逡巡を捨てよ町へ出よう

 

・仲良し指数80くらいのお友達。


 

鉄赤絵金銀彩白牡丹文大鉢。銀色摺箔波文振袖。金銀彩撫子文茶椀。繻子地墨牡丹文振袖。
菊は、ほう、と息をついた。美しい。揺れる銀波。枝垂れる梅。視界一杯の夜桜。
先年亡くなった日本画家・工芸家の展覧会である。

 

もらった招待券をコルクボードにとめて、いつかいつかと思いながら、忙しさに紛れていた。やっととれた休みに、それでは、とピンを外したところで、いつものアポ無し台風に襲われた。ああ、そういう運命だったのですねと諦めた菊に、アルフレッドは「俺も行く!」と顔を輝かせたのだった。

フランシスやフェリシアーノに比べれば印象が薄いけれども、世界的な美術館は彼の国にもある。点描の大作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を持つシカゴ美術館、ルノワールの「ピアノに向かう2人の少女」があるメトロポリタン美術館。そして、岡倉天心が勤めたボストン美術館。東洋美術のコレクションとしては随一だけれども――アルフレッド個人の興味関心があるとは思えない。

「あのう、別に今日行かねばならないわけでもないのですよ」
だから今日はおもてなしに振り替えてよいのですが。予備のPASMOカードを探しながら菊は言ったが、アルフレッドは笑顔のまま首を振った。
「別に何かをしに来たわけじゃないから」
にこ、と菊は笑って、じゃーあんた何で来たんだという言葉を飲み込んだ。確かに、いつだって彼は何かをしに来るわけではない。冬はこたつに直行してゲーム機に電源を入れて夕食ができるのを待っているだけだ。
そんなことが積み重なりすぎて、菊も彼をお客様扱いすることはなくなった。ゲームソフトだの漫画だのは自分で取りに行かせるし、泊まるなら布団も自分で敷かせる。今だって、本来ならタクシーで行くのが要人への待遇として当然だろうが、菊のポリシーにあわせさせて公共交通機関を使わせる。時代はエコ。というより、東京でタクシーは、たいていの場合、かえって迂遠である。

ぴ、とカードをあてて一足先に改札を抜けたアルフレッドは、そういえば、というように言った。
「相変わらず君は、家の中と外で格好が違うね」
「家の中ではゆっくりしてたいじゃないですか。靴なんて一番に脱ぎたいです」
「うーん…」
随分日本家屋に慣れたと思っていたのに、まだ裸足には恥じらいがあるらしい。
「あの不思議な色のジャージ?はおいといて、外に出るときの服がおしゃれだなって」
「…見苦しくないようにしてるだけですよ」
今日は目的地が美術館なのだから、アクセサリーなど付けていないし、色も落ち着いたものにしている。地下鉄は時に階段が続くから洋装にしたけど本当はアルフレッドと出かけるときは和装にしたい。
だって。
ちら、と下半身を見比べてため息をつく。比率が違う。いつもはこたつの内部空間を占拠する邪魔なだけの足は、ただドアにもたれて車窓の闇を見ているだけのアルフレッドに車内の注目を集めさせる。彼言うところの「おしゃれ」に気を遣わない、ただのパーカーにジーンズの彼は、そうしているだけで絵になる。

乃木坂の駅はエスカレーター完備で美術館に直結していた。
だったらやっぱり和装にすればよかったと思いつつ、いや、それだと彼の歩幅に追いつかないから、と納得力を働かせる。小走りになって追いついた菊に、館外チケット売場にいたアルフレッドは「ごめん」と肩をすくめた。
「先に行って、チケットを買おうと思ったんだよ。それ、1枚しかないんだろ」
「え、もちろんこれをお渡しするつもりでしたけど」
「俺は自分で買うつもりだったんだよ。でも、財布見たらドル紙幣しか入ってなくてさ」
ふくれっ面で言うアルフレッドに苦笑を返し、財布を取り出して「大人一枚」と穴あきガラスの向こうに言うと、アルフレッドが「違うんだ」と裾を引っ張る。
「確かに、円がなかったから菊を待ってたんだけどさ、両替をしてほしかったんだよ」
「え」
わけが分からない、けれども他の客の邪魔になる前にここをどくためには要求に従った方が早い。10ドル札10枚と引き替えに1万円札を渡す。
既に準備されていた大人一人用のチケットとパンフレットを受け取りながら、アルフレッドは「アリガトー」と言い、もぎりのお姉さんの頬を染めさせている。
それをしたかったんだろうか?と菊は首を傾げたまま、使い道のないドル札を財布にしまい込む。今日のアルフレッドは全般的に思考が読めない。

この新しい美術館は、収蔵よりは公募展などのイベントが目的で、あまり堅苦しくない。広いエントランスは一面のガラスを通した光が充ち満ちて、オープンスペースのカフェにも「ちょっと一息」といったふぜいのひとびとが腰を下ろしている。靴のあたりも柔らかい床を歩きながら、菊は宣言した。
「じゃあ、待ち合わせはそこのカフェにしましょう。1時間後でいいですね?」
「は?」
「え、は?ってなんです?」
「待ち合わせって、なんで?」
「え…ばらばらに帰ります?」
「はぁ?わけがわからないよ」
こっちの台詞だ。わけがわからない同志でその先を話してもらちがあかない。菊は自分の主張理由を説明する。
「フランシスさんと秋葉原に行くときなんかはいつもこうなんですけど…」
いくらフランシスがオタク文化に理解があるとはいえ、流石に深度に違いはある。興味の方向だって違うのだから、同じ店に行ってもどの棚の前で立ち止まるかはそれぞれだ。こういうのは自分のペースで鑑賞したいものじゃないか。
「しかも今回は日本画ですし、私とアルフレッドさんですし。どこを長く見ていたいかって違うと思うんですよ」
というより、飽きてとっとと先に行ってしまうのではないかと思った。自分の興味に付き合わせて退屈させるくらいならコーヒーでも飲んで貰っていた方がいい。
「ふうーん…」
どこか不満げなアルフレッドは、しかし「わかったよ」と首をすくめた。
「あ、タイトルとか説明は英文もついてる筈ですよ。英語での音声ガイド貸し出しもありますし」
それが心配だったのかと手を打てば、はーっと深いため息をつかれた。
「わかったわかった。でも、たまたま!同じペースになってもいいんだろ?」
「はあ、そりゃあ、まあ…」
「よし、行こう!」

しかし結局菊の予想通りになった。最初こそ同じ絵を見、「これってラスコーみたいだね」などと会話を交わしたりもしていたが、有名な連作を近寄って見、後ろに下がって見、斜めから見てしみじみと頷く菊を、ポケットに手を入れたアルフレッドは所在なさげに見やり、きょろきょろと見渡して「先に行くね…」と告げた。
少し意地悪が過ぎたでしょうか、と菊は目の前の裸婦像を見る。
菊としてはエロティシズムの源泉を表現者の目から観察していただけなのだが、19歳の青年には刺激が強かったらしい。

ここに描かれる女性は、胴も長く胸も小振りな普通の日本人だ。線画だから肉感も薄い。それなのに、いや、それだから、やたらと官能的だ。美しいなあ、と菊は思うが、アルフレッドにとってはどうなのだろう、ただただ背徳的なのではないだろうか。

順路に沿って歩を進めながら、菊は考え込んだ。

月下の夜桜、白磁壺の曲線。菊が艶めかしさを感じるそれらが、アルフレッドの目にどう映っているのか、菊にはよく分からない。

 

今菊にため息をつかせている工芸品、そしてその名の響き、これらを、彼は美しいと思うんだろうか。

 

銀色摺箔波文振袖は「The semiformal Kimono with silver wave pattern 」と訳されている。…確かにその通りなのだけれども、印象が全然違う――そのように、同じものを見ても彼とは違う画像を網膜に映しているのではないか。

そういえば、ここ最近はそんなことを全く気にしてこなかった、それをかえって不思議に思う。
昔は違うのが当たり前だった。彼のセンスは派手すぎて受け付けられなかったし、彼に侘び寂びが分かるわけがないと思っていた。シリアルは菊の朝食になりえないし、彼は和食の旨みを分からない、そう思っていたのに。
いつの間にか、究極的には変わらない、と思うようになっていた。
どんなに足が長くても、どんなに目が綺麗でも、結局こたつに埋もれて寝こけていれば自分と変わらない。いつもはハンバーガーとシェークばかりでも、菊が出す低カロリーの食事も文句を言わず…いや文句は言いつつ、食べる。

そういえば、菊の家に来てはだらだらと寝ているからうっかりしていたけれども、彼はアウトドア体質だ。漫画を読むとは言っても、それは菊の家に来ている時にちらっと読む程度で、市場規模は日本とは比較にならないほど小さい。
「…『お出かけ』がしたかったんですかね、今日は」
呟いて、周りを見渡し、金の髪を探す。
菊としてはお互いのため、どちらかといえば気遣いのつもりだったけれども、やはりここは異邦人であるアルフレッドに付き添ってやるべきだっただろうか。
今更ながら反省し、ようやく見つけたアルフレッドの隣に並ぶ。
「ああ、菊」
横を向いて白い歯を見せたアルフレッドは、また目を戻した。
「…気に入ったんですか?」
「この絵?あー、うん。いいと思うよ。でもそうじゃなくて」
「なんでしょう」
「これ、字が違ってない?」
アルフレッドが指したのはタイトルプレートだ。英字で「Mt.Fuji」と書いてある、その上。
「一本足りない」
は?と言いかけて、菊はようやくその意味を理解して微笑んだ。なるほど、「二」は「士」より一画少ない。
「ブシがたくさん登ったから『富士』って言うんだって、君言ってたよね?」
「ええ、そうなんですけど。これでも『ふじ』と読みますし、富士山のことを指します」
その絵のタイトルは「不二」。
「『不』は否定の接頭辞ですから、二つと無い、という意味ですね。つまり唯一。富士山のことを指すのはその意味でもあっているんです」
アルフレッドは首を伸ばすようにしてしばらく考えた。
「じゃあ、これ読める人は、タイトルを見て『ああ、富士山の唯一性を表現しようとしたんだな』って思うんだね」
「…ええ、まあ、多分。『不二』という言葉には、たとえば聖・俗のような相反する二つのことが根底的には同じであるという仏教的意味もありますので、そこまで読み込む人も……いますかね……?」
「わかんないけど。少なくとも、これ、じゃあ、そんなことは考えないなあって」
アルフレッドは「Mt.Fuji」の字を親指で押した。
「…はあ…」
先刻、茶器や着物の名について英訳は情報も情緒も落ちていると思ったばかりだったので、菊はうまくフォローできず小首を傾げた。
「君と、同じものを見ているつもりだったのに、実は深さが違うっていうのは、なんだかくやしいぞ」
ぷう、と頬を膨らませている。
「…ごめんなさい」
菊が頭を下げると、アルフレッドは組んでいた腕を解いた。
「何が?」
「それで、一緒に歩こうってことだったんですね」
「ん?」
「私がついていればお教えできたわけですから」
「ん。んー?そう、のような、違うような…」
大きな手のひらで顎をさすりつつ、アルフレッドは中空を見た。

「…でも、それなら、ここからは一緒に歩こうよ。菊のペースでいいから」
「はあ…。しかし」
退屈ではないですか。
そう言いかけた菊の手をアルフレッドが掴んだ。
「え」
「一緒に行くんだぞ」
「え、あ、はい、でも、あの、これはいったい」
握られた手とアルフレッドの顔とで目線を往復させ、菊はあわあわと言葉を継いだ。
とーきょーはろっぽんぎのこうきょうしせつで、このアメリカ人は、何を。
「さっき菊は謝ったからさ。てことは、ちょっとくらいつけ込んでもいいのかなって」
「どういう理屈ですかっていうかだからなんで、手」
「俺は家出る時からずーっとそのつもりだったんだけど、菊は全然そうじゃないみたいだし」
「だからなんのつもりなんですか」
「流儀に合わせるのも、一緒にいたいのも、同じ意味を感じたいのも、理由なんて一つじゃないか」
「あの、わからないんですが、それより、ものすごく目立っちゃってるんですが」
「君はおしゃれだからね」
いやそれ全然違うし。貴方、素で自分が注目集める存在だってこと忘れてませんか。そのうえ、さらに。
「に、日本には男性同士が手を繋ぐ習慣はなくてですね」
「アメリカにだって『習慣』はないよ」
何を言っても流されてしまう。
やはり和装で来ればよかった、そしたら老人と介護ボランティアを装えたかもしれないと自虐に走り、菊はつながれた手を見つめた。

いつだってお構いなしにやってきて、いつだって好き勝手やってるくせに、でもやっぱり、菊のスタイルに合わせて日本ではインドア生活を続けるアルフレッド。裸足は恥ずかしくて、床で寝るのは変で、それでも菊の家に来ては、泊まる。何かをしにくるわけでもなく――まるで、菊に会いに、来るかのように。
『明るくて元気があって、アウトドアスポーツを一緒に楽しめる女の子が好み』。そんな風に言うから、まさか、いやでも、やっぱりまさか、そんな、自惚れがすぎる、と、「その可能性」を打ち消してきたのに。

ゆだる菊に、アルフレッドは振り返って笑う。

――理由なんて、一つじゃないか。

「さっきの絵のタイトルだよ」
ぱち、と嫌みなほどきれいにウィンクを決める。

『二つとない』、存在。

「……私と貴方は『二つじゃない』ってことですか?」
『不二』をわざと仏教語的に解釈してはぐらかそうとした菊の思惑は、その語によって裏切られた。

『現象的に異なるように見える二つのものが、実は、一体である』。

「……っ」

つながれた手は倍加的に熱くなった。


「……あの」
「うん」
「出ましょう、か」
「うん」

そして、改めて、デートをしましょう。



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