SSSsongs8(アル・菊/1941.12.1)

 

※薄黒いです。歴史記述や史料引用があります。


 

全ては決まった。
菊は天鵞絨張りの椅子に深くもたれ、息を吐いた。

いや、全ては決まっていた。
ただその「どうしようもなさ」が確認されただけだ。

「The Government of Japan will withdraw all military, naval, air and police forces from China and from Indochina. 」
最後の望みをかけた交渉でも、彼は従来の主張を変えなかった。ならば、関係を変えるしかない。

彼が重慶政府に物資援助を続ける限り、泥沼化した日支事変を終わらせることができない。好景気は既に去った。既に石油備蓄量は不安になりつつある。
「中国全域からの撤兵」、それは満州国の解消と、帝国経済基盤の崩壊を意味する。
足元も見ずに駆け上がってきた階段は、崩れ始めている。引き返すこともできない、だからひびが足元に及ぶ前に駆け上がるしかない。

兄の背にさえ、斬りつけた。
今更なにを躊躇う。

―――なんてこと、ない。

インバネスコートを着込んで、師走に入った街中を歩く。銀座の街にはまだ華やぎがある。贅沢を戒める標語があちこちに貼られてはいるが、切符をだせば外食も出来るし、オーケストラがモーツァルトを演奏してもいる。それでも行き交う人々の額に倦厭が浮かんでいる。
あぁなんだか不自由。もう三年以上も。それもこれも。奴らが。
口には出せない不満が人いきれに溶け込み、街を覆っている。風船の中にこもったガスが出所を見つけて噴き出すように、きっと彼らは、今日の決定を聞いたなら快哉を叫ぶに違いない。
やった。やっと。これで。

自由になれる。

強い風が吹き、菊は目をつぶった。砂が少し入ったようだった。

 

彼を、斬る。

 

―――なんでもない。殺すくらい。

 

100年足らずの交流の中で、手を握ったり、払ったり。組んだり、ふりほどいたり。
演技も含めて色んな向き合い方をしてきた。それでも、本気で睨んだのは多分一度だけだ。要求し続け、根回しもして、やっと提案できた人種差別撤廃条約を、強引に棄てられたとき。

貴方は、私に自由を教えながら、私の自由を許さないのか。

それが貴方がたのやりかたですかと菊は吠え、しかしそんな絶叫さえ見捨てられた。

皇国とアングロサクソンとの決勝戦は世界文明統一のため、人類最後最大の戦争にしてその時期は必ずしも遠き将来にあらず。

この対決は、前の大戦の終結時に、既に予定されていたのだ。

―――なんでもない。殺すくらい。

船舶製造量で言えば10倍。石油備蓄量では数えようもない。
内閣総力戦研究所にさせたシミュレーションでは何度やっても物資不足から敗戦へ至るルートしか浮かび上がってこない。これから始まる戦争の敗北は、既にこの夏に確定している。
それでも、決まった。

勝てるわけがないその戦いの勝機は、精神論の上に見いだされるだろう。今まで以上に挙国一致が叫ばれ、批判だけでなく疑いも躊躇いさえも排除されていくに違いない。言論の自由は、法律の拡大適用により既にこの国に無い。社会主義者だけではない、平和主義者だろうが自由主義者だろうが、獄中死という形で殺している。「倒せ」、それ以外の思念など存在を許されない。

―――なんてこと、ない。

「クジラと友達になりに来たんだよ!」
「帰れ」
あれから90年。
(ねえ菊、そのわくわくする世界に、踏み出さないか?)

「皆さんと私がこれからちゃんとやっていけるか占ってもらえますか」
「え…うん……ヘイルック!Yesってことだよ!」
あれから60年。
(君はちゃんと自分の足で歩いているよ)

 

肩を叩かれ、寄せられ、抱かれ。

「菊」

耳元で囁かれた。

「君は俺を駆け抜けていくんだね」

吐息の中の情熱と絶望が耳殻から溶けいって体に染みた。

―――なんでもない。殺すくらい。

 

 

恋心を殺すくらい、なんでもないのだ。

 

 

殺すくらゐ何でもないと思ひつゝ人ごみの中を闊歩して行く(夢野久作)



斜体字引用はハル・ノートと石原莞爾。日付は開戦決定の御前会議の日。

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