再説一次・1972

 

※ご注意
WW2含め歴史ネタに触れます。

 

 

幼い頃の私は今よりもなお舌が短く耳も拙く、兄達が操る多様な音の世界から落ちこぼれた。私の耳には同じに聞こえてしまう音が兄達にははっきりと区別されており、逆に私に感じ取れた違いはそれで音がかわるわけではないとされる。今ではすっかり諦めて、世界でも音素の少ない国と言われても「だから余所の方にも学びやすいでしょう」と笑ってみせるが、当時は深刻に悩んだ。何せ当時、長兄こそが世界であり、長兄こそが文明であった。兄の言葉が話せないのはそれ即ち野蛮となる。蛮族を表すbarbarianがギリシア人の耳に聞こえたトラキア語の響きに由来すると知ったとき、私はかつての自分を思い出し羞恥に全身が浸った。

「丸い」を「遠い」と言い、「上」を「香」と言う私に、次兄は笑い転げ、長兄は腰をかがめた。涙目の私の頬を包み、長兄はまじないの語をくれたのだ。

「『元へ』と唱えるよろし。そしたら、我の頭からその前のオトは消える。無かったことにして、落ち着いて次を言えばいいあるよ」

そうして、こちらを向いて微笑んだまま、まだぷすぷす笑っていた次兄の頬に手を伸ばしてぎゅううううっとつまんだ。
「いで、いでっす兄貴!俺も、俺もリセットしますから!」

 

―――――元へ、元へ、元へ。

「警告したよね」
「…」
青年は日に輝く金髪をさらりと泳がせて、私の腹に拳を叩き込んだ。思わぬ――嘘だ、予感はしていた、だがここまでとは思わなかった――衝撃に、がぼっと口から飛び出す、赤いもの、透明なもの。私は腹を押さえて身を屈する。霞む視界の中、私は認めた。青年は――私を見ていない。その視線は、もっと後ろに。

いるのだ、紫の瞳をした青年が、そこに。

思うまもなく、背中に衝撃が走った。
空色の瞳が細められる。
「来なくていいって言ったぞ」
「それでも行くよと言ったよ。『降参』を聞く権利を独り占めされたくなかったからね」
目前の青年は舌打ちをし、もう一度拳を固めた。風を切る音が聞こえた。
それでなくても栄養不足の体は、もう自立の能力を持たない。
ゆらぐ。
かしいでいく。
「さあ、俺に、負けたっていいなよ」
「俺たちにって言うべきじゃないの?露骨すぎるよ」
青年達は頭越しに勝手な会話を交わす。
貴方たちは分かっていない。私は今負けたのではない―――もうずっと前から負けていたのだ、貴方たちの後ろに佇む、その、兄に。
それが容認できず闇雲に振り回した手が貴方たちに当たったに過ぎない。
この百年、使うことの無かったまじないの言葉。

元へ。

手を振り回す前に。

元へ。

兄の背を焼く前に。

元へ。

首に手をかける前に。

元へ、元へ、元へ――――そんな言葉で戻りはしない。

幼い頃の言い間違いとは違う。私は自分でそれを選んだ。生半可の覚悟ではなかった。戻すことなどできない。周りの記憶も消えはしない。
大体、どこまで戻せばいいのかさえ分からない。15年、50年、いやいっそ350年。そうして子供返りして、また長兄の膝に甘えることが――許される筈はない。

兄が私の名を呼ぶ。

私は虫の息ながら薄く目を開ける。

「言わなかったあるね」
「――ええ」

兄は厳しい顔を崩さず、それでも小さく頷き、その手で私の瞼を閉じさせた。許されたのではない、ただ……未来を与えられたことが分かった。

 

 

そして、この日は来た。

私は妹の手を振り切って今この席にいる。それもまた選んでのことだ。選べる道が一つしかない以上、未来に託すしかないものもある。
いつか、その日も、来る。

既にサインを終えた兄に続いて、名を書き込む。両国の上司が握手を交わし、カメラのフラッシュがたかれる。ペンを置き、立ち上がった私の手に兄が手を伸ばした。
「長かったあるな」

「兄上――」

彼の手が私の指にかかろうとした瞬間、私は小さく叫んだ。

「もとい!」

まじないの言葉に、両者の動きがとまる。ゆっくりとあげられる顔。その目は揺れている。――無かったことにしたいのか、もう我の手をとりたくないのかと。

私は首を振る。

そしてゆっくり、彼の名を呼んだ。

 

もう兄弟としての日々は帰らない、これからは、一番近い他人として、―――だからこそ、名を呼び、手を握る。

 

私たちは戻れない過去を心に抱いて、明日を歩く。

 



圓(丸い)=yuan2声、遠=yuan3声、上=shang、香=xiang。あくまで今の発音なので齟齬があるかもしれません。

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