※観覧車二品その1。
 	      ※薄黒いところもあります。歴史記述もあります。だいたい1942年3月くらいを想定して書いています。
            (ご本家の「お爺ちゃんとドイツさん大奮闘」がWW2期であるという想定です)
 	      
 	       
 	      「…じゃあ…」
 	        「今日は解散…」
          「ですね」
 	      いつもながらの見事な脱走っぷりに、残された二人は苦笑顔を合わせた。合同演習の予定だったのに、一角が崩されては意味がない。
 	        とはいえ、まだ夕方。日ものびてきたせいで、まだ明るい。
 	        自主トレしていこうかと菊は考えたが、ルートヴィッヒが柔らかく制した。
 	        「負荷をかけすぎるのもよくないだろう」
 	        「まだやれます」
 	        「お前の運動量は見ていたから知っている。余裕があるなら明日にその体力を回せ」
 	        「…」
 	        ”早く追いつきたいんです。”……口にはしない。無理をするなと言われるのが分かっている。
 	        目を合わせて会話をするだけで、首が痛い。走れば歩幅が違う。
 	        そんな菊の葛藤を知ってか知らずか、ルートヴィッヒはぽんと菊の肩に手を置いた。
 	        「俺も今日はこれであがる。遊びに行くから、付き合わないか」
 	        「え」
 	        「逃げた奴ばっかりに楽しい思いをさせるのは業腹だからな」
 	        振り返って微かに笑う水色の瞳に、微笑みを返す。
 	        この人の気遣いが、優しさが、少し痛い。
 	      まだやれる、気持ちはいつもそう思ってる。
            もっと早く、もっと高く。気持ちはいつも体を置きざりにほとばしる。
            もっと強く。この人たちを守れるくらいに。いつも、心はそれを目指しているのに。
 	      もつれる足に、細い腕。切れる息。
            この体で、戦わなければならない。一人で。
 	      あー、とルートヴィッヒが額をかく。菊の笑みを遠慮と受け取ったらしい。
 	        「春祭りで、移動式遊園地が来ているんだ。行ってみないか」
 	        「移動式…ですか」
 	        日本にも近代以降ぽつぽつと遊園地ができた。珍し物好きの菊も浅草や枚方に出かけたが、そのこぢんまりとした遊具でもかなりの重さだ。あれを運べるものだろうか?もしかしてかつての村芝居のようなものだろうか。地方を回りながら巡業をする、その分舞台装置はちゃちになるのだが、日常空間に非日常空間が現出すること自体に、人は幻惑される。ふむ、と頷いた菊に、ルートヴィッヒは、にっと笑った。
 	        「甘く見てると仰天するぞ」
 	       
 	      言葉通り、天を仰いだ。
 	        「…これを、持ってきて組み立てたんですか…」
 	      そびえ立つ観覧車に、広く公園内を走り抜けるローラーコースター。優雅な回転木馬。
 	        のどかな公園は、イルミネーションに彩られる幻想空間に変化していた。縦横に走るローラーコースターに目を輝かせた菊だったが、ルートヴィッヒの心配顔に気持ちを押し殺した。そこまで気を遣って貰うほどの老体ではないのだが、言い出したのが自分だから仕方がない。確かに、しめさばよりは格段に心臓に悪そうな乗り物である。そして、自分は今、心臓に負荷を掛けている。
 	      今、私は、「二人で」、「二人だけで」、祝祭の宴に来ている。
 	      それにしてもにぎやかだ。人出も多い。戦争中だということを忘れてしまうほどだ。
            
 	        「春祭りというか…秋の縁日みたいです」
            「屋台も出てるしな。ビール飲むか?ヴルストもあるぞ」
            「…おつきあいしますっ」
 	      国産メーカーもがんばっているとは思うものの、ここのビールは格が違う。麦が違うし、気の入れようも違う。アルコール濃度も数種あるが、軽いものでも薄くない。本場ってことですよね、と菊が口端に泡をつけながら力説したら、ルートヴィッヒがのばしてきた指でそれをぬぐって、笑った。
            「そんなに気に入って貰えて、光栄だ。秋のオクトーバーフェストにも来るといい…」
            言葉は不自然に切れた。
            菊は知らぬ顔で頷く。
            「ええ、行きます、きっと」
            春祭り、秋祭り。いつまでそれが続けられるだろう。
            太平洋戦線はまだ勝っている…ことになっている。補給路が延びきっているのに、「戦勝」という言葉を自分に言い聞かせるように戦域を広げている。
            この前初めて、東京に空襲警報が発令された。浅草の遊園地は強制疎開で取り壊しになるらしい。
            助けが欲しくて仲間になったわけじゃない。戦域が全然違うのだから。フェリシアーノが言ったという「友達になろうよ」、まさにその言葉のように、三人、肩を寄せ合った。
            欧州戦線にかげりは見えない。守りたいなどとおこがましい、このひとたちは、二人だけでやっていける。
            最初から―――二人と、一人なのだ。
 	      菊は、一息にカップを干した。けふ、小さな戻しが口をついてでる。
            「おい、大丈夫か」
            また心配させてしまった。苦笑が漏れる。
            「ええ。少し、歩きたいです」
            慌てて残りのビールを喉に流し込むルートヴィッヒを尻目に、菊は立ち上がって歩き出した。
 	      そうして背を向けてから、さきほどされたように口の端に指をあて、一秒目を閉じて、ゆっくりとひらいた。
 	       
 	      折角だから何か乗りましょうか――となったら選択肢はそう多くない。スリルのあるものがだめで、いい年の男二人なのだから回転木馬も却下。消去法というほどではないが積極的にというでもなく、観覧車の前に並び、料金を払う。
 	        浮き立ってなどいない、あくまで、そんな顔で。
 	        この径でこのスピードなら、一周十分弱、か。その間、「二人きり」になる。勿論素通しなのだから密室でもないし、角度によっては前後のゴンドラから見えもするだろう。が、そんなことは関係がない。物理的に、ではなく、精神的に、「二人きり」なのだ。
 	        軍服の下で心臓が揺れる。貧乏揺すりのようなそれを抑えるためにとんと叩いたらまた心配顔が向けられた。
 	        「ちょっと、さっきのヴルストがつかえただけで」
 	        とんとん。
 	        「大丈夫です」
 	        やめるかどうするか迷った風情のルートヴィッヒを追い越して、やってきたゴンドラに乗り込むと、仕方ないといったようについてきた。
 	        ドアが閉まる。
 	        ごとん、とゴンドラが揺れる。
 	        つり上げられ、下界から離れ、視線から他者が消える。
 	      いま、わたしたちは、ふたりだけでここにいる。
 	      三人でいることを、奇跡のように嬉しく思っているのに。
 	        そして――二人のことを、微笑ましく見守っているつもりなのに。
 	       
 	      夜に向かってゴンドラはあがっていく。
 	       
 	      「なあ、本田。人は、どこで諦められるんだろう」
 	        窓の外を……地面をではなく空を見やっていたルートヴィッヒがことんとダイスを置くように呟いた。
 	        「――何をですか」
 	        ルートヴィッヒは下を向いた。
 	        「……俺たちが知っていることを、人は、なぜ知らない」
 	        戦争は、引き際が勝負なのだということを。
 	        ぎりぎりのところで、まさにその勝負でイヴァンに面目を保った菊、そこを見誤って失意の十年に突入したルートヴィッヒ。過去の経験を、どうして人は受け継いでいかないのだろう。今は確かに勝っている。だけど、このままということはあり得ない。手を出すなと釘を刺したつもりが、牙を剥かせてしまったのだ。いつか、太平洋の向こうから、あの男が、来る。私は、一人で戦わなければならない。そして彼ら二人も、いつまでもこの非日常を続けるわけにはいかないのだ。
          自分たちは知っている、どこかで終わらせて、春と秋に祭りを迎える日常に戻らなければならないことを。だけど、上司たちはそれを思う冷静さを失っている。いつまでも、どこまでも「勝利」という言葉のシャワーを浴びたがっている。
 	      どうして何もできないのだろう。自分のことなのに。
 	      ゴンドラから見えるこの国は、こんなに穏やかなのに。
 	       
 	      観覧車が頂点を過ぎる瞬間、菊はいつも泣きたくなる。この長い回転運動の、ほんの一瞬。あとは下りるしかない。
          世界に背を向けて、三人、額を寄せた。この関係も――この関係の依ってたつところである戦争も、もしかしたら既に終わりへの途をすすみ始めているのかもしれない。
 	      「二人きり」のこの時間のように。
 	       
 	      「…他人のことは言えんな。俺も色々あきらめが悪い」
 	        道化てみせるルートヴィッヒに、菊は微笑みを返した。
 	        「何が、そんなに欲しいのですか」
 	        「ん、いや……。内緒だ。収容所に入れられてしまう」
 	        「国を収容所に入れる上司がいますか」
 	        「誰かが似たようなことを言ってたな…って、俺か」
 	        笑いあう。冗談にならないことだから、冗談にしてしまう。笑った顔のまま、横を向く。風が頬を撫でていく。
 	      今、この国では、同性愛者は強制収容所に入れられてしまうのだ。
 	      バレンタインの顛末を「誤解」と彼は笑ったけど、その時のほわほわとした気持ちは、理解によって霧散するものでもないだろう。堅物の彼が思いを明言したことはないが、分かっている、つもりだ。どれだけ逃げてもフェリシアーノは戻ってくるし、ルートヴィッヒはそれを迎え入れる。怒鳴っても、眉を顰めても。千年の時を超えて、彼らは手を伸ばし合う。
          この二人を、この二人の間柄を守りたいと思う。心の底からそう思っている、だからといって、菊自身の想いが消え去るわけではないのだ。
 	      夜の灯がつきはじめた町に、ゴンドラは降りていく。
 	        三人の日々に戻っていく。
 	      「いつか…」
 	        「ん?」
 	        「いつか、憂い無くこの景色を見られる日が来ますよ。そんな日もあったなと笑って思い出せる日が」
 	      ルートヴィッヒは笑った。
 	        「そうだな。いつか…いつか、また、こんな時間が過ごせるといいな」
 	        「ええ」
 	        あきらめないで、その気持ちを抱いていてください。
 	        そしていつか遠い未来、今度は彼と観覧車に乗ってください。私が感じたこの国の美しさを、彼も称えるでしょう。黄昏時に乗ったなら、やさしい闇が二人を包み、人の目から覆ってくれるでしょう。
 	        暖かな思い出に膨らんだ気持ちは、私との思い出の上に積み重なり、今日という日を年月の中に埋没させてしまうでしょう。
 	        それでいい。
 	      散った髪を抑えるふりで、軽く目の端を押さえる。
          
 	      私の中で、この日の風が吹き止む日はないでしょうから。