※ご注意
 	     歴史ネタに触れます。
 	     
 	       
 	       
 	      血と炎の中から誕生した国は多い。
 	        よって近代国家の記念日はしばしば勝利の日となる。
          革命しかり、独立戦争しかり。それは「自分たち」をもぎ取った日である。
 	      「おめでとうございます」
 	        そう言って花束を渡した菊に、王は苦笑としかとれない笑みを返した。
 	        「別に、この日に我が生まれたわけでもなし――と言ってもお前を困らせるだけあるな」
 	        「…ええ、受け取って頂けると有り難いです」
 	        儀式の一環なのだ。欲しいか・嬉しいかといった受け手の気持ちは忖度されない。渡す意志と受け取る意志の確認のためにこの花束は用意された。
 	        非科学的な言説は拒否して成立している社会主義政権とはいえ、この国に天命思想は根強い。王が非協力的態度を示せば、政権が天意を失ったと見なされ、次なる革命が起こってしまうかもしれないのだ。
 	        隣国が政情不安に陥るのは菊としても回避したい。
 	        それでなくとも第二次世界恐慌が迫りつつある。
 	        またあの頃のような悪寒に見舞われるのだろうかと、考えるだけでうんざりする。高熱と寒気とに交互におそわれて、我を失い、自分の炎に自分が焼かれた。
 	        菊はかぶりを振った。
 	        生きるのに必死だった。生き抜くのに。
 	        今だって足を止める余裕はないけれども、歩みの鈍りに焦りすぎないくらいの成長はある――と思いたい。
 	      少なくとも、今、菊は王を訪ねて花を渡し、王はともかくも受け取る。
 	        それさえできなかった時代もあるのだから。
 	      堅苦しい儀式がはけたあと、王はこきこきと首を振りながら菊に声をかけた。
 	        「夜には上海のセレモニーあるか。菊はその後予定は?」
 	        「いえ。セレモニー自体が夜ですから、後はもう休むだけかと思ってました」
 	        「少し付き合うよろし」
 	        「…えー…」
 	        それはちょっと、辞退したい。中国人の歓待は日本人の常識を質量ともに越えているし、供される酒はアルコール度が高い、何より移動疲れがある。北京−上海間は高速鉄道でも10時間、飛行機でも2時間かかる。
 	        王は少し顔を傾けた。あ。イヤミを言うときの顔だ、と菊は察する。
 	        「そういう顔、時には美国にもしてやるよろし」
 	        「したって何も伝わりません」
 	        「じゃあ我と菊は以心伝心あるな。…わかったわかった、その無表情で突っ込むのやめるあるよ」
 	        王は笑って、手をひらひらと振った。
 	      相変わらずお金を投げ出す切符売り場に眉間を寄せつつ――分かっている、これは偽金ではないことを証拠立てるための中国伝統の風習であることは。それでもいただけない――電車にのって数駅。降りてからも住宅街を歩いていくだけで王は行き先も言わない。
 	        上海を訪れたことはある。今歩いている辺りはかつて国際共同租界で、日本人も多数居留していた地域だと知ってもいる。しかし、そうした形でこの街が賑わった頃、中国はけっして安全な地域ではなかった。革命、新政権内部の混乱に、軍閥割拠。北伐、そして………抗日運動。満州事変、上海事変をうけて、この近くでテロ事件も起きていた筈だ。大陸に夢をかけて多くの日本人がこの地に暮らしていたが、菊は安全を重んじる上司に訪問をとめられ、一方他の国際事情や慢性化した不況やにおわれもして、再訪することがなかったのである。
 	      のど元に指を入れ、少し緩める。少し胸が苦しいのは、歩いたせいだ。それだけだ。
 	      突然王は立ち止まった。どこに着いたのかと、遅れて歩をとめた菊は周りを見る。
 	        上海にはよくある石造りの二階建て。
 	        「―――銀行、ですか」
 	        特に大きなものでもない。なぜここに?と戸惑う菊に、王は遠い目をして笑った。
 	        「やはり、菊は来たことがなかったあるか」
 	        「ええ、この辺りは」
 	        「我は何回か来たある」
 	        「はあ…」
 	        「戻るか」
 	        そういって王はついと踵を返した。追いかけようと体をかえした菊の目に、銀行の壁にはめ込まれたプレートが目に入った。
 	        「っ…もしかして、ここが内山書店だったのですか」
 	        王は振り返って、「是」と笑った。
 	      大陸に夢を馳せた一人、内山完造とその妻美喜が上海虹口で書を扱い始めたのは1917年。のちに店舗を構え、1920年代には日中の文筆家が立ち寄り集うサロンとなった。魯迅や郭沫若など中国文学近代化の牽引者たち――更に言えば革命思想家たちの集まる場所でもあった。あの険しい時代の中、中国人の信用を勝ち得、日本の官憲から彼らをかばい、また日本の文学や思想を中国に伝えた。
 	      魯迅も中国共産党と一体ではなかったが、王はもとより主義者でない。長く生きすぎて、と笑う彼は、全ての思想を相対化し、上司達の試行錯誤を頬杖をついて見ている。その王が、内山サロンで茶を振る舞われた、あれは旨かったと独り言のように呟く。彼がその書店に足を運んだ理由を、菊は分かった気がした。
 	      そこには時勢を越えた交流があり、そして―――菊のにおいがしたのだ。
 	      「っ……」
 	      思わず先に行く王の肘を掴みそうになり、けれども、結局その手をおしとどめた。
 	        地下鉄の駅、階段をおりる。上海十月の夜は東京のそれより肌寒い。
 	      菊の再訪を押しとどめた、血と炎。それに菊は無関係ではない。
 	        この背中に、刀を振り下ろしたのだ、自分で。そこから全てが始まった。
 	      傲岸不遜で、我が儘で………寂しがり屋で。
 	        菊、菊と構いたがり、冷たくあしらえば拗ねて手がつけられなくなる。
 	        このオトナコドモは、菊や任、そして今は微妙な関係にある弟妹達に対して、常に情が濃いのだ。
 	      血と炎の向こうの菊を、和書を通して探した王。――――どうして。私は、どうして。
 	      「?」
 	        口に出していただろうか、踊り場の王が振り返る。
 	        「……いえ……」
 	        言葉にならない思いをうまく消化できず、菊は追いついて、かぶりを振った。
 	        王の上司たちは、「日本帝国主義と日本人民は別である」と一貫して主張している。貴方たちを恨んでいるわけではない、日本人民と中国人民(その代表たる政府)は連帯できる。――そのとき、菊はどこに位置づくのだろう。
 	        私は、貴方の記憶の中、敵であり続けるのだろうか。
 	      「ロシアさんが」
 	        「あ?」
 	        濁音がつきそうな勢いで聞き返される。
 	        「みんなロシアになればいい、とよく言うじゃないですか。あれは、ソ連とは違うのですよね」
 	        「あいつの話については聞く耳を持たないある」
 	        あー、と言いながら耳に手をかぱかぱとあてる。子供のように。
 	        「あれは連邦共和国ですから、ナターシャさんもトーリスさんもそのまま一緒に暮らしていただけでした。だけど、世界国家が出来たときには」
 	        王は嫌そうな顔を崩さず、ただ、手はとめた。
 	      「私たちは解け合ってひとりになるのでしょうか」
 	      手を下ろし、眉をしかめる王。
 	        怒られるかもしれない、そう思いながら、言葉が止まらない。
 	        流石に顔は合わせられず、斜め下を向く。
 	      「消えるのは嫌ですが―――ひとりなら、血も流れない」
 	      がっ、と上体に衝撃が走った。殴られたかと思うほどの勢いで、菊は抱きすくめられた。
 	        「我々が二つ以上に分かれて在るのは、なぜだと思う」
 	        「……」
 	        「抱き合うためあるよ、菊」
 	      王の力が肩から腕から流れ込んでくる。仮初めにすぎないはずの体に体温があり、脈がある。それが伝わってくる。
 	      「40年たって、香港が特別行政地区でなくなったとしても、あの子はあの子であり続ける。『自分』と思い、『彼』と思われる間は、ずっと。その間は、手をつなぐことも、はじかれることもある。それでも」
 	        目を合わせる。
 	        「水面に映る自分の顔しか話しかける相手が無い、そんな時代は二度と来させないあるよ」
 	      ごお、と列車が構内に入る音が足下から響いた。