SSSsongs3(エリザベータ×ローデリヒ@1956-1989

 

※史実に絡む記述があります。


 

 

昔フランス人は言った。
「言語が現れないうちは、何一つ分明なものはない」。
それが「ある」から「名前が与えられる」のではない。「名前が与えられる」ことによって、それは「ある」と認識されるものとなる。世界を言葉が表すのではない、言葉によって世界は立ち現れる。

 

世界は。――言葉は、私とあの人を裂き続けている。

 

「鉄のカーテン」。空にカーテンレールがあるというのか、私があの人に伸ばした腕は冷たい金属に跳ね返されるというのかと、 初めて聞いた時には一笑に付したイギリス人の言葉は、しかし、世界を規定した。世界を二つに分けて語ることに人は慣れていった。

私がいる一方にも、ルードビッヒがいるもう一方にも、あの人はいない。「こんなお下品な争いに巻き込まれたくありません」――そんな言葉とともに、彼は永世中立を宣言した。それ以来、ただピアノを弾いてる、とルーイは言う。誰もいなくなった伽藍のような邸宅でただ一人その音を響かせていると。

 

国境の町ショプロンに行けば、その音色が微かに聞こえる。
いつものように草むらに身を横たえた。秋草は露とともに私を迎えた。打たれた頬を冷やしてくれる。

恐怖政治を布いたイヴァンの上司は去り、彼の政治は否定された。そのはずなのに、「雪解け」の言葉は私には向けられなかった。春が来ると信じ自らふりほどこうと試みた手鎖は、その下の擦り傷も癒えないままにより重い枷を加えられた。

 

私と貴方を、空はつないでいる。鳥も国境をものともしない。隔てる壁などない、だからこそ夜の空気が運んでくるどこまでも優しいその調べは、――しかし一瞬後には空気に溶け去る音でしかない。

草の露と混じりながら涙が落ちた。


誰をも助けないというあの人に、剣も握れないあの人に、助けて欲しかったわけじゃない。
ただ、ひとこと言ってくれたら。

「好きです」
呟きは土に吸い込まれる。
「貴方が好きです」

私も。――言葉で言われたことはなかった、けれども音楽に乗せていつも伝えてくれていたそれを、ただ、ひとこと言ってくれたなら、それだけで未来に夢を託せるのに。

――それは

もう


ありえないのだ。

 

あの人は、孤独な大人として生きることを選んだ。私は「こちら側」に繋がれて生きる。


私はカーテンを閉めた。言葉がまず生まれ、それが実体をもった例だと、国境に張り巡らされた高圧電流網を見上げて一人自嘲した。

 

 

 

―――言葉と映像は、それが作り出した世界さえ変えた。

ペレストロイカ、グラスノスチ。あふれ出した言葉はイヴァンを揺さぶっている。固まったと思っていたものが、揺らぎ、溶け出し、はじけている。 手首の鉄は汗に錆びて崩れだしている。私は、夢見る力を取り戻した。

ショプロンの草むらに寝転がり、夏草の匂いにつつまれる。今日はピアノが聞こえない、そう思っていたら、いきなり声が降ってきた。

「スカートで、お下品ですよ」

慌てて上体を起こし、スカートを押さえる。なぜ、この人がここに。
「ローデリヒさん…」
「ちょっと散歩で足を伸ばしただけです。こんなに歩くことなんてないので疲れてしまいました」
ぽこ、と蒸気をたてている。ウィーンから離れたこの街までこの根っからのお貴族様が歩いたのならそれはさぞお疲れだろう。そもそもここに来る理由が思い当たらない。――国境の街であること以外には。

くう、と小さな音がして、ローデリヒさんはお腹を押さえてまたぽこりと蒸気を出した。慌ててポケットをまさぐる。板チョコが見つかったけれども、鉄条網をくぐり抜ける大きさじゃない。仕方なく小片に割って編み目からこわごわと差し出すと、彼は丁寧に礼を返した。

「ありがとうございます。……お礼に、何か弾きましょう」
弾く?見れば、バイオリンケースを提げている。お礼に、と言っているけれども――自惚れでなければ、最初からそのつもりでここに来てくれたのだ。

彼はいつも、言葉ではなく音をくれる。その音の粒は一つ一つが気持ちを運ぶ。

「え、それじゃあ――メンデルスゾーン…いえやっぱり『白鳥』…『夢のあとに』…うーん……」
突然のことで、かつて聴いた、ずっと聴きたかったあれやこれやが、それこそぽこぽこと記憶の泉からわき出して収拾がつかない。
「何でも結構ですよ」
穏やかなことばに、ふと悪戯心がわいた。
「ポップスでも?」
「ええ、私が知っているなら」
「じゃあ―――ジョン・レノンの『イマジン』を」
「え」

Imagine there's no countries。二十年近く前、世界に夢を思い出させた歌。

「……国境のないヨーロッパを想像してみたいんです」
彼はバイオリンを肩にかけ、弓を構えて――おろし、また構えて、――やっぱりおろした。
「私達のような存在があのうたを奏でるのは論理矛盾でしょう」
「違うと思います。だって、夢を見つつ現実を歩くことはできるもの」

「現実は、これですよ」

彼は、私が作った高圧電流網を手で示した。

「チョコレートだってそのまま受け取ることはできない。……まして」
「まして?」
「………貴方に、手を伸ばすなど」
彼は左手を前に出した。空気はつながっている、距離は幾ばくもない、けれども、―――私が作ったカーテンが。私が示した拒絶が二人の間にそびえている。

「………ローデリヒさん」
「はい?」
「ちょっと、左の方にどいてもらえますか?」
言いながらエプロンを外し、護身用に持っていたフライパンの柄に巻き付ける。
「はい?」
首を傾げながらも素直にどいたのを見てとって、そのフライパンを構えたまま、高圧電流網に渾身の一撃をくらわした。

がつっ。

「エエエエリザベータ!」

狼狽するあの人に構わず、がつんがつんと攻撃を追加すれば、あれほど頑丈に私達を隔てているように見えた電気の壁はあっさりと倒れた。まあ、上司が察して電流を切ったのだろうけれども……壊せば壊れるものなのだ。わしわしと、倒れた鉄条網を踏み越えて国境を越える。
「だ、大丈夫なのですか?」
「ええ。ちょっと手が痺れましたけど、平気。ねえ、ローデリヒさん」
「はい」


私はポケットから取り出した残りのチョコを銜えて、勢いを付けて彼の胸に飛び込み、そのまま口づけた。


「……!」
チョコレートを押し込んで体を離し、両手を開く。

「革命ごと、受け取ってください」

 


男ではなくて大人の返事する君にチョコレート革命起こす(俵万智)

 



ハンガリー動乱@1956/パン・ヨーロッパ・ピクニック@1989、「鉄のカーテン」撤去。

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