『俺を愛せ』と命じたら自分もそいつを愛してしまう」
「なるほど…」
哲学的意味を感じたらしい菊はしたり顔で頷いていたが、「あ」と何かに気づいたような声を出した。
「もしかして…」
「ん?」
「あ!いえ、いえいえ。な、なんでもありません。すみません、ちょっと、ばかなことを…」
「なんだ」
「いえ!本当に……本当にうぬぼれたことを考えてしまって…」
手で顔を覆って目を隠す。その手首をつかんで顔を出させればぎゅっと目をつぶった。
「菊」
「はい…」
「言えって」
しばらく、無理だの恥ずかしいだのの言い訳が続いたが、肩を抱き寄せて耳殻に直接「言って」と囁けばやっと観念したように小さな声を出した。
「……あの……貴方が、私にその魔法をお使いになったのかと……」
「は?」
「貴方しか見えなくなるようにと……」
「そんなことしてないぞ」
「ええ、もちろん。そんなことを、貴方がなさる理由がありませんし、反作用があるなら貴方が私しか見えなくなっているはずですし…」
その否定はなんだかずれている。したい理由は十分すぎるほどあるし、菊しか見えていない。ただ、現実として、封印に近いその魔法を使わなかっただけだ。
「いや…そういうことではないけどな…なんで魔法をそんなふうに使ったと思ったんだ?」
またしばらくあがいた後で、菊は観念したようにぼそっと言った。
「そうとでも考えなければ理由が分からないほど、貴方が好きで……」
思わず肩を掴む手に力が入った。どうしよう、愛しい。この愛しい生き物をどうしてくれよう。
首の後ろから回した手で顎を掴み、顔を上げさせる。恥ずかしさに身を小さくしている菊の、耳に、目尻に、頬に口づける。
「お前は、魔法が使えないと思っていたんだがな」
「はい…?」
唇に自分のそれを合わせ、少し離した。
「そして、これ以上夢中になどなれないと思ってもいたんだがな」
「あ…」
小さくあいたその隙間に舌をねじ込み、口腔の熱さを分かち合う。軟口蓋の縁をなぞると菊は小さくうめいて舌を絡めてきた。二人の口の中で唾液は溶け合い、心も溶け合った。
恋を、していた。
今、その菊は眼前に横たわっている。
アルフレッドが言うには、最近はこんな風に、一旦眠りにつけば昏々と眠り続けるらしい。
終戦直後は却って眠りが浅かったという。少しの物音にも空襲かと怯え、特に火の匂いや火花のはぜる音がすればたとえ隣家の七輪のそれでも体を強ばらせていたのだと。
「痛々しくってね…」
ただの占領国相手にしては頻繁にすぎるほどアルフレッドは菊の家を訪ね、なにかれとなく世話を焼いてやったようだ。
その頃、俺はまだ包帯に包まれていた。
俺には菊の看病はできなかった。
それから2年。
頼み込んで、深夜、菊の私室で二人きりにしてもらった。アルフレッドは散々しぶったが最後には「変なことしたらいくら君でもただじゃおかないぞ」と冗談交じりに笑って、部屋を出た。
「菊」
呼びかけても菊は起きない。疲れているのだ。
ヨーロッパに向けてもアルは物資援助を続けているが、菊に対しては民間にも募って多大なる援助を行っているという。世界会議に「菊」としての席はなく、アルフレッドの隣にネームプレートを置かない席が用意されているだけだけれども、それでもその手厚い看護のおかげか、その場に来られるほどには回復した。顔も手足も痣だらけ・絆創膏だらけで弱々しいが、それでも歩けるようになったことが驚きというほどの怪我だった。
他の多くも癒えない傷を抱えたまま臨んだ世界会議において、ほぼ無傷のアルフレッドは、名実ともに世界をリードする者だ。その男が、まるで一介の付き人のように菊に寄り添っている。
「変なことしたらいくら君でもただじゃおかないぞ」。冗談に紛らせていたが、あれは本気だった。統治権の問題ではない。それは実質アルフレッドの上にあり、菊の上にない。同盟再締結だろうがなんだろうが、外交権を持たない菊には何もできないのだから、あれはつまり、純粋に「菊」を心配しているのだ。
そこに段差があるよ、大丈夫?捕まって。
疲れたならキャンディーをあげる。お腹が空いたならパンをあげる。
ほら、大道芸人だよ。君に手を振ってる。―――ね、笑って。
まるで子どもが大人にかけるような稚拙な慰めを、とにかくひっきりなしにかけて、GHQは甘すぎるという批判さえはねつけて、アルフレッドは腕の中の菊を微笑ませようと必死だ。
菊を見るあの目には、覚えがある。
菊と二人、こっそりと手を繋ぎ合っていた頃、鏡の中にいつも見ていた。
恋の目だ。
体だけが先に大きくなって、恋の駆け引きも知らないままに大人の側に回されたアルフレッドは、その表現方法を知らないのだ。
多分――ずっと、知らなかったのだ。
かつては気づきもしなかった。後から考えればその道筋が見えるだけだ。
俺が羨んだ「菊の一番」をアルフレッドも誇りにしていた。一時期は小学生用の教科書にさえ書いていたほどだ。太平洋の隣人を世界に案内したのだと。中国利権で列強各国が角突き合わせた時も裏をかくように手を差し出していたし、何より、あの強引な四カ国条約。順番ではなく近さの「一番」が自分にないことが嫌で、日英同盟を破棄させたのだろう。
今彼が気遣うその傷はアルフレッド自身がつけたものだが、あの噂にだけ聞いていた徹底的な破壊も、思い通りにならない相手への激情の発露だったのかもしれない。
子どもなのだ。
子どものまま、独り立ちさせてしまった。もっと大切に育てたかった。自分の手で立派な大人にしてやりたかった。感情を抑制できて、人のことを気遣える、……だけど今のようなまっすぐなこころを失わない大人に。どうすればよかったのだろう、何度も考えた。小さな事件さえ思い出して、全てのピースを並べてみて、何を選び取れば良かったのか、何を棄てれば良かったのか、――いくら考えても、あの雨は降る。
そして、その雨も。
欧州戦線で手一杯だった、一方でアジア権益を固守する必要もあった。どのピースをいつ外せばここに至らないのか。何度考えてもやはり俺と菊の間に火花は散り、菊の上に黒い雨は降る。
いつか自分たちがもっと大人になったなら、今は見えないピースが見えるのかもしれない。今は譲れないと思っている価値を捨てて、違う道筋を考えられるのかもしれない。だけど今は。今の自分では、この事態を予測出来ていたとしても、やっぱりここにたどり着いてしまう。
菊は疲れた顔で昏々と眠るだろうし、世界会議の場では痛々しいまなざしを向けるだろう。
アーサーさん……
目線に訴えを感じ取る。
違うんです。
声なき声は、悲痛だ。
敵対したのだから当然、疎遠になった。別れの言葉はなかったが関係の解消を二人とも受け入れていた。このとき心情の解消を受け入れなかったのはアーサー個人のことで、菊がどう思おうとかまわないと思っていた。忘れても、憎んでも。アーサーは、非難も罵倒も攻撃さえ、恋を残したまま受け止めた。嫉妬だって引き受けるつもりなのに。
菊はアーサーにだけ分かるように首を振る。
違うんです。
戦後最初のベストセラーは、「日米会話手帳」という英会話の本だったという。
住民による狂信的テロに怯えながら上陸した占領軍は予想外の歓迎に拍子抜けしつつも、求められるその立場に優越感を満足させた。物資を潤沢に持つ米兵に若い日本人女性は擦り寄り、「簡単に発射できる」と蔑称で呼ばれたりもしている。内心は知らず、少なくとも表面には親米感情しか見あたらない。
あまりにも露骨なその転換は、幾分かは戦中押さえつけられていたものの噴出であるだろうが、変節との印象を世界に与えてしまっている。だから彼は言われてしまう―――娼婦のようだと。
違うんです。
アルフレッドに世話を焼かれ、最初は硬い表情でただ礼を述べていた菊が、そのうちに微笑みを向けるようになり、冗談に笑うことさえ出てきた。返されるアルフレッドの笑顔に柔らかい表情を見せた後、はっとこちらの視線に気づいて、彼は目だけで否と言う。
違うんです。
貴方を忘れたりしてません。
「なあ、菊」
寝台の上、眠り続ける菊に語りかける。
「とっておきの魔法だ」
アルフレッドは男ぶりもいい。そんな彼が、物慣れ無さを体力と財力でカバーして、つきっきりでエスコートをしてくれたなら、ほだされない者はいないだろう。何より、あの天真爛漫な笑顔は、誰の心でも引きつけるに決まってる。
違うんです、媚びを売っているとかではないんです――
――分かっている。違うということを。
「菊。もういいから―――恋を、しろ」
もう、そんな風に自分を誤魔化すな。
眠り続ける菊は答えを返さない。
「とっておきの魔法、をかけてやるよ」
記憶の改竄。
俺たちは、ずっと「良き友人」だった、と。
お前を縛る、戦前から続く思いなどない。
お前の恋は、裏切りではない。と。
――そう思ってくれ。
―――そう思わせてくれ。
逃げるのだと思われてもいい。それでも、「違う」と言い張るその目が辛かった。
何度も考えた。どこでどうすればよかったのか。頭がすり切れるほど考えても、ここに来てしまう。
アルフレッドが菊を想うことも、菊がアルフレッドに惹かれることもとめられない。
政治的に判断して避けられなかった「対立」の時期を所与の前提とするなら、その先、二人は必然的に並び立ってしまう。傷ついた俺にそれをとめる力はなく、アルフレッドの代わりに世話を焼く余裕さえない。
何より―――もう、誰とも争いたくない。幸せになりたい、同じくらい、たいせつな彼らを幸せにしたい。彼らを、憎みたくない。
「忘れろ」
お前に送った言葉も、約束も。触れあった頬の暖かさも。舐め合った涙も絡め合った指も、抱き合った確かさも。
全て、魔法とその反作用で消えてしまえ。
小さな声で呪文を呟く。
明日にはもう存在しない過去、俺たちは、恋を、した。