SSSsongs5(アル菊前提アサ菊)


 

※R15。


進んでしまうと戻れない関がある。

菊は夜具の下になっていた単衣をそっと引き出した。布団の下に忍び込んだ寒気が隣の人を起こさないかと呼気を伺う。穏やかなそれに安堵し、静かに立ち上がって冷たいそれを肌にかける。襟の線にしたがってすべらせた菊の指は脇腹に触れた。ティッシュでぬぐっただけのそこは火傷の治りかけのように薄膜をはっている。自分のものかそうでないのかすらわからない。数も時間も分からなくなるほど長い時間、どろどろに溶けていた気がする。細くて長い指に心の裏までまさぐられ、脳髄の奥まで突かれた。
思い出せばそれだけで芯が熱くなりかける、それを細く長い吐息で散らした。
帯を締めながら心を縛る。

 

進んでしまうと戻れない関がある。
――けれども、進んでいないのだと思いこむことはできる。

 

そんな時間は、「なかった」。私達は、昨日までと同じ友人関係をつないでいく。いつものようにお泊めして、いつものように少しお話をして――それだけだ。

確かに、薄氷の上を渡るような言葉を交わしはした。まるで、私を恋うているかのような。そして、その感情と区別のつかない慕情と尊敬を返しているかのような。
踏み割ればその下は泥水だと気づいていながら、わざと氷の上に飛び乗るような台詞に心ふるわせたりもした。だけどしょせん、泡沫のこと。現実にしてはならない。私達は、互いを「一番」にするわけにはいかないのだから。

最初に他人と体を交えたのはいつのことだっただろうか。する側としてもされる側としても記憶は遙か遠く、そのときの相手を思い出すことさえできない。けれども、まるで脳が酒精に冒されているようでふわふわと日を過ごしたことを覚えている。何気ない動作にふと感じる筋肉のひきつれや小さな傷の痛みまでも、それが体に刻まれた証のようで照れくさくも嬉しかった、そんなことも。
若いとはそうしたものだ。手に入れた、そのことを確かめたくて何度も手を握る。
握られた相手の痛みも分からなくて、ただ、ぎゅうぎゅうと。――菊はそっと肩を抱いた。

夜気を誘い込まないよう静かに布団に入り込みながら小さく笑う。この人が、そうでなくて、よかった。恋愛経験も豊富で、――情熱がいつか醒めることも、その悲しみを避けるために最初から情熱を制御する手法もご存じで。

だからきっと、私さえ、なかったのだと信じ込めば。本当になかったことになる。

秘匿するのではない。人に言えない事実など、ない。
そう思い込まねば足の間から夜の記憶が溶け出してくる。

硝酸のようにそれは私を溶かし、崩し、壊してしまう。

隣に眠るこの人と、私は。
何も。

「――菊」
寝ていると思っていたその影はいきなり低い声を出して、しかも返事を口で吸い取った。やっと乾いたと思った体の表面にまた唾液をこぼさせて、彼は悪魔のように断言した。
「なかったことにはさせない」

 


はらはらと黄の冬ばらの崩れ去るかりそめならぬことの如くに(窪田空穂)

 


<<BACK

<<LIST