SSSsongs4(アル菊)


 

ないだろうといわれればたしかにそこになにがあるわけでもないのですが。

けれどもやはり「ある」のです。

「分からないんだぞ」
「結構ですよ」
「分かる価値がないってこと?」
「いえ、私にだけ分かっていればいいということです」

菊が言い争いを嫌いなのは知っている。説明能力が低いわけではない(英語の実用能力はさておくけれども、俺たちの間でそれは問題にならない)のにこんな言い方をするとき、彼は最初から諦めている。
俺が、諦められている。
その事実が腹立たしく、けれども、彼の感覚を理解できる気もしない。

菊はふうっと笑った。
「貴方にとっても、虚数は苦痛ですか」

――それによって受ける精神的苦痛は忘れ、ただこれらの量を導入せよ。
二乗して負となる数を解に見い出したカルダノはこう語った。

手を広げて肩をすくめる。この仕草をすると、菊はいつも少し笑う。誰がしても、貴方を思い出すポーズです、と。

「そんなセンシティブネスには縁がないね。量子力学の基礎じゃないか」
「でも西洋数学ではゼロだってずっと認められなかったのでしょう?」
「あのさあ。君だって『東洋的』なんて言葉でみんな一緒くたにされたらむっとするだろ?」

俺が独り立ちした頃にはもうオイラーが「i」の記号を使おうとしていた。目に見えない数を認められなくて逡巡していた旧世界の彼らと同列に扱われたくない。
腹立ちをこめて言うと、菊は小さく首を傾げた。それこそ、菊らしいポーズだ。謝罪の気持ちを表しつつ、非は認めていない。

「ゼロがある、と思えるなら、同じじゃないですか」
「ゼロは、あるんじゃない。ゼロなんだ。無い、なら分かる。欠損がある、なら分かるんだってば」
「欠損は、埋めるべきものでしょう」
「そりゃ、そうだよ」
欠けたままなんて、いやじゃないか。
「……埋められるものでしょう」
「そう言ったよ」
口にしてから、気づいた。この「られる」は受け身じゃない。可能だ。

「……王さんところでは『東洋』というのは私だけを指してしまうんですよね」
「そういうことを言ってるんじゃなくて」
「まぜっかえしたみたいですね、すみません。まあでも……陰陽和合というか、『ない』が『ある』という感覚は東アジア世界に相通じる気がします」
「分からないよ」

いや、分かりたくない。認められない。

欠けたままなんて、苦しいじゃないか。

君の何かが、欠けたままなんて。

それは埋めるべきだ。埋まらなきゃいけない。

手を引くと菊は素直に体を寄せる。その細い腕を俺の背に回して、頬を胸に当てて、それでも。それでも埋まらないなんて。俺の手で埋めることができないなんて。

「菊」
「はい」
「菊」

何度呼んでも、答えは従順に返る。

「俺が好き?」
「ええ」

菊は顔を上げて、目を合わせた。嘘のない微笑み。
「好きですよ」

 

 

それでも、空虚が「ある」という菊に。

俺は、諦められている。

 

一九四五年夏よりぞ心の蝕をもちて歩みき(山中智恵子)

 



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